注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 室町時代 (1409~1443)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
鎌倉幕府の打倒に功のあった武将の1人、足利尊氏が勢力を伸ばして後醍醐天皇らと対立し、室町幕府を創立した。
しかし楠木正成や新田義貞などといった南朝に属する群雄たちとの抗争が相次ぎ、さらに実弟足利直義との内部分裂もあって、
南北朝の動乱のさなか、志半ばで没する。その後3代将軍足利義満の代に室町幕府が最盛期を迎え、南北朝の合一によって名実ともに日本を統べる武家政権となる。
基本的には鎌倉幕府の構造を踏襲しているが、南北朝動乱の長期化によって地方への室町幕府の支配力は低下し、
内実は「天下無為」を実現すべく室町将軍と地方を任された将軍一門の鎌倉公方、守護大名の連合政権であったとされる。
そのため力を有しすぎた鎌倉公方や守護大名は討伐の対象にもなり、南北朝合一後の統一政権、4代将軍足利義持の時代以降も争乱はしばしば発生した。
6代将軍足利義教が嘉吉の乱で弑逆されて以降、将軍権威は低下。応仁の乱、明応の政変、享徳の乱などを機に衰退し、将軍に実権がなく内乱状態に突入した。
最終的には、中央室町幕府は織田信長によって放逐、滅亡させられ、関東鎌倉府(当時は堀越公方+古河公方)はそれぞれ後北条氏の傘下に入った。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
北朝 → 南北朝時代(日本・北朝(尊氏派)) 、南北朝時代(日本・北朝(直義派))、南北朝時代(日本・北朝(直冬党)) 、南北朝時代(日本・北朝 花の御所)
北条 → 鎌倉時代(正中・元弘の変)、中先代の乱(建武政権)
室町 → 室町時代、 鎌倉府・鎌倉公方
創作 → NHK大河ドラマ、漫画2
8代将軍足利義政以降の治世については室町時代(応仁・文明の乱)と室町時代(享徳・長享の乱)と室町時代(末期)を参照。
本項目では南北朝合一以後の4代将軍足利義持以降、7代将軍の足利義勝までの治世を取り扱う。
足利将軍家
室町幕府初代将軍、足利尊氏に連なる家系。室町幕府は足利尊氏の孫、3代将軍足利義満の時に最盛期を迎えるが、南北朝時代の余波もあって将軍権力は決して高いものとは言えず、
次代の4代将軍足利義持の時代になっても鎌倉府や旧南朝方、守護大名の反乱などが相次いだ。将軍家でも足利義嗣や大覚寺義昭など一門による内訌が相次ぎ、
5代将軍の足利義量が早逝すると、その父である足利義持が大御所状態で将軍不在のまま幕政を取り仕切った。やがて義持の死後、義持の弟の
足利義教が籤引きで6代将軍に選ばれると、将軍親政を志し各地の守護大名、鎌倉府、後南朝勢力と本格戦闘して強権政治を志すが、結城合戦の祝宴で赤松氏に暗殺されて将軍親政は頓挫。
嘉吉の乱の後、7代将軍足利義勝はわずか8歳で将軍就任するも翌年早逝し、以後6年間将軍は置かれなかった。その次代である8代将軍足利義政も幼少のまま将軍就任し、この間に将軍の傀儡化が進んだ。
足利義持
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 55 | 37 | 71 | 79 | 81 | 名声 | 柱石 | 輿望 | 文化 | 動員 | 混乱 | 鼓舞 | 鎮静 | 縦横術 | 覇道 | ||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 55 | 37 | 71 | 79 | 81 | 医術 | 名声 | 文化 | 節約 | 癇癪 | 混乱 | 鼓舞 | 鎮静 | 縦横術 | 覇道 | ||
豪勢だった父、足利義満とは異なり節約志向であったとされる。医薬にも関心を示し、水墨画など文化にも巧みであった。
一方で、弟ほどではないが癇癪持ちであったと言われているため、癇癪を付与した。
【アシカガヨシモチ】
室町幕府4代将軍。足利義満の三男。
側室腹の生まれで異母兄がいたが、斯波義将の後援により将軍職を継承する。
将軍就任経緯もあってか、父である義満と異なり守護大名とのゆるやかな関係を築き
