ある召喚師と愚者_番外編

Last-modified: 2009-07-31 (金) 22:00:44

―――二つの世界は混ざり合い、滅び、再生される。

 

この時空は言わば【螺旋回廊】に飲まれている。
『時空回廊』と呼ばれる虚数空間によって隔てられた事象構成要素の循環経路。
その中枢にして最深に位置する“神”の手により、ぐるぐる、ぐるぐる、と。
これは平行世界、“閉じた時空”の環を廻る魂魄と、その転生の物語。
何処かで紡がれた“優しい御伽噺”だ。

 

―――役者だけが同じの茶番舞台。

 

 

時は二十世紀最後の年……月夜と疎らな街灯だけが明かりの夜。
逃げる、逃げる、逃げる――走り続けるという行為に疲れた足に鞭を打ち。
少年は悲鳴を上げることも叶わず、ただ走り続ける。
「くそっ、なんだよアレ!」
そう言いつつ背後を確認することなどしない。
振り向けば動けなくなると言う確信があったから。
“追跡者”は悪夢の産物に等しい巨大な化け物だった。
金色の単眼の頭部、大きな蝙蝠のような翼、人間のものを巨大化したような腕。
それ以外のパーツが存在しないという不条理な生命が、音もなく背後から迫ってくる。
走って、走って――漸く家の玄関前へ辿り着く。急いでチャイムを鳴らそうと震える指を伸ばし、
「――ぁっ」
気づいた。気づいてしまった。自分が家の中に入ったら、“追跡者”はどうするのだろうと。
易々と諦めるだろうか――否、おそらくついてくるだろう。
中には両親と妹がいる。巻き込めない。
目の前が真っ暗になる――絶望。
なら自分は――。
意を決して振り返ると、この世のものにあらざる狂気があった。
名状しがたい吐き気と目眩が押し寄せる中、ただ無意識に呟く。
「……マユ」
ぐにゃぐにゃと景色が歪んでいく中、アイツが泣かないといいなあ、と思っていた。
身体から力が抜け、やがて漆黒の闇に意識が落ちる。
あとには、魂魄が抜き取られた抜け殻だけが残った。

 

 

世界には魔法が存在する。 ―――事象を操る究極の概念。
世界には超常が存在する。  ―――ヒトの常識を越えた存在。
世界には異形が存在する。   ―――閉じた時空の外より来るモノ。

 

―――MUUUUUUUUUUUUUUUUUUU。

 

ずぶり、ずぶりと肉塊を貫く触手の群れ――ダイヤモンドよりも硬い殻に覆われた肉。
無慈悲な怪異が嗤う。不定形の輪郭を蠢かせ、名状しがたい異臭を放つ触手で犠牲者の血肉を啜る。
それは巨大な巻き貝に似ていた。或いは、動物学者が思い描いた未来の軟体動物に似ているかも知れない。
何本もの触手は甲殻に覆われた槍のようなものから、蛸や烏賊のそれに似た柔らかなものまで様々。
本体は数メートルはある巻き貝の殻によって覆われ、筋肉で構成された肉の足が猛獣の如き俊敏さをそれに与えている。
人はこれを見てこう形容するだろう。

 

―――化け物、と。

 

事実、この世のものにあらざる怪異だ。
巨大な口腔は青い舌でぬめり、ホオジロザメのような牙が幾本も生えている。
甘く濁った異臭を放つ体液を自らのエサ場と化した地下駐車場――否、結界によって遮られた異界に振りまき、
触手によっておぞましく内側から喰らわれた人間たちを、口腔でグチャグチャと噛み砕く。
既に地下駐車場に捕らえられた人間の、三分の一が化け物に喰われた。
生き残った人々は隠れ怯え、自分の番が来ないことを祈るしかない――。
まさしく醜悪なモンスターとしか云えないそれの血走った瞳が、母親に抱きかかえられた幼女に向いた。
恐るべき怪物の瞳に映るものは、純粋な食欲と残虐衝動に他ならない。
恐怖に失神した我が子を腕に、母親たる女性が逃れようと走る。
「いや、来ないでぇ!」
開くはずがない扉へ向けて走り、逃げる母親の悲鳴。
誰もが諦めている中、少女の母親だけは娘だけでも逃そうと必死だった。
その努力を嘲笑うが如く、異形の生命は魔の手を伸ばし――力強い青年の声と閃光に触手を打ち破られた。

