高野神社

Last-modified: 2013-10-05 (土) 16:28:58
 

高野神社
たかのじんじゃ
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(参拝日:平成24年10月8日)
住所:滋賀県栗東市高野726mapionlogo.gif
主祭神:大名草彦命
社格:郷社
主な祭礼:5月5日(例大祭)

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↑楼門↑
(由緒:現地石碑より)
秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座 する延喜式神名帳に記された、
栗太八座の一に列する、 位階ある式内社である。

社伝によると、天智天皇の御代以降、高野造なる人が この地一帯を開墾開発し、高野郷と名付けられ、
特に飛鳥時代、和銅年間(七〇八~七一四)我が国で最初に鋳造された「和同開珍」 の鋳師(鋳銭司)
高野宿彌道経一族が住んだことは有名であり、 それ等の人々の氏神として、祖先を祀ったのが当社である。

中世よりは、通称「由紀志呂宮」又「由岐宮」として 尊崇されて来た。
これは大同元年(八〇六)大嘗祭の悠紀方 として新稲を進納したことに由来する。
尚、正平五年・ 観応元年(一三五〇)兵災に懸り社殿以下類焼す。
氏子等仮殿を営みて祭祀十年余を経て、貞治(一三六二)・天正(一五三三)・寛永 (一六三〇)と改築修造を重ね
天保三年(一八三二)現在の社殿を建立 する。

境内摂社として、土・水を祀る「敏鎌社」(二の宮) 「八重釜社」(三の宮)があり、
共に農耕にかかわる大自然の神々で、本殿・二の宮・三の宮は何れも八角柱状の 神木を御神体とし、
御柱の信仰をとどめるものである。

大神宮社は明治三十三年(一八九〇)森勝稲荷社は弘化三年 (一八四六)の夫々の再建であり、
拝殿も安政五年の(一八五六)の再建 である。

社前の楼門は室町時代の天文二年(一五三二)朝廷 (現京都御所)の門を拝領移築したものと伝う。
その際派遣された 別当を松源院と申し爾来当社の坊として、天台宗総本山よりも住職を派遣され、
又、数々の佛像・経巻等現在所蔵の文化財の寄贈を受く。
尚、明治維新「神佛分離」により境外隣地に移し更に昭和二十年(一九四五)現地に移築する。

鎌倉時代以降当社に対する武門武士の崇敬篤く祈願奉賽 の事蹟多し。

氏子は古くは五十余ケ村の総社であったが兵災や検地制度に より、又組織上の事情により現在は六ケ村
(高野[小坂・土村・今里]・ 六地蔵・梅の木[六地蔵]・林)なり。

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↑社殿↑
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↑本殿↑
(以下、余談)
鈴鹿峠に向かう国道1号と、米原に向かう国道8号が分岐するあたりにある神社です。
野洲川の対岸には、三上山や御上神社がそう遠くない距離にあります。

神社の創祀については不詳なところが多いですが、和銅年間に勧請したようです。
和同開珎の鋳物師・高野宿彌道経一族が当地に在住し、のちに氏神として祀ったのが起こりのようです。

長い参道、四脚門、中門と垣根、数々の摂社と、立派な佇まいを見せる神社です。