AM-01探査記録

Last-modified: 2025-07-30 (水) 16:24:33

探査主任: 晴夜
探査期間: CE 4991/8/11 - CE 4991/8/25
使用機: AM-1
内容: 超規模移住が可能な惑星の探索

4991/8/11

宇宙船が静かに発進した。船体を軋ませることなく、ほとんど無音のまま大気圏を超えていく。
アマダレ自由国がこの日を迎えるまでに費やした時間は、決して短くない。
幾度もの議論、無数の犠牲、そして最後の戦争を経て、人々はようやく逃げることを選んだ。
私も、その中の一人だ。
この移民計画は、人類がこの星に見切りをつけた証であると同時に、
どこかにまだ希望があるのではないかという、愚かな願望の現れでもある。
船内のシステムは安定している。推進装置も冷却装置も完璧に動作しており、
農業ユニットでは初期段階の野菜培養がすでに始まっている。食料の備蓄も十分。
水は分子構造を再構築する装置によって生成されており、理論上は数十年分が確保可能とされている。
私たちに必要なのは、「戻る」という選択肢を捨てる覚悟だけ。
この船に、未来はあるのだろうか。
いや、私たちが創るしかないのだ。

4991/8/12

太陽系を離脱したという報告が、管制から届いた。
すでに冥王星の軌道は遥か彼方。銀色のパネル越しに見える星々の距離感はあやふやになっていく。
宇宙空間では、上下も左右も意味を成さない。座標と時間だけが、私たちの存在を証明する。
私はこの船において、「生存可能な惑星の選定と調査」という任務を与えられている。
長距離探査用の機器はすでに始動しており、観測衛星との連携によって複数の惑星候補がピックアップされた。
だが、数字上で生存可能と判断されることと、実際に人類が暮らせるかどうかは、全くの別問題だ。
皆、それぞれの役割を全うしようと努力している。エンジニアは熱交換装置の微調整を続け、
医師たちは宇宙酔いに苦しむ乗員に声をかけ、教師は子どもたちに「地球以外の生活とは何か」を説いている。
私は時折、過去を思い出す。
最終戦争が終わったのは、つい二日前のこと。
あの混乱の中で、彼女は生き延びただろうか。
避難信号を受信できなかったということは、連絡手段が断たれていたのか、それとも……。
思考を切り替えねば。
感情は、科学の敵だ。
しかしそれでも……あの子が寂しさを感じていないといいのだが。

4991/8/13

第一候補となる惑星を発見した。
アクス・ガンマ星系第三軌道上のこの惑星に名称はまだ付けられていない。
一時的に「対象001」と呼ぶことにした。地表は淡い青緑色で覆われており、
雲層の存在も確認された。赤外線による測定では、適度な熱源と回転速度があり、軌道も安定しているようだ。
だが、表層からの観測だけでは信用できない。かつて地球は辛うじて人類を生かしていた。
「生きられる」ことと「生きていい」ことには、決定的な差があるのである。
私はチェックリストを端末に表示しながら、項目を一つずつ潰していく。
・安定した公転軌道
・適正な質量と重力加速度
・自転周期と昼夜の長さ
・気圧、気温、大気構成
・水資源の有無と純度
・火山活動と地殻構造
・風向と大気循環の性質
さらに、惑星に「四元素」が存在していることも重要だ。
私たちは科学的合理主義に基づいて旅をしているが、
同時に、文化的な価値や神話的な希望を捨ててはいない。
調査は明日から本格化する。だがその前に、今夜は少しだけ、
過去のことを考えてもいいだろう。夢の中で彼女に会えたなら、
それだけで、今日は良い日だったと思えるかもしれない。

4991/8/14

今日は、彼女の誕生日だった。祝うためのケーキも、
プレゼントも用意できなかった。それ以前に、彼女が生きているかどうかも分からない。
それでも、私は端末にメッセージを打ち込み、通信装置を作動させた。
「誕生日、おめでとう。」
送信ボタンを押す。応答はない。
電波が届かないのか、あるいは誰にも読めないのか。
この時代、この距離、この空間では、生存確認すら困難だ。それでも、私は送った。
「対象001」の調査は進んでいる。地殻構造に異常はなく、磁場も安定しており、
有害な放射線も検出されていない。明日には、初の着陸調査が予定されている。準備は既に整っている。
「どうか、寂しくありませんように」
私の願いは、ただそれだけだ。