 

「SF(ストフリ)、僕の最強砲撃!」

 

そう叫ぶのは、何時の間に侵入したというのか――黒のライダースーツにフルフェイスのヘルメットを被った青年だ。
最新式のバイク――流麗なカウリングだ――に跨ったライダーの背中からは、金属の翼が生えていた。
いや、青年を守るように背後に浮いている、というのが正しい表現か。
さしずめ天使の羽根の如き刃金は青白い光沢を纏っており、それが砲身のような円筒形を形作る。
その砲口から洩れる馬鹿げた量の燐光=緑色の粒子が集束し、光の槍の如く撃ち出された。
魔器『Strike Freedom』の咆哮――空気を焦げ付かせる凝縮魔力の槍は、
少女とその母に迫っていた触手“だけ”を綺麗に蒸発させ、結果として化け物に大きなダメージを与えた。

 

―――GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!

 

猛牛のような突進――五メートルの巨体に似合わぬ種敏さと猛々しさを併せ持つ攻撃は、
自動車を横転させ粉砕する。数トンの巨体が生み出す破壊力たるや、装甲車の突進に等しい。
引きずり出された触手の数は八本、いずれもモース硬度十五以上の甲殻で覆われた殺人鞭。
亜音速で振り下ろされる触手は自動車のボンネットを破砕、コンクリートの地面をひび割れさせる兇器だ。
バイクの青年はこれを“避ける”。
「SF、すごいジャンプ!」
緑色の粒子が足下に噴射され、慣性制御によりバイクごと青年の身体が宙を舞う。
化け物の死角に回り込みながら、己の魔器たる翼を制御――途方もなく大きな粒子加速器を形成。
巨大な六角柱のような砲身から溢れ出す光――すなわち。
「――スーパービーム砲ッッ!!」
通常は巨大な加速器と莫大な電力を必要とし、磁気の乱れで弾道が乱れるとされる荷電粒子ビームの照射。
僅か三メートルの距離で放たれた砲撃は、真っ直ぐに怪物の甲殻を叩き割り肉を炭化させ血を沸騰させる。
さらに空気は粘つくようなイオン臭を放ち、バイクの青年にも沸騰した血が跳ねた。
だが羽根の防御は青年の身体へケガレがつくことを許さず、これを弾く。
ぎゃりぎゃりとスピンしながら着地したライダーは、すぐに化け物へ向き直った。
触手生物の方も方向転換を終えているようで、体液を撒き散らし瀕死ながら戦闘本能に任せ突撃準備。
だがそれよりもバイクの青年を苛立たせるのは、足下に広がる血溜まり、肉片――人間の成れの果て。
「……遅かった……クソ……!」
到着が遅れたことによって生じた犠牲者を悔いると、青年は羽根の形態を“また”変える。
今度の形態はさしずめ、背中から触手のように生えた重機関銃の銃身が六つ、と言ったところか。
「ハイマットフルバースト!!」
怒りを込めた機銃の集束弾幕――ズガガガガガ、と肉を削ぎ体液を蒸発させる光弾の群れ。
削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る削る―――!!
粉砕される、塵に帰る化け物――ドロドロの粘液へと変わるその巨躯。
ぐしゃぐしゃに砕け散った異形、その心臓たる桜色の球体=リンカーコアが露出している。
青年はここで初めて、翼を近接武器へ変形させた。
翼から産み落とされるのは、一振りのサーベル。
「SFアターック!」
SFアタック――スペシャルフィニッシュアタック――刀を両手で握り締め、リンカーコアに突き刺した。
ぶずり、と柔らかいものを貫く嫌な感覚。間違いなく、この異形の命を絶ったという感触。
刹那、爆発のような眩い閃光が生じ、怪異は完璧に消滅した。
この“崩壊光”を浴びれば、巻き込まれた一般人たちは記憶を無くすことだろう。
感慨はなく徒労感だけが残る中、念話で女性の声が聞こえた。
(お疲れ様、ヤマト君。結界張っておいたから、そこから撤収して)
(わかりました)
青年――山門吉良(やまと・きら)は、少しだけ溜息をついてバイクで走り出す。
地下駐車場から抜け出し街を行く車両の群れに混ざりつつ、吉良はどうしてこうなったのか、と思う。
この街で戦う“異能者”……『魔法使い』『魔術師』と呼ばれる奇跡を使う人々。
山門吉良、十九歳、彼女無し、極々平凡な大学生はその一員だった。
この街では異変が起きている。少し前から、行方不明者数が増え始めていたのだ。
ただそれだけなら良かった。だが現実に起きているのは、異形なる生命が引き起こす惨劇の嵐。
彼はそれを知ってしまった――いや、巻き込まれたと言うべきか。
吉良は自分から戦いたいと思う人種ではないけれど、守りたい日常くらいはあった。
自分をここまで育ててくれた両親や気の良い友人たち、そして彼らが住むこの海鳴市を守りたい。

