寛弘年中(一〇〇四~一二)に、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、
霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・一四五七)、現在地に遷された。
徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、
慶長五年(一六〇〇)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、
家光公御代寛永十一年(一六三四)、社殿が造営された。
元和五年(一六一九)には時の鐘が建てられたが、寛文十年(一六七〇)に割れてしまい、現存はしていない。
享保八年(一七二三)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化八年(一八一一)にも火災に遭い、
文政元年(一八一八)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。
また、その間にあっても明和三年(一七七〇)・文化十二年(一八一五)・文化十三年(一八一六)には境内で大相撲が行われ、
落語や講談で有名な阿武松緑之助も相撲を取っている。
明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、
八幡詣として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。
昭和十五年、皇紀二千六百年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。
祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。
市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、
その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。
昭和二十年三月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、五月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。
終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。
氏子の町々の復興とともに昭和二十八年八月社殿を総桧木により復興、同二十九年町内御輿庫再建、
同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同三十七年末社稲荷社・人麻呂社を復興。
同四十年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同五十一年八月社務所を木造瓦葺で新築した。
平成二十三年一月、御鎮座一千年奉祝事業の嚆矢として男坂玉垣を修復、同八月奉祝記念大祭斎行、
同十二月奉祝記念碑を建立した。
御神徳は国家鎮守・勝運守護・開運・厄除・交通安全・家内安全・社内安全・商売繁盛・安産・成長守護など多岐に亘ります。
東京メトロ日比谷線・神谷町駅近くの桜田通沿いに神社があります。
江戸時代には数度の相撲が行われ賑わいました。当時は八幡山普門院という東叡山の末寺でした。
現地の看板には神社の説明はありませんでしたが、貝塚の説明がありました。
昭和初期から存在は知られていましたが、昭和57年に正式な調査が行われました。
その結果、縄文時代の貝層、後期中葉の土器が出土しました。大森貝塚との比較資料として貴重らしいです。