《第34話:Intermezzo per il futuro》

Last-modified: 2023-12-03 (日) 22:39:58

「ちーっすキラっち。具合どお?」
「鈴谷さん? ……ええ、まぁはい、お陰様で。それなりって感じです」
「んんー、この曖昧MAXな煮え切らないお返事。瑞鳳(づほ)も響も、こんなののどこに惚れたんだか……ま、元気になったんなら何より。ほいラムネあげる」
「……こんなのって……、……え、ちょっと情報広がるの早すぎません……?」
 長時間入浴による脱水症状とのぼせ。
 休暇二日目の朝は、起床一番キラの部屋を訪れた瑞鳳が、まだ濡れている身体に浴衣を羽織っただけのキラが床に倒れていたところを発見するというトラブルから始まった。
 幸い、そんな重症ではなかった。早期発見されて慌てながらも適切に介抱され、他の少女達がすわ何事かと集ってきた頃には意識も回復し、彼自身の口から倒れた経緯が説明された。曰く、温泉旅館なんて初めてだから噂の朝風呂というのを試してみたところついうっかり入浴しながら二度寝してしまったと。そして朦朧とした意識でなんとか自室へ戻ったところで転倒、そのまま気絶してしまったようだと。
 そういうことになっている。表向きには。
 というわけで「なーんだ人騒がせっぽい」「気をつけろよな」「お大事に」と少女達は退散、キラも今度こそちゃんとした格好で布団で眠り、至った今現在は9時20分。
 そろそろ大丈夫そうかなーと鈴谷が来訪してみれば、目覚めていた彼の具合はもうだいぶ良くなっているようだった。その様を見て内心、間に合って良かったーと胸をなで下ろした私服姿の少女は、まさかの個人情報漏洩に困惑を隠せない顔で上体を起こしたキラに独特な形状のガラス瓶を渡して、そのまま座椅子に腰を降ろした。
 なんか一昨日も似たようなことしたなぁとデジャヴを感じる鈴谷は、知っている。
 朝風呂でうっかり二度寝という嘘も、どうしてそうなったかという真相も。だから、事がこうも性急に動いてしまった以上は行動を起こす必要があった。榛名ら1泊2日組のチェックアウトまであともう少し――自分が旅館から出てしてしまう前に、問題を抱えた2泊3日組だけが居残ってしまう前に、なんとしても。
 備え付けの電気ポットで急須にお湯を注ぎながら、まずは前提、実は自分も関係者であることを開示する。
「早いってゆーか、実は前々からさ、あの二人がキラっちのこと好きだってのは瑞鳳に相談されてて。最初から知ってたワケよ。んなもんで今朝のことも、響に洗いざらい白状された瑞鳳経由で、把握しててさ」
「……、……そう、なんですか……」
「あー、うん、ホント悪いと思ってますハイ。デリケートでプライベートな問題なんだから干渉しないつもりだったんだけどね本当は。でも、さ、どーやらキラっちときたら複雑な心境みたいじゃん? だから中立として本音と実情を聴いておかなきゃ後々マズイんじゃないかって思うわけで来ましたよっと」
 複雑な心境。脱水症状とのぼせとはまた別問題で、彼の顔色は優れない。
 本来なら、こんな真似はしたくなかった。事情をちょっと知ってるからといって一々干渉するなど野暮とありがた迷惑の極みで、やりたくなかった。恋愛は当事者だけで臨むべき問題だ。
 しかし。
「マズイって……なんなんです。鈴谷さんに何か不都合があるわけじゃないでしょう?」
「そんな暗い顔であの二人と今日一日ずっと一緒にいるつもり? 鈴谷達もう帰っちゃうんだよ? 不都合あるのはそっちで、今のうちに心の整理が必要でしょって言ってんの。まともに話せそうにないっしょ、お悩み全開なその感じだと」
「……」
 見てしまったのだ。
 キラが倒れたと旅館内に知れ渡ってすぐ、寝ぼけ眼なみんなと一緒にこの部屋を訪れた時のこと。
 すこぶる体調が悪そうで辛うじて意識を保っているぐらいなのに努めていつも通りな対応をしていたキラが一瞬だけ、純粋に心配していた瑞鳳と、扉付近で立ち尽くしていた響から気まずげに目を逸らしたのを。
 強い違和感。そんなことをする男では、仲ではなかった筈だ。何かネガティブな出来事があったかもしれないと女の直感が囁いた。しかしその時は流石に正面切って訊いてみる気は起きなかった。
 違和感が確信になったのは直後のことだった。
(仕方ないじゃん、あんなの見ちゃったらさ。知っちゃったらさ。ほっとくの方が人道に反してるし)
 皆がキラの部屋から退散してから約10分後、朝食まで二度寝しようとしていたら、いつの間にか何処かへ行っていた瑞鳳から慌てて相談された。青ざめて動揺しまくりで、のっぴきならない異常事態だと察した。
 なんでも退散後すぐ響に連れられて、旅館の裏庭でこっそり、自分のせいで彼が倒れてしまったのかもしれないと懺悔されたという。成り行きの混浴からの抱擁と告白――本能のまま思いついたまま勢いで好きだと言って、秘密だという約束を破って瑞鳳もキラのことが好きなのだとバラしてしまって、呆然としたままの彼を置いて逃げてしまったのだと、だからきっと倒れるまで浴槽にいたんじゃないかと、全てを正直に。
 その懺悔をそのまま伝えられた鈴谷も、瑞鳳が何故今までキラに告白しなかった理由を知っている身として、素っ頓狂に驚いた。
 そして思い起こすは、さっきのキラの態度。違和感。瑞鳳も響も二人揃ってちんちくりんとはいえ間違いなく美少女で、健気な良い子だ。そんな二人に無垢な好意を向けられて何故、気まずそうに目を逸らした? 最初は、なんて薄情な男だろうと思った。あんなに仲が止さそうだったのに、傍から見て完全に脈アリな雰囲気だったのに、まったくもっておかしいあの反応は、如何なものか。ちょっとイラっとした。
 けど、すぐに重大な何かを見落としてると思い直した。おかしい。何か原因と理由がある。それを見落としては酷いことになる。
 こりゃドえらいことになったと裏庭に急行すれば、そこには半泣きでしゃがみ込んでいる響がいて。なんていうかもう色々と可哀想としか。ならば一肌脱いでやるしか。
 野暮でお節介だと思うが、流石に放置できない。情報を整理し、二人に待機を命じ、今こうして単身キラの部屋へとやって来るしかなかったわけだ。ここでちゃんとしておかないと、この三人は暗く曖昧な雰囲気のまま今日という日を一緒に過ごすことになる。最悪の休暇だ。
「ま、そんなわけで。先に確認しときたいんだけど、のぼせたのってやっぱ、響にされたことで驚いたから?」
「……、……そうですよ。驚いて、頭ぐちゃぐちゃになって、気がついたらもう。情けない話ですけどね」
「いやいや仕方ないって。あの予測不可能な夕立の弟子なだけあったってことっしょ」
「……そうかも、ですね……。……あの、その……鈴谷さん。響と瑞鳳は、今……?」
「ん? 外で待ってもらってる。特に響のほうがねぇ、キラっち倒れたのは自分のせいだって気に病んでてさ」
「なっ、響のせいだなんてそんなの……!」
「だーかーら、こーして鈴谷が来たの。折衝役ってことでヨロシク」
 しかしまぁ、考えてみれば。肩を竦めて事実を認めたこの男も中々に……いや少女達に負けず劣らず滅茶苦茶可哀想だ。
 響と混浴して、裸で抱きつかれて、告白までされたとかいうデリケートな事実を、もう既に他人が知っている。更に言えば、キラが異性愛者で、元の世界で女性と躰を重ねた経験があることも知っている。……プライバシー侵害っぷりがヤバい。
 ならばせめてものフォローはすべきだ。真実を見極め、この唐変木のすっとこどっこい達に冷静にこれからのことを考えられるようにしなければ。こうまで関わってしまったのならもう影から応援なんて言える立場じゃなく、最初に瑞鳳に相談された時と同じくらいの労力をキラにも使ってやらねば不公平というもの。
 それに、こんな状況になってしまったのには鈴谷にも少々責任があるわけで。ぶっちゃけここでちょっとは役立っておかないと立つ瀬がない。
(にしても誤算だよねぇ。告白とか月単位……下手すりゃ年単位の時間がかかると思ってたのに、まさかたった二日で状況変わりすぎだって。ホントもうまったく、瑞鳳が不憫でならないったら)