 

――守ることが出来る力があるなら、守りたい。

 

そう思ったから、『SF』という名の魔器を手に取った。
だけれど――。
(人間が、死ぬんだ……)
その事実が厭に重かった。
雑念を頭から振り払い、吉良は自宅までの道を走った。

 

時は西暦1999年の初夏――夏休みが、近い。

 

 

世紀末に相応しい光景だった。
海鳴市郊外の山中、薄暗く湿った広葉樹の森の奥。
そこでギリギリと、肉塊が捻れていた。
それは巨大な蝙蝠の如き化け物だった。
いや、こうなっては“原型(アーキテクト)”など意味がない。
今やそれは金属的光沢を放つ“刃金の繭”だった。
ドクドク、ドクドクと脈動するそれは、胎盤のようにある少年の魂魄を包んでいた。
それの内部で赤子のように眠る“赤い瞳”の少年が、ふとたゆたう意識を引き戻す。
―――俺は……どうして?
少年の疑問の声に、機械的かつ無感情な声が答えた。
『――お前の魂は、この<外なる者>によって肉体から引き剥がされ、異界の命を吸って受肉しようとしている』
彼はその声を知っていた。何億年も前から“理解”していた。
それは永くともにあった戦友にして剣、何時だって自分とともに魔を滅した輩(ともがら)。
―――俺の魂が……? どうしてそんなことになってるんだ、俺はマユに……
そうだ。妹にアイスを買って帰らなくちゃいけないんだ、こんなところで道草を食うわけにはいかない。
『それはお前が“守護者”だからだ、“シン・アスカ”にとって基底現実はまやかしに過ぎない』
―――ちガ、う……オレは、飛鳥慎だ……!
頭が痛い。記憶に蘇るのは鋼鉄の巨人、バラバラに吹き飛んだ『家族』、或いは爆弾で吹き飛んだ『愛した人』。
シン・アスカという端末の自我は、本来より多くを刈り取りより多くに平和をもたらすことを喜びとする。
“今回の”世界でマユ・アスカと家族として過ごせても、いずれ別れることを知っているならば。
―――違う違う違うちがうちがうチがう違う違うちガうちがうちがう――ッッ!!
『我が名は個の起源たる“アートマン”。シン・アスカより生まれ、シン・アスカを支える者の名だ』
光/混沌/微睡み/走馬燈/駆け抜ける無量大数の無意味な“生涯”――軋むココロ。
『ふむ……同位性存在では拒絶されるか。ならば――』
―――あ、ア、ァ、A、ぁぁあaア……!
光の柱と化した繭より“使徒”が生まれた。

 

 

