運命のカケラ_短編その3

Last-modified: 2008-12-21 (日) 22:37:50

 クリスマス。プラント完成以前の地球で広く信仰されていたある宗教の開祖が生まれたとされる日であり、『神が人の姿をとって生まれてきた事を感謝する』日である。
 そこからわかるように本来は宗教的な祝日なのだが、第一世代やその親世代ならともかく思考の性質的に神という発想から遠いコーディネーターたちの間では宗教色が薄まり、単なる『お祭りの日』という扱いを受けることが多かった。
 鳥やケーキといった豪華な食事を用意したり、友人や恋人、はたまた家族と過ごす、団欒と親愛の日。戦争が終結して間もないこの日でさえ、つい先ほどまで開かれていたラクス・クライン主催のパーティをはじめとしてプラント全体がうきうきとした雰囲気に包まれていた。

 

「――だってのに、なんで俺はこんなところで書類いじってるんだろうな?」
「何変な解説してんのよさっきから。ていうか私に聞かせてるのって嫌がらせ?」

 

 正面から聞こえてきた声に、シンはペンを持ったまま頭を掻いてため息をついた。くたびれた視線を上げた先には、同じようにくたびれた視線と赤い髪。そういえば以前は頭の形をそのままトレースしたような髪型だったのが、ポニーテールというほどではないチョンマゲというか、プリンの上にカラメルソースをかけたくらいには装飾的な髪型になってきた、ような気がする。
 オフィス街の中でもこのビル、さらに言えばこの階のこのブースだけに明かりがついているせいだろう、日中でさえよく目立つ髪の毛は暗いオフィスと窓を背景にして、浮き上がって見えた。
 鏡合わせのように頬杖を付き、どんよりした視線を付き合わせていたシンとルナマリアはやがて同時にはあ、と先ほどよりさらに重いため息をついた。
 ぞんざいに合わせていた緑色の軍服――あの後、二人で『赤』は返上した――の襟元を開き、シンがごりごりと歯を擦り合わせる。

 

「パーティーでは馬鹿が文句つけまくるし」

 

 不安定な時期ということでパーティー会場でもMSでの外周警護についたものの、『歌姫の騎士団』たちがクライン議長の視界をさえぎるな!と距離をとることを強要してきた。豪奢な屋敷のベランダなど、オープンスペース近辺は絶好の被狙撃ポイントであり、そうでなくとも直接狙われやすくもあるというのに。

 

「実際何人か来たんだけどね……ま、議長サマには『些事はお知らせしてない』んでしょうけどさぁ」

 

 それにしたってねー、とルナマリアが机に突っ伏す。
 予想通り突進してきた装甲車を敷地外で蹴り転がし、襲撃者を未然に制圧した後は、これまた歌姫の騎士団達が連行していった。その後どうなったかなど、知りたくもない。ラクス・クラインには恐らく襲撃されたという事実すら知らされていないだろう。それもまた『いつものこと』だ。
 自由を愛するクライン新議長によってザフト全体にも『自由に休暇をとること』という指令が発され、この基地も警備を含めたほとんどの人員が姿を消していた。パーティ警備の報告書を書かなければならないシン達はわずかな例外というわけだ。
 もう一度顔を起こして眺めた窓の外、基地内の景色は笑えるほど人気がなかった。

 

 
「こんな日に基地で事務仕事……しかも大量……俺は今間違いなくプラントで4番目くらいには忙しい人間だぞクソッタレ」
「だったら同じ仕事してて更にあんたのサポートしなきゃならない私はプラントで3番目くらいの忙しさねー」
「ハン、よく言うな。アカデミーの時、俺と一緒にレイの宇宙航空学のレポート写してた癖に」
「あの時はたまたまよたまたま!」

 

 一瞬二人の間で高まった熱は固まり、すぐに空調にかき混ぜられて冷えていく。浮きかけた腰を落としたルナマリアがレイか、とぽつりと呟いた。
 流れるような金髪、女性と見まがうような整った顔立ち。つい数ヶ月前まで同じ船に乗り、共に戦っていた彼は今はもういない。崩壊するメサイアの中に議長と共に残った、とキラ・ヤマトとアスラン・ザラは言っていた。レイの最後の言葉も最後の顔も二人は見ていない。そもそもあの二人が話したレイの最期も疑わしいといえば――やめよう。彼らは少なくとも、純粋な善意の人なのだから。