 
 

 鈴谷が彼ら三人に入れ込む理由、事の発端である瑞鳳の事情を反芻する。
 今は愛の告白をしないという意志。前に進まないという選択。たった二日で瓦解したそれを。

 
 

 知ったのは一昨日のことだ。彼女自身が恋心を自覚したのも、鈴谷がなりゆきで知ってしまったのも、あの合同慣熟訓練があった一昨日の朝。その後、お昼からの自棄酒に付き合いながら彼女の事情を聴いた。
 要約してみると、瑞鳳は想像以上にとんでもないお人好しで、病的なぐらい献身的過ぎなのだと思う。
 つまりだ。彼女達がMIA判定されたあの事件で、奇跡のニコイチ応急修理によって響鳳となっていた時に瑞鳳は、響も無自覚ながらキラに好意を寄せていることを知った。しかしその響は恋や愛というものをまるで知らず無頓着で、だからそれを自覚するまでは動いてはいけないと自制した。頼られてる姉貴分として、愛すべき妹分への横恋慕など裏切りそのもので、せめて対等の立場にならなければ始まらないのだと。歪な三角関係だ。
 また、キラはいつか異世界に帰るべき人なのだから、今は記憶喪失なのだから、自分達の想いが足枷になってはいけないとも。彼が帰るのならば、いつかの別れの日まで、墓の下まで、秘密にしておきたいのだと。そう、一昨日に吐露された。
 そもそも瑞鳳は最初から、素直に告白するつもりなど毛頭無かったのだ。片想いのままで終わるつもりだったのだ。好きでいさせてもらえれば、傍にいることができればそれで良いと、なんて健気で愚かなのだろう。あの幼気でクールな響が恋心を自覚して、キラもこの世界に留まることを決めてようやく、その二つの条件が同時にクリアされてようやく愛の告白が許されると決めつけた恋など、もう乾いた笑いで同情するしかないだろう。
 独りよがりが過ぎる。けどその意志は尊重しようと思った。
 とはいえ、一つ忠告はした。
 瑞鳳は確かに、響の姉貴分なのだろう。響も妹分の立場に甘えているのはわかる。そして艦娘は生まれながらにして、大人っぽい容姿の娘は大人っぽい人格だし、子供っぽい容姿の娘は子供っぽい人格をしているから、自然と上下関係ができるものだ。しかし、それでも艦娘としてこの世に生まれたのは全員同時で、皆々揃って5年とちょっとぐらいしか生きてない。故に人生経験に上下はない。だから、姉貴分だからといって妹分を不当に子供扱いするのは良くない。
 特別な相手なら尚のこと、対等でいたいのなら自身の想いは表明しておくべきだと。持ち前のコミュケーション能力で様々な艦娘や人間と交流し、カノジョもいるおかげで比較的経験豊富な鈴谷だからこそ、忠告した。
(でも鈴谷のせい……だよねぇ。いや、間違ったこと言ってないハズだけどさ、うん、響のイノシシっぷりを考慮すべきだったなぁって。あの夕立の弟子で、あの突撃隊長なんだってのすっかり忘れてたわ)
 ここからはつい先程の情報整理で知ったことだ。
 昨日の夕方、この旅館に来る前に、瑞鳳はキラに何か嬉しいことを言われたらしい。それでしばらく挙動不審になっていたのだが、それは何故かと響に純粋に心配されては隠し通せなかったと。鈴谷の忠告もあって、観念して、意を決して、絶対に秘密にしていてほしいと念を押して、あの男が好きなのだと伝えた。それが昨夜の露天風呂でのことで、伝えられた当の響の反応は「そうだったのか。わかった、応援するよ」という、恋や愛を知らず無頓着だからこそのアッサリしたものだったという。
 念押しした秘密は一晩経たずして反故された。
 とはいっても響に悪意や打算があったわけではない。そんな性悪な少女じゃない。ただ、あまりに純粋過ぎで、猪突猛進過ぎたのだ。ちょっとした成り行きで混浴し、キラが何かに懊悩していると知って、やれることを本能のまま思いついたまま勢いでやろうとしたら、まさしく連鎖反応のようにして響も瑞鳳と同じ想いを持っていたことを自覚し、彼の為にそうすべきだと思ったから秘密を投げ捨てて全てを伝えてしまうぐらい。
 ただ、それが良い方向に向かうとは限らなかったわけで。そうして伝えてしまって、恥ずかしさのあまりキラの前から逃げ出してから己のやらかしに気付き、自己嫌悪していたところにキラが倒れたという報せが入り、響は恐慌に陥った。陥って、瑞鳳に懺悔した。なんとも見事なドミノ倒し。

