運命のカケラ_短編その7

Last-modified: 2010-02-07 (日) 10:58:18

「――ありがと、三珠君!」
「あー。うん」
「はン」

 

 輝くようなその笑顔に何かが耐えられなくなって、雄介は思わず視線をそらして頭を掻いた。理由を理解したらしいシンの小さな笑い声が少しだけ耳障りだ。

 

――喋る動物の分際でこんな可愛い子とくっついてる癖に。ああ何かムカつく。

 
 
 
 

「ふう」

 

 そんな、どこか詐欺臭い空気を抜けた帰り道。ザックを引っ掛けた肩に手を当て、雄介は首を回した。何時間もキャンバスに集中していたせいか、なんとなく筋肉が固まったような気がする。
 当たり前だがすっかり日は落ちている。少し視線を上げれば、駅前周辺のビル街から空に向かって放たれている街の明かりが夜闇を溶かすように立ち昇っているのが見えていた。

 

「疲れた……けど」

 

 満足げにため息をつこうとした途端、ポケットの中で携帯電話が勇壮なメロディを奏で始めた。名君として民衆に慕われる『上様』が様式美まみれの活躍を見せる超定番ドラマの主題歌だ。少し前の自分が何を思ってこの曲にしたのか、実は思い出せないのだが。
 勢いをくじかれて少々イラッと来た表情のまま、雄介は携帯電話を開いて耳に当てた。
液晶に表示されていた相手側の電話番号は自宅。おおかた早く帰って来いだの何だのという小言だろう。

 

「はーい、はい……え?」

 

 予想とは違う、どこか切羽詰った相手――母親の声。そんなに焦らせるほど遅くなっていただろうか、という雄介の思考は、次につながれた名前を聞いた瞬間に停止した。

 

「……あいつが?」

 

 少し前まで、話をしていたのに。しばらく見たことのないような楽しげな表情で笑っていたのに。

 

「嘘、だろ?」

 

 行方不明。
 文字にしてたった四文字のごく簡単な単語が、母親のまくしたてる言葉のかわりに雄介の頭の中をぐるぐると駆け回っていた。

 
 
 

「…………」
「ね、ね。それでさ高町さん。昨日の『ふぐさし!』見た?」
「え? んー、ごめん。テレビかな?」
「あれ、見てないんだ。中華料理屋の家を飛び出した女の子が世界を回りながら究極のふぐ――」

 

 いつもと変わらない朝。いつもと変わらない学校。当然だ、生徒の一人や二人がいるかいないかなど、数百人という人数と比べれば些細な差なのだから。
 そんないつもと同じ学校、そして人数が少なくなった分少しだけいつもとは違う教室で、いつもとは違う雄介は自分の席に座ったまま、いつもと変わらない様子のなのはをこっそりと伺っていた。
 そう長い付き合いがあるわけでもないが、テレビ番組についてにこにこと雑談している様子は、どう見ても『何もない』。
 雄介自身、何をしたいのかと自問して――いや、わかってはいるのだ。
 単純な疑問があるだけ。更に言えば、すぐそこに彼女はいるのだから、歩いていってただ一言聞けばいい。

 

『幼馴染が行方不明になった。何か知らないか?』

 

 それだけだ。関係があれば事態は解決に向かって進むだろうし、関係がなければそれで終わり。
 なの、だが。

 

「~~~~っ」

 

 がしがしと髪の毛をかき回した雄介は、自分が一体何を悩んでいるのか、という根本的な疑問を解決できないままでいた。
 聞けばいい。けれど、悩む。ほんの数メートルの距離に居るのに、そこまで歩いていくことにやけに抵抗を感じる。しかし何故聞くべきでない気がするのか、それがわからない。
 そして何の解決策も見出せないまま、雄介はとりあえず一時限目の授業のために教科書を引っ張り出した。

 
 
 

2時限目前。朝から歴史とはカリキュラムを組んだ人間は何を考えているのかと思いつつ、眠気を飛ばすように頭を振ってなのはの方へ視線を向ける。向けるだけで何も出来ないが。

