《第33話:見つめるべきもの》

Last-modified: 2023-12-03 (日) 22:39:10

 急速かつ劇的に都市化された北部とは対照的に、昔ながらの田舎な景観そのままに活気づく嬉野市南部の温泉街。
 そこから更に南へ車で5分。まだ比較的人気が少なく山林や畑が多く残る土地の奥に、まるで山間に隠れるようにしてひっそり佇む小さな、しかし存在感と風格のある純和風の建物がある。そういった様こそをウリとしている老舗の小さな温泉旅館で、そういった様だからこそ、とある一人の艦娘の口コミをキッカケとして艦娘達の人気を集めた桃源郷だ。
 今となっては佐世保所属になれば誰もが一度はとまで言われるこの施設、その目玉であるところの広々とした露天風呂に浸かってしまえば、積もりに積もったエレベスト級の疲労心労さえ溶けてなくなってしまうとまで言われている。また、立地と知名度とお値段の関係からそう繁盛してるわけではないので、今日は偶々他の利用客がおらず、実質貸し切りだった。
 ここが此度の突発的特別休暇でお世話になる宿。
 というわけで到着早々、早速堪能しなければ嘘というもの。
「ぬあ゙ぁ~~……生き返るわぁ~~……」
「ですね~……はふぅ……」
「……鈴谷的には、もう全世界の海が温泉になっちゃえばいいって思っちゃうわ~……」
「えぇ~……それはちょっと、困ります。だってあれですよ、魚とか、煮魚オンリーは榛名も流石に……」
「あ~……確かに。榛名はお利口だなぁ……」
 陰りつつある夕焼けの中、大胆にも豊満な胸を曝け出すようにして、岩造りの縁に背を預けた鈴谷と榛名。
 周囲を木々と灯籠で飾られた景観と、付近を流れる清らかな川のせせらぎ、躰の芯からじんわりポカポカさせてくれる湯加減、そして直に冬本番を迎える大気とのマリアージュに身を委ねれば、ついついしょうもないジョークが飛んでしまうのも仕方のない自然の摂理。忙しなく殺伐とした日常とは正反対の、ただただリラックスするだけの何もしないという贅沢――身も心も蕩けるような心地である。
 今年の春に佐世保へ移籍してきた鈴谷は、ここにお世話になるのは初めてだった。噂に違わぬ、いや、聞きしに勝る極楽に、この後の晩餐と明日の朝風呂への期待値がとんでもない。
 気持ちいい。
 鎮守府のお風呂とは完全に別次元だし、好きな人と躰を重ねるのとも異なる快感。これもまた艦娘が背負い護るべき文化と平和の一つで、また人間の肉体を得て良かったと心から思える瞬間の一つなのだと、掛け値なしに実感できた。
 これで、あとは、
(熊野がいたら完璧で究極だったんだけどなァ)
 まぁ、正直なところ。どうしても残念というか、物足りない気持ちはあるが。それが当然の希求なのか、ただの高望みな我儘なのかは、鈴谷には判別つかなかった。
 この休暇は基本的に艦隊単位でのローテーション。【榛名組】の次は【阿賀野組】、その次は【金剛組】といったスケジュールのため、各個人に特定の誰かと一緒にという自由はない。例外は元MIA組の一人として特別扱いの夕立と、その要望で同行が決定した由良ぐらいだ。それは色々鑑みて妥当だと思うし、諸々を調整した木曾の苦労もわかるので文句を言うつもりもない。納得済みだ。
 だがやっぱり、こんなゴキゲンな場所なら恋人と共に、と願うのが人情というものだろう。
(いいなー。こーいう所でこそロマンスってか、絆が深まるイベントってか、こうイーカンジの雰囲気になってだね……なんでカノジョ持ちの鈴谷がぼっちなのさー)
 湯煙の向こう、同じようにして温泉を満喫する少女達の裸体を目にして、ついつい思わず喉から出かかった軽い溜息をぶくぶくお湯の中の泡にする。縁に腰掛けのんべんだらりと談笑している夕立と由良も、隅っこの方でなにやら真面目な相談をしているらしき瑞鳳と響も、発展度合いこそ違えど青春真っ盛りだ。ちょっと羨ましいと思う。
 やるせない。
 そこでふと、思った。
 ぼっちと言えば、男湯のキラなんかは正しくぼっちだろう。
 改めて彼の境遇に同情し、次に彼を慕う少女達の青春について想いを馳せる。今夜に動きはないだろうが、鈴谷達が一足先に帰る明日には、何かしらの進展なり後退なりがあるかもしれない。それこそ、こーいう所だからロマンスとか、絆が深まるイベントとか、こうイーカンジの雰囲気があるかもしれない。できれば進展してぼっちじゃなくなればいいねと素直に応援したいところだ。
 男と女にしろ、女と女にしろ、男と男にしろ、人はやはり他人と繋がっているべきものだと思う。
 そしてそれは、隣でくつろいでいる我らが旗艦殿にも、水風呂を求め室内へ戻っていった参謀殿にも同じことが言えた。
「ふむ……」
 鈴谷はおもむろに、お湯に浮かべていた桶から徳利とお猪口を手に取ってなみなみ清酒を注ぐ。
「ねー榛名ー?」
「はい? あ、ありがとうございます」
「榛名はいないの? イイ男とかイイ女とかさ」
 それを献上し、なんとなく気になっていたことを尋ねてみた。
