居住区最上層のラウンジ。そこは、まるで深海の宮殿のように静謐な空間だった。煌めく人工星が散りばめられた天井の下、アルデントはふと、その悠久の光を見上げながら呟いた。彼女の視線の先には、過去と未来が交錯するような、限りない時の流れが広がっているかのようだった。ガラス張りの壁の向こうには、青と白に輝く地球が悠然と浮かび、その手前には無数の流星群が静かに流れていくのが見えた。
「ねえ、クロネッカー……私、もう何年生きてるんだっけ……。正直、全然わかんなくなってきたんだよね、時間の感覚がさ。まるで、長い夢を見ていたみたいに、曖昧になってきてる。あの、コールドスリープカプセルの中にいた数千年が、たった一晩の出来事だったように感じる時もあれば、遥か昔の出来事だったように感じる時もあるのよ」
彼女の言葉に、隣に座っていたクロネッカーは柔らかな笑みを浮かべた。その白色の髪が、天井の光を反射してきらめく。クロネッカーの瞳は、まるで精密な機械のように、瞬時に情報を処理しているかのようだった。その指先が、居住ブロックの壁に設置された情報端末に触れると、瞬時に正確なデータが表示された。
「目覚めてからちょうど521年と3ヶ月と12日と、正確には14時間27分35秒ですよ、アルデントさん。ふふ、本当に色々なことがありましたね、この五世紀ちょっとの間で。数々の戦い、新たな仲間との出会い、そして失われたものも……。例えば、第四次ツェヴェル作戦での防衛戦のことや、失われた惑星文明の記憶の再構築プロジェクトなど、枚挙にいとまがありませんね」
クロネッカーの正確すぎる返答に、アルデントは少し目を見開いた。彼女の記憶は、確かに多くの時間を経て、曖昧模糊としたものになりつつあった。
「もう、そんなに経ってたんだ。なんだか、あっという間だったなぁ。ずっと戦って、少し休んで喋って、また戦って……。時間って、こんなにも早く過ぎるものだったっけ? まるで、昨日今日の出来事のように感じる時もあるし、何千年も昔のことのように感じる時もある。例えば、私がまだ目覚めた頃の出来事が、まるで遠い過去の神話のように感じられる時もあるし、つい最近、君が作ってくれたコーヒーの味が、鮮明に思い出される時もある。」
アルデントの問いに、クロネッカーは静かに頷いた。彼女の思考は、常に論理的かつ冷静だ。
「そうですね。私ももう2210歳と8ヶ月と21日になりますから、時間の流れが異常に早く感じますよ。私たち旧人類にとって、時間とは計算可能なデータに過ぎませんが、それでも体感速度というものは存在します。けれど、本来の君の寿命を考えると、私よりも時間の感覚が鈍っていてもおかしくないですよ? 君は、私たちの想像を遥かに超える時を生き、一つの文明の興亡すら瞬きの間に過ぎ去るものと捉えるほどですから。例えば、一つの星系が誕生し、生命が芽吹き、文明が発展し、そして滅びゆくまでのサイクルを、貴女の種族は何度か目撃しているはずです。」
アルデントは腕を組み、軽く首を傾げる。
「確かに、そうかもしれない。でもね、実際に『生きて』た時間、つまり意識が覚醒してた期間だけを数えるなら……せいぜい800年くらいじゃない?コールドスリープ期間を除けば、だけど。あの深い眠りの間は、何も感じなかったし、時間も進まなかったわけだし。まるで、眠っている間は、世界の時間が止まっていたかのような感覚なもんだよ。」
クロネッカーは小さく肩をすくめた。その仕草は、どこか人間味を帯びていた。
「それをカウントしてしまうと、それこそ世界の歴史が何周もして、とんでもない年数になってしまいますからね……例えば、人類が地球で文明を築き始めてから、ようやく宇宙に進出した頃の歴史が、まるで昨日の出来事のように感じられるでしょう。私たちの文明が記憶している歴史よりも、遙かに長い時間になるでしょうね。」
(小さな沈黙が二人の間に流れる。天井の人工星が、まるで呼吸をするかのようにゆるやかに瞬き、幻想的な光を投げかけていた。その光は、遠い宇宙の彼方から届く星々の囁きのようにも感じられた。ラウンジでは、定期的に補給車が停泊する微かな振動が伝わってくる。)