 

「…………」

 

3時限目前。心ここにあらずで適当にとったノートはいくらなんでも適当過ぎた。読めない。
 数式のような配置で描かれたミミズの絵を見なかったことにしつつ、雄介は無言でノートを閉じた。

 

「――――」

 

4時限目前。ますますもって不安になってくる。幼馴染に何が起こっているのか、それを意識してしまえば焦りは募るばかりだ。しかし。

 

「っ……!」

 

 何も変わらない気がして、何かをしても無駄だということを自覚するハメになるなら何もしないほうがいい気がして。『無力への恐れ』――オモリのようにずっしりと自分を椅子に押さえつけているのがそのせいなのだと、今頃になって気づく。
 雄介は額に手を当てると、親指でぴしりと小さく額を弾いた。

 
 

 何もしないままに時間は過ぎ、昼休みのチャイムが鳴り響く。コンビニエンスストアの袋を鞄から取り出しながら盗み見ると、なのははいつも通りに席を立っていってしまった。屋上でシンと昼食をとるのだろう。
 なるべくさりげなさを装いつつ、雄介も席を立つ。少し前になのはとシンに驚かされた時のように教室を出る――ことができている、はずだ。

 

 屋上への階段。こつんこつん、と響く自分の靴音がやけに大きい。
 この階段を上がりきれば、あの一人と一頭はまた優雅に昼の時間を過ごしているに違いない。
 ここまで来て今更だが、雄介は結局どう話を切り出せば良いのか、未だに思いついていなかった。
 自然と階段を登る足も止まり、半端な空中で上げかけた足先がふらふらと揺れる。
 前へ行くべきか。しかしどうしたらいいのだろう。
 戻るべきか。しかしそれではここまで悩んだ意味がない。

 

「~~……」

 

 進退窮まってがしがしと頭をかいた、その途端。

 

「で? お前はいつまでうろちょろしてるんだ」

 

 いきなり投げかけられた不機嫌そうな声に、雄介は扉の影でびくりと身を震わせた。聞き覚えこそ少ないが、初めて聞く声ではない。
 青年程度の声とでも言えばいいのだろうか。若いようでどこかヒネた雰囲気が漂うこの声は、なのはのお供をしている謎だらけの巨大狼、シンの声だ。

 

「あー……やっぱり、バレてた?」
「当たり前だっての」

 

 頭を掻きながら扉を押し開けると、血色の瞳が雄介をじろりとにらんで来た。
 隙間から覗いていたときと同じ姿勢で伏せたまま、シンは眼だけを雄介のほうへ向けている。口を開きづらそうにしていても首を持ち上げようとしないのは、なのはの上半身が首の上に乗っているからだろう。

 

「で? 何だ?」
「その、あー……」

 

 促されて開きかけた口を、思わず閉じて視線を泳がせる。
 理由を自覚してもやはり『言えない』ままの自分に嫌気がさしつつ頭をかくが、シンの視線がそれでどうにかなるわけもなかった。

 

「何もないんならどっか行ってろ。なのはが起きる」
「いや、何もないって言うか。そうじゃないんだけど」
「……? ああ」

 

 そこまで言った時、この狼はまた嫌な声音で納得の声を発した。何かを理解したとでも言いたげに口の端を持ち上げ、ふんと鼻を鳴らす。

 

「何をしようって言うんだ? お前」
「え、なんだって?」
「大分無駄な時間過ごして、その上無駄に隠れてりゃ何してるんだって思うだろ」

 

 無駄。確かに自分で建設的ではないことはわかっていたが、こうもあっさりと断じられると腹も立つ。事情もわかっていなさそうな相手に言われればなおさらだ。

 

「……何がわかるって言うんだ、動物の癖に」
「もうちょっと頭使って切り返せよオスガキが。『大事なあの子』とのエロエロな欲望で一杯なんで言葉のバリエーションまで考える余裕ありませーんってか?」
「この――」
「――シン君」

 