今年の夏は兄と一緒に海に行けると、そう無邪気に信じていた。
だが現実はどうだろう。兄――飛鳥慎(あすか・しん)は病院で三ヶ月間昏睡状態。
目覚めを願い折った千羽鶴の願いも虚しく、ただ沈黙の日々だけが続いている。
幸いにして脳死状態ではないらしいが――それが何の慰めになるだろう。
友人と一緒に通っている塾の帰り道、友人たちに手を振って「また明日」と言いながら、
飛鳥真優(あすか・まゆ)は僅かに愁いを帯びた表情を見せた。
兄である慎こと“シンお兄ちゃん”とは似ていない容姿。
シンが色白で赤い瞳、鴉の濡れ羽根のような漆黒の髪には寝癖がいつもついているのに対し、
マユは栗色のさらさらした髪の毛、そして鳶色の瞳の持ち主だ。要するに普通だ。
それがどうにも、今年で十二歳の少女にとっては不満で不安なことだった。
呼べども呼べども死んだように動かない、“シンお兄ちゃん”のことを考えると胸が痛む。
(私がアイス食べたいなんて言わなければ……)
シンはアイスを買うために外に出て、その帰り道に玄関の前で倒れていたのだ。
明日から夏休みなのに兄は笑うことも遊ぶことも出来ない。
それだけが酷く胸を苛み――だから襲われる直前まで、マユは異形の存在に気づかなかった。
不意に生温い風へ異臭が混じり、顔を上げた。同時に目に飛び込むもの――巨大な金色の瞳。
「ひっ……!」
それはさしずめ、単眼の巨鳥だった。伝承で言う一つ目小僧のように大きい単眼だけが顔にあり、
黒い体毛に覆われた身体はそれだけで二メートルはありそうな巨体だ。
鳥の足に当たる部位は人間の手に似ていて、それがひどく不気味だった。
ぎょろぎょろした眼をマユに向ける怪異――どんどんその顔が近づいてくる。
瞳を見て理解する、己が獲物で相手は肉食獣なのだと。
「い、いやぁ……」
後退ろうとしたが身体が震えて動いてくれない。
ぎゅっ、と目を固く閉じて、マユは心の中で強く願った。
―――助けて、お兄ちゃん。
その願いが天に通じたのか。
それとも悪魔が聞き取ったのか。
視界が赤く染まった――目を開くと赤い粒子が充満している。
機械音声/怒声が響く。

 

《スレイヤーモード開封》

 

「――下がれ、そこの女の子!」

 

何処か懐かしい怒気を纏った言葉。
「は、はいっ!」
ビックリして身体が勝手に動く――マユの身体が後退すると同時、
背丈ほどもある大きさの長大な剣が怪物に振り下ろされた。
それは言わば機械の剣とでも形容すべき、機構式ツヴァイハンダー。
粒子噴出によって制御される精妙な剣閃は、一撃で単眼の怪鳥を首筋から袈裟懸けに引き裂く。
慣性質量操作――インパクト時の威力が数百倍に増加し、対物狙撃銃すら弾く筋肉が断裂。
リンカーコア構造体が破壊され、因果律からの消滅の証――崩壊光を撒き散らす。
しかしそれはマユには無意味だ。何故ならば彼女は流転する因果の輪を泳ぐもの故に。
何故かそのようなことを“理解している”自分に驚き、マユは目を見開く。
マユも漸く余裕が出来て、自分を助けてくれた剣士の方を向いた。
「……<外なる者>に襲われるなんて、ついてなかったな」
聞こえたのは冷たく澄んだ音、男のような口調、不機嫌そうな甲高い少女の声。
寝癖が取れない黒髪、釣り上がり気味の赤い眼、マユが羨ましいと思う白い肌。

 