 
 

 以上が、事が今ここに至る二日間での展開だ。
 あんまりなハイスピード展開に頭がクラクラする。あっという間に全てが白日の下に晒されてしまった。たった二日にして瑞鳳が課した全ての前提条件が最悪な形でふっ飛んで、ついでに鈴谷の同情対象に響とキラが加えられた。
 とりあえずもしこんな展開を考えたシナリオライターがいるのならば死ねと言いたい。このシナリオライターは死ね。大事なことだから二回言った。

 
 

(ま、恋だ愛だ惚れた腫れたってのにはそう珍しくないんだケドさ、こんぐらいのスピード感。夕立ん時も凄かったし。さてさて、そんじゃ鈴谷も気合い入れて頑張りますかね)
 兎にも角にも。
 状況は動いてしまった。我ながら下手な例えだが、高速道路における最低速度のようなもので、どんなに牛歩でいたくても周囲が速い流れになってしまったからには、ノロクサしてれば事故あるのみ。無理矢理でも駆け抜けさせなければ悪い未来しかない。
 なれば、だからこそ。今、知る必要がある。
 これまで知らなかったものを。
 他ならぬ恋のお相手のご本人、キラ・ヒビキという男の本心を第三者の視点で。
 本題ここから。ここまで来たらもう、遠慮なんてすることはないのだ。悪役にだってなってやろう。
「で? これからどうすんの? 美少女二人を堕とした女たらしさんは?」
 急須で煎れた熱々の緑茶を一口、口火を切った。

 
 
 
 

《第34話:Intermezzo per il futuro》

 
 
 
 

「なんかよくわかんないけど夕立達、蚊帳の外っぽい?」
「みたいだな。アイツら、いつの間にあんなややこしいことになってたんだ……?」
「謎っぽい……全然見当つかないっぽい……」
「オレ達に気取られず三角関係になっていたとは、やるなキラの奴。見上げた野郎だ……っと、んぉ? おいなんだ、って榛名か」
「ぽい? 榛名さん? 由良も……どーしたの?」
「木曾、夕立さん……気付いてなかったのは貴女達だけですよ……」
「聞き耳立てるなんてみっともないことしないの。ここは鈴谷に任せて外で待ってましょう。ね?」

 
 

 
 

