『class reunion』 (148-389)

Last-modified: 2011-12-11 (日) 20:14:28

概要

作品名作者発表日保管日
『class reunion』148-389(避難所-493)氏11/12/1011/12/11

 
 

涼宮ハルヒの訓育の続きです。
 
 
 

作品

『class reunion』

 涼宮ハルヒが不機嫌だ。

 教室の扉を開けた瞬間、そんな直感が駆動したのは第六感が場の雰囲気を感知した訳でも、未来人からの報せが速達で届けられた訳でもない。
 弓矢のように鋭い双眸が俺の正鵠を射抜こうと睥睨しているんだ。 これ以上に判りやすいバロメーターはそうないだろう。

「おはよーさん」
 普段通りを心掛け、他愛もない平凡な挨拶を試みたが、
「………………」
高皇産霊神のごとく無言で突き返されちまう始末。

 どうやら取り付く島はあちらから用意してくれないらしい。
 そりゃこちらに責任がある以上、譲歩なんて慈悲の念を乗せた救援機が来ないのは分かってる。 分かっているがこればっかりは許してもらわないと困る話だ。
 お前だってずっとツンケンしててもつまらんだろ? 誰だって溌剌とした表情で快談を展開していく方が楽しいに決まってる。
だから、許してくれないか?

 昨日の内に見繕った言い訳を手に持ち、泥で製作した頼りない渡舟に乗船して接岸を試みた。
「まだ怒ってるのかハルヒ?」
「怒ってないわよ」
 それで怒ってないと良く言えるな。
「あのアイスが不味かったからか? 俺はなかなか美味いと思ったんだが」
「怒ってない」
「だったら、何を刺々しているんだお前は?」
と、怒りの矛先が見えない振りをしたが、実の所ハルヒの機嫌が斜方投射と同じく弧を描きながら落ちていった訳は大方理解している。

 当たり前だ。
 知らなければわざわざ不機嫌なハルヒという劇薬に触るといった軽挙妄動に出るはずがない。 もし、虫の居所が悪いだけの場合、要らぬ御世話にしかならんしな。
 では、なぜ機嫌を損ねているのか? 根本的な理由。 それは、
「だから、同窓会の話を事前にしなかったことを怒ってる訳ないでしょ?」
 それを怒ってるって言わず何を怒ってるって言うんだよ。

 まあいい。
 憤怒の対策は昨夜、頭をフルに使い用意してきた。 これならハルヒだって納得してくれるはずだ。
「だがハルヒよ、そうは言うがな、」
「聞かれなかったから、って見苦しい言い逃れは聞きたくないわよ?」
 予め用意していた言い訳を未然に指摘され、牽制でアウトになった間抜けな代走の気分を味わわされる。 相変わらず勘の鋭い奴だ。
 ならば、と更なる手段を投入させてもらう。
「昨日も言ったがプライベートには首をツッコまない主義じゃなかったのか?」
 そのお蔭で、古泉はかなり助かってるはずなんだが?
「無関係な事に首をツッコむなんて無粋な真似はしないわよ」
「じゃあ、なぜ怒ってるんだよ?」
 飲酒行為を懸念してるのか? だったら安心してくれ。 停学なんてなりたかないし、そんな事を一世一代の大博打にしようとする生粋のギャンブラーはいない。
 店側にも責任が問われる以上、可能性は皆無だと思うぜ?
「そんな馬鹿がいるなら、どんな手を使ってでも行かせないわよ」
 サン・ジョルジェ城を思わせる堅牢なハルヒの守勢に然しもの信長公も感嘆の念を禁じ得ないだろうな。 籠城戦でも攻勢因子が主要となっているのは、ハルヒらしいと言うべきか。

「だったら、怒る理由は雀の涙ほどもないだろ?」
 説明した通り至って健全な会食なんだ。 不穏当な思惑を所持してるのは、昨日説明した通り約一名だけだと断言できる。
 良い加減、蒸し返した怒気を冷ましてくれないか?
「別に同窓会自体は悪くないのよ」
「それなら許してくれても、」
「勉強の予定が……あるじゃない」
 ハルヒが一番の懸案事項だと団内でも掲出し、協力してくれているんだ。 俺だって、この期に及んで文句という不純物を垂らすつもりはない。 むしろ、感謝を貨物列車にでも乗せてお前に譲与しようと考えていなくもない。
 サンベジ川でラフティングを敢行するほど困窮を極めた中間テストが、屋形船の宴会に化けたのは俺の努力以前にハルヒのお蔭様だし、期末テストは余裕を担いで闊歩できそうなのもハルヒのお蔭であるのはもはや疑い様もない事実だ。
 しかし、同窓会をやるって約束は勉強より先に契約されていたんだ。 今更、反旗を翻す行為は出来そうにない。

「期末テストまで未だ1ヶ月以上あるんだ。 開催日は土曜日なんだし、許してくれないか? 日曜日のまとめテストには支障を来すつもりは無いからさ」
「うーん……」
 さっきはプライベート云々と言ったが、あいつに指摘された通り事前に掻い摘まむ程度は伝えていれば穏便に済ませる事ができた話だ。 そこを怠ってしまったのだから俺に責任があり、ハルヒに落ち度はない。
 ……ここ最近、迷惑を掛ける側と被害を被る側があべこべになってる事に自分の立ち位置を見失いかけてる気がするが大丈夫だろうか? ……大丈夫だよな俺?
 そのような気掛かりが血栓となって心筋梗塞を発症しない事を祈祷しつつ、なぜこんな面倒事になったのか記憶を辿りながら遡った。

 先日起きた予備校収容未遂事件。
 発端となった中間テストの結果は宝くじの三等を当てる程度の奇跡が落ちてきたのか、平均70点以上を獲得するという快挙が俺の手元へと舞い込んできたから驚きだ。
 その人生で限られた数しか経験できないだろう奇跡を肴とし、ドンチャン騒ぎの宴でも始めようかと陽気になっていた所、
「この勉強方法だと本当に身に付いたとは言えないんだから、結果が良くてもそれに甘んじたらダメよ!」という、喝が込められた釘をハルヒに打ち付けられ中止を余儀無くされちまった。
 このように厳粛な御訓戒を贈呈される形で終息を迎えた訳だが、どうやら事件として収束を迎えただけで俺のノルマは次なるステップへと進んでいたらしい。
 それに気付いたのは中間テストの返却を終えた週の日曜日だった。

6月初旬

 体に不快感がまとわりつく時期となり、連日寝苦しい夜を過ごしていた俺は、この日も寝苦しかったという言い訳に託けて昼頃までおじぎ草になろうと画策していた。

   ……ョン

                起き……

 梅雨時という釈明を引っ提げて眠りついていた俺へ、やけに聞き取りにくい声が耳に入ってきたのは、今にして思えば聴覚野が相手の音声周波数を捉え反応していたんだろうと推測できる。
 だが、この時は睡眠が必要だと生得的モジュールが誤作動を起こしてしまい、聞こえた音声を無視して二度寝を敢行しちまった。
 そういった俺の愚物行為を反発行為だと判断したのか、声の主は持参の万力で胸ぐらを掴んだかと思うとそのまま無理矢理前屈させ、
「いつまで寝てんのよっ! このアホキョン!」
という雑言をぶつけて来やがった。
 いくらなんでもハルヒさん、寝ている人間に対する仕打ちとしては余りにも非常識では無かろうか?
「あたしが何回起こしたと思ってるのよっ?」
因みに何回起こしたんだ?
「10回よ」
 ……どうやら俺に問題があったらしい。
「問題じゃなくて問題外よ! あんた、どういう神経してんのよ? 一度、医者に診てもらった方がいいんじゃない?」
 医者に掛かるのはもう懲り懲りである。 あんな薬品臭い所にいると逆に身体を壊しちまいそうだ。

「だったら、早く起きる努力をしなさいよねっ」
 これでも日付を跨ぐ前には布団に挟まれて気持ちよく眠ってるんだぜ?
「なに偉そうに言ってんのよバカキョンっ。 あたしは早起きの話をしてんのよ! 早く眠っても早く起きれなかったら意味ないじゃない!」
それを言わないでくれ。 俺なりに頑張って起きようと努力はして……
「『うるせーなもう』、『静かにしてくれよ』」
……あぁー……それは一体?
「仕方なく起こしてやろうかと思ったあたしに浴びせかけてきた言葉よ。 これが本気で起きようと努力してる人間のやる事かしらねぇ、キョン?」
「……悪かった」
「今後のためを思うなら改善策を考えておく事ね。 あと、妹ちゃんに任せるんじゃなくて自分で起きるようにしなさい」
子供を叱る母親の表情で怒られたら何も言えん。

「わかったら、とりあえず顔を洗ってきなさい。 そのひどい寝癖も整えること。 いいわね?」
「わかったよ母さん」
「だれが母さんよっ!」
 ハルヒの怒号を尻目に俺は最低限の身嗜みを整えに洗面所へ向かった。

 そういえば、なぜハルヒが居るんだ?

 浮かんだ疑問を水に流さないよう注意しつつ、人として最低限の身嗜みを終え、最も家族が集合する場所である我がリビングへ向かったのだが、そこに居たのは妹とハルヒだけであり、生まれた時から馴染みのある二人の姿が確認できなかった。
「親はまだ寝てるのか?」
「おかあさんとおとうさんはまだねてるよー。 キョンくん今日は早いねー」
 日曜日は朝飯を作って二度寝をするのがオカンの習慣となっていたはずなんだが、妹の話によると今日は寝坊してしまったようだな。

「あんたの寝坊助体質って、ご両親の遺伝みたいね。 妹ちゃんは隔世遺伝なのかしら?」
「そういう事だ。 出来れば大目に見てくれないか?」
クリーニング屋に頼み込んでも流石にDNAの染み抜きまで出来る職人はいないだろうしな。
「ダメよ。 ご両親は日常に支障がないからいいけど、あんたは大有りでしょ? 朝から勉強しないといけないんだから」
 毎度の事だが朝から勉強会を開催すると言った通達はこれっぽっちも無かったが、不出来な伝書鳩にでも頼んだのか? それに、さっき時計を確認したが未だ八時過ぎだぞ?  夏休みのラジオ体操じゃあるまいし、そこまで早くにやらなくても……。
「脳にもね、ゴールデンタイムってのがあるのよ」
 不平不満を郵便物に箱詰めしている所へ意味不明な言葉のボールを蹴り飛ばしてきた。
 ゴールデンタイム? 脳でサスペンス劇場かバラエティー番組でもおっ始めるのか?
 賑やかなのは結構だが、俺の性分とは随分かけ離れた行為だ。 そのバカ騒ぎと勉強がどう結び付くんだって言うんだ?

「違うわよ。 この場合のゴールデンタイムは脳が一番働く時間って意味よ。 個人差はあるんだけど、朝食を食べてから一、二時間後に始まって三時間程度は続くわ。 だから、勉強は朝にした方が効率が良いってわけ」
 内容はネットで調べた情報だと思うので信頼は出来そうだが、ハルヒの行動には少し疑問が湧いてくる。
「疑問ってなによ?」
「食後から一時間後に活性化するなら、もっと後で来た方が良いだろ?」
 飯を食ってから始まるんだったら、連絡を入れた後にゆっくり来れば良いと思うのは俺だけか?
「それは……そ、そうよ、ほら、生活リズムの改善よ生活リズムの! これが乱れると勉強にも影響が出るわ。 あんたが授業中に居眠りしてるのはきっとそのリズムが狂ってるからよ! 朝早く起きれば自分に合った睡眠時間も自ずとわかってくるはずよ!」
 生活リズムねぇ。 確かに今の睡眠サイクルが自分にあってるかは分からん。 合ってない可能性も否めない。
 だが、ハルヒよ。
 親の寝坊助体質は良くて俺がダメだと言った不平等、江戸幕府だって容認してくれないんじゃねぇか?

「あんたはあたしの部下でしょ? 部下の体調管理は上司の勤めなの。 それに御両親は私生活に問題無いからいいって、さっき言ったでしょ? わかったら朝御飯を用意するからさっさと食べて勉強を始めるわよ!」
 痛い所をつかれたからって、ウイルスで操作不能になったパソコンの対応のごとく、ぞんざいに扱わんでもいいだろうに。
 せっかく目安箱と思って意見を投書したのによ。 まぁ、朝飯を用意してくれているなら泣き寝入りでも良いんだけどな。

 ハルヒが運んできた朝御飯は普段とは一線を画していた。

 焼き鮭・味噌汁・ほうれん草の御浸しといった、定番でありながらも朝という時間の関係上ほとんどの家庭で用意出来ない故、幻と囁かれていたメニューをついさっき来たコイツはどうやって用意したんだ? しかも見慣れない副菜まで付いてやがる。

「ひみつよひみつ。 あんたは黙って食べて勉強に集中……」
「ハルにゃん、あさの7時からきたんだよー。 『朝はしっかり食べないと元気が出ないから作りに来たわ』ってー。 ねぇ、ハルにゃん?」
 妹の要らぬ一言により関係者スタッフに余計な裏話を吹聴された映画監督の表情になっている。 俺としてはありがたい限りなんだが、ハルヒは知られたくなかったようだな。

「ちょ、ちょっと妹ちゃんっ? それはひみつって言ったでしょ?」
「えへへー。 ごめんなさーい」
 兄としてアドバイスを言い渡すなら、妹に不可侵条約を持ち掛ける場合、お菓子を譲渡するぐらいしないと締結は成り立たんぞ? 仮に渡しても喋っちまう事もあるがな。

「言っとくけど、これから何かとお世話になる御両親に対してのお礼なんだからね。 変な勘違いはするんじゃないわよ?」
 変な勘違いがどんな勘違いか知らんし、何を御世話になるかは皆目見当も付かんが朝からここまで用意してくれたんだ。 御礼は言わせてもらう。
ありがとよハルヒ。

「……ふん。 いいからさっさと食べて勉強するわよ」
「よかったね、ハルにゃん」
 妹の一言には反応をせずに食事を始めたハルヒに倣い、心の中で食前の挨拶を済ませ、食事を開始した。

「「「ごちそうさまー」」」
 オカンには悪いが、こんな美味い朝飯は田舎へ行った時以来ではなかろうか?