「不味いな」
大柄な長身の男が夜道を走る。その速度は人類の範疇を超え、脚力などというレベルではない加速を生み出す。
百メートルを五秒で走り抜けるほどの健脚だ、見た人間はこれを“魔法のようだ”と評すことだろう。
事実、男は魔術師だった。宵闇に潜む悪魔を狩るものたち、現代まで受け継がれた法術の継承者。
身体強化とベクトル制御による機動、魔法使いの技術が生み出す跳躍――異界と現世を遮る結界、
それにに向けて飛び蹴りをする。まるで子供向けヒーロー番組の主役が繰り出すかの如き見事な蹴り。
渾身の魔力を込めた一撃が結界に突き刺さり、バラバラに砕け散った。
結界へ侵入、硬いアスファルトへの着地と同時に叫ぶ。
「魔器グングニール!」
たちまち、空間の歪みより実体化する魔術武器。
北欧神話の神槍の名を持つ魔器――斬撃と刺突に優れた黒刃の矛である。
魔法文字の刻まれた槍を手に、男は結界内部に足を踏み入れた。
異形の痕跡――名状しがたい異臭を嗅ぎ、槍を手に取ったゼスト・グランガイツは顔を顰める。
―――遅かったか。
そのような思いが胸を満たす。
犠牲者が出るのは致し方がないことだが……寂寥感を感じずにはいられなかった。
だがそんな沈黙も、夜天で突如炸裂した紅い華の前に消し飛んだ。
紅い華――広域結界上空で撒き散らされる赤い粒子は、魔力流の成れの果てなのだろう。
その証拠に魔器が震えている。すなわち魔法使いか。だが、とゼストは思う。
魔器が共鳴するほどの絶大な魔力の開放に加え、高度な飛行魔術など“人間に出来る技”ではない。
そして赤い光翼に見える流星の如き影――ゼストの知識が正しければ、この極東で『天狗』、
ヨーロッパで『使徒』と呼ばれる緋色の騎士のものだ。
時代と場所を越えて現れる“殲滅者”……或いはこの地に満ちる怪異の邪気に引き寄せられたのか。
下手に手出しするべきではないな、と思いながらもグングニールを手に歩むと、
「待って――!」
幼い少女の声が聞こえた。
古来よりこの世界にいる『妖異』と異なり正体不明、何が起源なのかもわからぬ<外なる者>は邪悪だ。
多くの場合、犠牲者は惨たらしく喰い殺されるか魂魄を吸い取られてしまう。
結界内部に生存者というのはあり得ないことではないが、故に凄まじく稀だ。
その単純な事実に驚きながら、ゼストは現地人らしき女の子へ声を掛けた。
「おい、大丈夫か」
「え、あ、はい……あの、」
「俺は通りがかっただけの旅行者だ」
それで誤魔化すには無理があるのは承知だが、そう言うしか方法がなかった。
今のゼストの格好は仕立ての良い薄地の灰色スーツにブーツ、そして大型の西洋槍という、ミスマッチなものだ。
どう考えてもただ通りがかった紳士が持っている武装ではない。が、気が動転しているのか少女は頷き、
「日本語お上手ですね」
「……努力はした」
奇妙な会話を繰り広げた。尤もゼストは周囲を見回し、冷静に状況を見ていたが。
「ついてこい。ここは危険だ」
「あ、はい……あの、アレは」
「“キミタチ”には関係のないものだ。早く忘れた方が良い」
あるいは少女も<外なる者>……異形の怪物を目にしていたのか、素直についてくる。
ここで男は一つの可能性――この少女についてだ――に思い当たったが、それを口にすることはなかった。
だがしかし、あとになって思えば……それは無意味だったのだろう。
―――違和感を感じた。
「ぬ」
不意に稲光。晴れ渡った空に似合わぬ紫電が、ゼストに向けて弾けた。
コンマ一秒の動作で彼はグングニールを操作し、魔力素を媒体とした魔術障壁を展開する。
ドカン、と派手な爆発音が響き、雷が魔力の盾と相殺されることで火花が散った。
「きゃぁぁあ!」

 