安寧をはかった。一方で日明貿易を取りやめて外交断絶を行ったり、皇位継承問題などに
介入するなど、強圧的態度も備えている。父とは違う形で安定政治を行ったが、
晩年は弟である義嗣との対立や、嫡男義量の夭折など後継者問題などが発生。
権勢が衰退しつつある最中、43歳で早逝した。後継者にはくじ引きで同母弟義教が選ばれている。
嫌悪武将→足利義嗣
足利義量
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 17 | 15 | 30 | 38 | 63 | 名声 | 動員 | 浪費 | 酒乱 | 短慮 | 鼓舞 | 地域巡回 | 覇道 | ||||
【アシカガヨシカズ】
室町時代の人物。足利義持の嫡男。
父、義持の寵愛を受け、義持の参詣や遊覧に同行。
1423年に足利義持から将軍職を譲られ、
室町幕府5代将軍に就任するが、2年後に19歳で死去した。
生来病弱でありながら大酒を飲み心身を害したと言われているが、異説もある。
補足:死後、将軍職は空位のまま、足利義持が大御所政治を行った。
足利義教
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 45 | 17 | 90 | 86 | 51 | 詭計 | 怒髪 | 使役 | 癇癪 | 悪名 | 倒山傾海 | 大喝 | 業火 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
| 66 | 53 | 90 | 86 | 53 | 梟雄 | 怒髪 | 使役 | 癇癪 | 悪名 | 倒山傾海 | 大喝 | 業火 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 53 | 89 | 86 | 53 | 梟雄 | 怒髪 | 使役 | 癇癪 | 悪名 | 倒山傾海 | 大喝 | 業火 | 混乱 | 罵声 | 政令徹底 | 覇道 |
【アシカガヨシノリ】
室町幕府6代将軍。足利義満の五男。
将軍親政と幕府権威の向上を志し、将軍を中心とする幕府制度を推し進めた。
また延暦寺・園城寺や鎌倉公方・関東管領のような勢力間の内部対立に干渉を進め
幕府裁定に従わない勢力を滅亡、弾圧させ幕府の権力を強化。守護大名の
内部統制にも干渉し、幕府権力のもとで一元化した体制を構築すべく奔走した。
しかし結城合戦の鎮定後に招かれた守護大名、赤松氏邸で行われた「御成」中に
赤松則繁、赤松教康らによって殺害された。
※その治世は「万人恐怖」と謳われ、当時の親王でさえも「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と日記に書き記している。
※公家の中山定親によると、公卿、僧侶、神官、女房あわせて80名が処罰されたとする。なお武家の処罰人数はこの中に入っていない。
足利義嗣
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 26 | 19 | 60 | 62 | 84 | 召募 | 嚮導 | 名声 | 文化 | 動転 | 治療 | 混乱 | 鼓舞 | 施設開発 | 割拠 | ||
【アシカガヨシツグ】
室町時代の人物。3代将軍足利義満の四男。4代将軍足利義持の弟。
父、足利義満に寵愛され、父の権力を背景に左近衛中将に任官、清涼殿で元服した。
容姿端麗で「若宮」と呼ばれ、足利義満の後継者であると目されていたが
元服一ヶ月後に父、足利義満は死去し、将軍には幕府の重鎮である斯波義将に
推された足利義持が就任した。のちに正二位までのぼりつめるが、足利義持との対立が
加速し、室町第から追放された。のちに舅の上杉禅秀が乱をおこすと、関与を疑われて自害に追い込まれた。
足利尊有(大覚寺義昭)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 44 | 29 | 51 | 58 | 69 | 潜在 | 文化 | 人脈 | 動転 | 消沈 | 混乱 | 鼓舞 | 戸籍整備 | 割拠 | |||
【アシカガタカモチ/ダイカクジギショウ】
室町時代の人物・僧侶。足利義満の六男で、足利義持、足利義教の弟。
