金刀比羅神社

Last-modified: 2013-07-07 (日) 12:54:57
 

金刀比羅神社
ことひらじんじゃ
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(参拝日:平成25年5月4日)
住所:茨城県石岡市国府6-2-1mapionlogo.gif
主祭神:大物主神
主な祭礼:秋季大祭(10月10日)

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
石岡の金刀比羅神社は長い歴史の過程の中で、「森の神様」としての歴史、「平氏ゆかりの神社」としての伝統、
そして「こんぴら信仰に由来する神社」としての多様な側面を持っています。

当神社の鎮座地は、常陸国成立以前の太古には茨城国といい、霞ヶ浦水運の要衝地にあって、
当時の大和国から見て東の海を隔てた東国の開拓の中心地として最も早くから開けたところでもあり、
その起源は今から約二千年前にまでさかのぼるものと考えられています。

当神社の古称である「森」「森木」「守木」は神社・神木・神垣の意をあらわし、
古代神木祭祀の時代からの由緒ある神域であったことを伝えています。

平安時代には、桓武天皇の曾孫平高望王から常陸大掾という官職を得て国府に着任して以来、平氏ゆかりの神社として
森の祭祀が継承されるようになり、歴代の平氏の子女が祭主となって神役に勤任していたと伝えられています。

森は「大森太明神」と尊称され、森木殿があり、神仏混淆であったその時代には森木寺や八大寺という寺院が付属していました。 

天正十八年(一五九〇)、戦乱と兵火の中に巻き込まれて、森は壊滅し、長年にわたり当地を支配した常陸平氏も滅亡しました。
その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興されております。

江戸時代には、平村(現在の石岡市中心部)の鎮守として府中藩主松平家の信仰は殊のほか厚く、
当神社に手厚い庇護と多大の崇敬を寄せられました。

その頃には、「こんぴら信仰」の伝播拡大により「金毘羅大権現」として信仰されるようになっていました。

金毘羅神は仏教の守護神であり、特に薬師如来の守り神として仏教伝来とともに日本に流入しました。
中世の神仏習合の時代には日本の神と同化し、大物主神と同一神と考えられるようになり、仏教寺院建立の際には
地主神あるいは鎮護神として崇められ、江戸時代になると現世で最も霊験あらたかな神様として広く民衆に信仰が行き渡りました。

当神社では文政十年に、あらためて讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮?)の御分霊を勧請し、
「こんぴら信仰」のよりどころとなって多くの人々の参詣を集めて今日に至っています。

なお、明治三十九年には隣接する香取神社を合併。
香取神社はかつて茨城古国府や茨木寺のあるいは石岡外城があったとされる石岡市茨城カンドリの地に鎮座、
森木殿の知行社でしたが、天正年間に森木の天王跡地に遷座され、
江戸時代には府中平村の天王祭の神輿の逗留する御旅所になっていました。

当神社はこれまでに幾度となく火災に遭遇しておりますが、その都度、社殿を復興し、
現在の社殿は平成十九年に再建が成っております。

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↑社殿↑
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↑稲荷神社↑
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↑香取神社↑
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↑淡島神社・神馬舎↑
(以下、余談)
JR常磐線・石岡駅から南西約700mすすむと市街地のなかに神社が鎮座しています。
神社の前は国道355号が通り、境内に広い駐車場があります。

平安時代中期に、平高望が国府に着任して以来、平氏のゆかりの神社として信仰されました。
明治時代に至っても「笠間の稲荷か、石岡の金刀比羅さまか」と言われました。
毎月10日は「月の10日はこんぴら様よ、さあさ行きましょ、お祭りに」と多くの人々が集まりました。

明治11年に楼門が焼失していますが、再建はされていません。
また、明治39年に香取神社と合祀されることとなり、その後も幾度かの火災に見舞われます。
平成12年にも火災で社殿が焼失し、平成19年に現在の新社殿が建立されています。

この後、近くの常陸國総社宮も併せて訪問しました。