ゼストの背後に隠れた少女が悲鳴を上げ、その甲高い声に彼は焦る。
そんな内心の焦りを顔に出さず、ゼストはグングニールを構えた。
「――雷電を操る能力……テスタロッサの血族か」
「御名答、グランガイツ家の若様。その子は一般人じゃない……何処に連れて行く気です?」
闇夜を切り裂くような金色の髪、身体を魔術装束の黒いマントで覆った極上の美女。
―――こちらの素性を知っている……成る程。
男は無骨な顔に苦笑を浮かべた。
「それはこちらの台詞だ。魔女フェイト・テスタロッサ――こんな東の果てに、お前ほどの者がいるとは」
「……貴方には関係ないことです。飛鳥真優さんですね? 私は貴方に力を与えに来ました」
不意にフェイトなる魔女から言葉を投げかけられ、少女――マユは混乱する。
「ち、から?」
「そう、貴方のお兄さんを取り戻せるかも知れない」
「っ! どうしてそれを――」
フェイトは蝋人形のような顔に、微笑を浮かべてすらすらと答えた。
「飛鳥慎十六歳。海鳴大学付属病院へ意識不明で入院、三ヶ月が経つが容態に変化無し。
病院側でも精密検査を行ったが、異常はなし――でも」
本当は違うの、とフェイトは続ける。
「貴方のお兄さんは<外なる者>……さっきの怪物に襲われて魂を抜き取られたの。
元に戻す方法はただ一つ……魂魄を吸い取った化け物を斃し、その魂を肉体へ戻すだけ」
「……私が、お兄ちゃんのために戦う?」
「そう。貴方はさっきゼストさんが使ったような魔術の資質がある」
ゼストが重々しく口を開き、フェイトを睨み付けた。
「テスタロッサ……貴様、もしや」
「ええ、魔器を用意してあります。本当は飛鳥君のためのものですが」
見たところ資質の問題はクリアされていますから――と魔女の言葉。
沈黙――やがて思い悩んでいた様子のマユが言葉を紡ぐ。
「お兄ちゃんが元に戻るなら――」
「……マユ君、と言ったか。魔法使いは普通よりずっと危ない、死ぬこともある。
幼少時から鍛え上げた人間ですらそうなのだ、君のような子は関わるべきではない」
壮年の魔術師の言葉を受けてなお、少女は凜とした表情を崩さなかった。
夏らしいワンピース姿、無い胸を張って言う。

 

「それでも―――家族ですから」

 

この一言が効いた。フェイトの目に映るゼスト・グランガイツの身体が震え、急にむっつりと押し黙る。
果たしてこの名門の魔術師が、何を考えたのかはわからない。それは彼の血族に関することなのだろうか、
と考えたところで金髪の魔術師は思考を中断する。わけありなのは皆同じというわけだ、探るべきではない。
栗色の髪を背中まで伸ばした少女に向き直り、そっと右手を差し出した。
おずおずとマユが手を伸ばすと、そこにあったのは小さな朱色のペンダント。
朱色の外皮に金文字で装飾された、シンプルながら品の良い品だ。
手に取ると驚くほど軽い。まるで羽根で出来ているかのようだった。
「これが……?」
「そう、それが魔器。ここではない何処かで、“デバイス”と呼ばれる魔導機械の原型となるアーティファクト」
「ここではない何処か……? えっと、どうすれば使えるんですか?」
黄金の魔術師は笑う。可憐に花咲くように、底知れぬ美しさで。
「願って、成りたい自分を」
マユはペンダントを手に強く、強く念じる――ただ願うのは、シンとともに笑いあえる幸福な世界。
両親が死んで独りぼっちの“真優”を飛鳥家に受け入れ、兄になってくれた大切な人。
遠い親戚の女の子を笑わせようと必死だった、まだ十歳の少年の笑顔。
その笑顔を見るためならば、きっと戦えると思った。
だから――諦めるわけにはいかない。

 

情報が脳髄に濁流の如く叩きつけられ、複雑怪奇な魔術の真理を“理解”する。
あっという間に過ぎていく時間/基底現実で一秒/仮想空間で百年=何もかもがわかった。
存在していたマユ・アスカ。存在しているマユ・アスカ。存在していたかも知れないマユ・アスカ。
或いは存在などしない可能性のマユ・アスカ……平行世界より叩きつけられる知識という知識。
その暴力的刹那の刻、すべてを飲み込んで理解する――この現実がどれほど尊い幻想なのかを。
“だから”。
「……取り戻してみせる!」
それは絢爛豪華たる戦装束、本来の歴史であり得ない姿。
上品なワインレッドの上着にベージュ色のドレスという出で立ち――小さな籠手で両腕を覆い、鋼色のブーツで足下を鎧う。
すべてはマユが考えた“戦うための姿”。混色の粒子がキラキラと輝き、少女の眼前で幻想を実体化させる。
その光景を見ていたゼストが、驚いたように呟いた。
「虹色の魔力光――カイゼルファルベか」
「……思っていた以上に、彼女の資質は優秀みたいですね」
フェイトが事も無げにそう言う間にも、マユの手中で粒子は輝き、やがて一振りの剣を形作る。
装飾が施されていながら剛健さを窺わせる銀色、細身の騎士剣。
何時か兄と一緒にプレイしたゲームに出てきた、伝説の聖剣を模った刃。
その名を――