 鮭の焼き加減は絶妙で焼き過ぎによる身の細りやパサパサ感はなく、辛さを抑えた甘口の塩鮭を使っているので胃に何も入っていない起き抜けの状態であっても美味しく食せた。
 この焼き鮭なら旅館の朝食に出てきても誰かにクレームをつけられることはないだろうな。

味噌汁の出来も完璧だ。
 飲み干した時に美味しかったと感じる程度の塩分に調整されており、減塩での味の物足りなさは煮干しを使う事で飽きが来ないよう工夫が施してあった。
 その為、良く使用される食材の旨味で味を補うという選択肢を捨てさり、豆腐・わかめ・ネギといった無駄のない具材で洗練された味に仕上げられていた。

 完璧な二品には劣るだろうと思われた、ほうれん草のお浸しはハルヒ独自の甘さが仄かに感じる出汁が使用されていた為、青菜の苦味と合わさり箸休めとして縁の下で支える役割を担っていた。

 これら三品と副菜である枝豆と切り干し大根の酢の物が口腔内で協定を結んだ為、普段は鈍重な箸がドンドンと加速していき、胃の八割以上を越えてしまったのは致し方ない現象だろう。
 正に究極であり至高の朝食だったとここに残しておきたい。 ……と言った美食家を気取った感想はハルヒには必要ないか。

「ハルにゃん、料理すごくおいしかったよ。 また食べたいなー」
「ありがとね、妹ちゃん。 また機会があったら作るわ」
「やったー」
 俺より素直な妹に褒められた方が嬉しいだろうしな。

 食べた料理から報恩謝徳と言う言葉が生まれた為、皿洗いの任を購入しようとしたのだが、
「団長に対する申し出としては良い心掛けだけど、その暇を勉強に使いなさい」
と鋭利な一刀両断の言葉により却下された。

 脳のゴールデンタイムにはまだ時間があるんだ、それまでは手伝うぞ?
「その時間は数学に使うから、今は英単語の暗記をしなさい。 単語帳はあんたの机に置いてあるからね」
「朝が苦手な俺にこの学習法は不向きだと思うんだが、大丈夫なのか?」
「心配しなくてもあたしを信じてやれば、結果は自ずとついてくるわ」
 信じる者は救われるってか? 信仰する物が鰯の頭じゃないと良いがな。

 自室の机にあった単語帳。
 その表紙に書かれていた字は、ついさっき指令を言い渡してきたハルヒの物であった。 もしかしなくても自作である。
 ここまでする必要は無いのに良くやるもんだ。 自分でやるからには徹底的にこだわるって所はらしいと言えばらしいが。
 しかし、こうあからさまに労力を叩いた形跡があると、プランクトン程度は期待していると勘違いしてしまうぞ? 良いのかハルヒ?

 そんな有るかどうかも分からない期待に応える為にワーキング・メモリーへ単語を積み込む作業を開始しようとしたんだが、表紙にデカデカと書かれた『期末テスト英単語帳』を捲った先にあった『勉強前の注意事項』なる物を発見してしまい、仕方なくペンを置いて読むことにした。
 説明書の類は苦手なんだがな……。

『勉強前の注意事項』

①毎日決まった時間に勉強すること。
ちゃんと睡眠時間を考えてやるのよ?

②単語は一日6個覚えること。 6個だけなんだから文句は一切受け付けません。

③30分は勉強してしっかり頭に叩き込みなさい。 スペル・和訳・発音を直ぐに思い出せれば上出来ね。

④朝起きてから学校に着くまでに昨日覚えた6個の単語を見直しておくこと。

⑤平日は朝のホームルーム前にテストを開始します。 ホームルーム15分前には必ず登校すること。 寝坊したって言い訳は通用しないんだからね!

⑥休日に一週間で覚えた単語のテストを行います。
不思議探索は毎週土曜日開催に固定するから、その日の夜は一週間分の単語を見直しておきなさい。
ちゃんと勉強をしたか、あたしにはすぐ分かるんだから真面目に勉強するのよ?

 ……どんな勉強をすれば良いのか知るために読んだが所々意図が読めず、逆に疑問符が頭上に添付される形となってしまった。
 朝に英単語を思い出すのはさっき教えてくれたゴールデンタイムが関係しているとして、1日6個ってのは何か規律でもあるのか?
 記憶力がそれほど優れてないのは自分でも良く分かっているが6個ぐらいすぐに覚えられるぞ?
勉強時間の30分ってのも長い。 6個ぐらいなら学校の休み時間でも覚えられる自信は持ち合わせているつもりだ。
期待されてると思ったが、もしかするとバカにされてるのか?

ヴーン ヴーン

当て推量の道へ向かいそうになっていた所、不意に携帯電話が鳴り始めた。
開いた画面に表示されている名前を確認し、新たなる疑問が表面化してしまう。

『佐々木』

 ……おいおい。 まだ朝の八時半だぜ?
 こんな時間帯に佐々木からの連絡なんて過去にあったか?
 まさか、また怪しげな連中に絡まれたのだろうか? 出来れば期末終了までは面倒事に関わりたくないんだがな……。

先行きに不安を抱きつつ、通話ボタンを押して受話器へ耳を当てる。
「もしもし佐々木か? こんな朝っぱらからどうしたんだ?」
『おはようキョン。 朝早くと言うが一般の学生なら既に活動時間帯だよ? 君は違うのかい?』
 悪いが一般の学生にも惰眠を貪りたいって俗塵的な睡眠欲を持った怠惰な人間が居る事を忘れてもらっては困るぜ。
『それはすまなかった。 君は朝に免疫力がなかったね』
 出来れば断ちたい煩悩の一つだから気にするな。 それより今は用事があって時間がないんだが、後で掛け直すのは駄目か?
 それともまたおかしな連中に巻き込まれたか?
『それほど急を要する事ではないから心配は無用さ』
「それなら安心したぜ」
 こっちは色々と抱え込んでて大変なところだったんだ。 また、後で掛け直す。
『しかし、君の立場を考えると早急に解決しなければならない事態である事には違いないね』
 結局、些事か大事のどっちなんだよ? 大事なことなら成る丈簡潔に教えてくれ。
『混乱を招いて悪かったよ。 しかし、いま伝えた通りで間違いはないと思う。 君の立場を考えると尚更早く伝言を渡さなければならないと思って電話を掛けた次第なんだ』
 それでその伝言ってのはなんだ?

『実は……』
 そこから続く単語を待っていたんだが、テレビのミュートボタンを押してしまったかのように無音が続く。

 当たり前か。
 なんせ手元から携帯が忽然と消えたんだからな。

 消えた先を狼狽しながら確認したのだが、俺の心情を知ってか知らずか、多分知らないだろうハルヒは金剛神も裸足で逃げ出す表情でこちらを一瞥したのち、電話相手の佐々木と会話を始めやがった。
「佐々木さん? 涼宮ハルヒだけど覚えてる? 久しぶりね、あの時以来かしら? いきなりで悪いんだけど、キョンは勉強しないといけないから用件ならあたしが聞くわ」
 いや、待てハルヒ。 その話はお前に解決できない話であってだな、
「悪いわね。 じゃあ、その用件を聞かせてもらう前に勉強についてちょっとキョンに言わないといけないことがあるから少しだけ待ってくれる?」
 ……ますます、わからなくなってきた。
 俺じゃなくても解決出来る用件であり、且つ俺に関わる重大な要件だろ? 判じ物じゃあるまいし、そんな矛盾が重なりあった事態などあるのか?

「なにボーっとしてんのよ! ゴールデンタイムがあるんだから、あと30分で終わらせないといけないんのよっ? さっさと2ページ目の『勉強法について』を読んで始めなさい!」
 どうやらその件について考えてる暇はないらしい。 て、次のページにも何か書いてるのか?

「あとで説明するけど、『英語は音調が大事』で『イメージは記憶と結び付く』の。 わかったらそのページを読んで勉強を始めなさい」
 全くもって理解できんのだが、それを言って懇々と説明してくれる雰囲気ではない。 言われた通りにするのが無難か。

 自らの意思に反する受動的な立場に今更ながらウンザリしつつも、佐々木の件はハルヒに任せて次のページへ目を通すことにした。

『勉強法について』

①三つの単語を各5回、音読しながらスペルを書くこと。

②和訳は単語の右側に書いてあるので覚えたら半分に折り、単語だけを見て和訳を答えたあと和訳だけを見てスペルを書くこと。
出来なかった場合は①と②を繰り返すこと。

③三つの単語を一つの文にまとめてあるので、②をする時は一つ一つの単語を独立して覚えるのではなく、一束と考えて覚えること。
その時は書かれている文の場面をイメージして覚えること。

 驚いた。
 てっきり中間テストの時と同じ丸暗記が待っているのかと思ったがそれとは全く異なった方法となっている。 これまでやってきた勉強法からコペルニクスも目を疑う転回を見せたと言っても間違いではないだろう。
三つの単語を同時に覚えたり、場面をイメージして覚えるってのは今までしたことがないしな。
 さっきはバカにされてるのかと思い憤懣遣る方ない気分になりそうだったが、6個の単語に30分も掛けて勉強するのも何か重要な意味があってのことなんだと納得できる。

 そうと判れば……。
 暗雲が立ち込めていた気持ちが青天白日となった今、目の前のやるべきことを消化する為にペンを握り、越えなければならない壁へと邁進していくことを決心する。

『千里の行も足下に始まる』
 不意にそんな古人の金言が浮かんだが、今の俺にぴったりな言葉じゃなかろうか?
 どんな偉業でも手近から始まる事を示す言葉だが、勉強にだって当て嵌まるはずだ。
だったら、この金言を背嚢に入れ、その目標に至るまでコツコツと学問と戦ってみるか。
 そういったことは苦手分野だが、年貢の納め時が来てしまった以上どんな形であっても払わなければならないしな。

 志気が上がった俺に、
「百聞は一見に如かずだから試しに1ページだけやって見なさい」
というお試し期間を用意してくれたので実行してみたが普段より頭に定着していると感じられる。

 どんな勉強方法だったか具体例を挙げると、

 proper 適切な
 な
 address 住所
 を
 convey …を伝える
 する

 このように三つの単語で一つの場面が構成されている為、イメージしたシーンから単語と意味を呼び起こせるようになっていた。 他の部分が日本語なのは必要ないからだろう。
 『記憶とイメージは結び付く』と言ってたがこれはそうなのだろうか?

 だが、
「ふんふん。 それで?」
電話をしている人間の隣で英単語を音読するのは流石に恥ずかしい。
 しかも、携帯電話先に居る人物は進学校に通っている佐々木だ。 俺の拙い発音を聞いてどんな感想を持ってるか、考えるだけで発熱してしまいそうだ。
 そんな俺のグロー現象の発生とは対照的にハルヒは放射冷却現象を発生させ、周囲を冷ややかな物へと変化させている。
「ふーん、そう。 全然知らなかったわ。 ……ううん、別に佐々木さんは悪くないわよ。 悪いのは事前に伝えなかった誰かさんだけよ」
 全然知らなかった? 伝えなかった? 誰かさん? さっきの単語帳と違いその断片から全くイメージが出来ない。 二人は何を話してるんだ?

「取り敢えずキョンに洗い浚い話してもらうわ。 それじゃあまたね」
 ……嫌な予感がするのはこの一年間、多種多様な危険を味わうことで育まれた危機感知能力の賜物なのだろうか?
「キョン」
 洗い浚いなどといった物騒な言葉に該当する犯罪をした覚えは全く無いんだがな……。 もちろん佐々木から告訴される事をした覚えもない。
「佐々木さんから聞いたわよ?」
 理解出来ない怒りを向けられ、意味なく警官に補導された不遇な歩行者さながら後込みしてしまう。
 身の潔白を証明したいが原因が解明されていない現状では、どう返事をすればいいか思い付かん。 当たり障りのない語彙が浮かばず、言葉に詰まってる俺にハルヒは冷淡な口振りで怒りの原因を呈示してきた。
「中学の同窓会があるんですってね?」
 ……そういえば前にそんな事を話していたな。 ここ最近は学務による時間が大半を占めていた為、完全に失念していた。 だが、原因を突き付けられても自らに非があるとは到底思えんな。
 こちらは白鳩を象徴するかのごとく平和的解決を望んでいるんだ。 決して治安立法を盾に社会主義・共産主義運動を取り締まろうと謀る反共産主義者になるつもりはない。

 それに一つ大事な事を忘れてるぞハルヒ?
「何を忘れてるって言うのよ?」
 プライバシーは口出ししないのでは無かったのか?
「…………」
「同窓会は別にSOS団の迷惑にはならんだろ?」
 いつ同窓会が開かれるかわからんがSOS団を疎かにするつもりはないから安心してくれ。
「でも……来週にやるのよ?」
 思い掛けない予定を告げられ、初めて栃麺を作る職人と同じく当惑してしまう。
「は? 来週って、そんなこと聞いてないぞ?」
「さっきの電話はそれについての話だったのよ。 『部活が忙しくて夏休み中の開催を反対した人の意見と賛成派の意見を統合した結果、テストに影響がないだろう来週の開催で折り合いがついた』って佐々木さんが言ってたわ」
 なぜ、意見を募る時点で電報が来なかったんだ?
「夏休みの部活予定表を渡されたのが昨日で決定したのも昨日だったみたいよ。 『詳しい時間と集合場所は塾が終わってから連絡する』て言ってたからその時にでも経緯を聞けば?」
 それなら仕方ないか。
 分裂事件の数日後、実行委員に指名されたと佐々木から連絡があったが、色々と大変みたいだな。 あいつには悪いが矢面に立たされなくて良かったぜ。
 もっとも、やる気も実績もない俺が実行委員会に選ばれるとしたら、奇跡とも言える不幸が邪魔しない限り訪れる事はなく、世界の理は悲運と言う奇跡を選ばず普遍妥当性を重視した結果が今である訳だ。
 世界は一部を除いて正常運行に従事している事実に少しありがたみを感じるね。

 ただ、気になる事が一つある。
「なぜ怒ってるんだ?」
「何言ってんのよ、怒ってないわよ」
 角隠しを被っていても一目で判る怒り様じゃないか。
「うっさいわねっ。 そんなのあんたの勘違いでしょっ? それよりさっさと勉強するわよ。 同窓会のせいで出来ない分も含めてねっ」
 同窓会の件を伝えなかったことに憤りを感じてるのは明白だったが、わざわざ穿り返してハルヒの機嫌をこれ以上悪くする必要はないだろう。
 藪を突いて蛇が出てくるだけなら対処のしようもあるが、ハルヒの場合は猛獣や猛禽が潜んでる可能性も考えなければならんからな。 今は目の前の勉強に集中して、ハルヒの中に渦巻いている嵐が過ぎ去るのを待つのが得策か。

「じゃあ、残りの英単語が終わったあとは数学をやるわよ」
「お手柔らかに頼む」
「ちゃんと真面目にするならね」

 言っておくが俺以上に生真面目な人間は、
「巨万といるに決まってるでしょっ? あんた、下手したら不真面目日本代表になってたかも知れないんだからね?」
 身も蓋もない話だが、ハルヒなりの叱咤激励と受け取っておこう。
 なら、とその激励に応えるべく再びペンを握り、海馬を騙す作業を始める事にする。 疑り深い俺の海馬がそう素直に騙されてくれるかは後々になって見ないと分からんがな。

