注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 室町時代 鎌倉府・鎌倉公方 (1351~1441)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
鎌倉幕府打倒に功のあった足利尊氏の弟、足利直義に、後醍醐天皇の皇子、成良親王を奉じさせて創設された鎌倉将軍府が起源。
鎌倉将軍府の段階で既に足利一門が政権中枢を担っていたものの、中先代の乱とのちの建武の乱で事実上機能を停止させるに至る。
のちに1336年、建武式目が制定されるも、この段階では幕府機構を京都室町か鎌倉に置くかは明言されておらず、
足利直義はむしろ鎌倉への幕府設置を構想していたとされている。しかし幕府は京都室町に置かれたため、足利直義は
尊氏の嫡男、足利義詮を鎌倉におき、上杉憲顕を関東執事として、鎌倉に新体制を築いた。
その後、観応の擾乱で足利尊氏と足利直義が対立し、直義が死去すると足利尊氏は自身の四男である足利基氏を直義の養子という形で
鎌倉の新体制を相続させ、さらに領土支配の権限を基氏に与えた。今日の鎌倉府はここから始まったとされており、鎌倉公方(当時は鎌倉殿)の
歴史はここから始まった。以後、足利基氏の係累が鎌倉府の頂点である鎌倉公方として統治を開始した。
鎌倉府の支配体制は、足利基氏の係累が鎌倉公方となり、その下に関東執事であった上杉氏が関東管領として統治するもので、
その支配領域は全盛期で関東八州に加えて、信濃、甲斐、伊豆、出羽、陸奥を加えた13か国存在した。しかし発足の起源や足利一門が
多く携わっていることなどから、中央政権である室町幕府との対立も多く、足利基氏の子である足利氏満の代になると早くも対立の火種が発生する。
足利氏満の孫、足利持氏の代になると対立は頂点に達し、室町幕府の6代将軍に足利義教が就任したことから公然と反発、やがて永享の乱を起こした。
乱は足利持氏とその嫡男、足利義久の敗死で終了し、持氏の遺児を擁立した結城氏朝ものちに結城合戦で討伐され、鎌倉公方はいったん断絶する。
勝利した足利義教は自身の次男である足利義制を次期鎌倉公方にと考えるが、結城合戦の翌年に嘉吉の変で暗殺され、この計画は義教の死によって一旦頓挫した。
のちに鎌倉公方は、足利持氏の遺児で信濃に退避していた足利成氏の手によって再興され、一旦動乱は収束する。しかし成氏は父の殺害に関東管領である
上杉氏が加担していたことを恨んだとされ、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こした。一方、室町幕府8代将軍である足利義政は、父の遺志を尊重して
自身の兄である足利政知を関東に送り込み、のちに「堀越公方」と呼ばれた。足利成氏も古河に本拠を移して「古河公方」と呼ばれるようになり、鎌倉公方は消滅した。
南朝 → 建武の新政(正中の変~建武の乱) 、南北朝時代(日本・南朝) 、南北朝時代(日本・南朝 賀名生政権)
北朝 → 南北朝時代(日本・北朝(尊氏派)) 、南北朝時代(日本・北朝(直義派))、南北朝時代(日本・北朝(直冬党)) 、南北朝時代(日本・北朝 花の御所)
北条 → 鎌倉時代(正中・元弘の変)、中先代の乱(建武政権)
室町 → 室町時代、 鎌倉府・鎌倉公方
創作 → NHK大河ドラマ、漫画2
足利成氏以降の古河公方などは室町時代(享徳・長享の乱)を参照。
室町幕府については室町時代、室町時代(応仁・文明の乱)、室町時代(末期)を参照。
鎌倉公方
足利基氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 69 | 76 | 83 | 88 | 慈悲 | 楽奏 | 文化 | 名声 | 虚弱 | 太学 4 | 王道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 69 | 66 | 73 | 78 | 慈悲 | 楽奏 | 文化 | 名声 | 虚弱 | 鼓舞 | 牽制 | 鎮静 | 太学 | 王道 | ||