 

「――私の魔器“アスカロン”」

 

竜殺しの英雄『聖ゲオルギウス』の武具の名を冠した剣を手に、飛鳥真優は魔術師として“再誕”した。
そう、これは彼女にとって■■■■■■回目の“誕生”なのだ。
刹那に追憶したすべてのマユ・アスカの“誕生”のように。
「……これで、お兄ちゃんを救い出せる――」
「ええ。マユちゃん、貴方が望んだ力」
嬉しいのだろう、頬を綻ばせてフェイト・テスタロッサは笑った。
その魔女の笑みを理解しがたい、と睨み付けていたゼストが、不意に声を上げた。
「……終わったか」
なるほど、空を見上げれば赤い粒子が花火のように舞い散り、浄化された異形の崩壊光が輝いている。
マユとフェイトがそれを確認した直後、赤い光翼を持った人影が、電光石火の速さで舞い降りた。
すなわち先ほどの黒髪緋眼の少女が変じた、純白と深紅の刃金で出来た天使だ。
―――あれは時空切断航法の一種。認識の外から時空単位で加速し、通常空間で高速化するための技術――。
勝手に脳味噌が理解する事象を記憶に焼き付けつつ、マユは“彼女”に顔を向けた。
“彼女”は昆虫の複眼じみたセンサー素子でじろじろと三人を見ると、何処か達観した様子で呟く。
「驚いた……この時空に“魔法”が使える人間がいるなんてな」
ゼストが恭しく頭を下げ、膝をついて傅きながら言った。
「お会いできて光栄です、“守護者”殿。英雄の介添人たる一族、グランガイツの名によってお助けします」
「…………ああ。そっちの女の子と金髪も魔術師だろ?」
「……ええ。御身は何とお呼びすれば?」
突然、可笑しそうに“守護者”が笑った。
同時に全身を覆う装甲が解除され、長く伸びた寝癖気味の黒髪が跳ねる。
白い肌にほっそりした華奢な肢体――“守護者”が少女の姿で顕現する。
「名前なんて意味がないさ……オレは無量大数の可能性から“この世界”に適合するべく選ばれた。
それでもオレに名前を付けたければ――そうだな“熾天使(セラフ)”でどうだ?」
甲高い声でそう言い、“守護者セラフ”はにやりと笑った。
三対六枚の翼を持ち、神への愛と情熱で体が燃えているとされる天使の名である。
無造作なようで意味深、深いようで適当な名前だった。
何より――天使と言うには神々しさが足りない気がする。
マユのそんな感想を他所に、ゼストが話を進めようとし、
「御意。セラフ殿、斯くなる上は――」

 

「……来る」
ぶっきらぼうにセラフはそう告げ、手に一振りのツヴァイハンダーを出現させた。
アレも魔器の一種なのだろうか、それにしては機械的すぎる気もするが。
異形が消え失せたことで一度は消えたはずの、青白い光の結界が再構築される。
フェイトが意外そうに呻いた。
「……隔絶結界……これって――」
「<外なる者>……それも大物だな」
そう言うゼストの目は厳しく、まるで鷹のように鋭い。
次元を揺るがせ、“外なる時空”と“閉じた時空”を繋げる咆哮(ハウリング)。
地上十メートルに出現した、時空の裂け目とでも言うべき、虚数空間が覗く闇より這いずり出る冒涜的怪異。
ずしん、とアスファルトの上に着地した化け物は、その眼でセラフと魔術師たちを睨む。
存在するだけで物理法則を書き換える異形、すなわち――<外なる者>。
外時空の深淵を泳ぐ異形……“深きもの(ディープワン)”。
赤茶けた鱗に覆われた、昆虫と爬虫類を混ぜたような外皮の巨人は吼える。
二十メートルはあろうかという巨躯だ、自然とその声はよく響く重低音となった。

 

――VAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!