「んー、今のところはやっぱり、ないですねぇ」
「あらやだ勿体ない。こんなにも美人で気立てが良くておっぱい大きいのに」
「おっぱい関係ないですよー」
 尋ねて、ぜっんぜん動揺もせずポワポワした声音で返ってきた答えに、せっかくの人の身だというのに勿体ないと心底思った恋愛偏重主義者。
 榛名はモテる。艦娘達からは勿論、軍の正式な広報活動の一環で雑誌に載った際にも大衆から大きな反響があった。ちょっとだけ運命が違っていたら、鈴谷だって交際を申し込みたいぐらいイイ女だ。
 だというのに未だ独り身というのは、もう一度言うが勿体ない。いや「未だ」とは言っても艦娘が生まれてたった5年ぐらいで恋だ愛だに患ってる方が極少数派だし、誰かとの関係を強制するつもりも、独り身という生き方を否定もするつもりはないけども。でも恋をしたら榛名はもっと輝けるのに、そういう素質があるのにと思う鈴谷だ。
 判然としない面持ちで、自分のお猪口にも注いでなんとなく乾杯――昨日も瑞鳳と昼から呑んでしまっていたし、この後の晩餐でも呑む気でいるから、これではまるで飲んだくれだ――し、もうちょい追求してみる。
「しっかしまー、木曾も違うってのは、正直なとこ意外なんだよね」
「よく言われます。でもそういう、なんていうんでしょう? そう、トキメキというのを感じたことがないのですから……義務なんてことでもないでしょう?」
「確かに」
「彼女のことは公私で頼りにしてますし、助けてもらってますけど、それ以上はないですよー。……いつか素敵な出逢いが、とは少し、少しだけ思ってはいますけどね」
 一方、榛名はもう鈴谷の趣味趣向はわかっているし、これまで他の艦娘達にも同じことをよく訊かれて慣れっこな話題だったので、余裕をもって軽く流した。同じ艦隊に配属されてからよく一緒にいる木曾はただのお友達で相棒なのだと。
 榛名という少女は別に、恋や愛に理想を持っているわけでも、他人を疎んでいるわけでもない。重視してないだけなのだ。それに世の大多数のカップルというのは劇的な事件や情熱やロマンスもなく成立し、故に恋愛ドラマが売れるということを知っていた。だからいつも、そして今回も、単純にそういう相手とまだ巡り会ってないだけか、もしくは今はまだ気付いてないだけと、やんわり答えるのだ。
 この態度に鈴谷はまず、相変わらず手強いと、次に安易に流されないところも素敵だと肩を竦めた。本心だ。
 そして、この分だとキラという男もまるで眼中にないだろうなと、予想外の第三者が乱入という事態は避けられそうで良かったねと、軽く頷く。この会話はきっと瑞鳳の耳にも届いているだろうから、実はそういう心配もしていた彼女としては一つの朗報になったことだろう。
 ただ、流石は一艦隊のリーダーと言うべきか。やはり重視してなくとも見るべきところはしっかり見ているようだった。
「ところで、恋や愛といえばですよ、鈴谷。ちょっと気になってることはあるんですが……」
「うんー?」
 ぐぐっと伸びをしつつ隣の男湯の方に視線を向けて、ちょっと声のトーンを落として――
「瑞鳳はどうしてアタックしないのでしょう? 見たところ脈アリだと思うのですけど」
「……え。あれ、気付いてたの?」
「勿論。以前からそんな気配がありましたし……確信したのはさっきですけど。他でもない貴女があんないきなり親身になってましたから。だからこそ、知ってるのかなって」
 ――そのちょっと落としたトーンと裏腹に、少し瞳を輝かせて。
 それはまさしく恋バナ的ゴシップに興味津々な少女の顔だった。
 瑞鳳はキラ相手にガチの片想いをしている。その事実を鈴谷が知ったのは昨日だし、それを二人だけの秘密として密かに応援するつもりでいたのだが、まさか榛名がとっくに察していたとは。そしてまさかまさか自分のお節介が決め手になっていたとは迂闊だった。そうか、さっきのショッピングモールでやけに楽しげに合流してきたのはそういうことか。
 それに、なんだか旅館に着く前からキラが何故か瑞鳳相手に少しぎこちなく、瑞鳳もキラ相手に少々挙動不審だった――確実にナニかがあったのだろう――のだから、勘が良ければ内情を知らずとも気付くかもしれない。
 こりゃ隠せないし誤魔化せないと悟った鈴谷は、知っている。瑞鳳が素直にアタックしない理由を。しかし、とはいえ彼女らの若干込み入った事情を部外者が白状してもいいものかと迷い、横目でチラリと響を見て、
「……ふむぅ、いっそ仲間は多いほうがいいかねぇ……?」
「?」
「いや、うん。……ごめん榛名、知ってるけどちょっと内緒。色々とデリケートでプライベートなもんでさ」
「貴女がそう言うのなら……」
 と少々心苦しいが当初の予定通り、ここは関係者を増やさず穏便に見守る方針を貫くことに。いかにリーダーといえども、真剣に悩んでいる乙女心を井戸端会議感覚で気軽に教えるわけにはいかない。
 おちゃらけてるようで義理人情に厚く口はそれなりに堅い。それが鈴谷という少女だった。

