PSF 第5章

Last-modified: 2019-08-17 (土) 09:00:43

「人間が宗教なんていう、所詮空想に過ぎない力を作ったからこんな戦争が起きるのだ。実に馬鹿馬鹿しいではないか」ー科学者 ルフェナ
「この宗教は、広い大銀河のどの宗教よりも馬鹿げている。」ホヴェリス王国 宰相 ズッテ・ビーファ
「宗教と帝国。無縁の言葉がよくここまで絡みついたものだ。」アクラ・サーキ
宗教時代とは、NP1413~ 年までの間のメルヘサラント帝国成立からダイ法の誕生、宗教戦争が発生して

大帝国と宗教弾圧

  • 1
    1413年の統一により、2つの星にまたがる大帝国を築き上げたメルヘサラント帝国は、ポード2にあった帝都を中心に1430年代半ばの新鉱脈発見などにより栄華を極めるが、1446年に起こった皇帝暗殺事件によって分系のメルヘサバード2世が即位すると独裁政治を敷き、宗教弾圧を行った。ポード正教以外の宗教を厳しく弾圧し、信仰者を見つけると収容所送りなどにした。
  • 2
    1449年にポード2のラーキ連邦の哲学者であるデッフル=ダイ=コムクンが「コムクン学会」を設立。コムクン学会は「人間の心理とは三つの力である」ということを教えとし、その3つの力に関する研究を行う会としていた。1457年には会員数が帝国全土で300万人を超えたため、帝国政府から警戒されますが、以外にも帝国が保護したため一気に広まり、ダイがなくなった1466年の信者数は6000万人を数えた。
    コムクン学会は息子のデッフル=ダイ=フィトが引き継ぎ、ダイ法として新たに宗教化を進めた。ダイ法総会は1468年にメルヘサラントで2つ目の宗教法人に認定され、ダイ法は政党を帝国議会に出すなど影響力を強めていった。
  • 3
    しかし、ダイ法が影響力を強める中それをよく思わない人物もいた。ポード正教の関係者である。正皇をはじめとする多くの関係者がダイ法の台頭を不快に思った為、布教活動の妨害や批判する書物を出版するなどの行為を行った。(1469年、ナティラ事件)。そんな中行われた1470年の帝国議会選挙ではダイ党が躍進し、ポード正教党を大きく議席数で上回った。結果、政治的にも影響をましたダイ法が帝国のみならず世界中で影響力を強めていった。

宗教分裂

  • 4
    1500年、ダイ法信者数は26億人を数え、今やポード正教とならぶ大宗教となった。しかし布教の過程で各地独自の信仰方法などが根付いてしまい、その中には力への信仰に疑問を持つものをで始めた。1503年、ダイ法の崇拝対象をコムクンにするとしたら「レホウ派」と呼ばれる宗派ができた。これに対しダイの教えに従うべきという「コムクン本道派」と呼ばれる宗派もでき、さらにその中で分裂を深め最終的には5つの宗派に分かれた。ポード正教はこの分裂を自らの布教に利用しようとするものの、過激化したダイ法信者に正教本庁の襲撃を受ける(1503年、正教本庁襲撃事件)。6つの宗教の分裂は大きくなり、信仰地域ごとでの独立志向が高まっていった。
  • 5
    1504年4月、帝国議会選挙で第1党になった社会進歩力党はダイ法の中でも後に誕生した宗派の団体を支持母体に持つ宗教政党であった。帝国宰相に就任したリゲル・プラントは皇帝に宗教弾圧を提案したものの拒否された為、暗殺を実行(1504年、メルヘサラント4世暗殺事件)。この事件を党は隠蔽した。表向きには事故とされた皇帝の死だが、本道寄りの民主立教党や神聖国家党などの調査により暗殺だったことが判明。暗殺の事実を暴露したことにより議会は紛糾した。民主立教党と神聖国家党は議会から退出した(1504年5月16日、暗殺判明)。この頃から帝国政府は本道派の保護を行なっていく。
  • 6
    1504年7月、帝都フォルトボーゾでレホウ派の開いていた集会に本道派が乱入し戦闘状態に。一部が暴徒化し暴動に。本道派の帝国政府は警察を出動させ対応に当たったものの本道派とレホウ派の戦闘は止まらず、軍が出動。沈静化する(1504年7月3日、帝都騒乱)1週間後、今度は本道派の集会にレホウ派が乱入し戦闘に。同じ頃
    ポード正教とレホウ派がダイ法本道派の施設に押し入り立てこもる。軍が出動するも抵抗し次第に大規模化する。翌日には帝国の各都市でレホウ派系やポード正教系の宗教とダイ本道派の戦闘が行われた。帝国内戦勃発。

