運命のカケラ_短編その4

Last-modified: 2009-05-25 (月) 02:53:46

 それはいつか、どこかの出来事。取るに足らない、無数の世界のそのまた片隅での出来事。

 
 

 甲高い音を立てて、赤い光が夜色の空気を切り裂く。刃のように長く伸びたその光は雲より高い位置から垂直に落下し、その過程で『何か』を両断しつつ『持ち主』が発する推進器のような翼状の光と共に粒子状の残光を引きずって雲の中に突入した。
 だぷん、と水のように跳ね上がった雲が、今度は雲の中から吹き飛ばされてきたまた別の『何か』によって真下から飛び散る。くるくると回転しながら雲の上で月光に照らされる『何か』――虫と動物の形を恐ろしくあいまいにして混ぜたようなもの――が、今跳ね散らしたばかりの雲の中から更に立ち昇った強烈な桜色の光柱によって消し飛ばされた。
 波紋を波立たせながらゆっくりと形を取り戻していく雲の穴、その暗闇の中でぎらりと赤色の二つの光が目玉のように煌く。角ばった輪郭を持つ平板な光はちらちらと左右に揺れ、ふいと消えた。一瞬の沈黙の後、雲の中でいくつもの爆炎が膨れ上がる。連続して弾ける内圧に耐え切れなくなって雲がその形を崩壊させていく中、二つの光が夜空に飛び出していった。

 
 

 夜空を切り裂く光の乱舞は、その日多くの人々に目撃された。光の洪水を垂れ流す繁華街からですらはっきりと見える光量をもつ二つの光は、途中でいくつもの光の線をばら撒き、時折爆炎を上げたりなど、派手な光景を演じながら雲の合間をジグザグに飛び回っていた。
 付近一帯の住民のうちかなりの割合が騒ぎを聞きつけて外に出て空を見上げ、場合によっては巨大な船やら巨大な人間を見たというものも出た――つまり、それくらいの時間はそのショーは続いていた――とはいいつつも、ほとんどの時間は光の乱舞がちらちらと見えていただけといってよかった。その空力も重力も無視したような光の曲芸軌道はホームビデオにも納められた。
 話の種、テレビ局への商品、あるいはただの興味やその場の雰囲気。様々な思惑で撮影されたいくつものソレのうち、ひとつの映像の終端数秒間には幾人かの目撃者が見たと言っていた『それ』と思しき、巨大な光の翼と角ばった姿を持った巨大な人影のようなものが確かに写っていた。
 当然のごとくテレビ局はそれに飛びついた。下世話なタレントのスキャンダルや政治家のくだらない揚げ足取りの報道の予定は差し替えられ、翌朝は言うに及ばず、その後一週間程は朝だろうが昼だろうが夜だろうが、延々同じ映像がテレビで繰り返し流されることになる。
 それはともかく、ここにも少年が一人。家路の途中で自転車を止め、他の大勢の人間たちと同じようにぼけっと口を開けて空を見上げていた少年の名は――三珠 雄介。
 取るに足らない、無数の世界のそのまた片隅で生きる少年が出会った、小さな出来事。

 
 
 
 

「……ふぁ」

 

 青い空。温度のせいだろう、少しだけ粘り気を感じる潮風。頭上では海鳥が鳴きながら風に乗っている。傍らにおいているラジオのニュースでは一隻の漁船が漁から帰ってきていないなどと、一昨日の流星――むしろUFOに関連した話題がまだ続いていた。
 結局、公式発表では流星とはいいつつもどこに落ちたか、そもそも落ちたのかどうかすらわからないらしい。大気圏で燃え尽きたと思われます、などという白々しい『専門家』の言葉は実際問題誰も信じていなかった。あれは実際UFOだったのだ、と誰もが噂し、それが真実であると確信していた。だが、しかし。
 埠頭の先端故の潮しぶきがついた眼鏡を吹き、雄介は胡坐の上に乗せたスケッチブックに滑らせていた手を止める。ほんの一時間前は真っ白だった紙には、単色の線を無数に組み合わせた、それなりの都市にある漁港らしい、たくさんの漁船が浮かぶ風景が描き出されている。しかし、春と夏の間という時期の光景を写し取っているはずのその風景画は波うつ海面以外に『動き』の無い、どこか空虚なものだった。