 
 
 
 

《第33話:見つめるべきもの》

 
 
 
 

 その日の夜はやはり、何事もなく終わった。
 お風呂から上がってご飯に舌鼓打ってちょっと雑談して。実質貸し切り状態とはいえ民営の旅館内で、女七男一のグループのみんなは常識人、何かが起こる筈もなかった。鈴谷の予想通り、目立ったイベント的なものはなかった。
 そして就眠。一人一部屋、一夜が過ぎた。榛名と木曾と鈴谷と由良の1泊2日、元MIA組の2泊3日、その初日が無事終わったのだ。

 
 

 表向きは。

 
 

「……」
 キラは眠ることができずにいた。
 だいたい深夜3時ぐらいだろうか。時計は見ていないが。割と早めに消灯してフカフカぬくぬくな布団に潜ったというのに、身体はそれなりに疲れているというのに、全然まったく眠気が訪れずに今に至る。
 眠りたいと思うのにグルグル思考を続けて目は冴えるばかり。
 この旅館に来る前、一人でモール外の小さなジャンク屋に入った頃からずっと、無意味に同じ問いを考え続けていた。答えはとうに出ているのに。とある人物ならその様を「お前、頭ハツカネズミになってないか?」と評するだろう。
 言葉がグルグルと巡る。
『艦娘だろーとさ、戦ってない時は普通の女の子なんだってば。乙女心は推してはかるべしでしょ、男の子』
『当たり前っていうか言うまでもないことだけど、キラっちも、ただの男の子なんだからね? 鈴谷達とみんな同じで、戦ってない時はフツーの人間で、女の子として扱われたくて、生きてくなら人間関係って大切じゃん?』
『そいやお前、何か趣味はないのか?』
『出自がなんであろうと皆、人なんだからな』
 今日、鈴谷と木曾に言われたことだ。
 彼女達からすれば純粋なアドバイスだったのであろうその言葉は、裏腹に、キラに深い衝撃を与えていた。シンが合流したという安心感と、自分が何者か判明した安堵、この休暇という何もしないだけの退屈な時間のせいで生じた心の空白に、反響した。
 まさにこうして、否応がなしに考え続けてしまって眠れないぐらいの。
 身の振り方を考えろと言われたのだ。
(……僕は、何がしたいんだろう)
 自問。
(この力で響達の助けになりたい。彼女達はもう大切な仲間なんだ、守ってやりたい。それだけは間違いなくて絶対だ。でも……それだけだ、たったの)
 自答。
 今の自分には想いと力がある。
 その上で、ただ彼女達の導く未来のための剣として盾として力を振るえば、それでいいと思っていた。けどそれだけじゃ足り得ないのだと、気付かされてしまった。元のあの世界にいた時から、自分は他の誰とも変わらない普通の人間だと努めて信じていたけれど、その普通の人間なら誰もがやっていることを怠っていたのだと、自覚させられたのだ。
 つまり将来設計だ。一人の男として何を目標とし、何を楽しみにして生きるのか。
 事ここに至るまで、元のあの世界にいた時からずっと、そこら辺のことを全然考えていなかった。惰性と状況に任せるまま、欲も希望もなく、自分の立場と境遇と特別性に甘えて。やるべきことに迷いつつも探して、生き残って、やるべきことを完遂することだけが全てだった。
 だからこれは当然の末路。
『傲慢だね。さすがは最高のコーディネイターだ』
『傲慢なのは貴方だ! 僕はただの、一人の人間だ。どこもみんなと変わらない……!』
 やりたいことがない。
 そんなのを普通の人間とは言わないと思う。普通とは、今日この街で見てきた人々のような生き方だ。買い物や食事や音楽、ガーデニング、好きな誰かといる事を楽しむ艦娘達のような姿だ。
 自分は今、何が楽しくて生きているのだろう? 何を求めて生きるのだろう?
 守りたい彼女達を、この世界を言い訳にして、自分自身を見ていなかったのである。自分にできることは戦うことだけだと枠に嵌めて、自分の頭で未来を考えていなかったのである。
 何度か、とある特定個人のために動いたことはあった。けどそれも状況と感情に流されてのものだ。
(どうすればいい? どうしたい? ……僕がやっても許されるものって、何なんだろう?)
 何もない。
 昔はこんなんじゃなかった。学生の頃は人並みにぼんやり夢とか目標とかがあった。
 ストライクのパイロットになってからは、ひたすら平和だった日常に戻りたいと思い焦がれていた。それから約10年経った今になってようやくその平和に、いやもっと上等な環境に恵まれていて、立場も責任もない自由な身の上でいるのに、なんだこれは。
 何もないのだ。空っぽだ。
『できれば普通でいたいのにね。みんなと一緒が良かった。そりゃ普通じゃないからこそ僕の人生と、僕という人格があるわけだけどさ』
 酷く惨めな気持ちになった。
 今日になって初めて、生き方を変えてみる機会なのかもと思い至った。でもそう簡単に意識が変わるわけもなく、そんな器用なことが出来るならそもそもこんな人生になっていない。
 こんな人間のままでいるのは嫌だ。
『艦娘だろーとさ、戦ってない時は普通の女の子なんだってば。乙女心は推してはかるべしでしょ、男の子』
『当たり前っていうか言うまでもないことだけど、キラっちも、ただの男の子なんだからね? 鈴谷達とみんな同じで、戦ってない時はフツーの人間で、女の子として扱われたくて、生きてくなら人間関係って大切じゃん?』
『そいやお前、何か趣味はないのか?』
『出自がなんであろうと皆、人なんだからな』
 艦娘達とも向き合わないといけない。これまで女性と認識してはいてもそれ以上に、同志や戦友としてしか見ていなくて、なにより努めて異性というものを意識しないよう、意識させないようにしてきたのだ。そんな振る舞いが目についたからこそ鈴谷はああ言ってきたのである。
 でも、それもどうすればいいのかわからない。こんな自分なんかに好意を向けてくれているあの娘にも、疑問と後ろめたさが尽きない。
 何故? どうすればいい?
 更にもう一つ、気付いてしまったことがある。
 だから眠れない。
「……やめよう」
 溜息。上体を起こして布団から抜け出す。珍しく地球の重力を鬱陶しいと思ったが、無理矢理にでも少し気分転換したかった。
 自販機で冷たい飲み物でも買おうと、枕元に置いていた新品のショルダーバッグからこれまた新品の財布を探す、
「……?」
 寸前。
 物音。
 旅館内、何処かの扉が勢いよく開く音がした。慌てたような足音。そして――
「キラ……ッ!」
「えっ」

 
 

 ――ぴしゃりと。
 開いた。勢いよく。部屋の扉が。
 響がそこにいた。

 
 