 

「あ、そういえば何だっけ。レイってアレがあったわよね」
「アレ?」

 

 一瞬沈んだ空気を再びかき混ぜるように手を振りながら、ルナマリアが明るい声を出した。それに乗ってやや大げさに首を傾げてみせるシンに、そうアレよとルナマリアは人差し指を立てる。

 

「えーと……そう、雨男!」
「あー……ああ。俺が言ったんだったな、何かにつけて雨にぶつかるから」

 

 オーブ語の中に、言葉遊びのように埋もれていたその単語。流行語というわけでもなんでもない、非常にマイナーなその単語を何をきっかけにして知ったのかも判然としない。飛行訓練やらフル装備マラソンやら何かあるたびに時間単位で計ったように降雨タイミングに重なるレイを見ていて、ふとその言葉を思い出して口にしたのだ。
 行軍訓練中3人で雨宿りしながら言葉の意味を説明するうちに、いつも冷めているレイの目が珍しく興味深げな、言ってみれば子供のような目になっていったのをシンは今でもよく覚えていた。

 

「あの顔は珍しかったわ、ほんと」

 

 ふふ、と穏やかに笑う表情はまるで母親のようだ。彼女はプラントに不慣れなとシンや時折ズレているレイに対して、妙に姉貴風を吹かせることが多かった。

 

「まあ、運なんだろうけどな。プラントの天候なんて完全にコントロールされてるんだからさ」
「そりゃ私だって人間一人がプラントの大気に影響与えてるなんて考えてないわよ。そういえばあの時、むしろ雨男はお前だとかアンタに言ってたわよねー」
「ルナマリアだって同じこと言われてただろ。結局3人でばっかり訓練してたから、どうだったかわからなかったけどな」

 

 
 
 そんなビルの外側、内側の様子を見せないようミラー処理のされているガラスの上に、ばたりと太いワイヤーが落ちてきた。屋上からまっすぐに降ろされたワイヤーは波打ちながら揺れている。不規則だった揺れが一旦止まると、今度は規則的にぱたりぱたりとガラスの面に対して垂直方向に揺れ始めた。

 

 
 
「……ん?」
「?」

 

 ふと違和感を感じて、シンはルナマリアに顔を向けたまま視線だけをずらした。きょとんとした顔を通したすぐ隣、窓の外で細い何かが動いている。およそ1秒ごとにぶれている影はまるでワイヤーのような、と思った瞬間。

 

「ルナ!」
「!?」

 

 ガラスがごく小さく砕かれる音が4回。白く小さな穴の開いたガラスが一拍後に大きく膨らみ、そして粉々になって弾け飛んだ。
 安全に配慮した結果のごくごく細かな破片をばらまいて飛び込んできたのは、人間サイズより若干大きく真っ黒な塊だ。結構な勢いで回転しながら飛び込んできた割には不自然に止まった、ところどころ角ばったその塊をしばし呆然と眺め、ルナマリアはぽつりと口を開いた。

 

「お知り合い?」
「こんなに黒くてデカくて硬そうな知り合いはいないぞ? ルナマリアのほうじゃないか?」
「冗談。無駄に大きいのなんて私の好みじゃ――」

 

 かすかなモーター音を放ちながら塊の一部が真上に持ち上がった。丸っこいヘルメットのような形状、その中心には赤い光を放つレンズが視線のように左右に揺れている。塊にしか見えなかったそれがゆっくりと立ち上がると、人間と同じような構成をした四肢がようやくはっきりと認識できた。曲面を中心にしつつもところどころ直線的なシルエットは、嫌になるほど見慣れているザクやグフといったモビルスーツによく似ている。
 グティ。モーターの補助によって数百キログラムの物を持ち上げることができるようになるパワーとライフル弾すら受け止める装甲を兼ね備えた強化外骨格――いわゆるパワードスーツだ。
 ひょいと上げられた装甲に覆われた腕にはこれまた別の見慣れた物体――拳銃弾を使うサブマシンガンでなく、ライフル弾を発射する軽機関銃――が握られていて。