当初は僧籍にあって大覚寺義昭と称した。のちに5代将軍足利義量、
4代将軍足利義持が逝去すると、足利将軍の後継候補となるが、籤引きで
異母兄の足利義教が将軍に選ばれる。のちに足利義教と対立して大覚寺を逐電。
大和の越智維通や鎌倉公方の足利持氏と提携して大和永享の乱を起こすが敗北した。のちに還俗して
足利尊有と名乗り、土佐、日向と逃れるが、足利義教の命を受けた島津忠国に討伐され、自害した。
補足:足利尊有と名乗ったかどうかは諸説ある。本来は「足利義昭(アシカガギショウ)」とすべきなのだろうが、室町幕府15代将軍「足利義昭(アシカガヨシアキ)」が有名すぎるので、尊有とした。
補足:大和永享の乱は冤罪で粛清から逃亡しただけとする説もある。
足利一門・分家
細川満元
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 44 | 69 | 81 | 78 | ||||||||||||
| 58 | 44 | 79 | 81 | 78 | 明鏡 | 能吏 | 諫止 | 補佐 | 鎮静 | 牽制 | 撹乱 | 激励 | 先従隗始 | 王道 | ||
【ホソカワミツモト】
南北朝・室町時代の武将。細川頼元の嫡男で、細川頼之の甥。
足利家一門かつ細川京兆家当主。足利義満、足利義持を支え、
摂津土佐讃岐丹波と4カ国の守護を兼任。1412年には管領にも就任し、
足利義持に重用された。就任中は主に北畠氏、上杉氏らをはじめとする
在地勢力の反乱に対処する傍ら、将軍家の対立問題の対処にも追われた。
1421年に管領を辞任して隠居した。その執政ぶりは貴賤なく賞賛されたという。
親愛武将 足利義持 世阿弥
細川持之
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 62 | 36 | 70 | 73 | 71 | 強運 | 動員 | 能吏 | 優柔 | 動転 | 鎮静 | 鼓舞 | 牽制 | 墨守研究 | 王道 | |||
【ホソカワモチユキ】
室町時代の武将。細川満元の次男。子に細川勝元。
4代将軍足利義持に仕えて偏諱を授かり、のちに31歳で早逝した兄、
細川持元の跡を継いで惣領となる。足利義持が死去すると
跡を継いだ6代将軍足利義教に仕え、1432年に管領就任した。
嘉吉の変の際には足利義教に従っていたが運良く難を逃れ、7代将軍に
義教の嫡男、足利義勝を擁立。紆余曲折を経て嘉吉の乱鎮圧に主導的役割を果たした。1442年死没。
補足:嘉吉の乱の際には連動する勢力を危惧したため初動対応が遅れた。また義教の葬儀には持之のみが参加していたとする。
畠山満家
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 76 | 82 | 77 | 68 | 74 | 掃討 | 諫止 | 柱石 | 補佐 | 奮戦 | 鯨波 | 足止 | 火矢 | 文事軍備 | 王道 | |||
【ハタケヤマミツイエ】
室町時代の守護大名・武将。管領畠山基国の子。
応永の乱においては敵将の大内義弘を討つ功績を挙げたが、義満の勘気を蒙り
義満存命時は畠山家の家督を弟の満慶が継ぐ等冷遇された。
義持の時代に重用されて管領となり義持死後は幕府宿老として義教を支え、
その存命時は義教も恐怖政治を行えなかった。
今川範政
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 77 | 75 | 61 | 74 | 名声 | 柱石 | 補佐 | 詩想 | 消沈 | 確乎不動 | 鼓舞 | 奮戦 | 治療 | 突撃 | 地域巡回 | 割拠 |
【イマガワノリマサ】
駿河の守護大名。今川家6代当主。今川泰範の嫡男。
4代将軍足利義持、5代将軍足利義量、6代将軍足利義教に仕え、
幕府の重鎮として重きをなす。上杉禅秀の乱では討伐軍の主軸をつとめ、
乱の鎮圧に貢献。のちに副将軍に任じられた。しかし晩年は息子である小鹿範頼を溺愛して、
今川範忠との家督争いを引き起こし、そのさなかに死去した。
※今川範忠について、当初は範政の実子としてなんら疑いを持たれていなかったが、近年では範政の弟の子、すなわち甥である可能性が浮上している。