 様子がおかしいと一目でわかった。
 扉を開いたまま固まった少女の姿に、中途半端な膝立ちでいた青年も固まった。
 美しい蒼銀の長髪をボサボサにした響、そのいつもの落ち着き払った端正な顔は土気色で、何か、信じられないモノを見たかのように愕然としていた。呼吸は浅く、早く、肩に力が入っていて。読み取れる感情は恐怖と混乱。
 また、浴衣の胸元が乱れて、幼く慎ましいものの女性を主張する膨らみが丸見えになっていた。見えてしまっていることはどうでもいいが、彼女が己の姿に気付かないほど動揺しているのだとわかる。また、彼女がそんな様でいること自体も純粋にショックだった。
 一目でおかしいとわかっても、しかし何があったのかと咄嗟に問えなかった。さっきまで無駄によく回っていた頭も出来損ないのゼンマイ仕掛け以下だ。
 数秒、無言で見つめ合う二人。
「……っ!」
「ひび――わっ、とっ?」
 先に動いたのはやはり響だった。
 ほとんど体当たり近い勢いで、キラの胸の中に飛び込んできた。受け止めきれず布団に尻餅ついて目を白黒させるしかなかった青年だが、しかし少女の身体が汗まみれでカタカタ震えていることに気付くと、流石に冷静さを取り戻せて。
 何かがあった。何が?
 条件反射で小さな身体をギュッと抱きしめてやると、途端、様々な憶測が脳裏を駆け巡る。
 女の子が、こんなあられもない格好で……、……一気に醒めた意識を集中して、まず気配を探った。幾重もの死線をくぐり抜ける戦闘時に発揮する鋭敏な感覚、弾けて拡張された知覚でもって周辺一帯を己の領域内とし、この旅館内全ての息遣いを捉える。彼はこの不思議な感覚に絶対の信頼を寄せていた。
 ……誰かが増えているような感じは無く、少女達も従業員達も全員ぐっすり安眠しているよう。変わった点と言えば、旅館の裏庭で二匹の猫がじゃれ合っているぐらいか。我ながら最低の発想ではあったが、どうやら最悪の事態ではないようだった。ひとまずその点については安心していいと思う。
 が、だとしたら一体何故。
 このままじゃ埒が明かない。けど何か訊いてよいものかわからず、口は勝手に当たり障りのない言葉を出力していた。
「……響? その、大丈夫……?」
「……、……違うよ、キラ。こんなんじゃ逆なんだ……」
「え?」
「また、アベコベだよ……違うんだよ……」
 よくわからない。どういうことだろう。
 少しは落ち着いたようでもう震えていなかったが、それでも哀れなぐらい憔悴している少女にせめて少しでも安心してほしいと、より強く抱きしめて頭を撫でた。鎖骨辺りに、物理的な鋭い痛み。見れば額の右側に生えた黒角が刺さっていたが、無視して抱きしめ続ける。
 皮肉にも、先程までの悩みは既に霧散していた。それどころじゃないのも間違いないが、守りたいモノのためならば己の身を顧みない相変わらずの性質によって、キラは突き動かされていた。
 たとえ黒角に抉られた鎖骨辺りから血が滲もうとも。誰かに尽くしている時だけ、彼は自身の指針を決めることができるのだから。
「……」
「……」
 おずおずと、響も抱きしめ返してきた。
 二人はそのまま、おおよそ一時間ほどずっとそうしていた。

 
 

 
 