「まぁ、これだけ理解していれば大丈夫ね」
「…………」
「指数関数だけ出来ても期末テストは乗り越えられないけど、指数法則を覚えて効率よく使い分けられないと話にならないしね。 あんたにしては頑張った方じゃないかしら?」
「…………」
「ねぇ、聞いてるの?」
 聞いている……。 だが、ちょっと待ってくれ。
 単語の暗記後に数学を開始したが、まさかあれだけの数の根っ子と格闘させられるとは思わなかった。 流石に思考回路がショート寸前だ。
「情けないわねぇ。 そんなんじゃ試験は乗り切れないわよ?」
「それまでには学習能力が慣熟しているはずだ」
 『真面目にやれば結果は自ずと付いて来る』なんだろ?
「当たり前よ。 努力はどんな形であれ、必ず実るわ。 実らないとしたらそれは時期尚早だっただけよ」
 俺の場合はちゃんと収穫時期に間に合うのか?
「任せときなさい! あんたの努力はあたしが責任を持って管理してあげるわ!」
 イルミネーションを灯したハルヒの目には既に憤怒の二文字は消えていた。 怒りのボルテージの電源は一時的に切ってくれたようだな。
「勉強に関してはもう腹を括ってる。 あとは煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「石川五右衛門みたいに油煮にするのも悪くないわね」
 ……冗談だよな?
「冗談で終わらせたいならこれからも勉強を怠るんじゃないわよ?」
 しかし、毎日やる英単語帳は結構な労力になりそうなんだが。
「今はスポーツだと基礎体力作りの段階だから我慢しなさい」
 我慢の材料を調達するために期末テストまでの予定を聞かせてくれないか?
「今月は平日に朝に小テストと昼休みに勉強をして、休日は英単語のまとめテストと補習ね。 7月からは期末テストも近いし、仕方ないからSOS団の活動中も勉強を見てあげるわ」
 今までの勉強に比べて随分とハードな気がする。 もう少しゆとりを持って……は無理なんだよな?
「無理よ。 今までサボったツケが回ってきたと思って真摯に受け止めなさい」
 俺の泣き言を籠めた控訴をハルヒ裁判長はあっさりと棄却した。 情状酌量の余地を与えてくれてもいいんじゃなかろうか?
「ついさっき煮るなり焼くなりって言ったじゃない。 内股膏薬は良くないわよ?」
 それはそうなんだが。

「まぁ、鞭ばっかりだとあんたがぶう垂れるから飴はちゃんと用意してあげるわよ」
 おお、ソイツは良い知らせだ。 どんな飴を用意してるんだ?
「……あんたってホント現金な奴ね」
 鯵や鯖のように食い付いたつもりは無いんだが、そう見えてしまったか? 心にスノビズムが根を張っているのは良く分かっているつもりだったんだが、もしかしたら無意識の部分にも及んでいるかも知れん。

「何言ってんのよ。 みくるちゃんを見てる時のあんた、放送事故その物よ。 絶対に規制した方がいいわ」
 非常に不可解で不快な誤解だな。
 俺の朝比奈さんに対するジェントルマン魂はクラーク博士だって草葉の陰から顕彰してくれるぐらい精錬されているんだぞ?
「そう思ってるなら御茶を淹れてもらった時に鼻の下を伸ばすのはやめなさい」
「そりゃ色眼鏡って奴だろ?」
 その奇怪な眼鏡を取り外せばちゃんとした俺が見えてくるはずだぜ?
「…………」
 音素分解機能を緊急停止させたのか勢いよく弾んでいた言葉は唐突に止まり、目は凸レンズに映る虚像を見る物に変化している。

「どうかしたのか?」
「色眼鏡を着けてるのは、あんたの方じゃない……」
 俺が? 色眼鏡を?
 断じてあり得ん話だ。
「俺がいつ着けてたんだよ?」
「わかんないならもういいわよ。 それより飴の用意をしないといけないからちょっと出掛けるわよ」
 どうやら反論の受付は即時終了したらしい。 邪な気持ちなど微塵もありゃしないという思いを込めた反駁の数々は渋々お蔵入りさせておこう。

「出掛けるって何をしに行くんだ?」
「買い物よ」
 まさか奢らせる気か? 薄荷入りじゃあるまいし甘露とは言わないまでも、もう少し旨みのある御褒美をくれても良いんじゃないか?
「誰も奢れとは言ってないじゃない。 それとも奢りたいの? そこまで言うなら……」
 遠慮しておく。
 俺の財政は罰金制度により困窮の一途を辿っているんだ。 ビルトイン・スタビライザーを導入して現状を打破したいが抜本的な対策が出来ない以上、骨折り損のくたびれ儲けにしかならんのが痛い。
 何とかして欲しいものだ。
「遅刻しなければいい話じゃない」
「それが出来たら苦労はしない」
「あんたがどうしてもって言うんならモーニングコールをしてあげても良いわよ?」
 それも遠慮しておく。
 電話に出なかったら罰金以上の懲戒が待ってるんだろ?
「10回鳴らしても出なかったらそれなりの懲罰を与えるかも知れないわね」
 幼馴染みが起こしにくるシチュエーションを再現してくれるんならいいが、時限発火装置付きのモーニングコールなんてリスクしか存在しない劇物、誰がすき好んで使うんだ?

「あんたって、幼馴染み萌えなの?」
「ちょっとした冗談だ。 他意はない」
「にしては、前にも似たようなこと言ってた気がするんだけど?」
 そいつは気のせいだ。

「そんな事より買い物へ行くんだろ? なら、さっさと行こうぜ」
「あんたの文句に付き合ってあげてたんでしょ?」
 そりゃ悪かったよ。 それで、何を買いに行くんだ?

「昼食の食材よ。 これからキョンの家で勉強をする時は朝と昼の御飯を作ってあげるわ。 言っとくけど仕方なくよ?」
「毎週作ってくれるのか?」
「あんたのモチベーションが上がるならの話だけどね」
 未だ学習のモチベーションが向上しているのか自分でもはっきりと分からんが、ハルヒの美味い料理が毎週食えるなら多少は上がるだろう。
「ホントは勉強時間になったら集中力を向上させられると一番なんだけど、あんたにそこまで求めるつもりはないわ」
 そんなこと出来る奴がいるのか?
「アスリートは独自のモチベーションアップ法を持っているらしいわよ。 より高いパフォーマンスを実行するために、ってね。 『ゾーン』って聞いたことあるでしょ?」
 集中力が極度に高まると視野が広がったり、動きがスローに見えたりする奴だったか? スポーツ漫画で良く見かけるがそんな能力が開花することって実際にあるのか?

「仏教の『三昧』って瞑想状態がそれに近いって言われてるわ。 坐禅をすれば会得できるらしいから、御寺に行けばあんたでも何か掴めるかも知れないわよ?」
 将来の為に勉強をするんだろ? 世俗を捨てて出家したら本末転倒ではないか。
「誰も本格的にやれとは言わないわよ。 飽くまで学習の一環よ。 煩悩まみれのあんたにはちょうどいいと思うんだけど?」
 拒否権を発動させてもらう。 難行苦行は勉強だけで十分だ。
「早めにあんたの散漫な所を克服しないと勉強の効率にも影響が出てくるんだから、やっぱり行くべきよ」
 その件については後日にでも送り届けといてくれ。 今は最優先で初めたい作業が一つあるしな。
「初めたい作業ってなによ?」
 なにって実に素朴なことだぞ? それこそ人類誕生の時から刻まれていたであろう原始行為ともいえる。
「だから何なのよそれ?」
「腹が減ったから早く買い物に行こうぜ」
 な、素朴なことだろ?

「あれ? 誰も居ないのか?」
 買い物に行く為に一階へ降りて来たんだが、リビングやキッチンはインディアン島で起きた奇異な事件を連想させるぐらい閑散としており、人の気配は感じられなかった。
 勉強をしている間、妹の部屋から物音一つ聞こえなったが何処かに出掛けたのだろうか?

「どうやらそうみたいよ。 ほら、これ」
 机に置いていた手紙を目敏く見つけたハルヒはそれをCTスキャナのごとく速読し、俺に渡してきた。

    キョンとハルヒちゃんへ

 家族みんなで少し遠出してきます
夕方には帰ってくるのでお昼はここに置いてあるお金を使ってなにか食べてね

 ハルヒちゃん、これからも息子と仲良くしてあげてね
 キョンくんハルにゃんとなかよくねー
いってきまーす

                 母と娘より

 末文に余計な戯文が混ざっているが遊びに出掛けたってのはわかった。
 家族って括りから然り気無く爪で弾かれたことに対する疎外感は多少あるが、気にする事でも無いか。 勉強って大義名分を消化する為に居残り学習をしていた訳だしな。
 ……出掛けるといった話は全く知らされていなかったが。

「どうせならあたし達もついて行くべきだったかしら? 妹ちゃんと最近遊んでなかったし」
 既にハルヒの権勢は俺の家族にまで浸透しているんだ。 これ以上侵略されると色々困る。
「何が困るのよ?」
「色々だ色々。 お前だって自分の家族と俺が仲良くしてたら良い気分はしないだろ?」
 こういうのは程々で良いんだよ。
 あんまり仲良くし過ぎると知らないところで奇想天外な話題が出てこないとも限らん。

「あんた、あたしの家族と仲良くしたいの?」
「いや、そうじゃなくてだな、」
「やめときなさい。 おか……母親は大丈夫だけど親父は変な奴だから」
 それはカエルの子はカエルって奴じゃないのか?
「どういうことよそれ?」
 これ以上ツッコミを入れるとハルヒの火山性脈動が活発化してしまうので話題を変えることにしよう。

 最近ハルヒの感情、特に怒りのスカラー場が読み取れるようになり、地雷を踏むことが少なくなってきたな。 何度も災難に見舞われた故の努力の結晶と言うべきか。
「ちょっとした冗談だ。 お前の父親のことを知らないのに本気でそんなことを言うはずないだろ? それより早く買い物へ出掛けようぜ。 腹が減りすぎて胃液に侵食されそうだ」
「まあいいけど、その前に冷蔵庫を確認してあんたのお母さんに連絡しないといけないわ」
 冷蔵庫に問題でもあるのか?
「冷蔵庫の中身はお母さんの所有物なの」
「何が言いたいのか分からん。 具体的に頼む」
「もうっ。 いいキョン? 毎日炊事する人間は冷蔵庫の中身をちゃんと把握してるの。 そうしないと同じ物を間違えて買ったり、買い忘れで何度もスーパーに行ったりなんてことになっちゃうでしょ? 今日だってきっと夕飯に必要な物か特価の物しか買わないはずよ」
 買い物に行く時必ずって言うほど確認してるのはそのためか。 毎日管理してるから所有物。 言い得て妙かも知れんな。
「あたしも買い物前は必ず冷蔵庫内の確認をするわ。 覚えていてもね。 だから、夕飯に使おうと思ってた食材が帰ってきてなくなってたら予定が狂っちゃうでしょ? そんなことにならない為に使っていいかお母さんに聞くのよ」
 ハルヒらしくない妙な気遣いだが、炊事場を預かる物同士の暗黙のルールってやつなのだろう。 その気遣いをこっちに少しでも分配してくれたら良い案配になると思うんだが……無理か。

「じゃあ、電話するわね」
 俺の思惑なんて露知らずだろうハルヒはおもむろに携帯を取り出して、オカンの電話番号を……ってちょっとまて。
「ハルヒ、お前、何でオカンの電話番号を知っているんだ?」
「へ? 何でって……別に知っててもおかしくないでしょ?」
「いや、おかしいだろ? いつ教えてもらったんだよ?」
 阪中の場合と違い俺が知らない所でハルヒがオカンに接触してた事は……一度あったなそういえば。
 まさかあの時なのか? いや、あの時しか考えられない。 ハルヒがオカンを説得した、半月前のあの日に……。

「いつ、ってあんたが入院した時によ。 知らなかったの?」
 吃驚仰天とは正にこういう事を言うんだろうか? まさか半年以上も前に連絡先を伝えていたとは。 なぜ、隠してたんだ?

「別に隠してた訳じゃないわよ。 あたしはキョンが知ってると思ってたから伝えなかっただけなんだから」
 つまり、隠蔽工作を企てた真犯人はオカンってことか?

「ちょっと待ちなさいっ。 なんでお母さんを悪者扱いしてんのよ? 言っとくけど連絡先を教えてくれたのはあんたの容態を心配してのことだったのよ?」
 それは初耳だ。 オカンはそんなに心配してたのか?
「当たり前じゃない。 あたし達は側に居たから状況を把握してたけど、あんたの御両親は全然知らなかったのよ? いきなり息子が階段から落ちた、って知らされて平常心のままで居られるわけないでしょ? お母さん、寝ているあんたを見て真っ青になってたわよ?」
 その話も初耳だ。 退院した時は、
「ホントどんくさいわね。 人様だけには迷惑を掛けるなと教えたはずよ? 後で友達に謝っときなさい」
と退院直後の体には少々キツいお咎めの数々を叩き付けられ少しぐらいは心配してくれても……などと思ったが、まさかそんなアナザーストーリーがあったとは。

「『お父さんと娘には目覚めた時すぐに知らせたいので、この番号に連絡をしてもらえる?』とも言ってたわ。 勉強の事も心配してくれたり、とっても良いお母さんじゃない」
 そうは言うが高校受験の時はそれはもう酷い仕打ちを受けたんだぞ?

「例えば?」
 塾に行かないなら今後あんたの御飯は作らないと言われたな。 「働かざる者食うべからずよ」と常々言ってたが本気で兵糧攻めを敢行してくるとは夢にも思わなかったぜ。
「……他は?」
 それで仕方なく屈服する形で塾に行ったんだが、次は学校のテストにまで難癖を付けてきやがった。 『次のテストが悪かったら塾に通う日を週3から週5に増やすわ』ってな。 徹夜で机にかじりつくハメになったのは今でも忘れられん。
 あの時ばかりは労働基準監督署に駆け込もうと思ったね。

「…………」
 その後も休日は妹という監視官を付けられて強制的に勉強をさせられたり、受験が終わるまで漫画とゲームを没収されたりとまるで鑑別所に幽閉させられたような酷い待遇であった。
 俺だって勉強環境が整っていればちゃんとやるってのに、もう少し息子の人権を考えて欲しかったと過去に戻ってオカンに諫言を述べたいね。
「……はぁ。 あんた、それ本気で言ってんの?」
 ……頼むから弱小球団の歴史的大敗を目撃した他球団のファンみたいに哀憐の情を込めた目で見ないでくれ。

 わかったよ、認めれば良いんだろ? 俺に非があった事をさ。 確かに若気の至りで片付けるには怠惰を満喫し過ぎてたよ。 だが、あの時はそれで良いと思ってたんだよ。

 ハルヒだってそんな時はあっただろ? 中学時代に机を勝手に廊下へ出したり、お札を貼ったりとか。 昔、谷口から聞いたが端から見れば迷惑極まりない悪行だったと思うぜ?
「うっ……。 確かにそういうことをした時もあったわね。 ちっとも効果が無かったから忘れてたけど。 でも、今はしてないでしょ? もちろん、これからもするつもりはないわ。 本に載ってた方法を実行してもやっぱり意味ないんだもん」
 俺の話題から逸らせる目的で言ったがこれは少し聞いておきたい話でもある。
 ここからはちょっと意地悪な質問になるが後で怒らないでくれよハルヒ?
「要するに上手くいきそうだと思った方法なら他人に迷惑を掛けても実行するって事か?」
 その言葉にハルヒの表情が冷水を掛けられたように強張る。
 しかし、お前が今後の為に俺の指針を確かめたのと同様に俺も今後の為にSOS団の、お前の方針を改めて確認しておきたいんだ。
 ……自分の事を棚に上げてることは今だけ目を瞑ってくれると助かる。

「……に……ら……いわよ」
 ハルヒらしからぬか細い声だったので大事な言葉を聞き逃してしまった。
「すまん、なんて言ったんだ?」
「迷惑になるならしないわよって言ったのよ!」
 ホントか? ホントにしないんだな?
「しないわよ。 あたしが必要ないことはしない主義なのは知ってるでしょ? だから、もうしない。 外野にイチャモンをつけられるのもいい加減、鬱陶しくなってきたしねっ」
 不貞腐れた表情をありありと浮かべ、目を細めれば明々後日が垣間見えそうな方向に向き、今にも天井に刺さらんばかりの鋭角なアヒル口を作っている。
 出会って間もない頃なら反省の色無しと判定し、溜息を吐いていたかも知れないその態度は今なら別の見方が出来るようになった。

 ハルヒ
 やっぱりお前もちゃんと変わってたんだな
 そりゃそうか
 俺だって自分の変化を感じるぐらいなんだ

 お前が変わってないはずがないよな?