 

「うぉっは!」

 

 ルナマリアの妙な掛け声にツッコミを入れる暇もあらばこそ。薄いブースの仕切りを蹴り倒して跳んだ二人のいた場所を、一瞬にして10発以上のライフル弾が突き抜けていった。螺旋を描いて飛ぶ銃弾は仕切りを突き破り、コンクリート壁にめり込んでは小さなクレーターを作っていく。
 銃弾が纏う空気の断層はごく限定的な衝撃波となり、着弾衝撃と相まってシンの机の上にあった物を跳ね飛ばし巻き上げていった。

 

「……!」

 

 その弾き飛ばされた物の中のひとつ、あらぬ方向へくるくると回りながら飛んでいこうとする小さな包みへ、シンが逃げながら腕を伸ばした。指先に当たった感触を逃さず掴むが、姿勢を崩しながら無防備に伸ばした腕には当然のように金属混じりの暴風が触れた。

 

「がっ!」
「シン!」

 

 衝撃と痛みに跳ねるシンの襟首をルナマリアが掴み、二人は一塊になって回転しながら床へと落ちた。着地するなりオフィスに居並ぶ机の列に転がり込む二人の後を追い、甲高い発射音と1cmに満たない金属の塊が念入りにオフィスの壁やスチール机を耕していく。
 一般庶民から見た軍事費の金額を象徴するかのように惜しげもなくばら撒かれる薬莢が、穴だらけになって宙を舞う書類に跳ね返りながらマズルフラッシュを反射した。

 

 
「ああもう何やってんのよ! っていうか何あれ!?」
「……グティだろ」
「そんなこたーわかってんのよ! ああん、書類が書類が書類がぁ!」
「脳みその代わりになったと思え! 第一手書き以外のデータなら残ってるだろが!」
「どっちにも穴開いちゃ嫌なのー!」
「これだから女ってのぁ!」
「何よも――」

 

 ルナマリアの叫びに再び軽機関銃の発射音が重なり、無愛想な壁と低い天井に反射しまくる炸裂音の傍若無人な音量にルナマリアはまだ何事かを吐き捨てながら両耳を押さえた。
 腰のホルスターから拳銃を抜き出し、腕だけを机の上に出してあてずっぽうに乱射する。かんきんと悲しい金属音が響いた後、お返しのように機関銃の電気ノコギリの如き発射音が轟いた。

 

「だぁ畜生!……なあ、そっちは?」
「こっちだって同じよ。9ミリ」
「……クソッタレ」

 

 対人用でしかない拳銃弾では、グティの装甲は貫けるはずもない。というかそれら対人武器を防げるように作られているのが強化外骨格だ。
 嵐のように荒れ狂う弾幕は一発でもまともにもらえば致命傷になりえるライフル弾。対してこちらの拳銃弾は確実に弾かれる程度の豆鉄砲。勝負になりもしない。
 ジリ貧のまま机の影に隠れていると、唐突に射撃音が止んだ。リロードか? いや、それを装ったフェイントだろうか? シンが迷った時間は一瞬未満だった。

 

「ルナ!」
「わかってる!」

 

 このままでは確実に死ぬ。飛び出しても運が悪ければ死ぬ。なら、選択肢はないに等しい。出入り口まではわずか3m。間に合うかどうか――知ったことか。結果が全てだ。
 更にありがたいことに二人が足を踏み出した瞬間、急かすように地味なモスグリーンの球体――ピンを抜いて1,2,3の楽しいアレだ――が足元に転がり込んできた。しかも二つだ。
 言葉にならない雄たけびを上げながらルナマリアが突進する。出入り口脇の壁に手を叩きつけ、そこを支点に身体を思い切り部屋の外に投げ飛ばす。
 こんな時に限って滑る気がする靴でドリフト走行しながら、シンも必死に足を踏み出し踏み下ろし踏み切る。華麗な前回り受身を披露しつつ姿勢を立て直したルナマリアが足を振り上げるのと同時、3mの距離を2歩で踏破したシンも出入り口を通過した。

 

「うぉぉぉあぁ!」

 

 炸裂音。壁を回り込んだシンの背中を掠めて、無数の破片が廊下の壁に突き刺さった。

 