 

「く、あふ。だからどうだ、って話だよなぁ」

 

 もう一度あくびをしながら、雄介は誰に向かってということもなく思考を言葉にした。
 この世界で一つや二つ不思議な事件があったところで、大多数の人間の生活にはまったく影響しないものだ。勿論雄介もその大多数に属している。正直その怪しげな光の正体がどうだっただの、UFO研究家が語る異星人による侵略の危険などよりは身近かつ直近の問題のほうが遥かに気になる、それが一般人というものだ。
 そう、例えばそんなことよりも隣に住んでいる幼馴染と最近どうもぎくしゃくしがちな事のほうが――
 突然、やたら湿った物体を地面に落としたような重々しい音が背後で響いて、雄介はびくりと震えて鉛筆を取り落としかけた。
 自分だけだと思っていた場所に誰かがいたときのような居心地の悪さと、海から這い上がってくる水子の霊やダゴンや深淵より来たる者どもなどと言った言葉を頭の中でごちゃごちゃに掻き回しながら振り向いた、その先には。

 

「ふぅ。もう、結構流されちゃったのかなあ……全然見つからないや」

 

 何故ここにいるのかどこから来たのかいつからいたのか、見慣れない紺色のブレザー姿の少女――明るい光をたたえる藍色の瞳と首の後ろで一房に纏められた長い栗色の髪が印象的な――が海を振り返っていた。何故かコンクリート製の埠頭の端ぎりぎりに海に背を向けて立ち、更に何故か足元は海やプールから上がってすぐの人間のように水溜りが出来ている。
 普通に考えれば『何故か』海を制服姿で泳いできて岸壁を這い上がり、今ここに立っている――その時点で普通ではない気がしてならないが――のだろうか。しかし、それにしては少女自身に一滴も濡れているところがない。あえて濡れているところを探しても、水溜りに接している革靴の靴底程度だ。色々な意味で怪しいどころではなかった。

 

「んーっと――あ」

 

 そんな怪しげな少女が、横向きに振り返っていた首をぐるりと戻す。自然その藍色の瞳は雄介を正面やや下向きに捉え、そしてその小さめの唇から驚いたような声が零れた。
 至近距離とはいかないまでも、割合近い距離から同年代の女の子に見つめられれば、やましいところがなくとも緊張するのがオトコノコの性である。ついでに雄介を見つめている女の子はそれなり、いやかなり整った容貌をしていた。最初に目を引かれた、やや垂れ気味の目元と口元には柔らかい笑みが浮かび、ゆるやかに伸びる鼻梁とすっきりした鼻、それらを両側から挟むシミ一つない頬は透き通った健康的な肌色をしている。
 そこまで観察して、ふと雄介は我に返った。知り合いでもない少女の顔を一体どれだけじろじろ見ていたのかと気恥ずかしくなり、視線を反らして――気づいた。少女の視線が向いている中心は、雄介ではない。雄介から微妙に左――そう、傍らに置いていたコンビニのビニール袋と、そこから覗いているペットボトルの先端だということに。

 
 

「へえ、じゃあミタマ君って絵が趣味なんだ……ごめんね本当。後でお金、払うね」
「あ、いや、いいよ、うん。いい」

 

 カクカク頷く雄介にごめんね、ともう一度謝って、雄介と並ぶように座った少女はペットボトルをぐいと傾けた。妙にフレンドリーかつよく表情の変わる少女の手の中で、お茶のペットボトルがたぷんと鳴る。液体を飲み込む喉の動きが妙に艶かしく――いかん、と雄介はまた首を振って視線をスケッチブックに落とした。
 必要なのかどうか微妙な影の線を足し合わせながら、意識と視線を左右に揺らして口を開く。

 

「えーっと、あー……その、君はここで何してたの?」
「私? 探し物と待ち合わせ。もうちょっとで来ると思うんだけど」

 

