久那戸大神は古く国史にも見え、鹿島、香取の神々と共に東国三社の一つとされ、上下の信仰の厚い神社であります。
久那戸神「岐神」は、路の神であり除厄招福の神であり、井戸の神でもあります。
天鳥船神は交通守護に、住吉三神は海上守護の神として御神徳が顕著で、
神前に祈念する者に限りない御思頼を垂れさせられ御守護下さるものであります。
息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられるものの祭神の御神格からして神代時代に鹿島・香取、
両神社の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取の両神宮は其々台地に御鎮座するものの久那斗及び天鳥船神は
海辺の港(日川)に姿を留めてやがて応神朝に神社として祀られたと思われます。
日川に御鎮座当時の御社名については記録がありません。
【出雲の大神様より鹿島香取の大神様の道案内を命ぜられた久那斗神は現在出雲大社の近くに出雲大社の摂社・
出雲井神社(路神社)として祀られております。】
国史(三代実録)に書いてある「於岐都説神社」が現在の息栖神社です。
常陸風土記によれば香取神郡が出来たのは大化五年(今からおよそ約千三百年前)であり、
和尚年間の鹿島地方は鹿島丘陵の南は今の鹿嶋市国末で終わり、
その後沖洲であったものがようやく陸続きとなり幾つかの集落が出来て一段と低く南へ延びて居たことが分かる。
息栖神社はこのような沖洲に鎮祭され大同二年四月十三日(八〇七年)平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂によって
現在地に遷されたと伝えられている。
三代実録にも、光孝天皇の御代(仁和元年・一一二〇年)の紀に『正六位於岐都説神従五位下を授く』とあり、
於岐都説は於岐都洲であり、沖洲であり、息栖になったものであります(別説あり)。
上下の崇敬厚く、弘安の元寇には勅使を報じて国家安泰を祈願し、明治元年には勅使として、
(神衹判官正四位右近衛少将源朝臣植末雅言)が参向奉幣され、大正三年日独の国交断絶の際にも宣戦報告の供進使が
参向される等、又、下三宮詣で(三社詣り)水郷の景を賞しながら青葦・真菰の茂る息栖の河岸より一の鳥居をくぐって
社前に額ずき、大神の御思頼をいただき、さらに香取・鹿島へ詣でる人達、今は車での三社詣での人達が絶えません。
鹿島灘に面した工業地帯とは趣が異なり、田園が広がる利根川の水郷地帯の森閑とした杜に鎮まります。
鹿島神宮・香取神宮と共に東国三社の一社です。
全国的にも有名な2社と比べ、ここは人が少なめで落ち着いた雰囲気でした。
古くは香取海に浮かぶ沖洲に創建、後に日川地区に遷座、大同二年(八〇七)に現在地へ移転しました。
息栖の河岸は利根川水運の要衝として江戸時代から大正期まで栄えました。
地理的な位置関係から、鹿島神宮の摂社として見做されていたようです。
正式に分離したのが明治十年であり、この時に県社の社格を与えられています。