 不機嫌になっていく一人と余裕のある一頭のやりとりに割って入ったのは静かな、しかし強い響きを秘めたなのはの声だった。今までの天真爛漫さを含んだ声とはまったく異なる落ち着いた声で諌められ、シンは開きかけていた口とつなげようとしていた言葉の端を閉じる。

 

「あんまり、三珠君からかっちゃ駄目」
「……からかってるわけじゃない」

 

 自分から言い出せないようじゃたかが知れてる、と言い直したシンの言葉を雄介は聞き流していた。聞き流さざるを得なかった。シンの首元に口元を埋めたままなのはが向けてきた一瞬の視線が、あまりにも苛烈な光を宿していたからだ。
 その雄介の沈黙をどういう意味にとったのか、なのはは一度長めのまばたきをすると、ゆっくりと身を起こした。
 口元を手で隠した小さなあくびの後に一杯に背筋を伸ばし、眼の端に滲んだ涙をぐしぐしと拭う。しなやかな色気と子供っぽさが同時に見え隠れする様は、気ままな猫のようだった。

 

「だろ?」
「そうだけど……うぬー。んー……とにかく。ごめんね、三珠君」
「え、あ? いや」

 

 シンの言葉に唇を尖らせ、ならばというように雄介に視線を移したなのはの表情は『いつも通り』無邪気なもので、雄介は振り回されているのを自覚しつつもそれに付き合うしかなかった。

 

「『あの子』のことでしょ? 三珠君が聞きたいのって」
「!」
「だって『あの子』休んでるし、三珠君が変だし、幼馴染だって言うし。それじゃあ気にするよね?」

 

 眼を見張る雄介に笑い返すと、なのはは表情をすいと引き締めた。

 

「まだわからない。でも、もしかしたら――」
「いや待ってよ、じゃあ何があったのかくらいは」
「それがわからないって言ってるんだよ。だから調べてる、調べてた」

 

 なのはの言葉を遮った雄介の言葉を更に遮ったシンが、なのはの下でけどな、と言葉をつないだ。

 

「もう一度聞くぞ、オスガキ。お前は何が起こってるか知ってどうするんだ? お前が知ったところで『どうにもならない』んじゃなかったのか?」
「それ、は……」

 

 昨日の夜、自分で言ったばかりのことだ。忘れるわけもない。
 実際その認識は変わっていない。変われていない。どうあがいても、雄介自身は何も特別なわけではないのだ。人探しが得意なわけでもないし、何か事件があったとしても――例えば今のような状況では、何をすればいいかすらわからない。

 

「……けどさ」

 

 意味がない。意味が無いのだ。それはわかっているが、しかし。
 『間に合わない』そんな漠然とした焦燥に押されるまま、そして何故なのはとシンの前なのかもわからないまま、雄介の口は半ば自動的に動いていた。

 

「でも。何かしないといけないような、っていうかさ」
「ふ、ぅん?」

 

 そこまで言ってしまってから、雄介は唐突にシンとなのはの存在を思い出した。面倒くさそうに相槌を打つシンと妙にキラキラした眼で見つめてくるなのはの視線を意識すると急に気恥ずかしくなり、顔ごと視線をそらす。無意識に握り開きを繰り返していた掌を意味もなくズボンで擦り、雄介は唇を引き結んで空を見上げた。単に視線のそらし先がそちらだったというだけだが。

 

「そっかぁ……うん。うん、そっか」

 

 視界の端でにへら、とやたら嬉しそうに笑うなのはに何か嫌な予感が走るが、それでも視線は戻さない。
 子供向け番組ででも口走っているほうが似合いそうな自分の台詞に、今更になって猛烈な気恥ずかしさと後悔が襲ってきていたのだ。どんどん額に浮いてくる汗をそっと拭うが、それはかえって汗をアピールするだけだった。

 

「ね、どう思う?」
「ぁん? 見えてるってことはアタリだし十分だろ。……って、なのは。お前何考えてッ!?」

 