重臣・家臣
上杉持房
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 65 | 56 | 60 | 69 | 一心 | 再起 | 動員 | 果敢 | 不屈 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 牽制 | 鉄壁 | 三令五申 | 名利 |
【ウエスギモチフサ】
室町時代の人物。上杉禅秀の子。
京にいた叔父、上杉氏朝の養子となっていたため、
上杉禅秀の乱に連座せず難を逃れた。のちに足利将軍家に仕え、
4代将軍足利義持から偏諱を授かる。6代将軍足利義教に
重用され、永享の乱や結城合戦では幕府軍の一員として従軍し
同族の上杉憲実らを支援した。生没年不詳。
大内持世
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 75 | 83 | 80 | 77 | 再起 | 親鮮 | 名声 | 胆力 | 論客 | 沈毅大略 | 鼓舞 | 斉射 | 急襲 | 鎮静 | 鶴翼強化 | 割拠 |
【オオウチモチヨ】
室町幕府守護大名。大内氏12代当主。大内義弘の子。
足利義持、足利義教に仕えた。足利義持から偏諱を授かり持世と名乗る。
当主であった叔父、大内盛見が戦死すると弟の大内持盛や従兄弟の大内満世と
家督を争い、当初は敗れたが再起して両名を駆逐し、持盛を敗死させて家督を継ぐ。
のちに大友家や少弐家と争って勢力を拡大、その勢力拡大を危険視した足利義教の
疑念を、謀叛を起こした大覚寺義昭を討伐することで払しょくする。のちに足利義教とともに
結城合戦に対する戦勝祝の祝宴に参加したが、嘉吉の変で義教は殺害され、自身も重傷を負い、一月後に死去した。
山名常捷
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 74 | 71 | 58 | 61 | 64 | 護衛 | 動員 | 金剛 | 強奪 | 一心 | 突撃 | 激励 | 牽制 | 急襲 | 奮戦 | 三令五申 | 割拠 |
【ヤマナジョウショウ】
室町幕府守護大名。山名義理の子とも、孫とも言われる。
常捷は法名。山名義理の跡を継いで石見守護となり、
足利義持、足利義教らに仕えた。のちに足利義教の手引きで
同族の山名煕貴を養子とするが、煕貴は嘉吉の変で足利義教とともに
暗殺される。嘉吉の乱の際には同族の山名宗全とともに討伐軍の中核を
つとめ、戦後に美作守護となった。生没年は不詳であるが、1456年頃に没したと言われている。
補足:従来「山名教清」として山名義理の孫と言われていたが、近年では活動記録の乏しい従来父とされた山名義清と同一人物であるとされている。
補足:また名前についても諸説あり、確定しているのは法名だけである。当初は常勝と名乗ったが、7代将軍足利義勝への避諱もあり、のちに常捷と名乗る。
小笠原政康(源政康)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 85 | 73 | 67 | 75 | 遠矢 | 驍将 | 動員 | 文化 | 泰然 | 皎月弓 | 激励 | 斉射 | 突撃 | 奮戦 | 鋒矢強化 | 割拠 |
【オガサワラマサヤス】
南北朝時代から室町時代の人物。
小笠原政長の孫で、曾祖父に小笠原貞宗がいる。
兄、小笠原長秀から家督を譲られ、上杉禅秀の乱や正長の土一揆鎮圧など
数々の合戦で活躍。4代将軍足利義持や6代将軍足利義教から
重用され、鎌倉公方への抑え役として信濃守護に任命された。
のちに足利義教の弓馬師範となり、村上頼清ら信濃勢力の反乱分子を鎮圧した。
永享の乱や結城合戦では幕府軍重鎮として参陣し、鎮圧に貢献。1442年に死去した。
補足:信濃小笠原氏の最盛期を築き上げ、広沢寺や筑摩神社を開基した。死後、内紛で小笠原家は分裂した。
朝倉教景
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 79 | 75 | 72 | 71 | 動員 | 猛者 | 長駆 | 捕縛 | 名声 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 牽制 | 奮戦 | 錐行強化 | 割拠 |