4991/8/15

連邦からの通信を受信した。
「メリークリスマス」
音声はやや乱れていたが、その中にクリスマスを祝う言葉が混じっていたのが印象的だった。
季節も時間もバラバラなはずのこの宇宙で、それは一種の奇跡のように響いた。
ヴェスナの民。かつて戦火を逃れた人々が、
今、連邦国家としてまとまり、安定した生活を手に入れているらしい。
彼女が昔、こんなことを言っていた。
「もし、連邦を見つけたらちゃんと教えてね。」
その言葉が、ずっと心の中に残っていた。
今日、私はその約束を果たす。通信ログの記録とともに、メッセージを送信した。
「連邦は、生きていたよ。」
探していたものが見つかるというのは、きっとこんな気持ちなのだろう。
それでも、まだ私にはやるべきことがある。

4991/8/16

降下装置が作動し、私は調査機とともに「対象001」の大気圏へと突入した。
外殻に熱が走る。計器は正常。酸素濃度は地球基準でおよそ八十二パーセント。
大気中に有害な浮遊粒子は散見されるが、初期の浄化装置で対処可能だと判断された。
着陸地点は赤道直下の平原。草原のような地形が広がっているが、
地球の草とは成分構造が大きく異なる。塩基配列の違いがそれを明らかにしてくれた。
足元に広がる未知の植物たち。しかしその色は、目に優しい灰緑色をしていて、
どこか既視感を覚えさせる。私はしばらく無言でその風景を見つめた。
この世界には、風があった。音があり、においがあり、重力があった。
当たり前だったはずのものが、今では有難いものになっている。
録音装置を起動し、私は一言だけ吹き込んだ。
「ここには、生きられるだけの静けさがある。」

4991/8/17

「対象001」の地下で奇妙な反応を観測した。地熱では説明できない熱源と、微弱な振動。
さらに、観測ドローンが地下層にて不明瞭な反射音を拾った。まるで何かが動いているような音だ。
無人探索ユニットを投入する準備を進めた後、私は自分の過去のデータベースを読み返してみた。
彼女と最後に話したのは、あの通信塔の裏だった。焼け焦げた空を見上げながら、彼女は笑って言った。
「こんなに燃えてるのに、星は見えるんだね。」
私は何も返さなかった。ただ彼女の目を見ていた。そこにはどんな未来が映っていただろうか。
宇宙に逃げた私たちは、未来を見ているのか、それともただ過去から逃げているのか。
この星の地下に眠る「何か」が、その答えを知っているとは思わないが、それでも、掘るしかないのだ。

4991/8/18

地下への探索を開始。第一層は粘性のある鉱物層で構成されており、
地球でいう「玄武岩」に近いが、そこに多量の硫化化合物が混ざっている。
人工的な構造はまだ見つかっていない。
ただ、一つ気になる点がある。
それは、岩盤の温度が異常に安定していること。
地熱による自然の揺らぎが見られないのだ。
まるで、何者かが「調整」を行っているかのように。
私は慎重に観測を続ける。何かが起きる前に。しかし大方予想はついている。
この惑星は、「生きている」。
ただ単に生物がいる、という意味ではない。
この星そのものが、自律的に私たちを観察しているのではないか。
船内に戻ると、旧地球の通信ログに彼女の名が残っているのを見つけた。
過去の記録。廃墟となった都市部で、彼女の姿を見たという証言が複数ある。
幻覚でも、誤報でも、構わない。生きていてくれ。それだけが、私を支えている。

4991/8/19

この星には、何かがいる。その予想は確信に変わりつつある。
地下から回収された物質に、構造的な規則性が見られた。
自然が作るにはあまりにも整った模様。金属でも鉱物でもない、それは「刻まれたもの」だった。
文明の痕跡か。あるいは、星そのものが知性を持っているのか。
いずれにせよ、私たちは境界線の上に立っている。
この星を「植民地」と見るか、「対話の対象」と見るかで未来は決まる。
私個人の判断では決められない。
だが、私個人の感情としては、この星を傷つけたいとは思わない。なぜか、そう思ってしまうのだ。
夜。自室にて、古い音源ファイルを再生する。
彼女が弾いていたピアノ。拙くて、リズムも一定ではない。しかし確かに、「生きている」音だった。
再生を止めた後の沈黙が、妙に長く感じた。