アルデントは、その沈黙を破るように身を乗り出した。彼女の瞳には、好奇心と、そしてほんの少しの寂しさが宿っていた。
「……そうだ。せっかくだし、こうして二人きりなんだから、クロネッカーのことを聞きたいな。普段、自分のことってあんまり話してくれないし、なんだか謎めいてるしね。私にとっても、あなたは最も古くからの友人の一人だし。あなたの記憶の中には、きっと私の知らない、たくさんの歴史が眠っているはずでしょ?」
クロネッカーは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの落ち着いた微笑みに戻った。彼女は、まるで計算するかのように、最適な返答を探しているかのようだった。
「私ですか?光栄です。もちろん構いませんよ。私のことなど、特に面白い話もないかと思いますが……ただし、組織完全機密レベルの内容はパスさせてくださいね。 それを話してしまうと、明日から私が情報統制局のブラックリストに載り、最悪の場合、機密保持法違反でリーダーだとしてもシステムから強制排除されてしまうかもしれませんから。それは、流石に困ります。私の存在自体が、この組織の重要な人物ですから、もし私が消去されてしまえば、ここの運用にも支障が出てしまうでしょう。」
アルデントは楽しそうに笑った。彼女の笑い声は、この静かな空間に心地よく響く。
「もちろん。そんなことは聞かないって。えっとさ、クロネッカーって昔……私の妹、つまり初代総統の下で働いてたでしょ? あの頃って、どんなことしてたの? 具体的な仕事内容とか、生活とか、あの時代の雰囲気とか、何でもいいから聞かせてよ。私はコールドスリープ中に、妹がどんなに困難な時代を乗り越えてきたのか、断片的にしか知らないし。だから、君の視点から見た、当時の妹の姿も知りたいんだ。」
クロネッカーは、遠い過去を思い出すように目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。彼女の瞳の奥には、データとして保存された膨大な記憶が走馬灯のように駆け巡っているかのようだった。
「あー……うーん、そうですねぇ……何から話しましょうか。あの頃の私は、ずっと零式軍という、国家の最高機密を扱う組織の中にいました。最初は特殊部隊833──通称ドクター・ゼロに所属していました。主に医療と人体研究が専門でしたね。ええ、かなり特殊な部署でしたよ。例えば、最前線で致命傷を負った兵士を、一週間で戦線復帰させるための高速再生治療の研究や、兵士の身体能力を極限まで引き出すための薬物投与プログラムの開発なんかも行っていました。それは、兵士たちの肉体的な限界を押し広げ、戦闘効率を最大化するための、言わば究極の兵士を作り出すプロジェクトの一環でもありました」
アルデントは眉をひそめる。その表情には、若干の嫌悪感が滲んでいた。
「……軍で、医療? なんだか、あまりピンとこない組み合わせだね。戦場で負傷した兵士を治療する、とかそういう、一般的な医療とは違う感じがするけど。まるで、人体そのものが、一つの資源として扱われていたかのような、冷たい響きがあるな」
「いえ、戦場での救命よりは、超寿命処理や身体拡張、あと──兵器としてのヒトの在り方の研究ですね。例えば、人間の寿命を数億年に延ばす遺伝子操作や、サイボーグ化による身体能力の飛躍的向上、精神への情報直接入力による高速学習プログラムなども研究していました。ある意味では、最も非人道的な部署だったかもしれません。人間の尊厳よりも、国家の勝利を優先する、極めて危険な思想が根底にあったのです。その研究成果の中には、現在の私たちの技術にも応用されているものもありますが、その倫理的な問題は常に議論の対象となっています。」クロネッカーの言葉に、アルデントはため息をついた。
「やっぱり変な国だな、うち。いや、正確には“だった”のか。そんな研究が、平然と行われていたなんて……。私が眠っていた間に、世界はそんなにも歪んでしまっていたのか」