【アサクラノリカゲ】
南北朝時代から室町時代の武将。朝倉家5代当主。朝倉氏景の孫。
足利義教に仕えて大和永享の乱では一色義貫の粛清などに携わり、
永享の乱では足利持氏討伐に参加して功をあげた。のちに
結城氏朝が持氏の遺児を擁して行われた結城合戦では、幕府方として
結城氏朝討伐に赴き、持氏の遺児である春王丸と安王丸を捕縛した。
のち、足利義教から偏諱を授かり、教景と名乗った。1463年に84歳で死去した。
補足:同名の子孫に朝倉宗滴がいる
筒井順覚
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 53 | 69 | 72 | 68 | 能吏 | 法律 | 捕縛 | 智嚢 | 嚮導 | 鎮静 | 鼓舞 | 治療 | 太学 | 礼教 | ||
【ツツイジュンカク】
南北朝時代から室町時代の人物。興福寺衆徒。子孫に筒井順慶。
南北朝時代に興福寺の沙汰衆として力をつけ、将軍足利義満に接近した。
後南朝方との戦いでは一度敗れるも、足利義満の援護を受けて逆転し、
その勢力を伸ばした。のちに6代将軍足利義教を暗殺しようとした楠木光正を捕えた
と伝わる。1422年に死没。また1434年の大和永享の乱の際に戦死したとも言われている。
赤松満祐
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 55 | 61 | 46 | 44 | 53 | 名声 | 怒髪 | 高慢 | 短慮 | 惰弱 | 足止 | 挑発 | 牽制 | 侵略荒廃 | 我道 | ||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 61 | 46 | 44 | 53 | 名声 | 怒髪 | 高慢 | 短慮 | 惰弱 | 足止 | 挑発 | 牽制 | 侵略荒廃 | 我道 | ||
【アカマツミツスケ】
守護大名赤松則祐の孫で、赤松義則の長男。嘉吉の乱の中心人物の一人。
4代将軍足利義持の不興を買って領土没収の憂き目に遭いかけるが未遂に終わる。
6代将軍足利義教とは、当初良好な関係を築くも、諸大名への強硬な態度に不安を募らせ
病を得て出仕を拒否したため、侍所別当を解任された。のち弟の則繁、息子の教康と謀議し、
嘉吉の乱を引き起こしたが、討伐軍を率いた山名宗全に敗れて自害した。
※嘉吉の乱の実行犯と目されやすいが、同時期の満祐は老齢で病を得て出仕しておらず、義教殺害現場にも同行していない。
赤松教康
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 70 | 76 | 61 | 58 | 言毒 | 動員 | 地利 | 胆力 | 果敢 | 鉄壁 | 足止 | 鼓舞 | 混乱 | 奮戦 | 墨守研究 | 我道 |
【アカマツノリヤス】
守護大名赤松満祐の長男。嘉吉の乱の中心人物の一人。
老齢で病を得ていた父満祐に変わり、叔父の赤松則繁とともに中心的な役割を果たす。
6代将軍足利義教暗殺の際には言葉巧みに義教を自邸に引き込んで暗殺した。
嘉吉の乱では大手口から迫る幕府軍相手に幾度も奮戦するが、最終的には敗れる。
乱後、舅の大河内顕雅を頼るが拒否され、自刃に追い込まれた。
赤松則繁
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 87 | 13 | 31 | 37 | 猛者 | 豪傑 | 強奪 | 長駆 | 粗暴 | 震天動地 | 大喝 | 罵声 | 激励 | 突撃 | 侵略荒廃 | 我道 |
【アカマツノリシゲ】
守護大名赤松則祐の孫で、赤松義則の五男。嘉吉の乱の中心人物の一人。
武勇に優れた人物ながら粗暴な性格で、花見の席で家臣を殺害。4代将軍足利義持から
切腹を言い渡されるも、逐電して隠棲していた。義持死後に復帰し、
嘉吉の乱では長兄である赤松満祐や、甥の赤松教康に6代将軍足利義教の暗殺を提案し
実行犯の1人となる。のちに討伐軍の山名宗全に敗れて李氏朝鮮にわたり、そこでも略奪を繰り返した。
1448年、大内教弘に敗れて遁走。潜伏先を幕府軍に包囲され、自害した。
飯尾為種