 
「ああほんっと、なんてクリスマス! 私たちだけこれって酷すぎない!?」
「言ったって仕方ないだろそんな事」

 

 一時の喧騒が去り、束の間の静寂に沈む暗い廊下。黒くてデカくて硬いたぶん男なあれの存在を意識しなければ人気のなさや静けさに不気味さを感じたりもするのだろうが、あいにくとそんな現実逃避をする余裕はシンもルナマリアも持っていない。
 非常ベルが鳴っていないくせに内部的には警報が発令されているらしく、『LOCKED』と表示されて反応しなくなっているエレベーターパネルに何度か触れていたルナマリアは舌打ちして身体を起こし、腰に手を当てた。
 その様子を見ながら、左腕を押さえる手に力を込める。濡れた感触と焼けるような痛みはどんどんその体積を増し、左腕の感覚はそれに反比例するように消えていく。今はかろうじて指先は動くが、それも時間の問題だろう。

 

「……シン、それ見せなさい」
「あ痛ででで!」

 

 唐突な声に顔を上げた途端、ぐいと左腕を引っ張られてシンは悲鳴を上げた。下のほうの感覚はなくなっていても傷口の痛みはあるのだ。そんな悲鳴もどこ吹く風とばかりにルナマリアは地味なチェック柄のハンカチを取り出すと、傷口を覆うように巻きつける。更に雑巾のようにその結び目をきつく絞られて、シンは声にならない悲鳴を上げて仰け反った。

 

「これで良し、っと。なっさけないわねー、男の癖に」
「しょ……が、ないだろ……?」

 

 あまりの痛みに飛びかけた意識をどうにかつなぎ止め、息を切らせながらシンは口の中で悪態をついた。
 意地の悪い笑みを浮かべていた顔をふと真剣な表情に戻し、ルナマリアが言葉をつなぐ。

 

「で、どうする? 多分追ってくるでしょ、アレ」
「ああ、それならもう考えた」

 

 考えたというより、他にやりようがないと言うべきか。武器もないコンディションも悪いビルの中には自分たち以外の人間もいない、そんな状況に加えてエレベーターも動かないとなれば、腹を決めて戦うのも階段に向かって移動するのも息を潜めて助けを待つのも、勝算と言う面では似たようなものだ。そしてその勝算を運任せではなく自分たちで動かすには、こちらから動くしかない。まして今は自分だけでなくルナマリアも一緒なのだ。少なくとも、自分が死んだとしてもルナマリアを死なせるわけにはいかない。
 その為に必要だからこそ、シンは欠片も迷わなかった。
 迷っているうちに、大切な人が死ぬ。シンはそればかりを見てきた。ならそれが後から間違いだと誰かに言われようがなんだろうが、迷うわけにはいかない。

 

「俺が先にしかける。血の跡はついてるからすぐ来るだろ」
「バカ? その腕でどうすんのよアンタ」

 

 予想通りの表情で予想通りの言葉を口にしながら、ルナマリアは先ほどハンカチを巻きつけたばかりのシンの腕を指差した。きつく縛ったはずだが、止血効果も気休め程度だ。チェックの布地はどんどんと赤く染まってきている。

 

「……だからだよ。さっさと決めないと俺が動けなくなるだろ? そうなったら勝てない」
「ああ……それは。けどさ」

 

 アカデミーでもパワードスーツを利用した訓練はあった。もちろん訓練だけでなくその後の実戦でも何度も使っている。だが最低限敵と同等に近い装備を用意できる任務と今の状況は別だ。モノを言うのは生身での戦闘能力であり、要求されるのは不利を跳ね返すだけのレベルだ。そしてその戦闘能力に関してルナマリアは『比較的上位』ではあっても『トップクラス』ではない。

 

「な?」
「うーぬぅ……わーかーってーるーけーどー」

 

 下唇を突き出して不細工な顔になっているルナマリアも一人では無理なことはわかっているはずだ。自分の技量を見誤るほど程度の低い女ではない。ある意味の確信を持って、シンは右手で腰の裏、上着の裾下からナイフを引き抜いた。いつ使うのよ? と目の前の彼女にバカにされていたごつい特殊ナイフが、今はやけに頼もしい。
 ラスト決めるところはそっちにゆずるさ、とシンが笑いかけると、ルナマリアは酷く不満そうに頷いた。