「……夢。夢を、見たんだ。あの時の続きを」
「夢……それって、もしかして?」
「……うん、ストライクの記憶。……ごめんキラ、知ってしまったんだ。貴方に何があったのかを……」
「!」
 ぽつり、ぽつりと響が語り始めたそれに、得心がいった。
 彼女が何を見たのか。何をしに訪れたのか、何が逆なのか、アベコベなのか、わかるような気がした。
「だからわたしが、わたしだけでも、貴方を抱きしめてあげなきゃって……」
「……大丈夫。僕は今、ここにいるよ。ありがとう響」
「……わかるのかい? わたしが何を見たのか」
「教えてもらったからね、シンに。そこだけは例外で」
 昨日、この街に来る途中で、響は【GAT-X105 ストライク】の記憶を夢として見た。
 その内容自体は、鎮守府へ報告した際にシン・アスカから「他人に教えるな」と厳命されたらしくキラも知らなかったが、その続きとなればもうわかってしまった。
 つまり、要するに、響は見たのだ。
 体験してしまったのだ。
『あの時。C.E.で……死んだあんたを、あのストライクの中に押し込んだのは俺だ』
 キラという男が死んだ一連の場面全てを。事件を。
 左腕と左眼に怪我をして、あるいは失って、死んだ。一昨日のシンとの対談で知り得たのはたったそれだけだったキラなのだから、果たして少女が見てしまったその光景は一体どれほどのものだったか、当の本人だというのに想像しかできないのが心苦しい。そんな重荷を不必要に背負わせてしまって申し訳なくも思う。
 間違いなく、それは悪夢だったのだろう。
「……」
 僕のせいだ、と思った。
 記憶を夢として見るようになった原因はきっと、原因なんて言い方はしたくないけれど、額の黒角。鬼のような、ナイフの鋒のような、金属光沢のある黒い一本角。半身として融合したデカプリストの面影、形見。ならば元を辿ればキラが悪いのだ。
 二人を邂逅させたことに後悔はない。
 ないが、こんなことになるなら、とついつい思ってしまう。仮に、例えばゲームのストーリーみたいに同じ場面を何度も繰り返せるとしても、きっと同じ選択をし続けるだろうと半ば確信していても、それでも。こんなことになると最初からわかっていれば、また別の道があったのかもしれないと性懲りもなく。
(……確かに傲慢だな、僕ってやつは)
 なんて、それこそ無意味でしかない感傷もろとも流し去ってしまうべく、キラは泡だらけの手でシャワーヘッドを掴んだ。
「流すよ。目、閉じてて」
「……ん……」
 きっととんでもない高級品であろうシャンプーによって形成された豪勢な泡々を、少し熱めの水流で洗い落とす。少女の顔にお湯がかからないよう、耳の穴に入らないよう、頭皮に油分が残らないよう、髪が黒角に絡まないよう慎重に。意図していなかったとはいえ彼女にいらぬ負担をかけてしまったのは事実なので、お詫びの気持ちも込めて奉仕する所存だ。
 あらかた泡を流し終えれば次、これまた高級品であろうコンディショナーのボトルを手繰り寄せ、たっぷりプッシュ、毛先に揉み込んでいく。
 誰かの髪を洗うというのもそう経験があるわけではないが、懐かしい。オーブの孤児院に身を寄せて一年が経った頃には、時々子供達の入浴の手伝いをしていたのだ。といってもこんな長く美しい髪は初めて……の、はず……だけども、まぁ基本は同じだろう。
 といった感じに少々苦戦するキラに、されるがまま身を任せている響は再び言葉を紡ぐ。
「……わたしだって元は艦だから、自分の中で人が死ぬ感覚は初めてじゃない……むしろ慣れていたんだよ。嫌な言い方だけどね。でも……なんだろう、モビルスーツだからなのか、それとも貴方だからなのか、わからないけど……」
「……それで、僕のとこに来たってわけなのかな」
「Да。居ても経ってもいられなくて、会いたいって、守って助けてあげなくちゃいけないって……、……そうしようと思ったのに、逆に抱きしめられるとは思ってなかったよ、正直」
 悪夢を見て、飛び起きて、そのままキラの部屋に直行した。見知った誰かが自分の中で死ぬ感覚、その記憶に苛まれたまま。
 それが先の場面の真相だった。
 響としては抱きしめてあげるはずが逆に抱きしめられて、だからアベコベなのだと。世の中ままならないものだねと、タオルで胸元を隠している少女は軽く肩を竦めた。対して同じくタオルを腰に巻いた青年も「そうだね」と頷きながら、コンディショナーを今度は髪の上部に馴染ませていく。そうしている事自体に、思わず苦笑と少しの満足感が混じったような気持ちになった。
「優しいね、響は」
「そんなの。当然のことじゃないか」
「そうやって言い切れるところだよ。ありがとう本当に。そうして想ってくれるの、嬉しいよ」
「むぅ……、……」
 さて。
 ところで今更であるがキラは響の髪を洗っていた。先に述べた通り、ほぼ裸で、二人っきりで。この旅館には客室一つ一つに小さな露天家族風呂が併設されていて、それを利用していた。爛々と輝く星空が目に染みる。
 何故?
 なんというか、そういう流れになったのだ。