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 12 | 6 | 85 | 87 | 72 | 人脈 | 強運 | 論客 | 能吏 | 振興 | 鎮静 | 鼓舞 | 地域振興 | 王道 | |||
【イイノオタメタネ】
室町時代の人物。幕府奉公人。
4代将軍足利義持から8代将軍足利義政の5代に仕え、
主に幕府奉行衆として活躍。興福寺や東大寺の争乱鎮定や、
各大名の折衝を任された。6代将軍足利義教からの不興を買ったが
処罰されることなく、嘉吉の乱や禁闕の変の後事も託されている。
応仁の乱を見ることなく1458年に死去した。
僧侶・在野
満済
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 28 | 15 | 86 | 84 | 90 | 仁政 | 諫止 | 王佐 | 沈着 | 興望 | 鎮静 | 鼓舞 | 太学 | 王道 | ||||
【マンサイ】
室町時代の僧。権大納言・今小路基冬の子で足利義満の猶子となり
応永2年 (1395年)に出家して三宝院25世門跡・醍醐寺第74代座主となる。
学識人格に秀でて三宝院門跡としては初の准三后となり義満から
第6代将軍・義教までの将軍の元で政治顧問として活躍し黒衣の宰相と言われた。
宗純(一休)
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1394 | 1481 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 9 | 23 | 92 | 57 | 88 | 妙算 | 詩想 | 果敢 | 名声 | 癇癪 | 地域振興2 | 我道 | ||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 9 | 23 | 92 | 57 | 88 | 洞察 | 詩想 | 論客 | 名声 | 妙算 | 天地通察 | 鎮静 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 地域振興 | 我道 |
【ソウジュン(イッキュウ)】
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧。京都の人。後小松天皇の落胤と伝わる。母は一説には楠木正澄の娘。幼名は千菊丸。子に岐翁紹禎。
受戒時の名は周建で、後に宗純と改名した。一休は道号、または字。狂雲子などを号した。皇族としての扱いから、宮内庁などは「宗純王」と表記する。
6歳の時、安国寺の像外集鑑に入門・受戒し、幼少にして漢詩の才能を評価された。
17歳の時、謙翁宗為の弟子となる。4年後師匠が死去し、自殺未遂を起こした。
1415年頃、大徳寺の華叟宗曇の弟子となり、1420年、悟りを開くが、華叟宗曇の印可状を辞退し寺を出た。
大徳寺派の政争を嫌い、身なりを整えず、漢詩、狂歌、連歌、書画を楽しむ生活を送り、また飲酒・肉食・妻帯や男色など破戒な行動が「風狂」と評された。
これらの言動は、仏教界への風刺だったといわれている。
兄弟子に当たる養叟宗頤と対立し、『自戒集』で宗頤一派を強く非難した。1456年、廃寺となっていた妙勝庵を復旧し、隣に酬恩庵を築いて住居とした。
応仁の乱で大徳寺が焼失すると、1473年室町幕府が再建し、翌年、後土御門天皇の綸旨で大徳寺の住持(じゅうじ。住職)となった。
しかし大徳寺には住まず、酬恩庵(これも再建)から通勤していた。弟子に岐翁紹禎(実子)・没倫紹等・尾和宗臨(堺の商人)らがおり、
また智蘊(蜷川親当)などとの親交が知られる。1481年、マラリアで死去。漢詩集『狂雲集』。
補足:のち一休諸国咄などに伝説化され、小説・戯曲・アニメなどの題材となった。
親愛武将:謙翁宗為、蜷川親当、本願寺蓮如
嫌悪武将:養叟宗頤
※岐翁紹禎は破門されたとも。
蜷川親当
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 1448 | 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 30 | 59 | 70 | 72 | 67 | 詩想 | 法律 | 礼教 | ||||||||||