 

 
 がしゃ、と重い足音が廊下に響く。相変わらず無言で、グティを纏う『彼』は視線を床に落とした。点々と続く血。相手も軍人だ、止血はすぐさま施すだろう。その上でこの出血量ならそのうち動けなくなってもおかしくはない。焦る必要はなさそうだ。
 追う相手の装備はせいぜいが拳銃程度、個人用防弾ジャケットすら貫けないそれではグティの装甲にダメージは与えられない。接近戦を挑まれたとしてもパワーアシストがあれば人体程度、片手で破壊できる。
 逃げられれば確かに困るが、それも今いるオフィスフロアから逃がさなければいいだけのことだ。警報の発生している今は全てのエレベーターは停止しており、階段の位置も事前に調査済みである。更に軍の大部分は休暇中、警報が鳴ったとしてもすぐには駆けつけてこないだろう。駄目押しにターゲットは負傷している。じっくり追い詰めればいずれは始末できる。
 そう考えるのは合理的でかつ無難だ。だが無難というのは、当たり前だが奇策には弱い。
 ――特に常識を蹴り飛ばし、リスク計算を無視するような『自殺もどき』の行動には。

 

『!』

 

 踏み出した脚がぷつん、と細い何かを引きちぎる音。前後から激しい噴射音がして、視界が真っ白に染まる。
 聞き覚えのある噴射音、そしてこの色。それが何なのかはすぐわかった。消火剤だ。不意を突くのは難しいと判断しての、苦し紛れの煙幕代わりなのだろう。
 ぶちまけられた消火剤の煙の中で、『彼』は無言でじっとしていた。銃撃戦でも接近戦でも、真正面から戦えば負けはない。どうせなら煙が晴れるまで待ってもいい。時間が経てば追い詰められるのは、向こう側なのだから。

 

「こっちだ、クソ野郎」

 

 低い声と同時に消火剤の靄を突き破ってきた物体を叩き落す。人体とは明らかに違う感触、重量。目で追ったそれは――消火器。今さっき使われたものか。ヘルメットの中で舌打ちしながら首を反対側へ向ける。囮は本命の逆サイドに配置するのが定番だ。
 そう、そこがグティの中の『彼』の無難なところだった。
 後頭部にがつん、と言う衝撃。驚いて振り向こうとした頭に火薬の炸裂音と再びの衝撃。装甲で弾丸自体は防げても運動エネルギーはいかんともしがたい。揺れる頭をなんとか背後、先ほど消火器が飛んできた方向へ向けた、その瞬間。
 爛々と光る赤い瞳が、『彼』のすぐ目の前に現れていた。
 反射的にトリガーを引き絞りながら、銃をそちらへ振り向ける。
 怪我をしていたはずだというのに、低い跳躍は数メートルの距離をまるでゼロにするかのような速度で。
 引き伸ばされた感覚の中では自分の動きがイライラするほど遅い。前方から下へ、そして前へ。弾痕で半円を描きつつある銃口の軌跡はゆっくりと下から伸びていく。
 だらりと垂れた左手からは血が流れ。右手に握った拳銃を至近距離から乱射して。
 がつんがつんと衝撃。恐ろしいことに間接の隙間を狙っているらしくパワーアシストが何度もカクつき、向けようとしたこちらの銃口がぶれて定まらない。
 白い粉状の消化剤を被った髪を振り乱し、2秒もしないうちに撃ち尽くした拳銃を投げ捨てながら。
 ――軽機関銃の射線が床を舐めながら迫っているというのに、シン・アスカは獣のような笑みを浮かべていた。

 

『!?』
「……らぁっ!」

 