 おおよそ一時間ぐらい無言で抱き合っていたせいか、ちょっとテンションがおかしくなっていたのかもしれない。とにかく落ち着いた頃に、室内とはいえ底冷えする冬の夜、全身汗びっしょりのままは良くないからシャワーを浴びるよう勧めたのだ。それに素直に頷いた響だが、しかし自室に戻ろうとせずほんの少し悩むような素振りを見せてから、こう言った。
『……なら、髪、洗ってほしい。キラに』
『え……っ?』
『こう言っちゃなんだけど、たぶん良い機会じゃないかなって、【わたし達】には。ずっと考えていたことだよ。……駄目かな?』
 わたし達には。
 それが意味するところを、とある未練をわかってしまったから、反対できなかった。彼女はあの子の記憶と想いも継承していて、そしてキラにも小さな後悔があったから。
 だからこその今この状況。
 不思議と二人して、肌を見せることへの抵抗感は無かった。至極フラットな「まぁいいか」という軽さと緩さがあった。より深く分析するなら、二人とも全然まったく何も考えていない証左で、感覚としては父と娘のそれに近かった。
 とまぁ、そんなわけで。
「でも大変だよね。そんな……勝手に色々受信しちゃうなんて」
「ちょっと怖くなったかな、眠るのが。明石先生は対策を考えてくれるって言ってたけど……ああそうか、これも報告しなきゃか」
「問題は明日の夜、だよね。……アンテナみたいな機能なら電磁波を遮断できればいいのかな……」
 最後にシャワーでしっかりすすいで、それからは完全に無意識の行動だったのだろう。
 洗ったら湯船へ。習慣である。
 そして何より露天なのだから当然、寒かったのだ。テンションも変だった。
 だからそれは至極自然な行動で、
「……ふぅ……」
「……はぁ……」
 肩までお湯に浸かってからお互いに、やっと、二人が隣り合って入浴していることに、マナーとしてタオルを外していることに、気付いた。狭い浴槽だからほぼ密着状態で。
「……」
「……」
 途端に正気に戻った。
 さっきまでのちょっとシリアスで重めの会話もどこへやら。既に越えていた不可視の一線、その存在を遙か彼方になった今になって認知したような。
 たった一枚の薄っぺらといえども流石にタオルの有無は大きい。キラは気まずげに、響は頬を真っ赤にして顔を背ける。まぁいいかという軽さと緩さが、父と娘のそれに近い感覚が唐突にいなくなっていた。
 この状況、やはりおかしいのでは?
 さっきまでのは他でもない響の要望だったから応えただけで、まぁ、なんというか、セーフだと思う。思いたい。でもそのまま流れで混浴まで行ってしまうのはアウトなのでは? しかもこれで二回目。言い訳がましいが、前回は不可抗力というか妥協の産物で、当たり前だが目隠しされていたし腰のタオルもそのままだったのに、今回は順当に悪化している。
 とにかくこれはよくない。今更、と開き直るのもよくない。
 ついさっき艦娘達との向き合い方を考えなくちゃいけないと意識したばかりではないか。あくまで彼女達は女で、自分は男なのだ。自分はともかく、こういう不誠実な体験は少女達のマイナスになる。
(所詮、イレギュラーなんだぞ僕は。何をやってるんだ)
 先程の、響が来てから霧散していた筈の悩みが、再びキラの頭を埋め尽くす。
 まだ恋や愛というものを知らないであろう無垢な彼女の優しさに、隙につけ込んでいるようで、気分が悪い。縋るモノを欲しがっている空っぽな自分が惰性でそうしているという事実に、反吐が出る。このままズルズルと意味不明な距離感でいるのは誰にとってもよくない。
 しかもこの旅館に来る直前に、瑞鳳を相手に失敗したばかりなのだ。やはり努めて異性というものを意識しないよう、意識させないようにしないと駄目なのだ。だから……
 そう思って立ち上がりかけるキラ。しかし、
「っ、待って」
「え」
「あの時言ったこと、今も同じだよ」
「う……」
「それに今出ていかれたら、まるでわたしが追い出したみたいだ。そんなのは違う」
 押し負けた。呆気なく。
 俯きながらだったけれど手を握られて、そう言われてしまっては無碍にできなかった。
 あの時言われたこと。あれは本当に、無条件に嬉しかったから。それとこれとは話が違うと理性が訴えても、身体は勝手に浮かした腰を降ろしてしまう。反則だと思った。
(どうして、君は……)
 小さな手。柔らかくて、たおやかで、とても砲や大太刀を握っているとは思えない女の子の手。どうしてこんなにも力強く握ってくるのだろう。いくら優しいからって、いくら似たもの同士だからって、どうして。
 この時点でキラの思考回路はもう灼き切れる寸前で、
「ねぇキラ。ここに来たのは、あの記憶を見たからだ。けど……」
「……なに?」
「何か、悩んでるよね?」
「……!!」
「そんな感じもしてるんだ。だったら力になりたいよ、わたしだって。まだ帰るわけにはいかない」
 更にまったくもって相変わらず、言葉一つ一つが核心を突いてくるのだから、たまったもんじゃない。
 敵わない。出逢って何度目とも知れない、白旗を上げざるをえない瞬間だった。