【ニナガワチカマサ】
室町時代の武士、幕臣、連歌師。丹波蜷川城主。新右衛門。法名は五峰とされ、雅名は智蘊。親俊の子。姉は伊勢貞国の妻。
子に親元、岩松明純室。
政所執事・伊勢氏の被官で、政所代(政所代理)を世襲するようになった。
足利義教の政所公事、京都沙汰人を務め、義教の横死後出家し、智蘊と号した。
和歌を清巌正徹に、連歌を朝山梵灯庵に学んだ。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれ、宗祇に連歌七賢の一人に挙げられた。
『親元日記』には、一休宗純と交流があったことが記されている。
アニメ『一休さん』に登場する蜷川新右ェ門のモデルだが、史実で一休と交流があったのは晩年になってからである。
親愛武将:伊勢貞国、清巌正徹、朝山梵灯庵、一休宗純
雪舟等楊
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 8 | 8 | 85 | 84 | 89 | 文化 | 振興 | 嚮導 | 眼力 | 学者 | 鎮静 | 鼓舞 | 太学 | 礼教 | ||||
【セッシュウトウヨウ】
室町時代の禅僧、画家。雪舟は号、諱は等楊。
10歳の頃に相国寺に入って禅の修行をつみ、のちに
周防に移って大内教弘の庇護を受けた。1467年に遣明船で
明へ渡航して水墨画を学び、その後数々の作品を手掛け
日本水墨画風を確立した。1506年に死没。現在は6作品が国宝に指定されている。
補足:若年期には拙宗と称していた
後南朝(南朝残党 1392~1499)
南朝の皇統の子孫や、南朝遺臣による南朝再興運動で生じた勢力。1392年に明徳の和約で一応の南北朝合一を見たものの、
その際の条件として鎌倉時代以前の両統迭立が条件に盛り込まれていた。しかし北朝系である持明院統は室町幕府3代将軍足利義満の死後、
これを完全に無視したため、再び南朝派による抵抗や反乱が見られるようになる。1414年には早くも南朝最後の天皇であった
後亀山上皇を奉じた北畠満雅による反乱が発生。1428年に持明院統の称光天皇が薨去して嫡流が断絶すると、南朝の残党達は皇位を巡って激しく抵抗した。
この事例を契機に、主として北畠、楠木といった南朝遺臣達は断続的に抵抗を続け、ここに嘉吉の乱の赤松家や応仁の乱の畠山家らが合流したこともあったが、
最終的に1499年を境に活動は途絶えた。それから450年後、太平洋戦争直後に愛知県出身の熊沢寛道が後南朝の末裔を称し、一時的に人々の注目を集めたが、やがてそれも下火になっていった。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
聖承
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 31 | 13 | 54 | 56 | 79 | 扇動 | 名声 | 人脈 | 消沈 | 功名 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 政令徹底 | 覇道 | ||
【セイショウ】
室町時代の皇族。小倉宮。後亀山天皇の孫で、後醍醐天皇の玄孫。
聖承は出家後の法名で、俗名は不詳である。
祖父、後亀山上皇の遺志を継ぎ、南朝再興運動を起こす。
伊勢国司である北畠満雅を頼り、鎌倉公方の足利持氏と
連動した反乱を企図するが、上杉憲実らの諌止もあって足利持氏は
中立を決め込み、北畠満雅の敗死によって敗れた。失意の中幕府に降伏し、1443年死去した。
補足:病死であるとの見方が有力だが、毒殺説も存在する。1443年に禁闕の変が発生し、聖承の息子が関与したためとも言われる。
姉小路尹綱(古川尹綱)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 59 | 58 | 47 | 52 | 67 | 地利 | 昂揚 | 強奪 | 功名 | 強欲 | 斉射 | 牽制 | 激励 | 方円強化 | 割拠 | ||
【アネガコウジタダツナ/フルカワタダツナ】
室町時代の公家、武将。飛騨姉小路家の一族。