| 75 | 69 | 66 | 73 | 78 | 慈悲 | 楽奏 | 文化 | 名声 | 虚弱 | 斉射 | 牽制 | 鎮静 | 鼓舞 | 足止 | 太学 | 王道 |
【アシカガモトウジ】
南北朝時代の人物。足利尊氏の四男で義詮の弟。のちに足利直義の養子となり初代鎌倉公方となる。
はじめ兄の義詮の後任として、叔父にあたる足利直義の側近くに置かれた。観応の擾乱で直義が没落すると
そのまま鎌倉に居座り、鎌倉府の重鎮として足利幕府を補佐しつつ、独自の勢力を築いた。
その後は関東に居座る北条時行・新田義興ら南朝勢力と抗争を続け、これを滅ぼした。
薩埵山体制と呼ばれる鎌倉府独自の体制を築き上げ、鎌倉府の祖となったが、後に
畠山国清の失脚、宇都宮氏綱や関東管領となった上杉氏との権力対立などもあり、
不穏分子を抱えたまま28歳で早逝した。武勇の誉れ高く、教養人であったと言われている
親愛武将:足利尊氏、足利直義
足利氏満
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 58 | 70 | 83 | 48 | ||||||||||||
| 64 | 58 | 70 | 83 | 48 | 召募 | 強欲 | 挑発 | 急襲 | 三令五申 | 覇道 | ||||||
| 64 | 58 | 70 | 83 | 48 | 召募 | 動員 | 名声 | 強欲 | 高慢 | 挑発 | 急襲 | 三令五申 | 覇道 | |||
| 74 | 68 | 70 | 83 | 68 | 召募 | 動員 | 名声 | 強欲 | 高慢 | 挑発 | 急襲 | 突撃 | 激励 | 三令五申 | 覇道 | |
| 74 | 68 | 70 | 71 | 68 | 召募 | 動員 | 名声 | 強欲 | 高慢 | 挑発 | 急襲 | 突撃 | 激励 | 三令五申 | 覇道 | |
【アシカガウジミツ】
室町時代の武将。父は足利基氏。足利尊氏の孫。従兄弟に足利義満。第2代鎌倉公方。
父の早逝により9歳で鎌倉公方に就任。父の勢力を引き継ぎつつ、一方で武蔵平一揆に対し
若干10歳で出陣し、鎮圧させる。中央幕府で政変が生じるとしばしば独立を志し、
当時の将軍であった足利義満への謀叛を考慮するが、側近であった上杉憲春の死によって頓挫した。
その後も足利義満ら幕府中央政権に対し反発路線をしき、足利将軍家と結びつきの強い小山氏を滅ぼして北関東に覇権を唱えた。
関東から出羽・陸奥にいたるまでの強大な権力を有したが、このことは将軍家の不信感、対立を堅実なものとなり、
足利氏満の死後、孫の持氏になって幕府将軍家と鎌倉公方家の全面戦争を引き起こす要因となった。1398年に没した。
足利満兼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 71 | 35 | 53 | 66 | 動員 | 召募 | 短慮 | 強欲 | 悪名 | 挑発 | 罵声 | 牽制 | 侵略荒廃 | 覇道 | ||
【アシカガミツカネ】
室町時代の武将。父は足利氏満。第3代鎌倉公方。
弟の足利満直、足利満貞を南奥州の稲村と篠川に向かわせ
稲村御所と篠川御所を設置して奥州支配を強めるが、
伊達政宗(大膳大夫)や大崎詮持との対立を呼び込む。
応永の乱の際には今川了俊や大内義弘と連携をとって
足利義満を討とうとしたが連携を欠いて失敗した。
32歳で早逝したが、息子の足利持氏らは永享の乱で室町幕府に反乱を起こすこととなる。
足利持氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 71 | 28 | 30 | 35 | 怒髪 | 果敢 | 直情 | 粗暴 | 高慢 | 斉射 | 大喝 | 激励 | 侵略荒廃 | 我道 | ||
【アシカガモチウジ】
室町時代の武将。第4代鎌倉公方。足利尊氏の四男、足利基氏の曾孫。
足利義量、義持が相次いで死去すると空位になった将軍の座を望むものの義持の弟たちからくじ引きで選ぶことになり叶わなかった。