 ハルヒの明確な成長を知ったことによる感慨に浸りつつ、受け取ったハルヒの返答を別の形にして還してやる。
「それなら良いんだ。 俺も騒ぎを起こして外野からクレームを付けられるのはもうウンザリでな。 騒ぎや楽しみはSOS団の中だけで留めておきたいと思っていたところだ」
 だから、
その楽しみを奪おうとする敵が現れた時は、何度でも返り討ちに遭わせてやろうぜ?

「なーに、一人で納得して終わらせようとしてんのよ。 全然ちっとも良くないわよ!」
 へ? いや、ちょっと待ってくれ。 何が良く無いんだ? 今後の方針が決まったんだから、ここは喜ぶところだろ?
「あんたの話がまだでしょうが! 今までの怠慢な態度のせいで、お母さんはあんたがちゃんと勉強しているか心配してるのよ! わかったら、お母さんに勉強しますって誓いなさい! これは絶対命令よ!」
 しまったな……。
 ハルヒの指針を聞き出せた油断で、牽制と言う守兵の配置を疎かにしてしまった。 ここまでハッキリと威令を下したハルヒに逆らえば、激甚災害になりかねん。
 ……万事休すか。 今なら毛利良勝に討ち取られた今川義元の心境も理解出来るかも知れないな。
 だが、このままむざむざ引き下がるのにはまだ言い足りない事が山程ある。
「中間テストで納得してもらえる結果は残したつもりだが?」
 ノルマをこなしても文句ばかり並べ立てるのは陰険な上司のやり口であり、オカンはそういうのとは無縁な人間だ。 今更勉強に対して含みはないと思うんだが?
「成績の結果だけじゃなくて、お母さんはあんた自身から言って欲しいって思ってるのよ」
 なんでオカンの心境がわかるんだ? いくら勘が良くてもそこまでわかるもんじゃないだろ?
「電話で色々聞いてるからよ」
 ……本日二回目の衝撃的な事実をあっさりと投下してきやがった。 そこまで頻繁に連絡を取り合う程の仲なのかよ?
「頻繁ってほどじゃないけど何回か連絡はとってるわね」
 ハルヒとオカン。
 一体どんな会話をしてるか見当も付かないが、何を話したんだ?
「守秘義務があるから話せないわ」
 なんだそれ? 国家機密じゃあるまいし、なぜ隠す必要があるんだよ?
「そんなの知らないわよ。 会話内容は喋らないでくれってお母さんから言われてるんだもん」
 いつから俺の母親はISOO所属のエージェントになったんだ? どこをどう見たって隠蔽主義なんて胡散臭い柄模様の服を着込む人間じゃないぞ?
 まさか、家庭教師の件も親から事前に言われてたんじゃないだろうな? だとしたらあの時に怒られたのも全て策略だったってか?
初代ローマ皇帝も舌を巻く謀略だぞ?
「それはないわ。 家庭教師に関しての話をしたのはあの時が初めてだもん」
 つまり、勉強の話をしたのは初めてじゃないって事か?
「……ホント、そういうのは目敏いわね。 それを勉強とか他の所に回せばいいのに」
 褒め言葉として受け取っておく。 で、一体勉強について何を話してたんだ?

「言えないわね」
「オカンが言ったことなんて守る必要はないぞ? オカンと俺、部外者と団員。 お前ならどっちを優先すべきか良く判ってるはずだ」
「言えないわよ」
「オカンには絶対に黙っておく。 俺に関する話だけで良いんだ。 頼む、教えてくれ」
「言えないのよ」
「良いだろうハルハルー。 教えてくれよハルハルー」
「次にそれ使ったらマジで怒るって言ったの忘れたかしら、キョン?」
 いや、悪かったよハルヒ。 流石にフザケすぎた。
 冗談だからありったけの怒気を詰め込んだその拳を下ろしてくれ。 危険すぎるオーラが漂ってるから、な?

「ふぅ……何度聞こうがあたしは言わないわよ。 お母さんと約束したの。 裏切ることは絶対に出来ないわ」
「俺を裏切ることになってもか?」
「う、裏切るってどういうことよ?」
 だってそうだろ?
 俺に関係する事を隠れてコソコソ話していたんだ。 陰口を言われてるかと思うと気分を害さない方がおかしいぜ。
 それこそウエストナイル熱を保有した蚊が大量にいる場所で蚊帳の外へ追い出された気分だな。
「陰口なんてあたしが言うはずないでしょ!? あたし達はただ、」

 ああ、わかってる。
 お前がそんな事をしないのは百も承知だ。
 ベッセルビームみたいに自分のやり方を変えず、限りなく真っ直ぐに突き進んでいくお前だからこそ、俺は毎回言い負かされるってことも充分理解している。

だが、

 今回は俺の方が一枚上手だったようだな。
 流石のハルヒもここまで言われたら言わない訳にはいかないだろう。
 悪いなオカン。 こっちは伊達や酔狂でハルヒと付き合ってきた訳じゃないんだ。
 オカンが何の為にそんな事をしたのか良く分からんが、急場しのぎの約束程度でハルヒの言論を封じ込められる訳がないだろ?

 まだまだ甘い甘い。 サッカリンより甘いぜオカン。

ヴーン ヴーン

 事件の真相を語る探偵の話を今か今かと待ち倦む顔見知りの警部役に没頭しようとしていた俺に葬送行進曲を思わせる不吉を奏でたマナー音が聴こえてきた。 出処はハルヒの手元からだ。
「誰からだ?」
「あんたのお母さんからよ。 電話しようと思ってたからちょうど良かったわ」

 うそ…だろ…?
 クイーン・エリザベス号に助け船ってのは、いくらなんでも卑怯ではないか?
 ここにきて聞けず仕舞いになるとは、予想外の外郭にも確認できなかった事態だぞ?
「もしもし、どうしたのお母さん? …………手紙? うん、ちゃんと確認したわ。 そうそう、お金ありがとね」
 仲の良い親子に見える会話を聞いて、どれぐらいの会話を交わしてきたか容易に想像ができる。
「冷蔵庫にある物で使っちゃ駄目な物ってある? ………うん………うん、わかった。 じゃあ、それ以外は使うかも知れないからよろしくね。 あと最後に良い?」
 ワットの台頭により迫害される形となってしまったニューコメンの遺恨をトレースしながら話を聞いていると、意外な言葉がハルヒから発せられた。
「お母さんとの話、キョンに話していいかしら?」
 え?
「………うん。 でも、キョンがどうしても聞きたいって言ってるのよ。 しかも、陰口を言ってるんじゃないかって疑いを持ってる始末で、もう大変よ」
 聞き慣れた笑い声が電話口から洩れてくる。 あれはバカにしてる時の嗤い声だな?
全く持って不愉快である。
「………うんうん、その通りよ。 それでこのままだと拗ねてストライキを起こしかねないから困ってるの。 だから、話していい?」
 ハルヒが珍しく願書を申請している。 そこまで隠さないといけない話なのか?
 拗ねはしないが、気にはなるな。
 ハルヒがなぜ急に意見を変えたかも気になるところだ。
「……………うん、分かった。 じゃあ、またあとでね。 そうそう、キョンからお母さんに話す事があるから期待しててね。 じゃあ」
そういって電話を終了させたが、期待の元となる俺の伝達事項とはなんなんだ?
「決意表明に決まってるじゃない」
 いつ、どこで決められた何に対する決意表明なんだ?
「さっき、ここで決めた勉強に対する決意表明よ。 言ったでしょ? ちゃんとお母さんに伝えなさいって」
 ちょっとまてハルヒ。
 俺はまだ伝えるって決めてないぞ? 勝手に契約を取り付けるのは悪徳な先物取引と同じではないか。 そんな暴挙は罷り通らん。 今すぐクーリング・オフさせてもらう。
「悪いけど、そうやって愚図るあんたには実力行使が一番有効だってお母さんが前に言ってたのよ。 諦めなさい」
 前に? ……まさかと思うが、オカンが喋った俺の話って、
「そうよ、察しが良いわねキョン。 あたしがお母さんに教えてもらったのは、あんたの性格の話よ」
 俺専用のクレーム対応マニュアルってか? それを使って何をするつもりだハルヒ? 言っとくが弱味を握られたからって俺はお前に屈する、
「なんでそうなるのよ。 察しが悪すぎるわよバカキョン」

……どっちなんだよ?
「やっぱり察しが悪いわ。 あたしはただ、あんたの勉強の為に役に立ちそうな事をちょっとだけ教えてもらっただけよ?
 あんたが考えてる弱味になりそうな話は一つも無かったわ。 それともあたしに話すと不味い事があるのかしら? ねぇ、キョン?」
 動揺してつい口が滑らかになってしまった。 自ら墓石を作ってどうすんだよ俺。

「別に不味いことなどない。 そうでも考えないと隠す理由が見当たらないって推察に則った仮定の話だ」
「多分、あんたにいえば新しい対策を立てるからとかだと思うわよ? ホント、そういう往生際の悪さはピカイチなんだから」
 悪戯坊主に説教する頑固親父の態度になったハルヒに一言訂正をして頂きたい。 そこは往生際が悪いではなく、機転が利くと言ってくれ。 そうでないと俺が全面的に悪いみたいに見えるじゃないか。
「少なくとも勉強に関してはあんたが悪いわよ。 その今までの評価を見直してもらう為にお母さんへやる気を見せるだけなんだから、いい加減お縄につきなさい!」
 ハルヒ御老公によるお説教独奏会はお決まりの強制と言う紋所を使い、終演へのラストスパートを掛けてきた。
 こうなってしまえば白州に座らされている憐れな俺には、もう為す術がないのかも知れん。 だが、素直にそのまま従うだけでは割に合わん。
 どうせなら癖の悪い足でちょっとばかり掻き回させてもらうとしよう。
「わかったよ。 ただ一つだけお願いがある。 交換条件って奴だ」
「やっと従う気になったわね。 素直になるのは良いことよ? そうやって、ちゃんと言うことを聞いてくれるならあんたのお願いを聞いてあげなくも無いわ。 それで、そのお願いってなに?」
 先程まで磁石の同極同士みたいに反発しあっていたのが嘘だったと言わんばかりに、ハルヒは自らの特色とも言える剛直な優しさで編み上げられた巨大な風呂敷を使い、俺を覆い隠そうとする。
 そんな強引な甘言に騙されかけている単純な頭に正気と書いたお札を貼り付けながら希望を記したアンケートを提出した。
 お前にとっては取るに足りない希望かも知れないが俺には叶えられそうもない希望だ。 これぐらいは叶えてくれないと再び駄々を捏ねちまうからな?
「日曜日に飯を作ってくれるんだよな?」
「作ってあげるけど、それがどうしたの?」
「なら交換条件として毎週リクエストした料理を作ってくれないか?」

――いつだったか、思い出すのもひと苦労しそうなぐらい前に浮上した疑問。

『涼宮ハルヒとは何か?』

 この人類どころか宇宙史上稀に見る難解な問題はこれまでに味わってきた数々の体験を元に、ポワンカレ予想を証明した隠遁数学者と同じく明確な答えを導き出す事に成功した。

 その経験則によって導出された結論は以下の通りである。

『ハルヒはやっぱりハルヒであってハルヒでしかない』

 ……苦情の電話がひっきりなしに鳴り響きそうな安直なトートロジーに見えなくもないが、結局はこれに尽きるのだ。
 前代未聞で未曾有とも言える破天荒なあいつを既存のカテゴリーに分類出来ないのはハルヒを少しでも知る人間の総意であり総論だ。
 この行き詰まりを打開すべく、新しく『涼宮ハルヒ』というカテゴリーを設置するのはアインシュタインも認めてくれる程の画期的な名論であり適切な処置であろう。

 そんな唯一無二の存在である涼宮ハルヒだが、視野を広げるとある大きなグループの輪に辿り着くことが出来る。 朝比奈さんや長門や鶴屋さん、そして妹やミヨキチにも含有されている成分。

 それは、『女の子』であると言うことだ。
 ……いや、これに関しては様々な反対意見が俺の中に降っては湧いてを繰り返しているんだが、残念ながら認めなければならない部分でもある。
 非常に残念だが、居眠りしている時のあいつはそれ相応の寝顔だし、華奢でありながらも出る所は出ている体つきや独自の芳香はそう分類しなければ説明がつかない代物だ。
よって仕方なくだが、そう結論付けておいてやる。 仕方なくな。

 そのような抗えそうもない結論に至ったところで、ちょっとした願望が芽吹いた。 男性諸君なら少しはわかってくれるだろう取るに足らない願望である。

『女の子に自分の好きな料理を作ってもらう』

 大志を持った人間にはバカげた願望だと鼻で笑われそうな話だが、憲法で思想の自由は許されているんだ。 そういうバカな願望を持っていても悪くないだろ?
 そして、その願望を叶えられるチャンスがいま目の前に来たんだ。 たとえ、ハルヒであっても実行に移すのは常であり月並みの行動であろう。

 本当は朝比奈さんの嘉味な御茶と手料理で慎ましやかに持て成されるのがベストであり、優婉な彼女なら二つ返事で了承してくれそうなんだが、如何せんカテナチオを担っている団長様は俺に対しては特に手厳しく、
以上のような腹案はほぼ確実に愚案と決めつけられフリップスローでアウトフィールドへ投擲された後、いかに俺が愚かであるか八正道を用いて説教されることになるので、おいそれと強行する気にはなれない。

 したがって、団長自ら俺の細やかなリクエストを叶えてくれはしないだろうかと考えたんだが、頼めないか?