「……やめてくれません? その呼び方」
 女たらしという安い挑発。それに対して長い長い沈黙の末に絞り出されたのは、そんな苦し紛れの誤魔化しだった。
 鈴谷は暗澹たる気持ちになった。
 キラが何を考えてるのかはわからない。知ったところできっと理解も共感もできないと思う。なにせ根本的に、前世の記憶ばかりの自分達艦娘と違って、この男は二十数年の歳月という確かな人生経験を積み重ねてきたのだから色々考えるべきことや感じたりするものが多く、安易にそれをわかるとは言えない。子供が大人の相談に乗れないのと同じだ。加えて、正直言ってまだ関係性の浅い鈴谷相手に、そんなに仲が良いとは言えない異性相手に吐露できるものでもないだろう。だからキラの考えはわからないし、わかるはずもない。
 ただ、それでも、この男がややこしい事を小難しく考えてることだけはわかった。理性を、鬱屈を吹き飛ばせるほどの感情パワーが足りてないのだとわかった。それが厄介の種なのだ。
 この男の本心を知るには、その理性の扉をこじ開けなければならない。
ならできることは一つ。下の下の悪手だが発破を掛けてみるしかない。
「暗い顔。嬉しくない? あんな可愛い娘達に告白されたのに。さっき目ぇ逸らしてたもんね」
「っ、……それは……、……」
「悪いケドさ、鈴谷とキラっちはそんな腹割って話せるような仲じゃないし、そっちとしてはいきなり迷惑だろうけど、でも仲良くないから話せる本音ってあると思うし。吐いて楽になったほうがいいって絶対」
「そうかもですけど……」
「好きって言われて嫌だったの?」
「ッ! 嫌なわけ、ないじゃないですかッ!!」
「ぅおっ、と……」
「あ……、……すいません……」
 怒鳴られた。
 当然だ。見えてる地雷をあえて踏むとか、同じことされたら鈴谷だって確実に怒るし、怒らせるためにやった。内心、かなり吃驚したし怖かったけど、それはそれ。すぐ我に返って謝ってきた彼の頑強な理性に、楔を打ち込むことはできた筈。
 好きと言われて嫌じゃなかったこと、なのにこんなにも悩んでいることを鑑みれば、希望はある。
 畳み掛ける。
 猛獣ひしめく谷の上を目隠しで綱渡りするような気分で、けど努めて普段の口調と声音で、鈴谷は言葉を紡ぐ。
「いや、うん。そっちが謝ることじゃないって。悪いのは鈴谷なんだからさ」
「……悪いと思ってるなら、放っておいてくださいよ……」
「生憎と無理。あの二人に何とかしてくるって言った手前はね、鈴谷本気だよ。野次馬なんかじゃない。だからせめてキラ自身がこれからどうしたいのかわからないと、帰ろうにも帰れない」
 キラの顔が大きく歪んだ。やはり一度感情を大きく出したのが効いたのだろう。俯いて、両手で布団をギュッと握り締めるその様には明らかの苦悩の色が滲み出てきていて。
 目に見えて重苦しい。そういえば響は、迷子になってるキラには重荷が必要だから告白したと言った。でなければ何処かへ行ってしまいそうだったからと。……なんというか、効果覿面過ぎて、重荷が重すぎて、潰れかかってる感じな気がする。
 そんな今の彼にこんな問答は酷だろう。けど、酷だけど、あと一押し。可哀想だが心を鬼にして理性を剥ぎ取りにかかる。 
「嫌じゃないなら、応えられない理由があるって理解でいい? やっぱ異世界人だから? でもさ、だったらキラ自身はどうしたいわけさ」
「……」
「昨日、言ったよね。立場とかそういうのは一端余所に置いといてさ、男としてさ?」
 すると、思ったよりも早くその時は来た。
 まるで細くも頑強だった柱が最後の一線を越えてボキリと折れたみたいに、呆気なく。
「……わかってるんですよ、貴女が正しいこと言ってるって。昨日のもだって。でも、僕は……、……」
 弱音、本音。
 取り繕う余裕を無くして遂に布団ごと膝を抱えて発せられたそれは、くぐもって聞き取りにくかったそれは、正直言ってまだ関係性が浅い鈴谷相手に吐露させられたそれは、酷く痛々しかった。
 そこからは洪水。箍が外れ、溢れ出た澱みは止めどなく。
 もしかすると彼自身、誰かに吐き出したかったのかもしれない。それこそ、仲良くないからこそ話せる愚痴を。
「……わからないんです。正直言って、本当にわかんないんです。僕がどうしたいかなんて……僕が知りたい。どうしたいのか、どうすべきかもわからないなんて、もう嫌だ……」
「……」
「それに、僕なんかを好きになんて、あの娘達が? そんなことって……僕に好かれるようなモノなんて何も無いのに、どうして? 嫌なわけじゃない、嬉しかったですよ。でも信じられない。僕だって……あの二人と一緒に居られたら、それだけでって思っちゃって……。……でもそもそも僕に、この僕という存在にそんな資格も無いんです」
 いや参った。