その結果、新将軍・義教に対立する姿勢を固め改元された後も古い元号を使い続ける、嫡子・賢王丸の元服時に将軍から偏諱をもらわないなどの反逆行動を取るようになる。
上杉憲実が出奔すると軍を差し向けるも救援に向かう幕府軍と衝突。敗北すると憲実の助命嘆願も叶わず自害した。
足利一門、分家
足利満直
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 45 | 29 | 66 | 43 | 57 | 動員 | 名声 | 扇動 | 強欲 | 優柔 | 牽制 | 足止 | 歳出改善 | 割拠 | |||
【アシカガミツナオ/アシカガミツタダ】
南北朝・室町時代の人物。足利氏満の次男とされる。
兄である足利満兼の命により、陸奥国に派遣され、篠川御所を
拠点とした。伊達政宗の乱や上杉禅秀の乱より反鎌倉公方の
姿勢を取り、幕府や諸勢力と関係を持って鎌倉公方と対立する。
永享の乱では甥の足利持氏討伐のため、6代将軍足利義教と協調して幕府方として参陣。
しかし1440年結城合戦で結城氏朝に同調した石川持光や畠山盛宗らに
篠川御所を攻囲され、自刃した。満直の死をもって、鎌倉府の東北支配は失敗に終わった。
足利満隆
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 38 | 27 | 53 | 64 | 60 | 動員 | 教化 | 富豪 | 強欲 | 軽率 | 鼓舞 | 挑発 | 墨守研究 | 割拠 | |||
【アシカガミツタカ】
南北朝・室町時代の人物。足利氏満の三男。
室町幕府3代将軍足利義満から偏諱を授かり満隆と名乗る。
兄の満兼が急死すると、甥で鎌倉公方となった幼少の足利持氏を補佐し、
莫大な権勢を築いた。持氏が長じて親政を開始すると、失脚した
上杉禅秀や足利義満の子である足利義嗣と語らって挙兵する。
しかし1417年幕府が派遣した今川範政ら討伐軍に敗れて自刃した。
足利満貞
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 29 | 16 | 57 | 68 | 55 | 論客 | 動員 | 人脈 | 動転 | 功名 | 鼓舞 | 混乱 | 地勢研究 | 割拠 | |||
【アシカガミツサダ】
南北朝・室町時代の人物。足利氏満の四男とされる。
兄、足利満兼の命により陸奥国に派遣され稲村御所を形成した。
しかし伊達政宗の乱を抑えきることができず、上杉禅秀の介入を許すと
禅秀と対立した。のちに鎌倉公方と室町幕府の本格対立が始まると、
甥で鎌倉公方の足利持氏を補佐し、稲村御所を退去して鎌倉府に馳せ参じて持氏に重宝された。
永享の乱でも持氏に味方するが、敗北し自刃した。
畠山国清
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 63 | 81 | 74 | 33 | 封殺 | 改修 | 高慢 | 足止 | 業火 | 墨守研究 | 名利 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 63 | 81 | 74 | 33 | 封殺 | 改修 | 長駆 | 動員 | 高慢 | 足止 | 業火 | 斉射 | 混乱 | 牽制 | 墨守研究 | 名利 |
【ハタケヤマクニキヨ】
南北朝時代の武将。畠山高国の甥。父は畠山貞国、弟に畠山義深、甥に畠山基国。
足利尊氏に従い紀伊・河内国守護を歴任し、足利基氏が鎌倉公方となった後は
関東執事及び伊豆・武蔵守護として補佐し、鎌倉に攻め上がろうとした南朝の新田義興を謀殺する功績を挙げた。
しかし関東武士の支持は低く中央での政争にも不利な立場となり失脚、伊豆に立て篭り反乱を起こすも敗れて逃亡、或いは殺害されたという。
嫌悪武将:仁木義長
大崎直持(斯波直持)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 71 | 63 | 67 | 68 | 長駆 | 地利 | 名声 | 山戦 | 動員 | 突撃 | 激励 | 牽制 | 急襲 | 地域巡回 | 割拠 | |