子にあたる古川尹家は姉小路家の事実上の当主であった。
南北朝の動乱では南朝方に与し、越中国に勢力を伸ばすが敗れて捕らわれる。
南北朝合一後は斯波家に味方したが、山科家との所領争いをきっかけに幕府と対立。
南北朝合一の不履行などをきっかけに反乱を起こすが、足利義持が派遣した討伐軍と戦い、激戦の末に敗死した。
北畠満雅
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 71 | 64 | 69 | 75 | 召募 | 動員 | 再起 | 一心 | 堅牢 | 突撃 | 混乱 | 鼓舞 | 奮戦 | 急襲 | 鋒矢強化 | 割拠 |
【キタバタケミツマサ】
室町時代の武将。北畠顕泰の次男。北畠親房の曾孫。
明徳の和約をきっかけに室町幕府にくだり、足利義満から偏諱を授かった。
応永の乱で長兄の北畠満泰が戦死したため、北畠家の家督を継ぐ。
足利義満死後、明徳の和約が履行されないことを受け、後南朝の中心勢力として躍動。
大和国人や楠木党と連携して幕府に反乱を起こして幕府軍を食い止め和睦に持ち込む。
1428年、小倉宮聖承を奉じて、鎌倉公方の足利持氏と連携して反乱を起こすが、持氏は消極的な対応に終始。
室町幕府軍の前衛を撃退するが、山名宗全率いる室町幕府本軍に敗れて戦死した。
大河内顕雅(北畠顕雅)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 63 | 77 | 71 | 62 | 補佐 | 教化 | 地利 | 文化 | 教唆 | 斉射 | 牽制 | 鼓舞 | 奮戦 | 鎮静 | 墨守研究 | 割拠 |
【オカワチアキマサ】
室町時代の武将。北畠顕泰の三男。北畠親房の曾孫。
兄、北畠満雅を補佐して大河内城を守り、大河内北畠氏の祖となった。
後南朝勢力の中心として兄とともに後南朝再興運動を起こし、
室町幕府の軍勢と戦った。兄が山名宗全に敗れて敗死すると、7歳の
甥、北畠教具を支え、室町幕府に降伏して北畠家の存続をはかった。
1441年に隠居し、嘉吉の乱で落ちのびてきた娘婿の赤松教康を自害に追い込んでいる。
楠木正威
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 55 | 66 | 31 | 58 | 強奪 | 火攻 | 果敢 | 賊徒 | 悪名 | 斉射 | 混乱 | 鼓舞 | 魚鱗強化 | 割拠 | ||
【クスノキマサタケ】
室町時代の武将。楠木正顕の三男で、楠木正成の玄孫。
三男であったが、伊勢楠木家を創始した楠木正顕の差配により
北伊勢楠山城の城主となった。のちに後南朝の再興運動に
加わり、禁闕の変では実働部隊を率いた。室町殿襲撃の虚報を流し、
後花園天皇の御所を襲撃して宝剣と神璽を強奪。のちに比叡山に籠って戦うが、
幕府軍を率いてきた畠山持国に敗れて戦死した。
西陣南帝
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 40 | 21 | 33 | 48 | 65 | 動員 | 潜在 | 人脈 | 消沈 | 賊徒 | 鼓舞 | 地域巡回 | 割拠 | ||||
【ニシジンノナンテイ】
室町時代の皇族。皇統は諸説あるが、小倉宮と言われており、弟宮がいたとされる。
応仁の乱のさなか、紀伊で反乱を起こし、周辺勢力を味方につけた。
のちに応仁の乱で東軍の細川勝元が朝廷の後土御門天皇を味方につけると
西軍の山名宗全らの手によって擁立され「西幕府」の頂点となる。
しかし宗全が亡くなると応仁の乱は和睦にむかいはじめ、西陣南帝は各地を放浪し、
1499年伊勢盛時(北条早雲)の手によって相模へ送られたことを境に消息不明となった。
補足:没年は不詳。生年は同時代史料から1454年の生まれとされている。
補足:俗名は不詳。昭和時代に後南朝の末裔を称した熊沢寛道によれば「信雅王(のぶまさおう)」であったとする
補足:相模に行くまでの間には越前にも向かっていたと言われている。
補足:系譜についてはかなり不透明である。小倉宮聖承の息子、教尊の代で小倉宮は断絶したとされる。が一次史料で「小倉宮御末、岡崎前門主御息」「西方新主は小倉宮御息」とされており聖承の近親者という説も。