「まったくです……私もそう思っていましたよ。時には倫理観との間で葛藤を覚えることもありました。そして、その葛藤の末、私はより上位の部署への転属を志願したのです。それから私は上層部に転属されて、“オリュンポス・オペレーター”という部門へ配属されました。そこは特殊部隊003。国家全軍の指揮・戦略設計・対外情報統括を担う、非常に重要な立場になりました。私が直接、総統閣下の補佐をすることも増えましたね。例えば、敵国の動向を予測し、最適な攻撃目標を選定したり、外交交渉の裏で情報戦を仕掛けたり、時には世界規模のサイバー攻撃の指揮を執ったりもしました。ある時は、敵対勢力の艦隊の進路を正確に予測し、数日後の会戦で壊滅的な打撃を与えるための戦略を立案したこともあります。また、別の時には、特定の惑星の住民の心理状態を分析し、最適なプロパガンダを流布することで、武力衝突を回避し、平和的な併合に成功したこともありました。」
アルデントは、クロネッカーの語る過去のスケールに驚きを隠せない。その能力の高さに、改めて感嘆の声を漏らす。
「……ってことは、このKroneckerっていう名前も、その部門の後継とか、そういう意味なの? まるで、あなたがその部門そのものだったみたいじゃない。まさか、私の知らないところで、あなたが国家の命運を握るような、そんな重要な役割を担っていたなんて。」
クロネッカーは少し照れたように視線を逸らした。
「正確には試作モデル003α-Kが原型ですね。私の名前がそのまま部署の名になっているのは……ちょっと、こそばゆいですけど。まるで私が部署そのものであるかのように聞こえますから。それは、私の名前が、そのまま部隊名になったという経緯があるんです。当時の総統閣下が、私の分析能力と戦略立案能力を高く評価してくださり、『Kroneckerがいれば、どんな困難な状況も打開できる』とまで言ってくださいました。私に課せられた使命は、いかなる状況下においても、国家の利益を最大化し、勝利を導くことでした。時には冷酷な決断を下すことも求められましたが、それも全て、総統の掲げる理想のために必要なことだと信じていました。」
「凄いよクロネッカー! ずっと現場にいて、しかも軍の頭脳だったわけでしょ? 本当に何でもできるんだ。まるで、生きる戦略兵器みたい。私が知っている君は、いつも穏やかで、優しくて、でもどこか掴みどころのない存在だったから、今の話を聞いて、改めてあなたの底知れない能力に驚いている。」
「ええ、でも……私が特別だったわけじゃないですよ。総統閣下と親しくしていたからこその立場だったんです。よく、一緒に外でご飯を食べたり、カフェで雑談したり。普通の人間らしい時間もあったんですよ。あの頃は、まだ平和な時代でしたから……例えば、総統執務室の隣のプライベートなカフェで、一緒に特製の紅茶を飲んだり、休日にこっそり街に出て、流行のファッションについて話したりもしました。総統は、公務では非常に厳格な方でしたが、プライベートではとても人間味あふれる、優しい方でしたから。時には、星間貿易で手に入れた珍しいお菓子を一緒に食べながら、くだらない冗談を言い合ったりもしましたね。そういった時間が、私の心の均衡を保っていたのかもしれません。」
クロネッカーの瞳に、少しだけ郷愁の色が浮かんだ。
アルデントは、その表情を見て静かに呟いた。
「……また、そういう時間が戻ってくるといいね。でも今の世の中じゃ、ちょっと無理そう。この戦争が終わらない限りは……。総統が望んでいた平和な世界は、まだ遠い未来にあるのかもしれないけど」
クロネッカーは、その言葉を遮るようにアルデントを見つめ返した。彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「無理ではありません。君がこちら側にいるうちは、私はどんなことがあっても取り戻してみせます。君があちら側に旅立つまでには……あと1400年以上ありますから。その間に、きっと、いや必ず、平和な世界を取り戻します。君が安らかに向こう側に行くその日まで、この宇宙を、この世界を、私が変えてみせます。それは、総統の遺志を継ぐ者としての、私の使命でもありますから。私達がかつて見た美しい星空を、再び取り戻せるよう、私は全力を尽くします。」