「いやよ」
 床に伏せた老人の無事を祈るように捧げた切なる願いはあっさりと却下された。
 この薄情者め。 だったら俺にだって考えがある。
 今、この時を持って、オカンに対して供述拒否権を発動する。 もう何と言われようが口を固く結んでやるからな?
「だって、そんなリクエスト叶えられるはずがないでしょ? 考えても見なさいよ。 毎週毎週、朝と昼にあんたが食べたい料理を際限なく作ってたら、エンゼル係数がどんどん上がっちゃうわよ?」
 いくらリクエストをすると言っても満漢全席や懐石料理を用意しろとは言わん。 自分の身の丈にあった要望を出すつもりだ。 それでもダメなのか?

「ダメね。 キョンのことだからどうせ栄養面は考えないで食べたい物だけを頼むんでしょ? そんな偏った食事にしたらみんな体を壊すわ。 却下よ却下っ」
 意外と栄養バランスにこだわってるんだな。
「自分で作るんだから当たり前じゃない。 今日の朝御飯だって一汁三菜だったでしょ?」
 確か一汁三菜ってのは汁物、主菜、副菜二品だったか? よく聞く話だが、それって何か重要な要素なのか?
「一汁三菜にすると栄養のバランスを考えるのが楽なのよ。 今日は基本的な料理に枝豆と切り干し大根の酢の物を加えるだけで済んだしね。 あんたのお母さんもこうやってバランスを考えて毎日食事を用意してるはずよ?」
 その言葉を聞き昨日のメニューを回想してみたが、どこにそんな配慮が施されているのかさっぱりわからん。
「だから、あんたには任せられないって言ってるの。 分かったら潔く諦めなさい。 あと、お母さんに話すのはもう決定したから今更反対しても駄目よ?」
 そっちについては有能なボディーガードを雇ってもを勝てる見込みがないので受容してやる。 その代わりこっちの意見も許容してくれよ。 ワガママなのは承知の上だ。 それでもお前に作ってほしいんだ。
 なぁ、どうにかならんのか?
「……そこまで作って欲しいの?」
「もちろんだ」
 ハルヒの類い稀な調理能力で俺の好物を作ってくれると考えただけでムチンとアミラーゼが多量分泌されてしまってな。 このまま引き下がれと言われても引き下がれそうにない。

「ふーん……そこまで言うんなら仕方ないわね。 それじゃあ、昼御飯に一品だけ要望通りの料理を作ってあげるわ。 言っとくけど、これ以上は譲らないわよ?」

 俺の熱意を買ってくれたのか、或いはしつこい俺に我を折ってくれたのか。
 どちらにせよ俺の請願書を受理してくれたハルヒはアフリカ大陸で蔓延しているデスポティズムの中にも、現代社会のシンボルであるリベラリズムを少しは採用してくれているようだ。
「恩に着る、ハルヒ」
「これで契約は成立したんだからちゃんと言いなさいよ?」
 面と向かって言いたかないが仕方ない。 いつまでも疑念を持たれているのは嫌と言えば嫌だしな。 穏便に話が済むよう思慮してみる。

「伝え方はあんたに一任するわ。 フォローは任せときなさい」
 ハルヒの頼もしい後ろ楯は10日間の砲撃訓練を終えた日本海軍の気持ちにさせてくれる。 これならバルチック艦隊を率いたオカンに勝利するのも難しくないだろう。

 とりあえず開戦前に必要な力は手に入れた。 次は闘う前に胃で食い物をこなさないとな。
「リクエストメニューなんだが、オムライスは大丈夫なのか?」
「他のメニューで栄養は補えるから大丈夫だけど、どんなオムライスを作って欲しいのよ?」
 どんな、ってオムライスはオムライスしかないだろ?
「違うわよ。 ソースの種類と卵の巻き方の話よ」
 あー……すまん。 具体的にどんなのが作れるんだ?
「ソースはケチャップとドミグラスソースが基本かしら? 変わり種だとホワイトソースとカレーソース、和風きのこに明太子ソースとかもあるわね。 巻き方は昔ながらのタイプの他に最近良くみるオムレツタイプ。 変なのだとチキンライスを混ぜた卵をそのままオムレツ風にするのもあるわよ?」

 なるほど、なるほど。 どれも趣向を凝らしてあって美味そうだな。 さてどれにしようか? これは迷ってしまうなー。
「嘘ばっかり。 そんな見栄坊になってもすぐ分かるわよ」
 バレたか。 バレてるなら正直に言うが俺にはどれにどんな食材を使ってて、どんな味がするのかよく分からん。
 聞いといてなんだが普通のケチャップオムライスで頼めるか? 巻き方も普通ので頼む。
「ならプレーンオムライスね。 他のもいつか作ってあげるわ。 機会があればだけど」
 料理人の腕章を付けている時はいつもより寛容的な姿を垣間見せてくれる。
 料理に対する直向きな気持ちが普段の傍若無人なハルヒを落ち着かせているのか。 はたまた、これが家族に料理を振る舞う時のハルヒなのか。
 まあ、今はそんなことはどっちでもいいか。 とにもかくにも腹が減ったから早く次の段取りへ行こう。

「じゃあ、買い物に出かけるとするか」
「そうね。 ここから近いスーパーってどこにあるの?」
「そんなに焦らなくても今から案内する。 それより買う食材は決まってるのか?」
「あたしを誰だと思ってるの? 食材選びどころか既に頭の中で料理が出来上がってるわよ」
 そいつは余計な御世話だったな。

「ところでさ、キョン」
「何だ?」
「あんたって、他になにが好物なの?」
 急に何かと思えばそんなことか。 えっと、そうだな……オムライス以外で好きな食い物と言えばハンバーグ、唐揚げ、グラタン、シチュー辺りか。 たこ焼きやお好み焼きも好きだな。
「ふーん……ねぇ、キョン」
「何だ?」
「あんたって、意外とおこちゃまね」
 何でそうなるんだよ?
「ふふ、だって子供が好きそうな食べ物ばっかりじゃない」
 年上と勘違いさせるその控えめな微笑が、あの時のハルヒと重なり言葉が詰まってしまう。

まったく、変なサプライズを用意しやがって。 今のお前にその表情が出来るなんてこっちは聞いてなかったぞ?

 ローカル局のCMではお馴染みとなっているハトのKマークが目印の大型スーパー。
 そのオカンが行き付けにしているスーパーは自宅前にある、初心者マークが貼られたMT車ならエンストを起こしかねない急な坂道を真っ直ぐに南下していった先に見える信号機を渡ると到着する。
 日曜日の今日は親子で参加できるイベントを開催しているためか、蒸し蒸しとした梅雨特有の天候でありながらも大勢の家族連れが溢れかえっていた。 ……妹の友達が居なければ良いが。
「あんたのお母さんもここが行き付けなのね。 こっちの店舗でもカエルの着ぐるみはあるのかしら?」
「あったとしても、バイトはやらんぞ?」
 あれを好んで着たがるのは赤いヒゲ野郎だけだ。 俺らには似合わん。
「一着あれば充分だから、もうやらないわよ」
 それならいい。
「じゃあ、あたしは野菜を買ってくるからキョンは鶏ムネ肉100g、ベーコン1パック、ハム1パックを買ってきてちょうだい。 ムネ肉よ? モモ肉と間違えるのはギリギリ許すけど、ササミとは絶対に間違えないでよね?」
 そこまで念を押し付けられると逆に間違えちまう。 それはそうとハルヒよ。 またまた気になったことがあるんだがいいか?
「まさか鶏肉の違いについて説明しろ、とか言わないわよね?」
 技術の方は皆無だが知識の方は小匙程度はあるつもりだ。 三つの違いはなんとなくレベルだが理解してる。 そうじゃなくて、何でモモ肉を敬遠するんだ? オカンのチキンライスはモモ肉を使ってるぞ?

「あたしはチキンライスと卵にバターを入れるから、その分脂身が少ないむね肉を使うのよ。 でも、それだと味が物足りないからハムも一緒に使うってわけよ」
 つまりオカンのやり方は間違ってるってことか?
「料理は人によって色々な好みがあるから間違いじゃないわ。 間違いって言えるのは真っ黒に焦がすのと調味料の分量ミス、後は不必要な調味料や相性の悪い食材を入れた時ぐらいかしら?」
 なら、安心だ。 俺の家では家訓によって鶏料理=モモ肉といった等記号が家族全員に付箋されててな。 てっきり根本的な部分に誤りがあるのかと思っちまったよ。

「そうなの? だったら、あんたのリクエストだし食べ慣れてるモモ肉にしてあげても良いわよ?」
 いや、ハルヒが作るんだからハルヒの好きにやってくれていいぞ。 そうでなければお前に作ってもらう意味が無いからな。

「じゃあ、期待以上のオムライスを作ってあげるから覚悟しときなさいっ」
 では、期待以上の期待を持って覚悟しておくよ。

「ちゃんと食材は持ってきたわよね?」
「おわっ! ……は、ハルヒ?」
「なに驚いてんのよ。 大袈裟すぎよ」
 言われた食材を手に持ち、指令を出してきたカゴ係兼料理人を探していると、俺の背後から南伊賀の名人と呼ばれた忍者のごとく出現したハルヒは俺の心臓の早送りボタンを勝手に押してきやがった。
 びっくりさせないでくれ。 普段は可視化できるほどの気配を放っているのにそんな事も出来るのかお前は?
「忍び足で近付いたつもりはないわよ? あんたの注意力が欠けてるから気付かなかっただけでしょ?」
 そうかも知れないが、ここはナイロビやヨハネスブルグじゃないんだ。 わざわざ注意深く周りを確認して警戒する必要はないと思うんだが?
「甘い、甘いわキョン。 ステビオシードよりも甘々ね」
 それだと様々な分野で役に立てるかも知れんな。 将来的なノーベル賞の受賞も視野に入れておくか。
「バカキョン。 そんな呑気な事を言ってるから集中力が持続しないのよ。 もっと意識を張り巡らせなさい。 そうすれば目を瞑ってても戦えるようになるわ」
 どこの向こう見ずなクライムファイターだ、それ? 言っとくが俺は悪を狩るハンターなんてなりたかないぞ?
「まぁ、それは冗談として、」
 本気なら困る。
「普段から集中力を高める練習は必要よ?」 例えばどんな方法だ?
「そうねぇ……とりあえず、それを説明する前に、」
先に買い物を済ませる方が先決だな。
「こんなところで話すのもなんだしね」

 買い物を終えた帰り道。 乗ったままだと話しにくいので手で自転車を押しながら、ハルヒ先生のありがたい講座を聞くこととなった。
「実は集中力が無い人間はいないのよ」
「俺のこと散々散漫だと言ってたのはどこの誰だよ?」
 あれも冗談だったのか?
「散漫ってのは集中力が欠けてることを言うのよ。 あんたみたいに勉強が長引くと他のことを考えちゃうのが、まさにそれね」
「そんな素振りを見せてるつもりは無いんだが、なぜ分かるんだ?」
「目があっちこっち動く、溜息が増える、姿勢を何度も正す。 これだけ挙動がおかしかったらわかるわよ」
「そんなにチェックしてたのか?」
「べ、別にチェックしてたつもりは無いわよ? ただ、あんたの動きって嫌でも目に付くから覚えてただけよ。 ホント、良い迷惑よ」
 そりゃ悪かったな。 だが、解りやすいハルヒの勉強でも時間が経つに連れて、つい気が散ってしまってな。
「誰だってずっと集中力が持続している訳じゃないわ。 問題はその集中が別の所へ移ってる事ね」
「どうすれば集中できるんだ?」
「さっき『三昧』の話をしたでしょ?」
 またその話か。 何と言われようが絶対に嫌だからな。
「まだ何も言ってないじゃないっ」
「寺へ修行に行かせようという魂胆なんだろ?」
 そんな方法は御免被る。
「もう、一体何が不満なのよ?」
 毎日朝早くに雑巾で廊下を拭かされた後、坐禅を組まされたあげく警策で滅多打ち。 加えてオプションは坊主の刑と饑い食事ときたもんだ。
 普通は素人がそんな難場に出向こうなどと思わんだろ? 行った時の事を考えただけで冷や汗が出てくるぜ。
「偏見にも程があるわね」
 本当の所は知らないが、そんな感じなのは間違いではないだろ?
「本物の修行なら兎も角、プチ修行だとそんな事しないわよ」
「プチ修行?」
 なんだそれ?
「坐禅をする為だけにお寺へ行ったり、一泊二日の体験修行をするのを最近はそう言うらしいわ。 今、ちょっとしたブームになってるんだって」
「そんなのもあるのか?」
 泊まり掛けは勘弁だが坐禅だけなら行っても……て、良く知ってるなそんな事。

「中間テストが終わってからパソコンで調べたのよ。 ちなみにあんたが言う饑い食事ってのは朝食だけよ? お昼は山菜や豆を使った豪華な精進料理が待ってるわ。 どう、泊まる気になってきたでしょ?」
「坐禅だけなら良いかもな」
 どうせなら皆で行くってのも悪くない。 そっちも飯は付いてくるんだろ?
「付いてくるけど御昼だけよ? それより、あんただけでも一泊してきた方が充実した修行生活を過ごせると思うんだけど?」
「朝食は必要ないんだから日帰りで充分だ」 それとも泊まる事で何かメリットがあるのか?
「……何も無いわよ」
 内戦中の国内報道の規制みたいに都合の悪い事があるのか、露骨に目を逸らしやがった。 これは何かある、じゃなくて何か企んでるみたいだな。 メリットではなくデメリット的な何かが。
 執拗に俺だけを泊まらせようとするのも怪しい。
「何を隠してる? 正直に言ってくれ」
「何も隠してないわよ。 あんた団長を疑う気? それなら、」
「言ってくれ」
「……ちょっと、目が据ってるわよ? そういうのはあんまり感心、」
「言ってくれ」
「……分かったわよっ。 言えば良いんでしょ、言えば! もう!」
 危なかったぜ。 もう少しでトラバサミに引っ掛かるところだった。 ハルヒの事だ、引っ掛けた挙げ句恩返しを強要してくるのが目に見えている。
「何で罠に嵌めようとしたんだ?」
「罠じゃなくてカリキュラムの一環よ。 言うこと聞いてくれない雑用係を矯正する為のね」
 今、物騒な言葉が混入されてたぞ? 矯正ってなんだ、矯正って。
「何日か修行する事で集中力を高めさせるのと同時に俗物根性を叩き治してもらおうって胸算用だったのよ。 早起きの習慣を身に付けさせるのも目的の一つね」