 
 

 
 

 新地球統合政府直属宇宙軍第一機動部隊隊長のキラ・ヒビキ中将。
 故に、あの世界における立場と役目と義務があって、いつかはC.E.に帰還しなくちゃいけない。
 現状、戻り方なんて全然わからないし、理論がわかったところで再現できるとも言えない。異世界なんてなにもかもが未知数で、もしかしたらまた別の世界に飛んでしまう可能性だってあるし、無事でいられるかもわからない。
 けど、そんなことはどうでもよくて。
 一番の問題は、キラ自身が、帰りたいと少しも思えないことなのだと。
 一切の未練がない。記憶喪失が関係しているのかもしれないけど、今の所そうした心の動きがない。義務として帰還すべきだと、またシンは絶対に帰るべきだと思っていても、彼自身は自発的に帰りたいとは思ったことがないのだ。
 そのうえで、じゃあこの艦娘と深海棲艦の世界でやりたいことがあるかといえば、わからない。
 夢も希望も趣味もない、普通の人間の生き方ができてなくて、ただ少女達の力になれればそれだけでよくて、それはつまり心地よい居場所を守りたいだけの怠惰な逃げでしかないと思えて。そんな腹積もりで此処に骨を埋めるわけにもいかないと。
 また、自分はこの世界のイレギュラーなのだから、深く関わるのは間違いじゃないのかとも思いはじめていて、人を好きになっても、人に好かれてもいけないのだと。

 
 