 待ち合わせ、という単語に首を傾げる。ここは駅からも遠く、目印になるような場所でもない。というか埠頭の先端で待ち合わせというのは随分個性的と言わざるを得ない。
 つくづく妙な少女だが、ならその待ち合わせ相手とは誰なのだろうか。やはりこんな美人なのだし、男も放ってはおかないだろう。なら相手は恋人、だろうか。

 

「ふぅ……ん。そうなんだ」

 

 勝手に思考して勝手に妙な残念さを自家生産しだした雄介をよそに、少女はあ、と声を上げて立ち上がった。

 

「シン君! こっち!」

 

 先程まで見せていた顔とは違う、本当に嬉しそうに手を振る少女の表情に、雄介はひそかな敗北感を覚えながら少女が向いている方を振り向き、そしてぽかんと口を開けた。

 

「シン……って、えぇ?」

 

 潮風の間をすり抜けるように、埠頭の上を小走りに近づいてくる真っ黒い影。別に日陰だとかそういう問題ではなく、単純にその存在が端から端まで黒いだけだ。
 ふさふさとした尻尾を揺らし、尖った耳と血のように赤い瞳は周囲を警戒するようにひっきりなしに動いている。力強い四肢はしっかりと地面を踏みしめ、少々のことではびくともしなさそうだ。そしてその長い口元に見え隠れする――ナイフのように鋭い牙。更にはその右目部分には、道化師のメイクを10倍物騒にしたような刃傷が縦に走っている。
 ありのままに言えば、狼だ。それも巨大な。とても大切な『何か』を間違えているとしか思えない、日常の町並みに対する激しい違和感を撒き散らすその獣はすいと少女の前で止まる――その時点で少女とほとんど目の高さが変わらない――と、咎めるように一度だけ唸った。

 

「あ、あはは……ごめん。ね? ごめんっ」

 

 硬い石を擦り合わせるようなその唸り声に身体を硬直させる雄介とは対照的に少女は苦笑いしながら狼に歩み寄ると、おもむろにその太い首に抱きついた。
 少女が体重をかけてもびくともしない狼の首や頭に、まるで猫の匂い付けのように頬の縁を擦り付ける。ごまかしているつもりなのか自分が楽しんでいるのか、少女はやたらと笑顔だった。
 何度もやってきたことのように遠慮なく体重をかけてぶら下がる少女と同じく、巨狼のほうも慣れているのだろう。やれやれと言いたげな顔をしてそれを受けている。
 動物相手に考えても仕方ないとはわかりつつも、やはり頭の隅で羨ましさを感じながら雄介はぼうっと一人と一頭のスキンシップを眺めていた。この上なく密着状態で、更にぐりぐりと様々な場所を押し付けられても意に介した様子もなく、狼は少女に呆れたような視線を向けてため息を一つ。

 

 もう一度響いた、今度はやや穏やかな唸り声に少女はごまかし笑いを引っ込め、手を離すとごめん、と素直な謝罪を口にした。
 その態度に狼も視線を緩め、一人と一頭はしばし見詰め合う。ゆるりと吹いた潮風に、少女の長い髪の房がゆらゆらと揺れていた。
 ああ、そうだ。昔、本当に小さい頃は自分もあいつとあんな風に、何の遠慮もなく――

 

「…………!?」

 

 完全に置いてきぼりを食らってどこか別の時間へ意識を飛ばしていた雄介のほうへ、唐突にぐりんと赤い瞳が向けられる。つられたのか今になって雄介の存在を思い出したかのように少女も振り向き、突然2対の視線を受けた雄介は思わず唾を飲み込んだ。

 

「え、あの」
「……え? うん、ミタマ君って言うんだって。うん、そう。お茶もらっちゃった」

 

 どすん、とお座りをして首を傾げる狼の威圧感と、その横で朗らかにシン君がありがとうだって、と笑う少女のまとう雰囲気のギャップはどう反応したものか。距離が先程より近くなったからか、狼から感じる存在的な圧迫感は半端ではない。恐らく狼自身にその気はないのだろうが、正直に言って頭をまるかじりにされそうなサイズの肉食獣は怖い。その感覚は半ば本能的なものだ。