【オオサキタダモチ】
南北朝時代の武将。斯波家兼の長男。斯波直持とも。
足利直義から偏諱を受けたが、基本的に父である斯波家兼に従い、
足利義詮に仕え、観応の擾乱では去就不明ながら、乱鎮圧以後も義詮に従った。
その後父とともに奥州に下向し、1356年に亡くなった父に代わって
奥州管領を引き継ぐ。その後は地盤を固め、嫡男の詮持に実権を譲った。
大崎家の初代当主と言われている。
最上兼頼(斯波兼頼)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 58 | 77 | 84 | 73 | 文化 | 法律 | 築城 | 智嚢 | 人脈 | 治療 | 鼓舞 | 鎮静 | 地域振興 | 割拠 | ||
【モガミカネヨリ】
南北朝時代の武将。斯波家兼の次男。斯波兼頼とも。
足利尊氏、足利義詮に仕え、北朝の奥州戦略に伴い
父、斯波家兼とともに奥州へと下向する。
鎌倉公方の足利氏満や兄の大崎直持と協力して
南朝方の反乱を鎮圧する傍ら、婚姻政策や養子縁組を駆使して地盤を築き、
多数の寺社を建立、山形城を築城して山形の基礎を築いた。
後年、最上屋形を称し最上家の初代当主となる。
一色直兼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 59 | 69 | 57 | 61 | 動員 | 人脈 | 名声 | 消沈 | 惰弱 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 三令五申 | 割拠 | ||
【イッシキタダカネ/イッシキナオカネ】
室町時代の人物。足利家一門。一色直氏の孫。
足利持氏の一門重臣として仕え、主君持氏が上杉憲実と
対立すると、これを討伐すべく持氏の命で鎌倉軍を率いて戦った。
しかし足利持氏が永享の乱で足利義教に討伐されると、
味方の離反が相次ぎ、自らも幕府軍へ降伏しようとするが許されず、自害した。
関東管領とその一族
上杉憲将
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 66 | 55 | 56 | 66 | 召募 | 輿望 | 名声 | 怒髪 | 昂揚 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 地域巡回 | 割拠 | ||
【ウエスギノリマサ】
南北朝時代の武将。上杉憲顕の長男。
父に従い足利直義に仕えた。観応の擾乱では
足利直義方として貢献。諏訪直頼らとともに高師冬を滅ぼしたが、
足利直義が足利尊氏と対立した際、さった峠の戦いで足利尊氏に敗れた。
のちに父の代理として武蔵守護代、越後守護代を務めたが、父に先んじて早逝した。
上杉能憲
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 59 | 79 | 61 | 53 | 58 | 怒髪 | 猛者 | 果敢 | 頑健 | 文化 | 斉射 | 激励 | 大喝 | 地域巡回 | 割拠 | ||
【ウエスギヨシノリ】
南北朝時代の武将。上杉憲顕の三男。
伯父、上杉重能の養子となるが、伯父が高師直と対立して
配流され死去すると、師直と激しく対立する。観応の擾乱では
足利直義に与して高師冬を滅ぼし、観応の擾乱で直義が足利尊氏と
和睦すると、高師直、高師泰を三浦八郎左衛門らを率いて襲撃し、これを暗殺した。
のちに尊氏から流罪を言いつけられて遁走するが、尊氏没後に復帰し、のちに父から関東管領を譲られた。
補足:死没年は1378年である。
上杉朝宗
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 72 | 78 | 75 | 77 | 寡欲 | 護衛 | 補佐 | 諌止 | 沈着 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 鎮静 | 治療 | 縦横術 | 王道 |