 なのはは笑顔のままシンに質問を投げかけ、その癖最後まで答えを聞かなかった。今までシンに寄りかかっていた身体を起こすと、つやのある毛で覆われたシンの頭ごとがばりと抱き寄せてその口を閉じさせる。
 体育のときに見せた腕力がフルに発揮されたのだろう、なのはの身体をぶらさげることすら余裕でできそうなシンの首は一瞬で限界以上に仰け反らされ、セロリを折る音をくぐもらせたような、生理的に嫌な音が屋上に響いた。

 

「ぉ――ガ……」
「あっ――に、にははっ」

 

 なのはは雄介があっけにとられた顔――もう何度目かわからないが――で見ていることに気づくと、笑顔をごまかす方向へ深める。ごまかせていないしそもそもごまかす意味も無さそうだが。
 口元や鼻から謎の煙を吹いて痙攣するシンを抱きしめたまま、なのはは何かを促すように、ほらほらと掌を振った。

 

「とにかく、ね? 三珠君、心配ならその子のこと探してみたら?」
「でもどこ探してもいないって――」
「んーん。そうじゃな、く、て。『三珠君が』探すの。行きそうな場所とか、想像して」

 

 場所が問題ではなく、自分が探す、ということか? どういう意味なのだろうか。家族もわからないような場所が自分に――まったく覚えがないとは言わないが。
 そうでなければ、それこそあやふやな『絆』にでも賭けてみろというのだろうか。

 

――まさか。それじゃあ、それこそお伽噺じゃないか。

 

「どういう意味だよ、それ。せいぜい無駄な努力しろって?」

 

 なのはが雄介の心理を意識して言った訳ではない、言える訳もない言葉だが、雄介にとってはその言葉はまさしく胸の中の焦燥を更に上塗りするものだった。
 少しずつ膨れていく苛立ちに対する八つ当たりも含めて吐き捨てると、なのはの表情が少しだけ曇る。
 なのはに悪意がないことなどわかっている。わかっているだけに罪悪感が沸くが、しかし今の言葉を即座に撤回するのも嫌だった。
 実際、わけのわからないことを言っているのはなのはとシンなのだ。そこで自分が譲ってしまうのは気に入らない。つまらないプライドだが、それでも強く出られるうちは出ていたかった。特に、さっきから妙に挑発的なシンに対しては。

 

「違うよ、三珠君」
「だから、何が」
「三珠君が『あの子』を探すのは無駄かも知れないけど、探したら……結果によっては、無駄じゃなくなるかも知れない。まだ、わからないよね?」

 

 でしょ? と首をかしげて微笑むなのはの瞳は、自分と同じ年頃の少女とは思えないほど深い色をたたえていた。まるで姉や母親、もしかしたら祖母、いやそれどころではない。年経た光――刺々しさが磨き落とされた末の、滑らかな硬さ――とでも言うべきものをその視線は、その表情は浮かべている。

 

「…………まだ、か」

 

 どこから見ても可愛らしい女の子の癖に陽光の下で漂わせる雰囲気は人間というより自然物のよう、という奇妙な存在を、雄介はこの時の彼女以外に見たことも聞いたことも、想像したことすらなかった。
 瞬きと共に視線を落とし、まだ上を向いたままのシンの首元を撫でながら、なのははだからさ、と言葉をつなぐ。

 

「三珠君が頑張るのが正しいかは……私だってわからないよ? けど」

 

 すい、と上向けられた視線は、真正面から雄介を捉えた。
 確信に満ちた口調で、なのはは結論を口にする。

 

「まだわからないことを頑張るのって、間違ってないもの。正しくないかも知れないけど、間違ってるって事はないもの」

 

 その言葉が真実を示していると欠片ほども疑っていないような、そんな声音と眼の光。
 証拠を見せられたわけではない。何の実例も、物証もない。
 理論立てられてすらいない。ただそうだ、と言っているだけ。
 それなのに。
 それなのに、それがここまでの『力』を持って聞こえる理由が、雄介にはわからない。

 