メルヘサラント内戦と結果

  • 7
    メルヘサラント内戦(1506-1508)では主に帝都があるポード2での戦闘が激しかった。当初は帝国軍が戦いを優勢に進めたものの、北洋での海戦や、黄昏の森での大隊遭難による戦力喪失、レホウ派とポード正教側があちらこちらの国から軍事的支援を受けていたことなどから帝国は敗北した。
  • 8
    1508年8月に帝都を落とされると、政府は停戦交渉に乗り出した。結果、帝都州とその付近を領土とする旧帝国政府と、帝国を分割し、トロメタ教国、オジア教国、ハテ教国、スフェクト教国が誕生した。ポード2には他にも40ほどの国家があったもののどれも中小新興国だったため、上の4国が大国として台頭することになる。
  • 9
    同じ時期、ポード3のメルヘサラント領でも大規模な独立運動が発生。ポード3も大大陸の西部などが帝国占領下だった。結果的にこの運動は成功し、帝国はほとんどの領土を失った。

第一次宗教戦争

  • 10
    1509年12月14日、ハテ領内でダイ法オジア派の信者に対しての暴行事件が発生した。同日午後、在ハテのオジア大使館にハテ人グループが襲撃を行い、多数の負傷者が発生した(第一次12月暴動)。これにより両国間の緊張が増し、翌日には在ハテのオジア人に対してオジア外交省は退避を要請。そして12月17日、オジアとハテの国境付近で、オジア軍の大砲部隊がハテ領内に砲撃し、近隣の村の住民が死亡した(12.17国境衝突)。オジア軍は1時間後にハテ国境北方からの侵攻を開始した。
  • 11
    ハテ軍は初期行動の遅れが目立ち、わずか7時間で領土の4割を喪失した。敵軍が王都まで100キロへと迫る中、レホウ派の大国であるトロメタ教国が国土東方よりハテ支援を開始した。というのは表向きの話でありトロメタは混乱に乗じたハテ合併を狙っていた。オジア軍とハテ軍・トロメタ軍は首都東北70キロのイージフ川で衝突した(イージフの戦い)。両軍は互角の勝負で、現地は砲弾が交互に飛び交う地獄となった。同じ頃、西方のオジア・ハテ国境からスフェクト教聖軍がオジアの援軍に駆けつけた。実はわずか3時間前、秘密裏に行われた両首脳の会談で、相互防衛協定の締結が行われた。オジア・スフェクト軍はハテ・トロメタ軍を破り、ハテ・トロメタ軍は首都東北40キロの戦線へと後退した。
  • 12
    ハテ軍に勝ち目はないと思ったトロメタ軍はハテ軍のトップを殺害し、ハテ軍内での混乱を狙ったが、同時刻王都にオジア・スフェクト軍が攻めてきた。守りが薄かった南方からも攻められたためハテ教国政府は降伏を宣言した。トロメタはあくまでもハテ占領を目的としていたため、オジア・スフェクトととの対立を避けたかった。が、失敗したため国境部分の防衛強化を進めた。
  • 13
    ハテ領はオジア5:スフェクト5で分割されたため、トロメタは新規領地を獲得できなかった。結果的に30万人のハテ難民が自領に押し寄せ、兵力を1割喪失した。オジアとスフェクト国内は軍需産業と新規布教場建設ラッシュで好景気を迎えた。