 

「あ、うん。別にいいんだ……ですよ」
「で、こっちがシン君。ちっちゃい頃からずーっと一緒に居るんだ」
「へ、ぇ」

 

 じっと見下ろしてくる鉱石のような硬質の眼光に耐え切れなくなり、雄介はなさけなくも視線をそらした。巨大なケモノな上にヤクザのような傷があるんだから仕方ないじゃないかなどといった言い訳が勝手に思い浮かび、それもまた情けない話だった。

 

「探し物、ってその、シンのこと?」
「んーん。別。シン君は待ち合わせのほう」

 

 そうなんだ、とぷつぷつ呟いた程度の小さな声も聞き逃さずにそうなの、と頷き返し、少女は今度は狼の尖った耳を弄り始めた。何を目的としているようでもなく、ただ手持ち無沙汰になるとそういうことをするのが癖になっているのだろう。
 つまり、そんな癖ができるほど狼と少女は一緒にいるということだ。小さい頃からずっととは言うが、少女はどこか狼が多くいたりする国の生まれなのだろうか。

 

「じゃあ、ミタマ君。ありがとね」

 

 思考に没頭していた雄介は手を振る少女に気づき、慌てて手を振り替えす。狼には視線を合わせない。自分の恐怖がどういうものか理解したところで、恐怖が和らぐわけでもないのだから仕方ない。仕方ないと言ったら仕方ない。
 きびすを返した少女が視界から外れ、軽快な革靴の足音と並ぶ静かな足音と気配が感じられなくなった頃、雄介はようやく視線を陸の方、少女達が去っていった方向へ向けた。
 それほど長時間下を向いていた覚えはないのに、もう黒い狼も長い髪も、ちらりとも見えなくなっていた。突然現れ、あっという間に去っていった少女。ああいうものを嵐のような、と言うのだろうか。

 

「――」

 

 ふと、雄介は少女が座っていた場所にまだ中身の入ったペットボトルが残されていることに気づいた。きちんと蓋を閉められ、3分の2程は残っている。いつの間に取り出していたのか、その蓋の上に銀色の硬貨が2枚ほど乗せられていた。
 しばしそれを見つめ続ける。雄介の頭の中には、ある一つの言葉が隊列をなして物凄い轟音を立てて全力行軍していた。

 

――間接キス。

 

 隊列に後方から別の隊列が連結する。一糸乱れぬ行進は倍近い大部隊となった。

 

――かわいい子の間接キス。

 

 更に連結済みだったらしい部隊が後方から激突する段になって、いよいよもって雄介の視界はぐるぐると回り出した。

 

――かわいい子の間接キス。今なら誰も見ていない。そう、今なら!

 

「――――」

 

 誰か見ていたとしたところでそのペットボトルに口をつけていたのが誰かなどわかりはしないのだが、今の雄介にそんなことまで考えをまわす余裕はない。
 いつの間にか背後に『自分の背中を押す自分』がいるような気がしつつ、雄介は一度だけつばを飲み込んで手を伸ばした。

 
 
 

「あ」
「……あ」

 

 数時間後、日もいい加減傾いてきた頃。自宅近くまで戻ってきていた雄介は声を上げた。
 視界の端に捉えた人影を、ごく無意識の動作で中央に捉える。その人影、『彼女』の肩辺りまで伸ばした髪形の後ろ頭が揺れ、少し驚いた様子で振り向いた活発そうな目は、昔――二人とも身長が今の半分程度だった頃から変わっていない。そう、それこそ背中を向けていても一目でわかるほどにだ。
 道路の両端で立ち止まった二人は互いに言葉未満の声を漏らしただけで動きを止め、そのまま夕暮れの道に沈黙が満ちた。雄介は唇を半端に開いたり閉じたりするのにあわせて右手を握り開き、彼女はそんな雄介の出方を探るようにただ視線を雄介に向けている。