 ふと後ずさりかけていた自分に気づき、雄介はおもむろに咳払いをして足の位置をずらした。
 吸い込まれていた意識の糸が切れると、つい今までなのはが発していたはずの異様な気配はもう感じられなくなっていた。手の中に残る汗の感触を擦り潰し、無邪気にこちらを見上げるなのはの瞳に視線を合わせる。
 ……が、すぐに無駄だと悟った。雄介程度が視線を合わせたところで、なのはが隠しているであろう本心を――今見せているものこそが『本心』なのかも知れないが――こぼし見せるわけもない。
 勿論、先程の言葉が口先だけの嘘だとは思わない。しかし、全てを話しているとも思えない。それが故に、雄介はなのはの真摯な言葉にも素直に耳を傾ける気になれなかった。

 
 

「――ま、なんだ」
「あ、シン君」

 

 煙を吹き続けていた狼の口から、少々濁った青年の声が響く。
 首を軽くよじってなのはの腕を抜け出したシンは、首の関節をすり合わせるように回しながら言葉をつなげた。

 

「お前は深く考える必要はないんだよ。昔の俺みたいにバカっぽく短絡的に行動すりゃいい」
「まぁたそんな言い方するー」

 

 ハイハイとなのはとシンのやり取りを聞き流そうとして、聞き逃せない単語に気づいた。昔の俺?

 

「昔の俺……って?」
「ん、ああ」

 

 また何か揶揄されるかと思ったが、今度はまともな反応だった。軽く首をかしげたシンは雄介が屋上に来たときのように床に寝そべり直し、なのはが無言で預けてくる体重を受け止めながら口を開く。大きな肩甲骨がなのはの体重を広く受け止め、黒い毛皮に包まれた身体がわずかに沈み込む。

 

「……俺も結構バカやってたってだけだよ。後先考えずに。それが原因で色々と――色々と、やっちまったけどな」

 

 元不良が武勇伝として語る、というわけでもない。心底嫌な過去を渋々話すわけでもない。どこか他人事のように冷ややかな、嘲りを含んだ笑いが牙の並んだ口元に浮かんで消えた。

 

「けど、そういう行動がいい方向に転がる事だってなくはない。特にケツを持ってやる奴がいるなら尚更、な。だから――」

 

 恐らくこちらに向けたものでは無いのだろう。嘲りの笑いをすぐに引っ込め、シンは元の硬質な視線で雄介を見上げてきた。
 その独特の無表情は何を考えているのか、酷くわかり辛い。もっとも元々動物には表情がないのが当たり前であり、たまにであろうがはっきりしたニヤリ笑いを見せるシンが異常なだけなのだが。

 

「――ま、お前は深く考えずにバカみたいに突っ走ってりゃいいんだよ」
「…………」

 

 そこまで言うと、シンは後はなのはに任せる、とでも言うように目を閉じて顔を下ろした。なのはがその背中を小さく撫でて何事か囁いているのを見ながら、雄介は告げられた言葉を反芻する。
 これはどういう意図の言葉なのだろうか。バカにされているような内容だが、しかし口調は割と優しかった。

 

――……口の悪いお兄さん、みたいな?

 

 合っているような合っていないような微妙な例えを頭の中でこね回す雄介の耳に、聞きなれた電子チャイムの音が飛び込んできた。

 

「あれ、もう――」

 

 慌てて携帯電話を取り出すと、その液晶表示は確かに昼休み終了の時刻を示している。知らないうちに相当な時間を過ごしてしまっていたらしい。

 

「ほら、時間だろ? 教室に行けよ。なのはも」
「ん、そだね。じゃあ――」

 

 スカートの尻を払いながらこちらを向いたなのはが何かを言う前に、雄介は急いで踵を返した。また何か妙なことを言い出されてクラスの男子から嫉妬混じりの視線を受けたり恥ずかしい思いをするのは御免だったからだ。

 
 
 