 

「……下がってろ」
セラフはマユにそう告げると、黒髪を靡かせ赤い瞳を細めて笑う。
お前は後ろで見ていれば良いのだ、と言い聞かせる“兄”のような姿に、マユは一抹の不安を抱いた。
声をかけようとしたときには――影法師の如くふらりと質量を伴わず、
されど実際には人間の範疇を超えた亜音速でセラフの緋色の衣が遠ざかっている。
両手で少女の身体に不釣合いなツヴァイハンダーを下段に構え、刀身と腕の翼から火の粉のような真紅の粒子を吐き出し加速、
大剣に似合わぬ俊敏な動作でディープワンの懐へ潜り込まんとする――まるで矢の如し。
対し異形の巨人は両腕の指=八本の触手を広げ、鞭の如く高速で打ち出した。
びゅん、と風を切って繰り出される触手の先端には鋭い爪がついており、その威力は異界となった路上のアスファルトを砕くほどだ。
柔軟な筋肉によって縦横無尽に蠢く鞭の攻撃を、緋色の少女は黒髪を揺らして避ける――腕の翼を推進器代わりにし、
飛びながら解き放つ剣閃。ひゅん、と一閃された刃に五本の触手が切断され、瞬く間に宙を舞った。
ディープワンは痛みに呻くことも無く、後方へ向けて重量を感じさせない動きで跳び――口から得体の知れない粘液を吐く。
空中で重力制御、真横に“落下”することでこれを避けたセラフの背後で、粘液がアスファルトを焦がした。
「強酸か……アートマン、時空間制御はいけるか?」
《不可。同調率がそれほど高くない。連続は無理だ》
「……辛いな」
赤い瞳の少女はそう呟き、着地しながら大剣を正眼に構える。
粘度を持たせているのは飛距離のためなのだろう、飛び道具まで持つとは厄介な敵だ。
“閉じた時空”内部の平行世界に存在する、可能性の中の“彼”=“彼女”だったかもしれない可能性。
そんな要素をこの世界の“彼”の魂魄にダウンロードし、守護者として人格を再構築したのが『セラフ』だった。
その歪さ故に彼女はアートマンから必要十分なサポートが受けられない。
たかだか<外なる者>一匹に手間取るのは、おそらくそれが原因。
―――それがどうした。オレはあの子を守る……!?
何故だろうか、さっき会ったばかりの少女を守りたいという衝動が生まれていた。
その感覚に戸惑い、セラフの構えに隙が生まれた刹那、ディープワンの腕がまるでゴムのように伸びた。
咄嗟に身体を捻り避けようとするが、弾き飛ばされる――ゴミのように吹き飛ぶ。
折られた肋骨が内臓器官に突き刺さり、灼熱が生まれる。
油断した。再生をアートマンが実行する中、平行世界から運ばれる記憶が脳髄を焼いた。
再生のためのエネルギーは次元連結によって賄われるが、その際には自己の同一性存在と記憶の混濁が起こる。
これはそういう現象なのだと理解していたが――違和感。
何故か、ひどく少女の顔が懐かしかった。
少女の悲鳴が聞こえる。
「セラフさん!」
意識の混濁――人格が反転する。
―――違う、“俺”は。

 

「……マ、ユ?」

 

 

もう建前なんてどうでもよかった。
マユはその声を聞いた瞬間、確信していた。
あの人は――
「――お兄ちゃん!」
制止を振り切り駆け出し、毅然とディープワンを睨む。
ボロ雑巾のように血に塗れたセラフを庇い、マユは手に持った魔器『アスカロン』を天に翳す。
セラフの黒い髪は血でべとべとで、白い肌は真っ青になっていて痛々しい。
弱弱しく「逃げろ」と告げる彼女に、マユは笑みを浮かべて応えた。
「大丈夫――マユが、守るから」

 

―――明日から夏休みという夜、私は運命と出会った。
―――これは流転する魂の巡り合わせ。
―――円環世界の御伽噺。