4991/8/20

報告書を提出した。「対象001は、条件付きで定住可能」と。
だがその後に、私はこう付け加えた。
「この天体は私たちを『見ている』。もしこの場所に降り立つならば、
私たちは『住まわせてもらう』という意識を持たねばならないだろう。」
この言葉を信じてくれる人がいるかどうかは私には分からないが、
それでも確信している。簡単には見えないだけだ。
ここには確かに存在している。文明ではなく、意思が。知性ではなく、気配が。
宇宙のどこかで誰かが待っている。
この天体も、そうなのかもしれない。
そして、彼女も。
私は、彼女が信じたものを、信じ続けている。
信じ続けられるうちは、生きていける。今はそれだけで十分だ。

4991/8/21

最終的な調査の結果、この惑星⸻新天地は、移住に適していると判断された。
大気は人間の呼吸に適し、土壌には農耕に必要な栄養素が含まれている。
気候変動も比較的安定しており、水資源も豊富だ。地下に眠る鉱物資源の存在も確認された。
文明の基盤となる全てが、ここには揃っている。
私はこの星に名を与えることにした。
『トイネン』。
古語で「再生」「第二の始まり」を意味する言葉だ。
私たちが失ったものすべてを、ここでもう一度取り戻すための名だ。
明日、いよいよ入植が始まる。民たちは希望に満ちた顔で荷造りをしている。
ここにいる全員が、新しい歴史の一歩を踏み出すための準備をしている。
だが、私は心の奥底にもうひとつの使命を抱えている。
それは私個人の、誰にも言ったことのない使命。
この旅が始まる前から、ずっと私の胸にあり続けた想い。
それについては、明日、記そう。

4991/8/22

今日、民たちは無事にトイネンへの移住を完了した。
広大な平原に設けられた仮設都市は、まるで一夜で生まれた命のように、
活気と熱気に包まれていた。子供たちは新しい土地に興奮し、大人たちはこの星に根を張る覚悟を静かに胸に秘めていた。
私は国の管理者に命じた。「この国を、繁栄させよ」と。
彼は即座にそれを了承し、口元に微笑みを浮かべてこう言った。
「ならばこの国には、この名が相応しい。アマダレ自由国、と。」
その瞬間、私たちはひとつの「国」となった。
星の上に、新たな旗が立った。
そして私は、ついに最後の使命を果たす時が来た。
それは、「彼女に会いに行く」ということ。
それだけが、私に残された唯一の使命。
この星に民を導く者として責任を果たした今、私は再び宇宙へと身を投じる。
向かう先は地球。
かつて私たちが住んでいた、サミダレ平和主義共和国連邦。

4991/8/23

本日より、地球への帰還が始まった。
共に帰る乗員は三百を超す。各分野の研究者や外交官、
あるいは再定住を希望した者たち。中には、地球の空気をもう一度吸いたいと言った老人もいた。
航行ルートは安全圏を通り、最短距離で帰還する設計になっている。
所要時間はおおよそ二日。順調にいけば、明後日には地球圏に突入するはずだ。
私が彼女に送った通信は、たった一言。
「帰る」
これで十分だ。
この想いを表すことができるほど、この世の言語はまだ発達していない。

4991/8/24

帰還の途上にある。今のところ、航行は極めて順調だ。
人工冬眠装置も安定して作動しており、同乗者たちは静かな眠りの中にいる。
しかし、宇宙という場所は、人知の及ばぬ何かを孕むものだ。
外部センサーが、時折微弱な信号を感知する。
宇宙ゴミか、あるいは未確認の物質か。
ありふれた誤作動で済むかもしれないが、
油断はできない。遭難の可能性がゼロになることはないのだ。
私は操縦席で、静かにモニターを見つめ続けていた。
そして、ふと願う。彼女が迎えに来てくれればいいのに、と。
勿論それは叶わぬ夢だ。
だが、この無音の宇宙はそんな夢すらも許すほどに広大で、寛容である。

4991/8/25

ようやく、地球がその輪郭を現した。
蒼く、美しく、そして懐かしい星。私たちがかつて生き、争い、愛し、別れた故郷。
このまま無事に帰れるかはまだ分からない。最後まで気は抜けない。何が起こるか分からないのが宇宙だ。
だが私は決めている。
必ず、彼女に会う。
たとえ遭難したとしても。
どんな形であれ、どんなに傷ついても、帰る。
あの言葉を、直接伝えるために。
「ただいま」と。