 

「あー……ええと、その」
「うん。何?」

 

 あれもこれもどれも言えるはずなのに、脳の中でどんどんとそれらが崩れて結局言葉にならない。彼女と目線を合わせた途端に理由のわからない気後れが口元からせりあがってきて、まるでそうしなければいけないとでも言うように雄介の思考をせっせと分解してしまうのだ。

 

「うん、その、なんていうか」

 

 雄介の右手は相変わらず開閉を繰り返す。
 途中のコンビニエンスストアでゴミ箱に捨てたペットボトルを思い出し、うずくような罪悪感が湧き出してきた。いたずらをしてしまった後、まだ見つかっていないうちから後悔している時のようないたたまれない感情。その原因は――そう、考えるまでも無い。

 

「――っ」

 

 考えるまでもなく、わかっているというのに。

 

「……き、気をつけて。日は長くなってきたけど、危ないから」

 

 口をついて出てきた当たり障りのなさすぎる文章は、まるでワープロソフトに登録されている定型文のように無感情で無気力だった。
 大体にして家は隣だというのに。自分も家に帰る途中だというのに。そんな内容を口走ってしまった雄介を見返す彼女の瞳に失望の色が浮かんだように見えたのは、はたして本当に気のせいだったのだろうか。

 

「……うん。三珠君も気をつけてね」

 

 そう言って、再び振り返って元の方向――家の方向へ歩き出す彼女の背中を、雄介は列車に置いていかれて立ち尽くす乗客のような顔で見つめていた。

 
 
 
 

「――っ!!」

 

 そんなこんなでわけのわからないうちに過ぎてしまった休日明け、月曜日の朝。悶々としながら時折起きだして隣の幼馴染の家を見ていたりしたせいだろう、雄介はものの見事に寝坊していた。
 ばたばたと地面に靴底を叩きつけ、こんなときに限って緩んでいるように思えてくる靴紐を気にしつつもわざわざ立ち止まる時間が惜しいという気分の悪い状態で走り続ける。
 住宅街の端、背の高い塀が途切れて太い道路へと合流する場所に差し掛かり、滑る靴下にイライラを拡大させながらも道路に沿って方向転換した、その瞬間。

 

「ふごっ!? むもー!」
「え? うわっ!」

 

 背後、妙に高い位置から聞こえてきたくぐもった声に思わず振り向き、視界の上半分を占領する黒い何かを認識して思わず身をすくめる。
 転びかける身体を必死にコントロールしようとし、結局たたらを踏んで止まってしまった雄介の前数メートルに、黒い巨体が優雅に前足から着地した。街中で激しい場違い感を撒き散らすその黒い獣は間違えようもない、シンだ。
 その赤い瞳がちらりと雄介を見やり、興味なしとばかりに前方に戻っていく。入れ代わりにシンの背中に乗馬のようにまたがり手綱を引いている、見覚えのある紺色のブレザー姿の人影が振り向いた。頭の動きにあわせてくるりと円を描く長い一束髪とその向こうに覗いた顔を確認して、ああやっぱりと納得する。こんな特徴的な『装備』の人物がそうそう居るわけもないが、やはり振り向いたのは昨日の海で出会った少女だった。
 雄介の背後から前方にかけて細くたなびくように漂っている香ばしい匂いの発生源と思われるトーストが、少女の口元でぷらぷらと揺れている。

 

「もふぇ……ごめんね、ミタマ君!」
「あ、うん。って、え?」
「じゃ、またね!」

 

 首をかしげた時には、既に少女と狼は走り出していた。先程は気づかなかったが狼にはしっかりと鐙が装着されているらしく、それに少女は足を突っ張っている。腰を落ち着けずに立ち上がっている少女のスカートが、等間隔にギリギリのラインまで翻っては落ちることを繰り返していた。
 その辺の自動車など圧倒的にちぎってしまいそうな速度で走る一人と一頭の姿はみるみる小さくなり、その場にはぼうっと突っ立っている雄介だけが残された。大きくカーブする道路の向こうへ彼らの姿が見えなくなって数秒後、ようやく雄介の目が焦点を取り戻す。
 顔は正面に向けたまま、半自動的なカクカクとした動きで腕時計を覗き込むと、先程まで丸くなっていた雄介の目が別の意味で見開かれた。
 こちこちと時を刻む秒針。学校までの距離。時間。そしていまもじりじりと動いている、分針の位置。脳内を一瞬で駆けたそれらの情報は速やかに一つの結果として収束する。