 そして放課後、日も暮れ始めた時間。どこか敗北感のような狐につままれたような妙な気分を味わいつつも、雄介はあてどもなく街を歩いていた。
 大都市近郊の衛星都市的な土地柄もあり、街はごった返すというほどでは無いにしろそこそこの発展振りと賑わいを見せていた。駅近くならば、スーパーマーケットや大型家電用品チェーン店などが立ち並んでいるほどだ。
 あくまで『それっぽい』場所ならば、にぎやかな場所の裏にある暗い路地などがアタリになりそうなものだが。しかし今いるような繁華街と呼ばれるエリアの中でも、そんな大規模な店舗が立ち並ぶエリアでは意外と人目の届きづらい『隙間』は少なかったりする。
 まさかそこらの自動販売機の間に挟まっていたりするわけもない。なんだかんだでその気になった――させられた――ものの、人ごみの間を歩く雄介は『彼女』についての心当たりそのものから探さなければならなかった。
 しょっちゅう一緒にいた小さな頃ならともかく、中学あたりから学校以外にはあまり顔を合わせる事も無かった。しかし、それが普通だろう。
 そんな年齢に従った男女の行動の分かれ方を、どうもなのはは理解していない節があるように思える。もしかしたら仲がよければ一緒に遊んだりしていて当然、という小学生低学年レベルのままのような認識を持っているのではないだろうか。
 言ってしまえば恋人でもなんでもない、それなりに親しい程度でしかない雄介が探して、すぐに見つかったらそれこそ苦労はない。
 勿論、その気になってしまっていた雄介自身が言えることではないのだが。
 高い位置にあるネオン看板にも、いつも価格競争をしている電気店の入り口にも、それらの隙間に身を縮めている小さな酒屋の立て看板にも、『彼女』につながるものは見当たらない。
 『彼女』が間違いなくいたはずの街である癖に、『彼女』の影すら見当たらない。

 

「あー……ま、そりゃそうなんだけどさ」

 

 当たり前だ。学校も街も、『彼女』一人の存在で成り立っているわけではない。人間一人がいない程度でそういった大きな場所に変化が起きることなどない事はわかってはいる、いるのだが――やはり、それが酷く薄情な事に思える。
 けれども、この街を行き交う人間達はそれぞれ互いのことをどれだけ意識しているというのだろう。腕を組むカップル、人ごみの中強固に列を維持しようとする少年少女のグループとったごく近しいもの同士を除けば、すれ違った通行人の顔など1秒も覚えてすらいまい。
 別段、それが昨今言われているような隣人との関係の希薄化云々というわけではないだろう。時代が百年さかのぼったとしても、都市部ですれ違った相手をいちいち覚えている人間などそうはいまい。
 人間が個人を個人として記憶していられる限界など知れたものであるし、その人間にとって必要がなければ、どんなに特別な人間であろうが――極端な話、人間でなくとも――そこらにいる群衆の一部でしかありえない。
 もしかしたら。そう、もしかしたら。今肩が触れた相手が明日行方不明になって、その家族が死に物狂いで道行く人々に尋ねまわっていたとしたらどうだろう? 恐らくそんなことになっても、自分は首を振ってわからないというしかないだろう。自分だけではない、この場にいる誰をつかまえたとしても似たようなものだろう。
 だからこそ、『彼女』の手がかりは――

 

「――っと、すみません」

 

 意識を外して歩いていたせいで人にぶつかりそうになり、雄介は謝りながらよろめいた。
 一歩、無意識に踏み出した足で重心が崩れ。

 

「っと」

 

 二歩、それを修正しようとして仕切れずまた踏み出し。

 

「とと……」

 

 三歩、くるりと回るようになった身体を支えるために後ろに足を出して。

 

「――は?」

 

 身体を立て直しきったその瞬間にはもう、街が『変わっていた』。

 

「……ちょ? え、何、何だ何だめちゃくちゃ何だこれ!?」

 

 建物や道路は変わらないが、変わらないのはそれだけだ。行き交う人々は一人残らず姿を消し、視線を上げてみれば空は赤とも紫ともつかない、不自然な色合いに染まった上に『ひび割れて』いる。
 太陽は見当たらず、その癖明るさ自体は午後の日差しそのもの。自動的に雄介の目は周囲の影を探し、そしててんでバラバラな方向に出来ている影という奇怪な光景を捉えた。