【ウエスギトモムネ】
南北朝・室町時代の人物。犬懸上杉家の出身で、上杉憲房の孫。息子に上杉氏憲。
父を早くに亡くしたため、家臣に養育され、長じると鎌倉公方足利氏満に仕えた。
のちに兄の上杉朝房から家督を譲られ犬懸上杉家の当主となり、氏満に
近侍して小山義政の乱や小田氏の乱で総大将をつとめる。のちに関東管領に
就任。足利満兼が大内義弘の乱に乗じようとした時はこれを諫めた。1414年に81歳で死去した。
上杉氏憲(上杉禅秀)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 74 | 86 | 75 | 83 | 名声 | 求心 | 動員 | 補佐 | 柱石 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 73 | 86 | 81 | 83 | 扇動 | 求心 | 名声 | 召募 | 動員 | 叛転必殺 | 突撃 | 急襲 | 鼓舞 | 混乱 | 侵略荒廃 | 我道 |
【ウエスギウジノリ/ウエスギゼンシュウ】
南北朝・室町時代の人物。犬懸上杉家の出身。「上杉禅秀」とも。関東管領。
鎌倉公方足利満兼を支え、幕府方として対立した伊達政宗らの討伐に大きく貢献した。
その後は有力氏族と血縁関係を築きつつ、政軍両面で鎌倉府を支え続けたが、
満兼の子である持氏の代になって鎌倉府と対立し、乱を起こした。有力氏族を
多数味方につけ、鎌倉を占領して鎌倉公方を追い落として奮戦したが、
4代将軍足利義持の派遣した追討軍に敗れ、鶴岡八幡宮で自刃した。
※後年「上杉禅秀の乱」と呼ばれるこの戦いは、甲斐の武田氏や関東の千葉氏、宇都宮氏など多くの有力勢力が彼に同調した。
上杉房方
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 70 | 62 | 65 | 68 | 人脈 | 名声 | 動員 | 輿望 | 消火 | 突撃 | 激励 | 牽制 | 鎮静 | 鯨波 | 地域振興 | 割拠 |
【ウエスギフサカタ】
南北朝時代から室町時代の武将。上杉憲方の子。
叔父、上杉憲栄の跡を継いで越後守護となる。
1400年に室町幕府の評定衆に任命され、幕政に参加。
上杉禅秀の乱の際には、同族の上杉憲基を庇って足利持氏らに
味方し、一軍を率いて乱鎮圧に貢献した。のちに三男の
上杉憲実を関東管領に据え、末子の上杉清方に上条上杉家を興させ勢力を拡大した。1421年死去。
上杉憲実
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 67 | 52 | 81 | 77 | 75 | 諫止 | 文化 | 教化 | 特使 | 激励 | 鎮静 | 衝車 | 井欄 | 施設開発3 | 礼教 | |||
| 67 | 52 | 81 | 77 | 75 | 諫止 | 文化 | 教化 | 特使 | 史官 | 鼓舞 | 鎮静 | 衝車 | 治療 | 牽制 | 斉射 | 施設開発 | 礼教 |
【ウエスギノリザネ】
室町時代の武将。関東管領。上杉房方の三男。
越後上杉氏の出身で従兄弟である山内上杉氏の上杉憲基が死去した事により
山内上杉氏を継ぎ、同時に憲基の関東管領職も継いだ。鎌倉公方足利持氏を補佐したが、
持氏は将軍足利義教と対立して一触即発の状況となり両者の関係改善に奔走したが果たせずに
永享の乱においてはやむなく義教側に付き、義教の命で持氏を自害に追いやった。
文芸に通じて足利学校の設立や金沢文庫の再興に尽力している。
諸大名・家臣
長尾景恒
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 73 | 59 | 55 | 76 | 山戦 | 長駆 | 護衛 | 名声 | 調練 | 急襲 | 突撃 | 激励 | 雁行強化 | 割拠 | ||
【ナガオカゲツネ】
南北朝時代の武将。越後長尾家の祖。
長尾景忠の親族で、景忠の弟とも従兄弟とも言われる。
景忠の後を継いで越後守護代となり、上杉憲顕に従って各地を転戦。