 

「……おふぅ」

 

 絶望的な吐息は、ちょうど通りかかった大型トレーラーの走行音にかき消されて散っていった。

 
 

 がらり、と半ば開き直りながら引きあけた扉の向こうで雄介を出迎えたのは、常にジャージで過ごしている悪友の上下逆さになったニヤニヤ顔だった。教室の後ろ側にある扉のすぐ側に席があるこの悪友は、いつも雄介が入ってくるなり声をかけてくる。たまに鬱陶しいがそれでもありがたい存在と言えた。
 角ばった輪郭の顔に濃い笑みを浮かべ、椅子を傾けた悪友がずっと仰け反らせていた首を回して口を開いた。何のためにわざわざ仰け反って後ろを向いていたのかは聞かない。聞いても恐らく意味はないからだ。

 

「おう三珠。運がいいよなお前」
「ああ、なんだ。先生まだだったのか」

 

 たらたらとこめかみから垂れる汗をぬぐいながら、雄介は安堵の息を吐いた。教師が遅れている理由はわからないが、どうやら遅刻にはならずに済んだようだ。諦めていただけに棚ぼた的なありがたみが強い。

 

「おう。なんでも転校生が来るとか――っと」

 

 タイミングを計ったかのようにがらりと教室前方の扉が開き、悪友は口を閉じてじゃあな、と片手を挙げる。雄介もそれに応えて片手を挙げると、そそくさと自分の席、窓際の列の中ほどに移動した。
 椅子を引いている最中に視線を感じたような気がして顔を上げるが、それらしい様子は教室の誰にも見えなかった。半分ほどは雑然とざわめき、もう半分は入ってくる教師を注視している。特にお行儀の良いわけでも荒れているわけでもない、普通の公立校としてはありふれた朝の風景だろう。

 

「……?」

 

 首を傾げつつも、ウェーブヘアを揺らした教師が出席簿を教壇に置く音に慌てて腰を下ろす。さばさばとした親しみやすい性格で生徒からの人気はあるものの生活におけるずぼらさが災いして独身のままそろそろ三十路という噂のある彼女は、いつにも増して楽しげに鼻の穴を膨らませながら教室をぐるりと見渡した。

 

「さって。じゃあ皆。急な話で先生も驚いたんだけど、本日うちのクラスに転校生が来ました――」

 

 腕組みをしつつうむ、と目を閉じて頷く。そんな老人的なアクションをしたところで彼女にいきなり威厳が備わるはずもないが、その場のノリで生きているような彼女にとっては特に意味がなくとも構わないのだろう。
 事実、次の瞬間にかっと目を見開いた教師の顔は紛れも無く、大人気ない喜び『だけ』に満ち溢れていた。

 

「――喜べ男子ぃ! かわいい女の子だぞぉ!」

 

 瞬時に上がった太い歓声に満足げに頷くと、教師は軽やかに両手人差し指を立てて教室の扉を指し示した。売れない芸人のような動きに視線を誘導された生徒皆が注目する中、開きっぱなしだった扉からゆったりと細い脚が姿を見せる。柔らかい上履きの靴音を響かせて、脚に続いて入ってきた紺色のブレザー姿の身体、そして顔が――

 

「えぁ!?」
「あ、ミタマ君」

 

 妙な声を漏らしたことで教室中の視線が雄介に集まるが、当の雄介はそんなことを気にする余裕もなく視線を固定していた。
 長い束髪を揺らしてやっほーと手を振るのは、紛れもなく昨日海で出会い、今朝雄介の頭上を飛び越えていった栗色の髪の少女だったのだ。