 先程、ややこしい事を小難しく考えてる鬱屈を吹き飛ばせるほどの感情パワーが足りてないのだと思ったが、違った。足りてないどころじゃない。ゼロだ。代わりに絶対的な否定が有る。総じてマイナスだ。
 二十数年の歳月という確かな人生経験を積み重ねてきた男に、やりたいことが、資格がないと断言されてしまえば、所詮耳年増の小娘でしかない自分に言えることなんて一つもないように思えた。
 しかしそれは撤退理由にならない。
 言葉の端々から冷静に、やたら己を卑下するキラが抱えるモノの本質を推測する。
(……好かれるわけがない、自分なんかを好きになったのが信じられない? 一緒に居るだけ、たったそれだけの資格さえない? 率直に言ってこれ、今すぐ心理カウンセラーのお世話になるべきやつじゃん)
 自分で自分を認めていない。肯定していない。自己否定――セルフネグレクトの域で、しかもその否定を自らに言い聞かせてるようにも思える。
 一応、こう言っちゃなんだが、彼自身の人生経験は知らないが、世の常として酷い戦争を戦い抜いた兵士には珍しくない傾向ではある。艦娘にもそれなりにいる。が、これは極めて重症の方だろう。
 そんな精神状態なのに響から好きだとストレートに存在を肯定されて、混乱してるのか。劇毒もいいとこだ。そりゃ気まずげに目を逸らしもする。
「なんでいきなり、そんなこと言うのさ。昨日まで普通に仲良くしてたじゃん? 傍から見てて、あーこの三人なら順当に上手く行くかもなーって思えたぐらいよ? どんな心変わりがあったワケよ」
「甘えて、縋ってたんだ。……自分のことを見ないで、忘れて、何も考えないで、状況に流されてただけって、気付いただけです。良くなかったんですそんなのは」
「自然体でこうなったんなら、むしろ自然な流れだと思うんだけど」
「そうやって間違えてきたんです僕は何度も。また繰り返すわけにはいかない。こんな僕と一緒にいるのは、あの娘達の為にならない。……でも、だからって正解って何? 結局、また何もわからないままで僕は、あの二人を傷つけるかもしれなくて……!」
 気付いただけ。もしかすると、この休暇で我に返ったと見るべきかなと想像する。
 ぶっちゃけモールでショッピングなんて男にとっては退屈だったろうし、実際そんな雰囲気はあったし、ついでに昨日の鈴谷の「身の振り方を考えるべし」なアドバイスが効いてる気がしなくもない。これまでの熱に浮かされるような激動の日々から離れて、キラに自分というものを振り返る余裕ができたからこそ破綻したとしたら、合点がいく。もしかすると、過去に好きだった女性を護れなかったという情報から鑑みて、告白がトリガーとなってトラウマを刺激した、という線もあるか。
 この考察はあながち筋違いではないだろう。鈴谷は確かに人としては5年とちょっとぐらいしか生きていないが、艦艇としてあの戦争を戦った記憶と、5年とちょっとの激戦を生き抜いてきた経験もまた確かだ。洞察力と思考力はそれなりに自負している。
 なんとも、ままならない。
 誰も彼もが良かれと思ってやったことが裏目に出て、ちょっとした事件にまでなろうとは。ここに来て鈴谷は、自分が出張ってきて正解だったと確信した。こんな扱いが面倒な男と、扱いが面倒な瑞鳳と、扱いが面倒な響がそのまま絡んでいたら目も当てられない惨事になるのは火を見るよりも明らかだ。
 早くも冷めつつある緑茶で唇を湿らせつつ、方針を考える。佐世保所属になるまで受けてきた数々の恋愛相談の経験も込みで、組み立てる。
(んー、つまり纏めると、曰く甘えてなんも考えないで流されてたーっていう一昨日までの態度が素ってことだよね。それを今更になって理性が許してないって感じで、だから問題点は何にどう納得するかで、んで、なるほど、どーも肝心要のトコが抜けてっからこんなトンチンカンになってるわけね)
 先程述べた通り鈴谷には……いや瑞鳳と響にも、キラ個人の事情なんてわからない。資格云々はどうにもできない。知ったところでわかるとは言えない。そこを整理すべきはキラ本人であるべきだ。
 そして、整理できたそれを解決する手伝いをすべき人物こそ、瑞鳳と響の二人に他ならないと思う。
「なるほどね。要するにザックリ言うと。色々どうすべきかよくわかんなくなって、瑞鳳と響にどんな顔して会えばいいかもわかんなくて、キラっちとしては現状は嬉しいけど好ましくなくて、けどだからってあの二人の気持ちも無碍にできないって感じ?」
「……えぇ、まぁ、そうなるんでしょうね。ザックリ言ってしまえば」
 だから鈴谷にできることは、最初の段階である、整理の手伝い。ゴチャついた部屋から一端全てを放り出して、取捨選択しやすくすること。でなければ誰の言葉も届かないだろう。
 まずは見当違いな思いこみの幾つかを否定せねばなるまい。
「ね、キラっち。いやキラ。これ一番大事なことだからよく聴いてほしいんだけどさ」
 そう時間に余裕があるわけではない。サクっといこう。