 ずん、と身体ごとぶつかる衝撃と銃を握る右腕に熱。
 スライドの開いた拳銃が硬い床にぶつかり、回りながら滑っていく。甲高い音を立てて右腕の装甲に『突き刺さりながら火花を散らす』ナイフを、『彼』は呆然と眺めた。そして思い当たる。特殊素材と高振動を併用した対装甲用の高周波ナイフ。装甲を持つ相手にナイフで立ち向かう確率よりはメンテナンスに余計な手間を取られる確率のほうが高いといわれ、使うもののほとんどいない代物だ。
 がり、とナイフが捻られ、肉をかき回されて『彼』は声にならない叫びを上げた。ヘルメット内で反響する自分の声を聞きながら、涙に滲んだ視界の中央で未だこちらをにらみ続けるシン・アスカの首に左手を伸ばす。
 力を使い果たしたのだろう、伸ばした手に対する反応は先ほどとは打って変わって緩慢で、シン・アスカの首はあっけなく『彼』の手の中に収まった。
 ごぎ、と何かが擦れ軋む音が響く。徐々に力を失っていくその身体は、やがて黒い装甲に覆われた腕一本で宙吊りにされた。

 

「ぎ、が」

 

 危ないところだった。若干の危険は想定していたが、ここまでだとは思わなかった。とはいえ、仲間の協力があってもグティ一体を融通するのが精一杯だったことも事実だ。多数に認められた行動ではない。だがこれが済めば、きっと誰もが自分たちが正しかったと理解するはずだ。

 

「ぐ……が……っ!」
『安物の割には頑張ったじゃないか。シン・アスカ』

 

 ぽたりぽたりと足元に血だまりをつくりながら、吊り下げられた身体は力なく揺れる。その首にかけた手に更に力を込めた。首をへし折れば相当運がよくても首から下は不随になる。目的は『シン・アスカの危険性を殺すこと』なのだから、それでも目的は達することができる。見せしめという点で言えばむしろ殺すよりいいかもしれない。
 跳弾が天井のセンサーをかすめたりでもしたのだろうか、火災警報が鳴り響いてスプリンクラーが起動し、廊下に豪雨が降り始めた。
 酸素を断たれた身体が痙攣を始めた感触に、ヘルメットの中で『彼』は目を喜悦の形に細めた。シン・アスカ。ほとんど手を加えられていない低級のコーディネーターでありながら、最高の存在、スーパーコーディネーターに土をつけた男。そして、ラクス・クラインに直接誘われた側近という名誉な提案を蹴ってただの緑服に戻った不遜な男。
 水滴で急激に冷えたセンサーが一瞬曇るが、それも逃げられるような隙にはなり得ない。

 

――クライン議長もキラ様も寛大に過ぎる。獅子身中の虫は駆除するに限るのだ。

 

 使命感と怒りを力に変えて、『彼』は少しずつシン・アスカの首を締め付ける力を強めていく。その意識と感情は全て目の前の、今この状況でさえ力を失わない生意気な赤い瞳に向けられていた。
 だからだろう。ごつり、とヘルメットと首筋の装甲の隙間にねじ込まれた硬い感触が何だか、『彼』は即座には理解できなかった。

 

「ったく。見てるこっちの寿命が縮む、わ、よっ!」

 

 ずっと腹の中に押し込めていた嫌な予感といらつきを声と一緒に吐き出し、ルナマリアはトリガーを目一杯絞り込んだ。フルオート可能な拳銃を選んだ自分の運と先見性を少しだけ自画自賛しつつ、反動に暴れる拳銃を押さえつける。
 爆竹など比ではない炸裂音が連続し、飛び散る火花と頬にかかる血の雫に片目を閉じる。薬莢の排出口にスプリンクラーから降る水が当たり、白く湯気を立てていた。
 膝から崩れ落ちるグティ。水浸しの廊下にべしゃりと落ちたシンがばね仕掛けの玩具のように跳ね起き、高周波ナイフを振りかざすのが見えた。ルナマリア自身も撃ち尽くしたマガジンを交換し、今度はグティの左肩の隙間に零距離射撃を叩き込む。反動を受け止めすぎて痺れた手が再び1マガジン分を撃ちつくした頃、グティの首筋を切り裂いたシンが真正面から返り血を被るのが見えた。
 硬く重々しい音を立ててグティがうつぶせに倒れると、ルナマリアは詰めていた息をようやく吐き出した。

 

「はぁ」

 