観応の擾乱では憲顕とともに足利直義を支持し、武蔵野合戦では新田義宗ら
南朝勢力と協力して足利尊氏と戦うも敗れる。尊氏死後、足利義詮によって
憲顕ともども許される。のちに足利基氏に仕え、越後守護代に復帰した。1367年死去した。
河越直重
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 65 | 48 | 53 | 63 | 動員 | 富豪 | 徴税 | 浪費 | 高慢 | 突撃 | 罵声 | 大喝 | 侵略荒廃 | 割拠 | ||
【カワゴエタダシゲ】
南北朝時代から室町時代の武蔵国人。
足利直義から偏諱を授かり元服するが、観応の擾乱では
足利尊氏方につき、足利基氏を支えた。華美な軍装を
揃えた「ばさら大名」で、武蔵平一揆と呼ばれた軍勢を率いて
南朝方との戦いに貢献する。相模守護に就任して足利基氏を支えたが、
足利尊氏の死後に復帰した上杉憲顕と対立し、反乱を起こすが敗れて伊勢に逃走した。生没年は不詳。
補足:華美な軍装で上洛した際は京で注目されたが、その夜盗賊に入られ刀剣や資財を強奪されたという。
補足:父は河越高重で、鎌倉幕府北条高時に仕えていたが元弘の乱で後醍醐天皇方に寝返り、以後は足利直義に従っていた。
蘆名直盛
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 58 | 67 | 70 | 73 | 再起 | 強運 | 築城 | 強奪 | 長駆 | 牽制 | 鼓舞 | 斉射 | 戸籍整備 | 割拠 | ||
【アシナタダモリ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。
蘆名盛宗の子と伝わるが異説もある。
中先代の乱で父と兄が北条時行に与して戦死したため家督を継ぐ。
観応の擾乱では足利直義に味方し、直義の死後は南朝に与して
足利尊氏と戦うも敗北。会津へ遁走した。その後鎌倉府に従属しつつも
会津で勢力を伸ばし、東黒川館を築いて会津蘆名氏の祖となった。
伊達政宗(藤原政宗、大膳大夫)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 87 | 75 | 73 | 84 | 召募 | 地利 | 扇動 | 文化 | 長蛇強化 | 我道 | ||||||
| 81 | 77 | 79 | 78 | 85 | 召募 | 地利 | 扇動 | 文化 | 名声 | 斉射 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 足止 | 長蛇強化 | 我道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 77 | 79 | 78 | 85 | 召募 | 地利 | 扇動 | 文化 | 名声 | 龍驤勇戦 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 足止 | 長蛇強化 | 我道 |
【ダテマサムネ】
南北朝時代、室町時代の武将。伊達氏の出。「大膳大夫政宗」とも。
1377年に家督を相続し、鎌倉公方と関係を密にする長井氏を攻め滅ぼした。
足利義満の叔母を正室とし、幕府よりの姿勢を示して鎌倉公方と対立。
大崎詮持、蘆名満盛と共謀して鎌倉公方に反乱を起こした。乱は長期化し、
上杉禅秀率いる大軍に大損害を与えたが、時勢に恵まれず降伏した。
南北朝の動乱で衰退していた伊達氏中興の祖と呼ばれる。
※戦国末期に活躍した伊達政宗は、彼にあやかって「政宗」と名づけられた。
宇都宮氏綱(藤原氏綱)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 61 | 55 | 57 | 64 | 動員 | 調達 | 運搬 | 召募 | 消沈 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 鎮静 | 運搬開発 | 割拠 |