 
 

「別に、フっちゃってもいいんだよ?」

 
 

「……へ?」
「好きって言われたからって付き合わなくちゃいけない義務も責任も必要もないし。勘違いしないでほしいのはね、鈴谷が本当に言いたいのは、わざわざこんなことしてるのは、あの二人と付き合ってあげてほしいからってわけじゃないってこと」
「え、そ、そうなんですか? てっきり……」
 全然想定してないことを言われた、というキョトンとした顔が見えた。
 そりゃそうだ。鈴谷とて【人間の女の集団】の習性や傾向は知っている。キラも知っているだろう。こういう時は大抵、女は女の肩を持つもので男の意志は無視されがちだ。けどそうではないのだと平然と言い放ってやったし、このまま続けてやる。
 鳩が豆鉄砲を食らったよう顔に、豆マシンガンを浴びせてやろう。
 まずはキラにとって一番楽かつ堅実な道を。
「中立って言ったじゃん。人間関係はやっぱ合う合わないってのがあるわけだしね、好きとか言われても無理なもんは無理なら、しっかりフっちゃえばいいよ。片想いが失恋で終わるだけ。鈴谷にもそーいう苦い思い出あるし」
「それって……」
「他人にモノを言ってやろう思うぐらいには、それなりにね。初恋が失恋で終わった時はマジショックだったけど……でもま、それで死ぬわけじゃないし。瑞鳳にとっても響にとっても、いつか人生の糧ってのになるっしょ」
 キラ自身、立場としては独り身でいた方がいいのは確かだ。瑞鳳が懸念していた通り、この男はいつか異世界に帰るかもしれなくて、今は記憶喪失なのだから、自分達の想いが足枷になってはいけないと。そもそも女世帯の鎮守府での共同生活を提督に許されているのも、男女間のトラブルを起こさないことが前提である。
 立場として、二人を振って失恋させてやるのが一番楽かつ堅実なのだ。
 ……あと、キラにだって女性の好みがあるだろう。もし仮に巨乳なお姉さんが好きだったとしたら、いやそこまででなくとも同い年ぐらいな女性が好きだったとしたら、残念ながら色々ちっちゃい瑞鳳と響は土俵に立てない。てか響に至ってはロリだ。その点だけでも断る理由としては真っ当である。
 そういう道はちゃんと目前に存在しているのだと提示する。
 しかしそれは今のキラにとって、ただの逃げの道でしかない。
 だから、次は。
「けど、告白を受けるにしても断るにしても、今のキラが無責任に選ぶつもりなら、逃げるつもりなら、この鈴谷が絶対に許さないけど」
 やりたいことがわからないという男に、やってはいけないことを教える。
「……、……無責任?」
「だってそうでしょ。当てたげよっか。自分がどうして好かれるのかわからないし信じられないから逃げるために断ろうか、でも断るのは可哀想だから義務感や責任感で付き合ってあげようかどうしようかって考えてたでしょ」
「う」
「二人の想いに真摯に誠実に向き合ってない。見ないふりしてる。こんな自分と一緒にいるのはあの娘達の為にならない? 自分がどうしたいのかわからない? ふざけんな、好きって言われて嬉しかった自分に嘘つくな。逃げようとしたら主砲一斉射と爆撃でコロス」
 図星の顔、という題材の絵があれば、まさにこれがそうだろう。
 トラウマを刺激されてパニックになってたみたいだから致し方ないとは思うが、そこを責めるつもりはないが、自分の気持ちにいっぱいいっぱいになって相手を見てなかったのは、やっぱり赤点に違いない。
 このどうしようもない唐変木のすっとこどっこいの唐変木の頭からすっぽ抜けているものを、明確に、もう一度突きつける。
 実はこれをイの一番に言いたかったまである。