「何日か、ってどういう事だ?」
 泊まるなら一泊だけなんだろ?
「内緒で古泉君の親戚のお寺へ向かわせようと思ってたのよ。 古泉君の話だと16日間ぐらいは面倒を見てくれるって言ってたしね」
 とんでもないドッキリ企画だなおい。 既に古泉も一枚噛んでたとは。 しかも、16日だと? そんな暇がいつあるんだってんだ?
「あんたのお母さんに修行のことを相談したら、『田舎へ行く代わりに修行させましょ』って言ってくれたのよ。 時間が空いて良かったわね」

 ここまで話を聞いておかしな点を発見してしまった。 どういう意図でそんな事をしたのかわからんがこれは聞かなければならないな。
「……なぁ、ハルヒ?」
「何よ?」
「その話も嘘だな?」
「……嘘って、本当のことを話してるのにどこをどう嘘を付くって言うのよ?」
「順序が違うだろ?」
「………違うって何が違うのかしら?」
 やっぱりな。 おかしいと思ったんだ。
 夏休みはお盆まで田舎へ泊まるため16日間も滞在するが、その滞在期間と修行期間が合致してるのはいくら何でも都合が良すぎる。 普通、区切るとしたら二週間か15日が相場だろ?
 その違和感を元に考えたら答えはすぐに見えてくる。
「話の出所はオカンの方だな?」
「…………」
「要望があった後、パソコンで調べて古泉に相談したって所か。 大方、昼の情報番組辺りで紹介されてたのをオカンが見たんだろ? で、そこから本格的な修行をさせようとオカンが目論見を立てた。 全く、酷い話もあったもんだな」
 夏休み中は修行僧をやっていたなど笑い話にもならん。 いや、それ以上に解せない所がある。
「勉強を任せられてるからってお前がオカンの要望を叶える必要は一切ないんだぞ?」
「……だけど、お母さんはあんたを心配して提案を出してくれたのよ?」
「勉強をするといったがオカンの為に勉強をするつもりは一切ない。 ましてやオカン首謀の計画をそのまま請け負うなんてのは受け入れ難い話だ」
 ハルヒには感謝しているが、流石にそこまで許諾はできん。

「オカンには俺から言っとくからその二週間の修行は取り消しといてくれ」
「あんたが何を思って拒否するかは知らないけど……わかったわよ。 でも、折角調べたんだし日帰りの方は行くわよ?」
 それは良いがどうせなら皆で行こうぜ? その方がやる気が出る。
「良いけど、遊びじゃないのよ? ちゃんと今後の為に学ばないと行く意味がないんだからね?」
 そこは問題ない。 お前が居れば嫌でもやらされるしな。
「どういう事よそれ?」
 蛇のように睨みを利かせないでくれ。 今のは勉強と同じで監視されてる方が真面目にやれそうだって意味だ。 他意は無い。
「はぁ……あんたに自主性を求めるのは無理なのかしら?」
 今の俺にそれを求めるのは当たりが入っていない回転抽選器に当たりを求めるのと同義だな。
「それ、偉そうに言えた義理じゃないわよ?」
「こればっかりは仕方ない。 そこは長い目で見守ってくれ」
 いつか、一等を仕込める時がくるまではさ。
「……やむを得ないってことで今は目を瞑っておくわ」
 納得してくれて助かる。 次はこっちから質問していいか?
「何かしら?」
「なぜオカンが言ったことを隠したんだ?」
 冬休みに行った別荘で開かれた推理大会。 そこで出された問題を鶴屋さんと一緒に華麗に解いちまったんだ。 俺でもすぐにわかった16日の違和感にも気付いて、二週間か15日に修正をするぐらいはやるはずだ。
 それでも修正液を使わなかったのを考えると、オカンから自分発信に順序を変えたのは、さっき思いついた事なんじゃないか?
「……その通りよ」
「それは、さっきオカンとの会話内容を話す気になった事と関係してるのか?」

「……そうね。 関係あると言えばあるわね」
 もし、差し支えがないんなら話してくれないか?
「…………」
 俺の問い詰めにハルヒは喉に魚の小骨が刺さった時のような顔付きになった後、躊躇いがちにポツポツと話し始めた。
「あんたと、お母さんって、仲……悪いんでしょ?」
「……なんだそれ?」
 どこから誤解が漂流してきたのか知らんが、そんな事実は何処にも存在しないぞ?
「嘘ばっかり。 高校受験の時はずっと文句を言ってたんでしょ? それに今だって本当のことを伝えたら、お母さんの文句を言ったじゃないっ?」
 そりゃ、誤解だハルヒ。 今の苦情はオカンに対してじゃなく、勉強に余計な差し出口をしてた事に対する物だ。
「じゃあ、前に聞いたんだけど、朝起こしてあげる時にいっつも文句を言うってのはどういう理由があるって言うのよ?」
 ……それはお前が良く知ってるだろ?
「何であたしが知ってるのよ?」
「俺を起こす時、文句を言われたって朝に怒ってたじゃないか?」
「……え? もしかして、お母さんはあの事を言ってたの?」
 多分そうだろ? それに関しては悪いと思うが、自覚が無い寝言を非難されてもどうすることも出来ん。
「じゃあ、お母さんのこと嫌いじゃ……」
 ないに決まってるだろ? むしろ学校がある時は毎日弁当を作ってくれてる事に感謝してるぐらいだ。
 ……言っとくがこれはオフレコにしといてくれよ?

「感謝してるんなら、面と向かってお母さんに言いなさいよ。 誤解も解けるし、万々歳じゃないっ」
 それは……ほら、あるだろ? こう……なんて言うか……あれだよ、あれ。
「まさかとは思うけど、恥ずかしいとかじゃないわよね?」

 ははは、何を言っているんだいハルヒさん?
 恥ずかしい? バカを言っちゃいけないね。
 ほら、あれだあれ。 この年になると酸いも甘いも噛み分けたせいで言葉を直球で投げる事に物足りなさを感じてしまってな。
 それならと制球や変化球を軸に今まで培ってきた経験という部品をカスタマイズさせた技巧派へ転向したんだが、その代償なのか伝達方法が極端に歪んでしまった訳でな……。
 つまり何が言いたいかと言うと、
「年寄り臭いこと言って誤魔化そうとしてる けど、要するにお母さんに感謝するのが恥ずかしいって事でしょ?」
「いや、別に恥ずかしさは微塵も無いんだが、言う機会になかなか出会えなくてな」
 出会ったと思ったら1ターンで逃げてしまったりと色々困り果ててる所なんだ。 全く、逃走率を極端に上げた開発者には一言物申したいね。
「だったら、もう一回電話してその機会を作ってあげるわ」
 え? いや、そんな機会は必要ないと思うぞ? それに考えても見ろよハルヒ。
 いきなり脈絡も無しに「ありがとう」を詰めた怪しい小包を渡してみろ。 置場所に困るし、かといって無下に捨てる事も出来ない。
 結局オカンを困らせるだけにしかならないんだぞ? だったら迷惑を掛けないよう相手に渡さない方が無難だ。 ほら、やっぱり必要ない。
「……あんた、今まで母の日とかのプレゼントはどうしてたのよ?」
 不適切発言をしてしまった政治家が開いた辞職会見に集った記者の顔で更なる追及をしてきたハルヒに仕方なく事実を供述する。

「……渡したことないな」
「あんたねぇ、そんなことが許されると思ってるの?」
「そうは言うがハルヒ、お前はどうなんだよ?」
 その言葉の段差に躓きそうなったハルヒだったが慌てて立て直し、俺の諮問に受け答えた。
「毎年渡してるわよ? 当たり前じゃない」
 毎年渡すのが当たり前……だったのか? そんな話を周りと交わした事がなかったから知らんかった。 何を渡してるんだ?

「別に大した物じゃないわ。 普通にカーネーションとか……って何であたしの話をしなくちゃいけないよっ? 問題はあんたの事でしょうがっ」
 話したくなかったのか、誘導員に正式なコースとは違う道を案内されたことに気付いたマラソンランナーのごとく憤慨している。
「これからの参考にしようと思って聞いただけだ。 悪かったよ」
「これから? なに寝惚けた事言ってるのよバカキョンっ。 いますぐお母さんに感謝を言いなさい!」
 真面目にやると決めた物事には全力投球をモットーにしているのはわかっていたが、今はそれに輪を掛けてお怒りになっており、燃え上がった憤激を現在進行形でもくもくと膨らませてらっしゃる。
 どうやら、知らぬ間に逆向きになっている鱗に触れてしまったようだ。
 宥めて場を鎮静化したいが下手に灼熱と化したハルヒへ冷却物を渡せば水蒸気爆発を起こしかね無い。 ハルヒ自身が冷めるのを待っていられる程余裕も無さそうだ。
「問答無用であんたが悪いんだから四の五の言わせないわよ? わかったら、直ちに伝えなさい! お母さんに感謝してるんでしょっ?」

 思案に耽っている俺へ矢継ぎ早に繰り出した言葉はハルヒらしい強引さが先立つものの、深部には廉潔さが備わっていた。
 その根幹に親思いなどという言霊がある以上、下手に反論をすれば親に反抗していることとなり、自らの首を絞めることになるんじゃなかろうか?
 だったら、反論を用意して惨めという谷底に転げ落ちるぐらいなら、いっそのことハルヒの言い分を享受する方が選択肢として正しいか……。

「わかったよ、伝えればいいんだろ伝えれば。 だが、伝えるなら勉強の話と一緒の方が良いんじゃないか?」
「なんでよ?」
 わざわざ言葉にしたくはないが根拠が無ければ許してもらえないんだろうな……。 仕方ない、言ってやるよ。

「一緒に話した方がオカンも……まぁ、なんだ……喜んでくれるんじゃないかなぁ……とか思ったりしてだな……」
 正体不明の熱風により変な汗が全身から滲み出てきた。 逆に自己冷却装置が働いたハルヒは見る見る内に温度が下がっていき、本日一番の晴れやかな表情を浮かべている。
 本日も数多の討論大会で負け戦を積み重ねてきたが、精神的ダメージを考慮するとこれは完敗と呼べる試合になりそうだ。 もう少し、勝ち星を譲ってくれても良いのによ。

「うんうんっ! そうね、それは良いことだと思うわ。 じゃあ、帰ってきたらキッチリお母さんに伝えるのよ?」
 この笑顔を見ていると、敗北者としての悔しさが浮かび上がってこないのが尚のこと質が悪い。 そんな状態を甘受している俺はもっと質が悪いかも知れないが。
「へいへい、伝えさせていただきますよ、団長閣下殿」

 ガチャ パタンッ

「ただいまーっ!……って誰も居なかったわね」
 落雷のように轟音を奏でる普段の開閉と違い、至って普通にドアを開け、至って普通に閉めたことに驚かされる。 それが出来るならいつもやってくれないか? 部室のドアはお前専用のサンドバッグじゃないんだからさ。

「お腹が減ったし、さっさと作りましょ」
「あとは任せた。 俺は椅子にでも座って大人しく御馳走を待っておくとするよ」
「なに言ってるのよ。 あんたも手伝うのよ?」
 まさか俺をスカウトするのか? 悪い事は言わん、止めとけ。

「お母さんも言ってたんでしょ? 『働かざる者食うべからず』って。 出来ないなりに何か貢献しなさい」
 どうやらパウロの有り難迷惑な言葉は多少変化しつつも、現在社会に根強く息衝いているようだ。 出来れば廃れていて欲しかったね。
「ホントになにも出来ないぞ?」
 料理と言ったらトースターにパンを入れる作業ぐらいしかやった事が無い。 ついでに言うと包丁やフライパンを握った回数は両手で数えるぐらいだ。 こんな俺にお前は何をやらせるつもりなんだ?
「ピーラーで皮を剥いてもらうわ。 あと、あんたの為に作るんだから味見はしなさいよね?」
 味見は是が非でも参加したいが、ピーラーってなんだ?
「皮剥き器の正式名よ。 後はキッチンで説明するからさっさと行くわよ」
 そう言って先に台所へ向かうハルヒに子分のように付いていく。 ……これじゃあ、どっちの家かわからんな。

 慣れた手付きでエプロンを着け、ポケットにあったゴムバンドで髪を後ろにまとめる姿を眺めていた俺にキッチンタイムを告げてきた。 うん、こうやって手伝うのも偶には悪くないな。
「じゃ、始めるわよ」
「よろしく頼む」
「あたしは玉葱を切るからそれまでに終わらせなさいよ?」
 勝負事が好きなのはいいが、それを今持ち出すのは勘弁してくれ。 赤ん坊と大差ない技術の俺には土台無理な話だ。
「冗談よ。 ピーラーでも刃物に変わりないんだから急かしたりしないわ。 ドジなあんただと怪我するかも知れないしね」
 言われるほど、ドジなつもりは無いがトチらない為にも自分のペースでやらせてもらうよ。

 トントントントン

 長年やっているからなのか、ハルヒの包丁捌きは目を見張る物があり、手元にあった玉葱はシュレッダーに掛けられていくように細切れになっていく。 それに比べて俺はまだ一つ目のジャガイモに悪戦苦闘している所である。 悔しいが才能の差って奴か。
「なに馬鹿な事言ってんのよ。 あんたのはただ単に要領が悪いだけよ」

「どうすりゃ要領良く出来るんだ?」
「自分で考えなさい……って言いたい所だけどそのままだと朝まで掛かりそうだから、教えてあげるわ」
 俺の手元にあったジャガイモとピーラーを引っ掴み、本日何度目かの講義が始まった。
「キョン、剥いてる時になんか困ったことは無かった?」
 皮だけを剥こうと力を加減しても肉厚になったり、それが原因なのか皮が詰まったりで大変だな。 刃が悪いんじゃないだろうか?
「それは下手だからよ」
 にべもない指摘に大気圧の実験で潰される一斗缶みたいな気分になる。
「そんなにヘコまなくて良いじゃない。 コツさえ掴めばあんただって出来るわ」
 それだと良いんだがな。
「じゃあ、始めるわよ」
 そう言うとハルヒは片手で掴んだジャガイモの頭を真正面にし、ピーラーの刃を置いた。
「ここから……」
 真っ直ぐにどんどん動かしていき、途切れる事なく綺麗にお尻まで剥いていく。 皮の厚さも均一で無駄がないな。
「こうやってピーラーは少し角度を付けて下に動かすだけでいいの。 その代わり角度が変わらないように剥く側を動かせば丸い物でも綺麗に剥けるわ。 大事なのはピーラーじゃなくてジャガイモを細かく動かす事ね。 あと、」
 皮を剥いたすぐ右側の剥けてない部分に刃を添える。
「同じく剥いていくんだけど、さっき剥いた部分も少しだけ一緒に剥いていけば……」
 先程とは違い、カタールの国旗に似た模様の皮が出来上がっていく。 しかし、何でそんな事をするんだ? 食べられる部分が勿体ないだろ?