【ウツノミヤウジツナ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。宇都宮公綱の子。本姓は「藤原」。
南北朝の動乱では父と別れて北朝方につき、足利尊氏から「氏」の
偏諱を授かった。観応の擾乱では一貫して尊氏方につき、
関東で挙兵して薬師寺公義と合流、足利尊氏に増援を送って乱の帰趨を制した。
足利基氏の薩埵山体制の中心となるが、足利尊氏の死後に復帰してきた
上杉憲顕と対立。芳賀禅可とともに乱を起こすも敗北する。
基氏死後、再び反乱を起こすが足利氏満に討伐されて降伏。失意の中1370年紀伊で死去した。
芳賀禅可
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 85 | 53 | 45 | 58 | 堅牢 | 不屈 | 胆力 | 一心 | 直情 | 反骨刃 | 斉射 | 激励 | 鉄壁 | 鯨波 | 雁行強化 | 割拠 |
【ハガゼンカ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。芳賀高久の子。俗名は高名。
宇都宮公綱の親族で、元弘の乱でははじめ公綱に従って
鎌倉幕府軍に属し、楠木正成らと戦った。その後公綱の子である
宇都宮氏綱を擁して北朝方に寝返り、以後足利尊氏に仕える。
観応の擾乱でも足利尊氏に属して宇都宮氏綱とともに尊氏軍の援軍として参戦し
直義との抗争に尊氏勝利を決定づけ、上野越後の守護となった。
のちに足利基氏に仕えるが、直義派だった上杉憲顕との利害対立から乱を起こして敗北。隠居した。
補足:1372年に82歳で死去したとされる。
小山義政
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 77 | 59 | 54 | 70 | 地利 | 不屈 | 怒髪 | 名声 | 功名 | 突撃 | 奮戦 | 激励 | 鉄壁 | 急襲 | 侵略荒廃 | 割拠 |
【オヤマヨシマサ】
鎌倉時代から南北朝時代の武将。小山秀朝の孫。
鎌倉府に従って上杉憲顕とともに新田氏討伐で名をあげ、
1380年には宇都宮基綱を激戦の末に敗死させた。
しかしのちに鎌倉公方であった足利氏満と対立。
3たび反乱を起こしたがいずれも鎮圧され、最期は1382年に自刃した。
結城氏朝
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 87 | 76 | 81 | 73 | 75 | 堅守 | 一心 | 堅牢 | 節約 | 改修 | 堅城鉄壁 | 突撃 | 鼓舞 | 足止 | 斉射 | 墨守研究 | 割拠 |
【ユウキウジトモ】
室町時代の武将。小山泰朝の次男。
伯父、結城満広の養子として家督を継承し、足利持氏から偏諱を授かった。
永享の乱の後、自刃した持氏の遺児である安王丸と春王丸を自城へ匿い、
北関東の宇都宮、那須氏らを中心に諸国に動員を呼びかけて室町幕府への反旗を翻した。
幕府側に寝返った篠川御所の足利満直を味方に襲撃させる一方、自身は周辺諸城の
防備を整えて幕府軍相手に籠城を選択。総勢10万と呼ばれた幕府軍相手に1年近く
抵抗を続けたが、最後は安王丸と春王丸を逃がした後、幕府軍相手に突撃して1441年に戦死した。
里見家基
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 64 | 59 | 66 | 68 | 動員 | 調練 | 嚮導 | 輿望 | 功名 | 斉射 | 激励 | 鉄壁 | 牽制 | 魚鱗強化 | 割拠 | |
【サトミイエモト】
室町時代の武将。父は里見家兼。足利持氏に仕えた。
足利持氏の奉公衆として持氏に近侍し、山入一揆の鎮圧に貢献。
南奥州の白河結城氏や陸奥の石川氏など奥州諸豪族と鎌倉公方の
仲介をつとめるなど、文武にわたって才を発揮した。しかし
主君である足利持氏が中央の足利義教と対立すると、
足利持氏に従い永享の乱に従軍。この時に戦死した。一説には
永享の乱では生存し、のちの結城合戦で自刃したとも伝えられている。