 小さく口を開いたまま、濡れた前髪をかき揚げる。水滴が口に入るが、全身ずぶ濡れの状態では今更だ。気にしても仕方ない。
 肩で大きく息をしていたシンが、水で血がまだら模様になった壮絶な顔を上げてゆらゆらと右手を揺らして口を開いた。喉を締め付けられていたせいだろう、その声は酷く濁っていて聞きづらい。

 

「サン、キュ。だず……が……」
「って、あぶなっ」

 

 喋りきる前にやせ我慢の限界に来たのか、ふらふらと前後左右に揺れた挙句そのまま傾いていくシンの肩を慌てて掴み、倒れないように支える。
 自身も鍛えているとはいえ、それでも力の抜けた人間、まして男の身体はかなり重い。くわえてルナマリア自身も相当疲労が足に来ているのだ。軟体動物のようになったシンに肩を貸してどうにかこうにかよろけつつ引きずりながら、ルナマリアは本当にもう、と呟いた。

 

「……いっつも一人だけで危ない事終わらせてくれちゃってさ」

 

 
 
「はい……はい、そうです。ええ。じゃ、バカの輸送お願いします」

 

 火災警報がプラントの管理システムにも届いていたのだろう、ビルのあるブロック一体は予定外の降雨状態だった。
 結局、他の部隊が警報に気づいて応援に駆けつけたのはシンとルナマリアが自分の足でビルを出た頃だった。おっとり刀もいいところである。どこか不恰好というか急いだ後が見えるというか、綺麗に整っていない装備をした警備担当に適当にグティの位置を報告し、シンの主な外傷部位を医療担当に告げたルナマリアの手首の裾を、ストレッチャーに固定されたシンが引っ張った。

 

「……ん、何?」

 

 喉を潰されたシンは当然無言。乱暴に突き出されたのは小さな、手のひら程度の大きさをしたクリーム色の包み。その物体と今日という日を結びつけるのは、難しくはなかった。むしろ『そういった事』を恥ずかしがる傾向のあるシンがそれを用意していたことが驚きだ。

 

「あーはいはいわかったから、ありがと。今じゃなくてもいいのに」

 

 さっさと行きなさい、と手首を揺らすと、なんだその態度はと言わんばかりに唸り声を上げるシンは手早く救急車に積み込まれていった。モーター音とサイレンを響かせ始める救急車へ即座に背中を向け、最小限の角度だけ向けた横目で白い車体が角を曲がって見えなくなるまで見送った後、ルナマリアはいそいそと包みを開く。

 

 
「へ、ぇ」

 

 顔の前まであげた手から、しゃらりとシルバーの細い鎖が音を立てて垂れ下がる。鎖を伝って水滴が滑り落ちる台座の上で、透き通った石が赤く周囲の光を反射していた。
 厚紙で出来たケース状の包みに入っていたのは、小さめのルビーをあしらったネックレスだった。派手というわけでなくむしろ質素な感じがするが、台座の裏の刻印はそれが天然ものであることを示している。
 人工品ならともかく天然もの、つまりは地球産。安いものではない。

 

「…………」

 

 ふと周囲の人間が自分に注意を払っていないことを確認すると、ルナマリアはネックレスだけでなく包んでいた紙も丁寧に畳んでいそいそと懐に仕舞い込んだ。終わった後にもう一度周囲を確認しなおし、そして今回の事件に関してとりあえずの報告をするべく、移動指揮車のほうへ歩き出す。

 

――入院は確定だろうし、お見舞いに行ったときにでもつけよっかな。

 

「あ、そういえば」

 

 ふと立ち止まって空――プラントの高い天井を見上げる。光を反射する、水で出来た白い放射状の線はまだまだ止む気配を見せない。

 

「今、雨――よね。一応」

 

 シンとルナマリアがいて、レイの話題で会話していた場所。仲間内だけとは言え雨雨言っていた3人がある意味揃ったことでありえない雨が起こったのだから、あながち雨男や雨女というのも存在しないわけではないのかも知れない。だが。

 

「結局誰だったんだかわからないじゃない、これじゃ」

 

 疲れた口調で呟いて、後頭部のゴムを一息に取り去る。ばらり、と広がらずに落ちる水を吸った髪を片手でなでつけながら、ルナマリアは再び歩き出した。