4991/8/26

我々は地球への帰還を果たした。
しかし、それが完全な成功であるとは、とてもではないが言い難い。
大気圏突入時に姿勢制御装置が故障し、着陸は想定を遥かに超えた衝撃を伴った。
機体は軌道を外れ、地上へ叩きつけられるようにして墜落。結果として、宇宙船は再起不能となった。
そして、ここはシベリア。
極寒の大地。周囲は雪と氷に閉ざされ、
通信も途絶えた。救援部隊が到着するまでには、最低でも数日はかかる見込みだ。
まず考えるべきは体温の維持。
幸い、救命装置の一部が稼働しており、非常用のヒーターと毛布は確保できた。
だが、それだけでは限界がある。自然の中で生き抜く覚悟が必要になる。……と、その時。
壊れたラジオから、雑音交じりの声が聞こえてきた。
「シベリアはいいなぁー!この冷たい空気!たまらん!」
……何だ。
明らかにこちらの声ではない。地元の人間か。それとも別の生存者か。
「……ん?何かあるな。宇宙船?ボロボロじゃないか。……誰かいる? まさか、帰ってきたのか?」
その声は、まるで独り言のように続いた。だが、明らかにこちらに向けられている。
「とりあえず、連絡だ。」
外部との接触の可能性。それだけで、この冷たい空の下に、わずかな希望の光が差し込んだ気がした。

4991/8/27

生きるために、私はシベリアの凍った海へ向かった。
幸いにも一部の氷が薄く、開けた水面を見つけることができた。
釣り糸を垂らし、簡易的な道具で魚を釣った。
炙って食べてみた。
雪の上で、手のひらで温めながら、じっくり焼いたそれは、
今まで食べたどの料理よりも美味しかった。飢えと寒さ、
極限状態の中での一口。その温もりと脂の旨味が、体の隅々まで沁み渡った。
彼女にも、この味を伝えたい。あの日、彼女が作ってくれたスープの味を、ふと思い出す。
再会の時、話すことは山ほどあるだろうが、まずは、この魚の味から語ってもいいかもしれない。

4991/8/28

今日は、宇宙船の周囲を探索した。
白い森を抜けて歩くこと数キロ。そこで、私は驚くべきものを見つけた。
二十世紀のロシア建築。レンガ造りの廃墟、
錆びた鉄扉、崩れかけた階段。そのすべてが、
時間の中で風化しながらも確かに残っていた。
中には、古い日記のようなものもあった。
読解はできないが、確かに人がここに生きた証が刻まれている。
人は何度でも、この地に戻ってくるのだろうか。
たとえ時代が違っても、たとえ星を越えても。
静かに宇宙船へ戻ると、空には北極星が輝いていた。
今夜は、ぐっすり眠れそうだ。

4991/8/29

今日、ふと気づいた。
これは遭難ではない。旅行であると。
そう考えると、なんだか全てが楽しくなってきた。
シベリアの寒さも、雪の中での食事も、
過去の遺構との出会いも、すべてが旅の思い出になっていく。
もちろん命の危険はあるし、極限状況であることに変わりはない。
ただ、人の心は状況によってではなく「解釈」によって動かされる。
ポジティブな思考こそが、私たちを前へ進ませる。
この雪の中にも、未来へ続く道がある。
そう信じて、明日も歩こう。

4991/8/30

救援部隊が到着した。
雪煙を巻き上げて現れたのは、多脚式の探査機と輸送ヘリ。
私たちはその光を見た瞬間、誰からともなく歓声を上げた。
再び、文明の手が私たちに届いた瞬間だった。
救助隊員は私の肩を叩き、「よく生きていた」と笑った。
こうして、私の長い旅は終わった。
これにて、『帰還日記』は幕を閉じる。
もしかしたら、後日談を書くことがあるかもしれないが、これが最後の記録になるだろう。
……ふと、視線の隅に動く影があった。
一人の男がいた。
灰色の毛皮を纏い、雪の中からロケットの残骸を拾い上げている。
彼はそれをじっと見つめ、何も言わず、
そのまま、どこかへと消えていった。
まるで、物語の「続きを待つ者」のように。

4991/9/30

彼女との再会を果たした。
帰還から一ヶ月。検査や隔離期間、報告書の作成、尋問のような聴取、
あらゆる手続きが終わった後、私はついに彼女のもとへ向かった。
待ち合わせ場所は、あの頃と変わらない首都駅前の噴水広場。
彼女は、そこに立っていた。変わらぬ姿で。
風に揺れる長い髪。優しくも少し照れくさそうな微笑み。
「……おかえり。」
その一言だけで、全てが報われた気がした。
あの旅が、全てこの瞬間のためだったのだと。
言葉よりも先に、私は彼女を抱きしめた。
まるで、宇宙の果てからようやく辿り着いた真の重力に触れたように。