アルデントは、クロネッカーの力強い言葉に、ふわりと微笑んだ。その微笑みには、信頼と、そして少しの諦めが入り混じっていた。
「ふふ、それも長いようで、あっという間かもしれないね。……ところでさ、クロネッカー」
「はい?」
「ずっと思ってたんだけど……クロネッカーって、ずっと敬語じゃん? ほら、私たちもう500年以上の付き合いだし、たまには普通の口調で喋ってみない? なんだか、他人行儀な感じがするっていうか、もっと親近感が欲しいなって思うんだけど。たまには、昔みたいにさ。私たちだけの、特別な時間にしたいしさ」
クロネッカーは、突然の提案に目を見開き、そして顔を赤くした。彼女は、この予想外の要求に対する処理が激しく行われているようだった。まるで、AIの内部にある感情回路がショート寸前かのように、彼女の表情は混乱に満ちていた。
「えっ……えー、それは……その……あの……いえ、まさか……。私のような人間が、そのような砕けた口調で話すのは、適切ではないかと……。私は、常に最適な敬語表現を選択するようにしていますので……。」
アルデントは、そんなクロネッカーの反応を楽しんでいるかのように、にっこり笑って促した。
「だーいじょうぶ。ほら、思い出してみてよ。昔の、素のクロネッカーの喋り方。きっと可愛い感じだったんじゃない? 私がまだ寝てる頃、君が子供の頃の時の、あの声だよ。総統も、きっと喜ぶんじゃない?」
クロネッカーは、困惑しながらも、何かを思い出すように唸り始めた。彼女の記憶が、古いデータを必死に検索しているのが見て取れた。彼女の視線が、遥か遠くの一点を見つめるように彷徨い、その口元が微かに震えた。
「…………えーと。あー……こんな、感じだったかなぁ……?いやちょっと待って、記憶曖昧すぎるな……えっと、あー……たぶん、こんな、ふう……だと……思うんだけど……『ちょ、ちょっ、やめてよ! そんなこと言わないでってば! マジで恥ずかしいんだけど! もう、アルデントったら意地悪なんだから!』」
アルデントは、くすっと吹き出した。そして、さらに追い打ちをかけるように言った。
「いいじゃん、なんか親しみある感じで。すごくクロネッカーらしいよ。昔のクロネッカーに戻ったみたいで、なんだか嬉しいな。…昔のクロネッカーのこと知らないけどさ。ね、もっと話してみてよ。昔とか、総統のこととか、なんでもいいからさ。」
クロネッカーは、全身を震わせ、両手で顔を覆った。彼女の顔は、おとなしい人とは思えないほど真っ赤に染まっていた。その耳元からは、微かに蒸気が上がっているようにも見えた。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!恥ずかしい!!!!!!!!!!!!もうムリ!!!!!!!!やめる!!!!!!!!!! お願いだから、もう言わせないでください! 私があたまおかしくなります」
アルデントは、笑いながらクロネッカーの肩をポンと叩いた。
「落ち着こっか、一回落ち着こ? 大丈夫だから。誰も聞いてないし、私しかいないんだから。それに、別に悪いことじゃないでしょ? ほら、深呼吸、深呼吸。」
クロネッカーは、顔を真っ赤にしたまま、うずくまるように呟いた。
「うぅ……ごめんなさい、ほんと無理なんですよ……長年の癖って、怖いですね……まるで身体に染み付いてしまっているみたいで……敬語が、私の一部になってしまっています……。もしかしたら、この敬語が、私のアイデンティティの一部になってしまったのかもしれません……。」
アルデントは、そんなクロネッカーの反応が面白くて仕方がなかった。この瞬間、500年という時の隔たりが、ほんの少しだけ縮まった気がした。