 洗いざらい。
 彼の悩みを纏めるとこうなる。
 つまり、迷子なのだと思った。
 迷子が頑なになって、自分から明後日の方向へ進んで行くような危うさ。
 自分と彼はとてもよく似ているから、その辛さがよくわかった。生真面目に深く考えすぎなのだ。
 ただ、わかったところで解決策は思いつかない。考えすぎだと流すのも逆効果だ。時間と、それを分かち合える誰かが必要なのだろうと思い、そして自分にできることはなんだろうと、明けていく空を見上げながら考える響。難問だ。
 でも、今まさに懊悩という海に溺れかかっている彼にできること、すべきこと、やってあげたいことはハッキリしていた。
 立ち上がる。浴槽内で座っている彼の脚を跨ぎ、対面する。そして――
「大丈夫。わたし達みんなで考えよう、キラ」
「……ぁ、え……?」
「一人じゃないんだ、貴方は。そして今の貴方の全てを、わたし達は受け入れているんだよ、もう」
 今度こそ、自分から抱きしめた。さっきは気が動転して叶わなかったけど、逆になっちゃったけど、今度こそ。
 そうする為にここへ来たのだから。お互いが素っ裸だからって構うものか。似たようなことは前にもやった。
 よしよしと、初めて瑞鳳に会った時にされたことを思い出しながら、あやすように背中をぽんぽん叩く。一見華奢そうな身体なのに意外と首まわりと肩まわりがガッチリしていて、男らしく厚くて、少し大変だけど。これが今の自分にできる精一杯だ。
 やってあげたい心のままに。
「……響、耳、真っ赤だよ」
「……茹だったのさ」
 誤魔化すような言葉だったが嘘は言ってない。こんな大胆な真似ができるのは、我ながら、頭が茹だってないとできないだろうと思う。
 そして、ここで二つ、閃きのようにわかったことがあった。
「……そっか。瑞鳳姉さんの気持ち、こういうことなのかな」
「瑞鳳の……?」
 客観的に見て、今の響の行動は異常だと思う。なにせ男と女が裸同士で真っ正面から密着しているのだ。
 いくらなんでも好きな相手でもないとできない、こんなことは。
 つまり、そういうことだ。
 わかってしまえば連鎖的に光明が見えてくる。
「聞いて。キラの悩み、一つだけ否定できるよ。わたし達ならできる」
 みんなで女湯に入った時にこっそり聴いた瑞鳳の悩みを思い出す。瑞鳳もキラも、もう悩まなくていい。その悩みだけは、その一点だけなら、勇気を持って一歩前に踏み出せば解消できることを響は知っていた。
 自分なら突破口になれるかもしれない。
 わかったらもう止まらない。止められない。勇気を持って、一歩前へ。
 表情を変えないまま、いつもの落ち着き払った端正な顔と態度のまま。

 
 

「人を好きになっても、人に好かれてもいけないなんてことはない。そんなことあるわけない。もうわたしと瑞鳳姉さんは、貴方のことが好きなんだ」

 
 

 さっき、瑞鳳がキラを好いていることを知った。今、自分もキラを好いていることを知った。
 それを真っ正面からぶつけてやるのが一番の薬なのだと思った。

 
 

 自分自身に対する、絶望感。そして誰かに何かを赦してもらいたいと願う、罪悪感。どんなことがあっても自分を好きになれない、赦せない、幸せを素直に享受できないという響とキラの共通点。
 だとしても、そんな自分でも誰かに大切に想われれば、肯定されれば気持ちが楽になるのだと、自分の原点を見つめ直す機会になるのだと、キラから教えられていた。今度はこっちからお返ししてやったのだ。
「好きでいることをぶつけたら、きっとキラの重荷になるって瑞鳳姉さんは言ってた。秘密にしておいてほしいと言われた。けど……うん、わたしは我儘だから。今の迷子になってるキラには重荷が二つ必要なんだ。……ほら、これで一つは否定できたよ」
 酷なことを言った自覚はあった。
 余計に思い悩むだろうと思った。
 でもそれはきっと出口のない迷路にいるよりはずっとマシで、高く跳ぶためには一度身を沈めて溜めなくちゃいけないのと同じだと信じたい。
「他もきっと、いつか答えが出る。時間と、それを分かち合える誰かが必要で……その誰はここにいる。焦ることは何もないんだ」
 大きく見開かれた紫晶色の瞳をまっすぐ見つめて。
 そこで限界が来た。
 呆然としたままの青年に背を向けて、耳どころか顔どころか全身を真っ赤にさせた少女はお風呂から上がる。これ以上同じ体勢でいたら爆発しそうだったから。
 かくして、誰も知らない夜が明ける。
 表向きは何事もなく終わった一夜が終わり、恋心を知る少女達の二日目の朝が来た。

 
 

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