 
 

「ねぇ、瑞鳳と響はキラのこと好きになったんだよ現実として。それって、キラが知らないキラの魅力が、理由が、確かに存在するってことじゃん。普通に考えて」
「……」
「なのに知らない、わからない、好かれる筈がない好きになっちゃ駄目って、あの娘達の気持ちを蔑ろにしてるじゃん。二人が嘘つきで間違ってるって疑ってんの? ぶっちゃけ失礼にも程がある」

 
 

 ウダウダグダグダ言ってきたが、結局のところ結論はこれだ。
 こんな明確過ぎるものを言うのに遠回り過ぎだ。最初に言ってやりたかった。でもそれだときっと頑なに頭ごなしに否定してくると思ったから、相手の言い分をちゃんと聴いて分析してやっと説得力ある言葉として放った自分の我慢を誰か褒めてほしいぐらいだ。
 好き嫌いに理屈なんか無いっての馬鹿モノめ。子供でもわかることだ。っていうか、こいつらどっからどう見ても相思相愛じゃーん!
「僕が知らない、僕の……、……いやでも鈴谷さん、そんなの――」
「ぶっちゃけさ、キラっちって鈴谷のタイプじゃないんだよね。仲間としては歓迎だけど、男としては恋の対象外」
「――……?」
「で、榛名と木曾も眼中にないっぽくて、実は瑞鳳の本当の好みはダンディーなおじさん」
「……あの、鈴谷さん?」
「なんとこの鈴谷、一昨日の内にそれとなーく艦娘達に訊いて回っておりまして。今のところはキラっちのこと、佐世保の殆どは戦友として信頼してるけど、恋愛対象としては見てないって感じだね。ちなみに既婚者の提督は割と人気だったり」
「……まぁ、それはそうでしょうけど……?」
 ちなみに、その殆ど以外は、つまりそういうことである。といっても接点があまり無いし、キラは常に某二人と行動を共にしているのだから、淡い憧れをひっそり胸中に閉まってるといった具合だが。より具体的に言えばその淡い憧れの本質は多分、女子校に勤めるイケメン男性教師に対するモノと似ていることだろう。無論、そんなことを教えてやったりはしない。それこそ本題じゃない。
 要は、好かれる理由がない自分が実際あんまり好かれてないというリアル。唯一深海棲艦と直接戦える男性が、たかだか一ヶ月間ぐらい女の園に混じって戦ったぐらいで、好意を一身に受ける男なんかになりはしないというリアル。当人であるキラが「そんな当たり前のこと今更言われても」と反応するのも当然な今更のリアルを肯定したうえで。
 もう一度。
「だけど瑞鳳と響はキラを好きになったの。瑞鳳なんか好みがガラッと変わってるレベルよ? キラには何らかの好かれる理由が確実にある」
「……」
「YesかNoで答えて。二人が嘘を言ってると思う? 信じられない?」
「……、……No」
「うん。そっちも色々理由とか過去とかあるんだろうけどさ、納得しがたいかもしんないけどさ、そこだけは絶対に認めてあげなくちゃダメじゃん。告白を受けるにしても断るにしても、目を逸らしたらダメじゃん」
「……目を……、……そうですね。確かに鈴谷さんの言うとおり、僕は逃げようとしてたのかもしれない……」
 こんな初歩的なことでとか勘弁してほしい。ったくもう世話の焼ける。まぁインパクトあること言われたらそれ以外が脳から抜けるってのは、わからんでもないが。
 しかし、それにしても、だ。
 こう言っちゃなんだが少し安心というか、親近感が湧いた。
 こんなに表情がクルクル変わる様を見たのは初めてだった。新鮮だ。だってこれまでのキラは、異世界の戦争にすぐに順応して参戦して、文句の一つも言わずテキパキ仕事して成果を上げて、何度か死ぬような目に遭って、それでいて飄々のらりくらりと少女達に接して、正直言って不気味だった。達観してるというか、仙人みたいというか、とにかく人間味が薄いように思えてならなかったのだ。
 でも、彼もこんな単純な事で悩むのだ。思ってたよりナイーブで青臭い。そういう所に、あの二人は惚れたのかもしれない。……こういう男の場合どういう女の子が相性良いのだろう? なんとなく、自発的に振り回して尻に敷いてくるタイプの娘が合うのかなと思うが、それはそれとして静かに隣に寄り添ってくれるタイプも捨てがたい。瑞鳳と響はどっちでもあるような気がするし、どっちでもないような気もするが、どうなんだろう?
 閑話休題。
「どうして好かれたのかわかんないなら直接訊けばいいじゃん。あの二人なら答えてくれると思うし? あと、的外れなこと言ったらゴメンだけど、資格が云々とかってのは、なんか背負ってる罪とか業とか気にしてる系でしょ? んなもん艦娘なら全員背負ってるから気にするだけ損だし」
「……えらく強引な纏めですね……」
「でなきゃキラっちはそっから動けないでしょ。知ったようなことばっか言わせてもらってるけど、鈴谷の見立てとしてはもっと自分自身を信じるべきだって思うね。それが難しいんだろうけど」
「それは……まぁ、はい」
 立ちこめていた霧が無くなるように、重苦しく悲壮感一辺倒だった雰囲気は晴れた。
 整理整頓の第一歩はこれでヨシとしよう。大きな勘違いを正したら、お次は二歩目。
 時計を見る。いよいよ時間がない。もう少しでチェックアウト、鈴谷は撤退しなければならない。お茶をぐいっと飲み干し、当面の道を提示する。
「もう一つ。二人からの伝言ってか、鈴谷の意訳がだいぶ入ってるけど……瑞鳳も響もね、キラと彼氏彼女の恋人関係になりたいってわけじゃないのよ。今のところはね」
「?」
「今日中に答えを出す必要はないってこと。好きでいさせてほしいだけ、隣にいさせてほしいだけってすんごく健気なスタンスでさ、縛るつもりは毛頭ないみたい。だからキラっちも特別なことをしようとか何かしなくちゃとかじゃなくて、今まで通り一緒にいながら一緒に話し合って考えればいいわけよ」
「……一緒に……」
「ん?」
「あ、いや。そういえば響に言われたんです。一緒に考えようって、焦ることはないって。それを同じようなことを昔、僕も友達に言ったことがあって……そんなことも忘れてしまってたんだなって……」
「そんだけ混乱してたってことっしょ。仕方ないよ人間だもん、完璧なんかじゃないんだから忘れたり抜けたりするもんよ」
「……そんなんで、いいんでしょうか……?」
 少なくともこれで、キラがうじうじ悩む要素は幾つか取り除けたと思う。解決策を渡したわけじゃなく、ちょっと思考を整理してあげただけだが、わかりやすく顔色が良くなった。
 ここまで来れば、続きは二人に任せて大丈夫だろう。
 よっこらしょっと立ち上がってちょっと伸びをしながら最後のまとめと、
「いーのいーの。大体、みんな揃って好きだとか恋人だとか重く考えすぎだって。もうちょいテキトーなぐらいで、求められて嫌じゃなかったら繋がっちゃえばいいぐらいが丁度いーの。あ、何度も言うけど、もちろん相手の想いに真摯に誠実に向き合うのが大前提ね。……ホイこれあげる」
「これは……地図?」
「街のデートスポットで有名なのをピックアップしといたヤツと、流行の映画のパンフレットを幾つか。せっかくの休暇なんだから、細かいこと抜きにしてまず楽しまなきゃ。もう二人と会うのも大丈夫でしょ?」
 まだ始まったばかりな今日という日を満喫するためのお役立ちアイテムをプレゼント。もうすぐ10時になる。午前の。まだ午前10時なのだ。
 鈴谷達1泊2日のチェックアウト組&由良と一緒にいたい夕立は、これから鎮守府所有のSUV車で集団行動し、夕刻に佐世保に帰還するスケジュールだが、キラ達三人は完全フリー。フリーダム。旅館の送迎車を利用すれば自由にどこにでも行けるし、四人で行動するのもバラバラで行動するのも自由。
 自由だが、ここはキラ青年の甲斐性、エスコート力を期待したい。
 これまで長々と話を聴いてきたが、やはりこの三人なら順当に上手く行くかもなーと思えるのだ。恋の行方を抜きにして、そもそも三人一緒で収まりが良い。だからきっとこの後も、なにかしらの折り合いをつけて三人一緒でいるのだろうと予想して、元々渡すつもりで昨日のうちに用意していた冊子類を託した。
「そいや、響が改二になれたのはキラっちのおかげなんだって?」
「……、……瑞鳳が言うには、そうらしいですけど……」
「だったらあの娘達もきっと、キラのこと、キラの過去全部、受け入れてくれると思うよ」
「っ。……鈴谷さん、良い人ですね」
「あったりまえ! 惚れんなよ?」
「はは……、……ありがとうございます。ちょっと楽になりました」
 野暮とありがた迷惑の極みだが、できるだけのことはした。
 あとはなるようにしかならないし、結果に口を出すつもりもない。彼にここまで深く関わるのは今日で最後だろう。
 苦笑しながらのお礼の言葉に苦笑で返し、踵も返して扉を開く。
 と、同時にキラも立ち上がった。
「鈴谷さん」
「ん?」
「ここから福江基地に電話って、できます?」
 その顔には、なにかしらの覚悟を決めたような雰囲気があって。
 ならば喜んで協力しよう。最後の最後に女将さんに固定電話を貸してもらってから、鈴谷は外で待っていた榛名達と合流、SUV車に乗り込んで一足先に旅館を後にしたのだった。