「こうすると剥き残しが無くなるから二度手間にならないのよ。 と言ってもジャガイモの場合は色で分かるし、ゴツゴツしててどうしても剥き残しが出来るからしなくて良いんだけどね。 ただ、大根とかだとパッと見で皮と区別が付かないから、こうやって剥いていけば皮が残ったりしないってわけ」
 わざわざ大根のパターンまで教えてくれたって事か。 それはありがたい。 勉強と同じく丁寧な教え方だった為、頭で言葉を噛み砕かずに咀嚼出来た。
前から思っていたが雪山のスキー講座で奇妙なオトマトペを使って妹にコーチをしていた時とはえらい違いだな。
もしかして、ハルヒは状況によってフィーリングで対処するかロジカルに対処するかを判断して行動に移しているのだろうか?
そう考えると論理的に習得した勉強や料理はその手順に沿って教えるので比例して丁寧な説明になると。 可能性はあるな。
「早速やってみる」
「上手くなったからって急いでやるんじゃないわよ? ルーチンワークと同じで中途半端に慣れた時が一番危ないんだからね?」
「わかった。 気をつけるよ」
 注意喚起され、心にある紐をしっかりと締めて再び皮剥きに従事する。

 ジャガイモの頭を真正面にして、

 ……ふぅ、やっと終わったぜ。
「どうだハルヒ、上手く皮が剥けただろ?」
「……丁寧な仕事って言えば聞こえは良いけど、ゆっくりやりすぎよ。 こっちはスープとオムライスの材料、全部切り終わったわよ?」
「……教えを忠実に守ったのに酷くないか?」
「なに? 褒めて欲しいの? もう、仕方ないわねぇ。 じゃあ、頭をこっちに向け、」
「謹んで固辞させてもらう。 それより人参はもう剥いちまったのか?」
 折角ならハルヒの言った大根のパターンもやっておきたかったんだが時間を掛けすぎたし、致し方ないか。
 て、どうしたんだハルヒ? 母国では考えられない習慣に触れて、カルチャーショックを受けたホームステイ中の留学生みたいに眉を顰めてよ。

「なんで人参を剥くのよ?」
「なんでって皮が有るんだから普通は剥くだろ?」
「人参の皮なら出荷前にもう剥いてあるじゃない。 これ以上剥いたら栄養がたっぷりある外側を捨てることになるわよ?」
 ……冗談だろ?
「嘘をいう訳ないでしょ。 外側の内鞘細胞って所にはグルタミン酸、カロテン、ポリフェノールとかが沢山入ってるの。 ここを捨てたら人参を使う意味がないわよ?」
 先入観が誤った情報へと誘導してしまっていたようだ。 今までの常識を覆され、鎌倉時代の始期が諸説ある事を知った時ぐらいのショックを受ける。 オカンはこのことを知ってるのだろうか?

「ここからはあたし一人でやるから、味見の時まであんたはリビングで待ってなさい」
「仕事はあれだけなのか?」
「これ以上させても出来ないでしょ? それとも自分で作ってみる? サポートならしてあげるけど?」
 必死に懇願した意味が無くなるので辞めておこう。 失敗でもしたら目も当てられないしな。 だが、これだと俺がやる必要は無かったんじゃ……
「俺、必要だったか?」
「急になによ?」
「いや、ジャガイモの皮剥きしかしていない上に、時間もかなり掛かってしまったからさ」
 これならお前がさっさとやった方が手間にならんかっただろ?
「役に立つかは重要じゃないわ。 こういうのは手伝うって事が肝心なのよ」
 そりゃ、どういう……と続けようとしたが警察犬に指示を出す訓練士の目で制された為、黙ってリビングに引っ込むことにした。

 手伝うことが肝心……か。 それは普段も雑用係の任務を真っ当しろってことなのだろうか?

 リビングへ下がったあと間を置かずに香りや音がキッチンから漂ってきた。
 肉が焼けた香ばしい匂いが漂う部屋に様々な食材が入る音が追加され、熱せられた鍋と水分が接触する独特の音が更に加えられた直後、クイズ番組の解答権利者を誇示するかのごとく玄関のチャイムが鳴り響いた。

ピンポーン

「キョンっ。 お客さんみたいよー」
 ……ハルヒの中では大差がないのか先程から自分の家だと言わんばかりの振る舞いを見せる。 相手に聞こえれば変な誤解を生みかねないので少し静かに知らせて欲しいね。
「早く出なさーい」
 はいはい、わかったよ。

 玄関へ向かうまでに頭の中でパドックを作成したが、並ぶ人間はどれも俺に馴染みがないオカンの知り合いだらけになっていた。 これでは、素人の予想にしかならないので今日はお休みとさせて頂こう。
 問題の対応だが、一つ面倒臭い事象がある。
「訪問販売はまだ良いが、オカンの知り合いだったらヤバイよな……」
 普段なら当たり障りのない対応で問題ないんだが、気になったハルヒがこちらに来たら途端に大問題へとランクアップしちまう。
 もし、オカンの知り合いだった場合、ハルヒとの関係を歪曲させた井戸端会議が開催されるかも知れない以上、何としてもそれは回避するべきことであろう。
 噂ってのは予想外の動きを見せるのは古泉も言ってたしな。 会話内容についてはすっかり忘れてしまって全く思い出せないが。
 何はさて置き、ハルヒの靴は隠して置くべきか……。
 思い浮かんだ懸念材料を頭で煮込みながら、あれこれ対策を考えつつドアスコープを覗いたわけだが、
「……おいおい、何でお前がここに居るんだよ?」
 頭の煮込み料理は全て捨てる事になっちまった。

 ガチャ

「やぁ、キョン。 久し振り」
「あぁ、久し振りと言えば久し振りだな佐々木」
 玄関の前で佇んでいた人物。 そいつは紛れもなく俺の顔見知りであり、親友の佐々木であった。
「とりあえず中に入ってくれ」
「おじゃまさせてもらうよ」

 パタン

「お前が事前の連絡もなしに来るとは思わなかったぜ」
「前にも話したが僕は情動に支配されて突発的な行動に出る程、軽薄な人間では無いつもりだよ」
 だったら連絡をくれても良かったのではないか?
「それについてはすまない。 しかし伝えることでのデメリットを思慮した結果、説明なしで訪問する方が良いといった考えが上位ニューロンから下位ニューロンへと伝達され、肉体が行動を起こしてしまってね。 これに関してはもう少し精査する必要があったかも知れない」
 ハルヒにはああ言ってたが、やっぱり変なことに巻き込まれてたりするのか?
「そういったデメリットではないから安心したまえ。 それに僕自身の問題ではなくキョン、君の行動をシミュレートした時に検出されたデメリットだよ」
 俺にデメリットが存在するなんて、それこそ気が気でないんだが。
「それもここに到着することで問題は取り払われた。 君の落ち着きのなさを見たところ涼宮さんは奥に居るんだろ?」
「今は料理中だがハルヒに用があるのか?」
「涼宮さんと君に用事がある。 今朝話した同窓会についてね」
 それを聞かされ訪問理由は納得出来た。 だが、まだ理解が及ばない所が存在する。
「ハルヒに用ってどういう……」
手始めにハルヒと同窓会の関連性を聞き出そうとしたが、背後に感じた気配に気付き咄嗟に振り向く。

「あれ? 佐々……木さん?」
「こんにちは。 涼宮さんとは四月のあの時以来になるのかな?」
「あ、うん。 確かそうだったと思うわ。 久し振りね、佐々木さん」
 きょとんとしたハルヒだったが佐々木の挨拶を返す事で平静を取り戻した。 常にペースメーカーとして機能しているコイツだが、佐々木のペースには少し乱されるらしいな。
「あとで連絡するってそういう意味だったのね。 てっきり電話を掛ける事だと思ってたわ」
「今朝まではそれで済まそうかと考えていたんだけどキョンの場合、涼宮さんに報告すべき事も話さない可能性があるからね。 一緒に伝えればそんな問題も無いと踏んで、急遽訪ねる事にしたんだ」
おい、佐々木。 お前なら余計な推測は誤解を招くと知っているだろ?
 見ろ、ハルヒという砲台が俺を標的と判断し睨め付けているではないか。 今日は散々苛められて疲労困憊なんだ。 これ以上問題を持ち込まないでくれ。
「佐々木さん、お昼はもう済ませたの?」
「塾が終わってから、すぐにここへ来たから何も口にしてなくてね。 手短に話をして早く帰ろうと思っている所さ」
「それじゃあ、多めに作ったから一緒に食べながら話しましょ。 キョンがまだ伝えていない同窓会の話……すごく、すごーく興味があるわ」
「報告後は早急の帰宅を考えていたが、迷惑でなければ善意に甘えさせてもらうことにするよ」
 サン・フェルミン祭に強制参加させられた俺は不運にもハルヒという猛牛にロックオンされ、逃走しなければならなくなっちまった。
そのまま逃げ切れる可能性はアルカトラズ島にある刑務所から脱獄するよりも困難だろう。 緊急回避として柵外へフェードアウトしたいが、それを許してくれる奴でないのは良く判っている。

なら、どうするか?

こっちが聞きたいぜ。

「言っとくが、隠してることは何も無いぞ?」
「それを判断するのはあたしであって、あんたじゃないわよ。 佐々木さん、すぐに用意するからリビングで待っててちょうだいね」
 俺の言葉は意に介さず、獲物を狙うチーターの足取りでキッチンへ戻って行った。 基準に片寄りがあるハルヒがマトモな判断を下してくれるとは思えん。
 残った首の皮1枚を守り抜くには佐々木の力を借りるしかないようだな。

「食事をするのは言いが、弁護士として俺が無実であることは証明してくれよな?」
「僕は証人喚問への出頭を志願した立場でね。 悪いけど弁護人として君の期待には答えられそうにない。 もちろん、涼宮さんに協力するつもりもないよ。 宣誓書に則り、有りの儘の情報を伝えるだけさ」
 だったら、ハルヒが曲解の道へ行かないよう正確な情報を供述してくれ。 そうすれば俺が無実である事が立証されるはずだ。
 立証も何もこの話で法廷台に立たされる謂れはないんだがな。
「日本に在住している以上、精神的自由権は約束されているが、マナーとして上司である涼宮さんへの報告は怠ってはいけなかったと思うね。
特に君は勉強で涼宮さんに助けを借りている身なんだ。 スケジュールの調整もある中、同窓会の話を伝達しなかったことを正当化するのは少しばかり難しい」
「ハルヒの制裁を受け入れろと?」
 ここ最近、無茶な行動は減ったがあいつの思想が衣替えをした訳じゃないんだ。 久し振りに罰ゲームを執り行えると喜び勇んでいるかも知れん。 考えるだけで鳥肌が立っちまうぜ。
「そうは言ってないよ。 大切なのは涼宮さんの言い分と君の言い分を汲み取った妥結案を考えることさ。
どちらか一方の言い分を傾斜してわだかまりを作るのはこれからの勉学の妨げになってしまうからね。 君達の和親を取り結ぶ為なら協力は惜しまないよ」
 歴史上、和親と付いた条約で平等だった試しがないと思うんだが……。

「国家の威信を守る為、より自分達に有利な条件をお互いに提示し、弱国が強国のそれを受け入れなければならないのは仕方ない事さ。 安政の五ヵ国条約では日本の外交能力がないのを良いことに様々な不平等条件を突き付けたのは有名な話だね。
現代だと核拡散防止条約も非所有国からすれば不平等と捉えることもできなくはない。 しかし、君達はそんな堅苦しい関係ではないだろ?」
 違うとハッキリ言えるが、弱い立場はどちらか?と問われれば間違いなく俺だと断言出来ちまう。 自分で言ってて悲しくなってくるが。
「弱い、と一口で言ってもその概容は種々に渡る。 君の場合、社会的立場の差違が主だと思うが、悪辣な上下関係が形成されていたりするのかい?」
「悪辣まではいかないがハルヒと俺の力の差はそう易々と埋められる物ではないのは確かだな」
 俺がハルヒに強制労働を課せられた回数は団内で一番と言っていいだろう。 正に権力の横暴である。
「詳しくは知らないが勉強や食事面で支援してくれている現状を見た感じでは、横暴が先行しているとは到底思えないね。 物事の側面だけを見て思考が偏重傾向になるのはキョン、君の悪い癖だよ。
僕のアドバイスとしては涼宮さんを見る角度を少し変化させて見てはどうだろう? そうすれば涼宮さんの違う部分が少しは見えてくるんじゃないかな?」
「角度を変えてもハルヒはハルヒでしかないと思うんだが」
 なにを思って俺に力添えしてくれるかは、団長だから団員の面倒を見るのは当たり前、って使命感に尽きるはずだぜ?
「君の結論は二人が構成している間主観的領域から抽出された情報の中でも高次の主観性を保有しているのかも知れない。 しかし、それは涼宮さんの中にある一つの情報の可能性であり、涼宮さんの心中全てではないはずだよ?」
 良くわからんがハルヒの全てを理解出来ているつもりは毛頭ない。 どちらかと言えば一年以上一緒に居ても理解出来ない所の方が多いと思うぐらいだ。

「それなら、涼宮さんが権力で抑圧しようなどと言った計略を巡らせていると決め付けるのは早計ではないかな?」
 ……そうかも知れないが結果的に権力で圧迫されてることが多いのも事実なんだぜ? 今回の問題もどんな不条理な難癖を付けられるかわかったもんじゃない。
「ならば、今日の件は僕に任せてくれないか? 了承してくれるならニュートラルな立場から二人を平和的な良案に導けるよう尽力させてもらうよ」
 弁護士ではなく仲介人って事か。 実のところ佐々木が来る前に幾度と開戦した結果、こちらの兵力は底を付いてしまっててな。
 今は水源地が枯れてしまった砂漠程度しか力が残っていなくて困っていた所だ。 穏当な断案を得られるならこれ以上にない話である。
「その辺は佐々木に任せる。 お前の能力は折り紙付きだからな」
「今でも君から評価を得られて嬉しいよ。 期待に応えられるよう、構想はリビングで練らせてもらえるかい?」
 佐々木に言われて未だに玄関で話をしていたことを思い出す。
「こんな所で話を始めて悪かった」
「気にしなくていいよキョン。 君と会話が成立するなら多少居心地が悪い所でも我慢出来るつもりだ。 それに玄関なら快適な方だしね」
 昔と変わらずマナー講座の先生のように礼儀を弁えている佐々木をリビングへ案内してやる。

「君の部屋に案内してもらったことはあったが、こっちに案内されるのは初めてだね」
 佐々木には伝えていないが、あの訪ねてきた一件以来、妹からお姉ちゃんを呼んでくれと五月蝿かったりする。
佐々木の迷惑になるので無理だと言い聞かせていたが、これからはハルヒが来てくれるんだからその文句も減るだろう。
 ……まさか、兄より姉の方が良かったりするのか妹よ?