4991/11/11

惑星トイネンとの通信に成功した。長距離通信システムが調整され、
アマダレ自由国のリーダーと定期的に連絡が取れるようになった。
彼はかつての部下であり、今では一国の主。
画面越しに見る彼の姿は、責任と誇りに満ちていた。
「この国は、あなたが蒔いた種から芽吹いたものです。」
「今では学校もあり、芸術も芽生えています。」
私は彼に伝えた。「私は今、地球にいるが、心の一部はそちらにある」と。
彼はうなずき、穏やかな表情でこう答えた。
「私たちは、あなたの背中を見てきました。だから、これからも進みます。」
宇宙は広い。だが、思いは距離を超える。
そう信じられる通信だった。

4991/12/25

あの日、出発の日から、四ヶ月が経った。
いま私は、普通の生活を取り戻している。
クリスマスの今日は、街がイルミネーションで彩られ、
広場の中央には巨大なクリスマスツリーが立ち、
子どもたちは歌を歌い、大人たちは笑い合っている。
私は、ただそれを眺めていた。
平和とは、こういう風景を言うのだろう。
パーティーの後、彼女に呼び出された。
二人きりの時間。少しだけ緊張する。
彼女は小さな箱を差し出した。
「……これ、あなたに。」
開けると、中には何も入っていなかった。
……いや、そう見えただけだ。
その瞬間、彼女が静かに言った。
「わたし自身を、あなたにあげる。」
それは、プレゼントだった。
ラッピングされた思い出ではなく、
これから共に紡いでいく未来の象徴。
私は箱を閉じて、彼女の手を取った。
「じゃあ、これはずっと大事に持ってる。」
クリスマスの夜空に、雪が舞った。
かつて旅した星々よりも、この瞬間が、
どこよりも輝いていた。

VE 5005/0/15 記録者:あまだれ

彼は、コールドスリープに入った。
目覚めるのは、およそ千二百年後。
彼の願いはただ一つ。新たな人類の姿を見届けること。
地球は今、平和と秩序を保っているが、
技術の進歩はとうに限界を迎えた。
彼は、それを超えた存在を、自分の目で確かめたかったんだと思う。
別れの言葉は、少なかった。
「また、会おう」。それだけで、十分だった。
私も、不老不死であるこの身が、彼と再会することを信じている。
スリープポッドの中で静かに眠る彼の顔は、まるで少年のようだったな。
私はそのガラス越しに手を当て、微笑んだ。
「千二百年なんて、きっとあっという間だよ。」
世界は変わる。人も、言葉も、文化も、記憶も。
けれど、私たちの約束だけは変わらない。
今日から私は、彼の眠りを守る者となることにした。
歴史を見届けながら、文明の揺らぎを感じながら、
彼が目覚めるその日まで、独り…いや、仲間と共に生きていく。
彼が目を開けたとき、世界がどれほど美しくなっているか。
その日を想像するだけで、胸が熱くなるな。
これは終わりなんかじゃない。
長い旅の、ほんの一瞬の幕間。
また、彼に会える。
それだけが、今の私の救いなんだ。

VE 6205/3/0 記録者:晴夜

ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れない光が差し込んできた。
冷却液が引いていく音、遠ざかっていく心音のモニター音。
私は、生きている。
コールドスリープポッドの扉が開くと、まず感じたのは、空気の柔らかさだった。
懐かしさと、未知が混ざったような匂い。
誰かがそっと手を差し伸べてくる。
彼女ではなかったが、どこか彼女に似た面影のある、若い女性だった。
「おかえりなさい、旧世代の方。」
その言葉に、私は微笑んで応えた。
ここが、千二百年後の地球。
私は想像していた。天を貫くビル群、宙を舞う交通網、
脳波で動く装置、完全なるAI管理社会。そんなSFで見たような未来を。
だが現実は違った。彼らの服装は、二十世紀のものに似ていた。都市の姿も、近未来ではない。
だが不思議と「温かい」。無機質さではなく、手触りのある美しさがそこにあった。
一見、過去に戻ったような生活。
けれど話を聞けば、彼らは重力操作技術を持ち、
光通信を超えた意思伝達法を使い、生死さえ自在に操る医療技術を手にしていた。
つまりこれは過去の形をしながら、未来の核を持つ、新たな人類の姿だったのだ。
私は理解した。
未来とは、ただ先鋭的であれば良いというわけではない。
彼らはきっと一回転して、優しさや、土の匂いや、手作りの温もりに戻ってきたのだろう。
これもまた、ひとつの進化か。
私は心の中で、そう呟いた。
そして、
彼女に会いたいと、強く思った。