金澤神社

Last-modified: 2013-10-05 (土) 15:24:10
 

金澤神社
かなざわじんじゃ
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(参拝日:平成25年1月4日)
住所:石川県金沢市兼六町1-3mapionlogo.gif
主祭神:菅原道真、前田斉広公、前田斉泰公
主な祭礼:9月23日(御山まつり)等
webサイト:金澤神社

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↑鳥居↑
(由緒:神社webサイトより)
加賀藩11代藩主前田治脩が寛政6年(1794)に、兼六園の現在の梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社
として金城霊澤のほとりに、学問の神であり前田家の先祖でもある菅原道真公の御舎利を奉斉する神社を御創建になった。

造営にあたってはときの重臣である奥村河内守・前田大炊・本多玄藩助・大音主馬などが、御造営奉行佐藤勘兵衛、
御作事奉行井上勘右ェ門・松田与助などが作業にあたった。

その後、兼六園が整備されるにあたり、藩校は他の地に移転したが、神社は12代藩主前田斉広のときに建てられた
竹沢御殿の鎮守として災難除けの神・商売繁盛の神・交通安全をあわせまつり朝夕兼六園を散策された藩公が
領内の平和と繁栄を祈願された。

災難除けの神である白蛇竜神の御神体の1体は神社に1体は江戸屋敷にて奥方に代々奉斉されていたが、
昭和21年神社に移された。毎年10月1日に白蛇竜神のお姿をうつした神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の
有力町民にあたえられたといい、市内の旧家に現存するものが多い。

商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神は明治維新の後、前田家が東京に移住する時その邸内に移されたが、
旧藩士の懇願により再び神社に移された。

神社への参拝は明治以前は春秋の例祭のみ、城下の婦子だけが参拝を許され藩公から紋菓をいただいたという。

一般の人々が自由に神社を参拝できるようになったのは明治7年5月7日、兼六園が一般公開されてからである。

現在では、年間を通じ学業成就・商売繁盛・災難除けなどのさまざまな祈願のため参拝する人が多い。

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↑拝殿↑
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↑神門↑
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↑奉納鳥居↑
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↑神苑↑
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↑金城霊沢↑
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↑手水舎の水(飲料水)↑
(以下、余談)
県立歴史博物館や県立美術館の近く、兼六園に隣接した公園内に神社があります。

11代藩主・前田治脩が藩校・明倫堂を建て、金城霊澤のほとりに鎮守社を祀ったのが始まりです。

金城霊澤が野にある沢だった頃、芋掘藤五郎という農夫が山で掘ってきた芋を洗っていると、
砂金がたくさん見つかり、藤五郎は長者となりました。そこで、この沢は「金洗いの沢」と呼ばれるようになりました。、
これが「金沢」の由来になったと言われています。
「かなあらいさわ」と「かなざわ」は語感がずいぶんと違うように思いますが・・

社殿前の手水舎では、金城霊澤と同じ水源の水を汲み上げています。
「百万石祭り百万石茶会」や、「大寒の糊作り」「和菓子作り」などの祭事に使用されています。
ホルトマンという避雷針を尾山神社に造った人のお墨付きをもらっています。