 
 

 
 

「なぁプリンツ。こんなもんか?」
「どれどれ~? ん、Das ist voll schön! いいですねシンさん、いいセンス!」
「そ、そうか?」
「はじめてとは思えない包丁捌きですよー。じゃあこっちのKartoffeln……ジャガイモとニンジーンもお願いします!」
「任せろ」
 同時刻。所変わって福江島最南端の前線基地、その厨房にて。
 今日の昼食調理当番の一人であるプリンツ・オイゲンと、何の気まぐれか彼女の手伝いを買って出たシン・アスカが大量の食材と格闘していた。
 先日の大規模輸送作戦以降、来る台湾海域解放作戦に向けて、天津風やサウスダコタら他鎮守府からの増援戦力もそのまま防衛戦力として福江に滞在している。よって毎日三回の調理も戦場、猫の手も借りたいぐらいだ。
 よって実際のとこ猫の手よりマシどころか、包丁の持ち方を教えたばかりの初心者とは思えないスピードと質で皮剥きジャガイモを量産するシンの存在は大助かりだった。ザフトのアカデミー時代からナイフの扱いに定評があるだけはある。簡素な私服の上に紅いエプロン姿という厨房でただ一人の男の活躍は、一部の少女達の密かな熱視線を貰うぐらいの余裕を生じさせていた。
 そんな彼の隣で豚肉を鍋に投入しながら、プリンツは訊いた。
「でも、どうしたんです? いきなり料理を教えてほしいだなんて」
「ん、まぁ、ちょっとな。息抜きだよ」
「さっきのキラさんの電話が関係してたり?」
「それも半分だな」
 いつもならこの時間は、MSの修理なり調整なりに奔走してるシンだ。
 バッテリー駆動式デスティニーの調整はほぼ完了しているが、厄介なのは未だ背部メインスラスターが破損したままのデュエル。ストライクと違って通常兵器であるため思うように進まない復元修理は諦め、今では拡張改造による改修プランに切り替えて久しいが、そっちを放って料理の手伝いとはどんな心境の変化なのだろう。
 心当たりはやはり、休暇中のキラ・ヒビキから佐世保鎮守府経由でかかってきた先程の電話。いつかのデカプリストを招き入れた時と同じようなやりとりを終えてしばらくしてから急に、教えてほしいと申し出てきたのだ。願ったり叶ったりだけど、気になって仕方なかった。すると、すんなり素直に教えてくれた。
「なんか言われたんです? 帰ったらシンの手料理が食べたい! とか?」
「いやそんなんじゃねーよ……。ただちょっと、俺もこれからのことを考えなきゃなって思っただけだ」
「これから?」
「呉でさ、喫茶店の手伝いしたろ? あん時はウェイターと皿洗いぐらいしかできなかったけど……ああいう生き方もアリだよなって」
「あれま、なんだか意外な進路。でも、うん、アリ! だと思う!」
 キラから問われたのだという。もしも、C.E.に帰れたとしたら、逆に帰れなかったとしたら、シンには何かやりたいこと――将来設計はあるのかと。また、その道は果たして、自分達に許されるものなのかと。
 この戦いが終わったら。
 それに応えたシンの言葉、長々とした応酬の内の一節を、たまたま傍らで耳にしていたプリンツはよく覚えていた。
『背負って生きるために生きるのと、一生パイロットとして戦い続けるのは別問題じゃないか?』
 一節だ。他にも色々、真剣に言葉を交わしていて、いつか喫茶店をやってみたいとも直接言ったらしい。でもきっと、直接訊いたキラがどう受け取ったのかは知り得ないけど、その一節こそがシンの解答の全てだと思った。
 ならば、そういうことだろうか。未来のための準備をし始めた、ということだろうか。今を生き抜くのも大変なこの人の世で。
 そう思うと、なんだか自分のことのように嬉しくなったプリンツだった。
「よぉーしっ! だったらぜーんぶ付きっきりで教えてあげる! 目指せ3つ星シェフ!」
「サンキュ。でもそこまでしなくていいって」
「いやいや妥協はメッですよ! お店を出すなら尚更ですっ」
 これは是非とも天津風も巻き込まなければ。今は明石と一緒に仕事しているだろうから、昼食を運んだ時にでも教えてあげよう。
 なんて考えていたら、
「あ、いたいた。シン。ちょっといいかしら?」
「天津風? なんだよ……って、お前それ」
 噂をすれば……噂? とにかく測ったようなタイミングで天津風がひょっこり厨房に現われた。
 料理の最中で手が離せないのを察して「お邪魔するわね」と律儀に断りを入れてから歩み寄ってきた彼女の手には、古ぼけた小さな箱。どこにでもありそうな、何の変哲もないダンボール製の。プリンツはそれに見覚えがあった。
「忘れ物よ。さっき呉から届いたの。シンが使ってた部屋に置き去りになってたって」
「……わざと持ってこなかったっつか、隠してたんだけどな……」
「? そうなの? え、だってそれシンさんの世界のでしょ?」
 彼がこの世界に来た時に所持していた、正確に言えばデスティニーのコクピット内ストレージボックスに入っていた物品を詰めたものだ。そういえば佐世保に来てから見かけてないと思ったけど、まさか呉に置きっぱなしになってたとは。
 確か中には、ピンク色の折り畳み式携帯電話と、緑色の鳥型ロボットと……あともう一つあった気がする。何だったか。
「隠してたって……あのね、空き部屋とはいえ鎮守府の施設なのよ? 定期的に掃除するに決まってるじゃないの」
「そりゃま、そっか……。じゃあ悪い、俺の部屋のベッドの下にでもやっといてくれないか? 鍵は持ってるよな」
「いいけど……何? 何か曰わく付きなの、これ?」
 呆れ顔からちょっと嫌なものを見るような顔になった天津風に、野菜を切る手を止めたシンはどこか遠くを見るような瞳で、小さく短く言った。
「形見だよ。あんま人目に晒したくないんだ。特にキラには黙っていてくれ」
 なるほど、と得心がいくプリンツと天津風。
 色々込み入った事情があるらしい。キラには、ということは記憶絡みでもあると見るべきで、ならばそれ以上訊かないでおくのが礼儀だろう。
 意を得て、それっきり何も言わずに厨房を出て行った天津風。
 その背中を見送ってから、そういえばシンの将来設計の件を話すのを忘れてたとプリンツが気付いたのは、昼食が完成したタイミングだった。でもまぁ、さっきのちょいシリアスな空気感で話題に出すのも場違いだったから結果オーライか。
 楽しい話題は楽しい食事の場で。出来たて自信作かつ合作のアイスバイン入り野菜スープを深紙皿によそって、ついでコロッケとパンも用意し、配膳すべく工廠へ。

 
 

 しかし、全ては先送りになってしまった。楽しい話題も、楽しい食事も。
 絶叫。
 発狂。
 目的地の方面から響いてきたそれは天津風のもの。一転して急いで駆けつけたシンとプリンツが見たものは、注射器を手にした艦娘の傍らで倒れている天津風の姿だった。

 
 

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