「見て分かる通り、至って普通の間取りで面白味の欠片も無いがな」
「ごく有り触れた物にでも好奇心は生まれると思うよ。 普遍的な物質でも時間という装飾を施す事で様変わりを見せたりする物もあるしね。 レトロと呼ばれる物の大半はそういった施しを受けた物だと言える」
 懐古趣味って奴か。 ある種の趣はあると思うが利便性を考えると好んでレトロ品を選ぼうとは思わないな。
「その懐古主義だが、否定的な見解ではデカダンスと呼ばれる時がある」
「デカダンス?」
 警棒を振るったり敬礼する踊りなのか?
「デカダンスはフランス語で退廃的や虚無的って意味さ」
「そのマイナス要素がある言葉と懐古主義がどう関係してんだ?」
「この言葉の派生元は19世紀後半に思潮となっていた耽美主義と呼ばれる物からきている。 これは善悪に関係なく美を最高の価値とすると言った芸術を至上とする考えだったんだが、当時の批評家からは道徳よりも美を優先し、陶酔する気質は非合理的でインモラルだと反感を買ってしまってね。
その醜悪な部分を強調する為にデカダンスと蔑称していったんだ」
「美が最高の価値ねぇ」
 考えられない主張だな。
「そして、指摘された通り反社会的な様相が表層化していくのだけれど、当時のフランスの暗澹とした情勢が受動的なニヒリズムを加速化させていき、逆にデカダンス的な部分を肯定的に捉えられるようになってね。
自らをデカダン派と名乗る人間が出てきたりもしたそうだよ」
 そこまで行くともはや狂気の沙汰だな。 俺には一生理解出来そうに無い行動だ。
「これらを総じて耽美主義運動と呼ぶんだが、このデカダンス的な考えは当時革新的と言われ、後に近代主義の掛け橋となったと考えるられるぐらい重要な出来事でね。
と言ってもこの時代は諸般に渡る思想が混沌としていたから一概にこれが起因となったとは言えないのが事実なんだが」
 そんなカオスな時代に生まれなくて良かったと心から思う。 朝倉みたいな急進派や九曜のような過激派が居ないとは限らないしな。

「話を戻すと、懐古主義は時間の経過や物質の劣化という抗えないマイナス要素を『美』と捉える場合もある為、ここをデカダンスと重ねられるんじゃないかな?
 そして、そんな風習は往々にして見掛けられる。 日本では10年単位の間隔でレトロブームが起きていたりね。 君の日常でも似たような事はあるんじゃないかい?」
 年末の大掃除の時、昔の漫画を発見したら掃除を止めて耽読したり、昔のゲームを引っ張り出して遊んでいたら何時間も過ぎていたりとかはあるな。
 ……真面目に応えたはずだが鳩時計のごとく笑われた。 からかってるのか佐々木?
「いや、悪い悪い。 昔のままの反応だから安心してね。 つい、笑いが込み上げてしまったよ。 僕が言ったのはそういう事ではなく、時間の経過によって物に愛着が湧くかどうかって話だったんだ」
「それならそうと言ってくれ」
 そうだな、お気に入りの服は何着かあったりするぞ? その一つだったGジャンはシャミセンがボロ雑巾にしたがな。
 ……思い出しただけで憤りを感じるのはまだまだ青臭い証拠かも知れんが、あればっかりは当分許せそうにない。
「その愛着は時間の経過によって得た懐古心と言える。 ただ、デカダンスと呼べる物ではないね」
「それはなんでだ?」
 時間の経過や物質の劣化は見て取れるし、新しく買った服よりも良いと感じるぞ?
「愛着という感情の根底にはプラス的な要素があると考えられるからだよ。 飽くまでデカダンスは虚無的・懐疑的・退廃的・破滅的といった悲観的な要素を美とする考えであり、それは懐古主義の全てに該当するとは限らないってことさ」
 つまり、レトロには良い面もあるってことか。 最初に言った否定的な見解ってのはそういう意味だったんだな。

「ああ、その通りだ。 と話が一段落した所でキョン。 涼宮さんは君に用事があるんじゃないかい?」
 目線の先を見ると、キッチンからこちらをチラチラと覗いている姿が見える。 説明の通り覗いているだけで呼んでいるのかは把握できないが。
 ハルヒらしくないな。 用があれば呼べば良いのによ。
「気になるのなら行ってきたらどうだい? こちらはこちらで考えなければならない事があるしね」
 そうだな。 行ってみるか。 こういえば、登山へ向かうぐらい大層な冒険を始めるのかと思われるが、リビングとキッチンは目と鼻の先にあるので意気込みを見せるまでもない事なんだがな。

「なにか用事でもあるのか?」
 佐々木の勧めでキッチンに来たが目的のハルヒは先程と違い、情緒に身を投じるコンダクターみたいに勢い良くフライパンを振っていた。
「味見……するんじゃなかったの?」
 腕の動きとは正反対の素気無い言葉でハルヒの現状を把握する。 やっぱり、まだ怒ってるな。
 鈍感な新米刑事ならあの説明でも容疑から外してくれるかも知れないが、ハルヒはそこまで甘い人間ではない。 むしろ、この短時間で疑いがますます強まっている気さえする。
 小手先でどうにか出来るものでも無いので今は見えていないことにしておくが。
「ああ、頼むよ」
「先に出来上がってるスープの味見をしなさい。 終わったらチキンライスの味も見てよね」
 では、早速いただこう。 小皿は……これを使えば良いのか?
「洗い物を増やされると困るから、それを使ってちょうだい」
 小皿の使用了解を得た後、スープが入った鍋蓋を取った。 と同時に食材の香りがそれを待ちわびたかのように俺の鼻腔を激しく擽る。
 料理エッセイを書くほど舌が肥えている訳ではないが、味わう前に俺の細胞が満場一致で美味いと訴えてくる香りだ。

「さっさと飲みなさい」
 籾殻と同様中々鎮火しないハルヒに急かされ口に含む。 その含んだスープをより早く味わう為、舌へと案内させた瞬間、
長時間続いた空腹で路傍に座り込んでいた中枢神経が観閲式の行進と同じく活発に働きだす。
 これは……
「え? 口に合わなかった? さっき味見をしたから、美味しくないはずはないんだけど……」
 一瞬、怒りを忘れ慌てるハルヒに正確な感想を言う。
「こりゃ美味いっ。 今まで食べたスープの中で断トツの美味さかも知れんっ」
 余りの美味さに語尾に余計な抑揚を付けてしまった。 まさか、料理でここまで気持ちが昂るとは思わなかったぜ。
「なによもう。 美味しいならそうハッキリと言いなさいよねっ? 味付けを失敗しちゃったのかと思って焦ったじゃない」
 いや、すまんすまん。 美味すぎてちょっとばかし感動しちまってな。
 頼みが有るんだが、もう少し飲んでも良いか?
「ダーメ。 もうちょっとでオムライスが出来るんだから待ちなさい」
「そこを何とか頼めないかハルヒ? あと一杯で良いから、な? 頼むっ」
「……もう、しょうがないわねぇ。 わかってると思うけど、一杯じゃなくて1杯だけよ? もちろん、小皿でね」
 そんな意地汚い事はしない。 もう一度だけ味わって、来るべき昼食までに余韻を楽しみたいだけだ。
「じゃあ、改めてもう1杯」
 今度はスープを擦り切れ一杯にしてから口に含む。 ……これはさもしい感情からきた行動ではないと自分に言い聞かせるのも忘れない。
「やっぱり、美味いなこれ」
「当然よ。 あたしに懸かれば、これぐらい訳ないわ」
 にしては鼻が松の木で出来た人形の其れになってるぞ? 機嫌が幾分かマシになってくれたみたいで俺としては良い限りだがな。

「飲み終わったわね? じゃあ、次はこっちの味見も頼むわよ」
 飲んでいる内にできたチキンライスからも食欲をそそる匂いがする。 が、出来上がりのそれを見て違和感を感じる。
「これ、色が薄くないか?」
 俺だって人並みにはチキンライスとオムライスを食してきたつもりだ。 見たところ、HPLCで成分分析をしなくてもケチャップが足りないと判断出来る。
「あたしのオムライスはこれぐらいのケチャップの量で良いのよ。 理由は食べてみたらわかるからさっさと口を開けなさい」
 まずは、その前にスプーンを……て、おい。 少し待ってくれハルヒ。
「何よキョン? 早くしないと冷めるわよ?」
なぜ、お前がスプーンを持ってるんだ?
なぜ、それを使ってチキンライスを掬ったんだ?
なぜ、そいつを俺の口元へ持ってきているんだ?
「だから、さっさと口を開けなさいって言ってるでしょ? 開けないと火傷するわよ?」 耳が遠くなった老人との会話みたいに話が噛み合っていない。
いや、だから、待ってくれって、
「ほら、あーん」
「あーん……んぐっ」
 ……言葉に乗せられて反射的に口を開けてしまった。 何をやったのかコイツはわかっているのだろうか?
 誰かが居なければ……いや、居なくてもこんなこっ恥ずかしい行為をやれば、恥ずかしさでのた打ち回らないといけなくなるのに隣の部屋に佐々木が居るんだぞ?
 バカか? バカになっちまったのかハルヒ?
「で、どうなの?」
「……美味いな」
 ハルヒには市を財政破綻へ追いやった市長以上に言いたい事が山程あるが、味に関しては申し分無い。
「でしょ? チキンライスならケチャップをもっと使うべきなんだけど、オムライスの場合はこれぐらいでいいのよ。 あんまり使うと卵で巻いたとき食感が悪くなるからね」
 得意満面で話すハルヒは今の行為が如何に異常だったのか全く気付いていないみたいだ。

 気付いてないならもういい。 気にしていない相手にわざわざ報せるほどお人好しでもお喋りでもないので軽く流しておく。 佐々木は……見ていないことを祈るしかないな。
「他にやることはあるか?」
「スプーンとお茶を用意してちょうだい。 それが終わった頃にはオムライスが出来るからそれも運んでね」
 臨時ウエイターとして働かせて頂きますよ、ハルヒ料理長。
「せっかく雇ってあげたんだから給料分ぐらいは働きなさいよね」
 はいはい、わかったよ。

 料理長の命令の元、リビングで数奇の道を極めた茶道家のように座っていた客役の佐々木の前にスプーンとコップを置く。
「小間使いとして雇われたのかい?」
「ウエイターだ」
「そりゃ悪かったよ。 手伝おうか?」
「客に手伝わせる店が何処にあるんだよ?」
「実はあったりするんだ、それが」
「マジか?」
 そんな店どこにあるんだ?
「アメリカのニュージャージー州に存在する有名ロックバンドのボーカルが経営してる店で採用されてるシステムでね。 お金を払う代わりに臨時で働けるみたいだよ」
「無銭飲食対策か?」
「それもあるかも知れないが実はここのお店、料金設定が客に委ねられていてね。 食べた後に自分で料金を決めて払うんだ」
「何だそりゃ?」
 儲け度外視にも程があるだろ? もしや金持ちの道楽なのか?

「その逆だよ。 彼は貧困層の為に何とかしたいと思い、このレストランをオープンさせたんだ。 木曜日から土曜日の夕方5時~7時の短い営業時間だが大盛況らしいよ」
 それはまた凄い話だな。 俺には到底真似出来そうに無い慈善活動だ。
 しかし、アメリカってそんなに貧困に悩まされていたのか? 自由の国と呼ばれ、世界トップの国として君臨しているからもっと懐に余裕がある国だと思っていたが。

「自由になればその分格差が出るからね。 サムプライム問題もあったせいで今は総人口3億人の内、約4620万もの人が貧困に苦しんでいるみたいだよ。 それとキョン、アメリカが世界で一番と言うがそれは軍事力の面の話だ」
 てことは経済力に問題があるって事か?
「正解だ。 実は少し前にS&Pが発表した長期信用格付けで最高クラスのAAAから一つ下のAAに陥落したんだ。 これを見る限りでは、どう贔屓目に見ても世界トップとは言えそうに無いね」
 ランクが落ちたのは分かったがS&Pと長期信用格付けってなんだ?
「S&Pはアメリカで有名な格付け会社の一つさ。 あと二つ、同国にある世界最古の格付け会社と言われているムーディーズと欧州にあるフィッチ・レーティングスを合わせてビックスリーと呼ばれているね。
それと長期信用格付けは国債を返せるかどうかを表した信用度ランキングだよ。 アメリカの場合、S&Pとムーディーズは国内に存在する為、毎回甘く査定されててね。
その状況でS&PがAAに落としたって事は余程の切迫具合だと分かる」
 うーん。 何となく非常事態が起きてるってのは分かったがもっと分かりやすい指標はないのか? 例えば借金とか。
「悪かった、これは少し込み入った話だったね。 借金の話だがアメリカ政府の発表では14兆2710億ドルまで膨らんでいるよ」
 それはなんともまぁ、途方も無い数字だな。 えっと……少し前にニュースで見た時は1ドル77円ぐらいだったはずだから円に直すと、
「1098兆8670億円よ。 あと非公式だと200兆ドル以上の借金が有るって話もあるわ。 ……それよりキョン、あたしが言った事はもう忘れたのかしら?」
「いや、忘れてないぞハルヒ」
「じゃあ、いま、あんたは、何をしているのかしら?」
 鎮火したはずだったハルヒの怒りは明暦の大火以上の広がりを見せていた。 被害対象は江戸ではなく俺になりそうだな。
 火の用心とは良くいうが、ちゃんと消えたかどうかまで確認しないといけないな。 今後の訓辞としておこう。

「それにしても、やけに暗算が早かったな?」
「インド式計算法よ」
 インド式? 従来の計算法とどう違うんだ?
「そんなのはどうだって良いでしょ。 さっさと出来たオムライスを持って来なさい!」 ……教えてくれても良いじゃないか。 さっきからカリカリしてるが、カルシウムを摂った方が良いんじゃないか?
そうだ煮干しなら戸棚に、
「いい加減にしとかないと御飯抜きにするわよ?」
 ……許してくれ。
「くくくっ……二人はホントに仲が良いね」
そうは言うが佐々木よ。 被害者側からすれば、
「さっさと持ってきなさい!」
 ……はい。

 キッチンに置かれていた三つのオムライスの内、二つを両手に持ちリビングへ戻った。
 残り一つはもちろん自分の分だ。 俺だって作り手と客を優先するぐらいの道徳規範は持ち合わせている。

 ほらよ、ハルヒ。
「…………」
 渡したんだから一言ぐらい何か言ってくれよな。
 ほい、佐々木。
「ありがとうキョン……っと、これは涼宮さんに言うべき御礼の言葉だったかな?」
 ウエイターだって大変なんだぜ? 御礼ぐらいは俺にも分配してくれよ。
「冗談だ。 君にも感謝してるよ」
 それなら良いんだが。 それじゃあ、次は自分のを取ってくる。 俺のことは良いから先に食べててくれ。
「いや待っておくよ」
「待っててあげるわ」
 文句があってもマナーには私怨を持ち込まないらしい。
「それなら急いで持ってくる」
「転けたら笑い物よ?」
 そこまでドジじゃねぇよ。