 

「――そりゃないだろ」

 

 誰にともなく呟いてから目を擦り、もう一度周囲を見る。
 すぐ側の柵の影は真下。その先の街灯の影は奥へ。その癖、更に先のビルの影はこちらに伸びている。見間違えようもなく、影の方向は見事なまでに勝手な方向を向いていた。
 頭をかく。空は割れっぱなしだ。
 耳をかく。影の方向が揃ったりはしない。
 頬をつねる。そんな事で何かが変わるとしたら、幻覚か白昼夢あたりだろう。
 実際問題頬をつねって夢が覚めるのかは別として、今目の前にあることがまぎれもない『現実』だと受け取らざるを得ない。
 目の光る女の子や喋る狼という世界の一部でしかない存在とはレベルが違う、世界そのものへの現実感のなさに、雄介は足元が崩れかけているような不安感を感じた。
 その不安感故だろう。視界の隅でかすかに動いた陰を、雄介は見逃さなかった。

 

――人?

 

 細い通りへ抜ける道のあたりで、影が揺れた。一瞬端に写っただけだが、確かに頭と身体と脚に分かれたシルエット、人の形をしていた。同じようにこの妙な世界にやってきてしまった人もいるのかも知れない。

 

「……! ちょっと! すみません!」

 

 声を上げるが、人影は気づいた様子もなく裏通りへ消えていってしまった。
 見失ってしまうわけにはいかない。
 1人ではないかも知れない、というそれだけの期待に突き動かされて雄介は走り、影が入っていった通りを覗き込む。

 

「あの――」

 

 その時何故雄介が走ったのかといえば、不安だったからの一言に尽きる。知らない場所どころか知らない世界にたった1人放り込まれれば、誰だって不安を覚えるだろう。
 ましてそこで人間らしきものを見つければ、追いかけずにはいられない。それが友好的な存在なのか、まして本当に人間なのかという当然の疑問以前に、『確かめようとした』。

 
 

――あれ?

 

 だから。
 雄介は躊躇も警戒もなく通りを覗き込み、その結果として『人に似た何か』の振り返った姿に出会った。

 

「…………」

 

 ソレの全身を、ゆっくりと雄介の視線は辿っていく。
 多分素足。真っ白いひづめがある。
 紫色をしている。
 手が長い。
 骨が浮き出たような甲羅のような部分がある。
 口がない。
 そう、目の前で振り返ったソレは『人ではなく人に似た何か』だ。
 その手には靴のはまった細長い肌色の物体があり、更に周囲には赤い何かが飛び散って池のようになっており、その中には白く硬そうな何かやちぎられた小さな何かが散らばっている。引き裂かれた布のようなものもある。
 1秒、2秒、3秒。沈黙の末に、目を見開いて棒立ちの雄介は異様に発達した腕と骨格がそのまま浮き出たような硬質な体表を持つそれ――バケモノ――が手に持っているものが何なのかを理解した。

 

「人?」

 

 紛れもなく、人間の脚だ。『人の形』に一度気がつけば、そこに散らばっているのが元人間であった欠片だということを認識するのに一秒も必要なかった。

 

「いや、それ……人、って、え?」

 

――人間。いや今は元人間か。ってか肉片、何で?

 

 そんな雄介の混乱などお構いなしにバケモノは近づいてくる。後ずさろうとして無様に尻餅をついた雄介に、バケモノの大きな影が落ちた。
 長い、まるでナイフのような爪を備えた手が大きく掲げられる。意味があるかないかなど考える余裕もなく、雄介は本能的に両腕を頭の前にかざした。
 かざした腕の隙間から見えていたバケモノの爪が、視界から掻き消える。
 それが高速で動いた――振り下ろされた――ために雄介の目では捉えられなかったのだと細切れになった意識のどこかが認識し、しかし身体を動かすことはできず――

 

「――!!」

 

 瞬間、恐ろしく硬い破砕音がその場を叩いた。顔を守ろうとする体勢のまま固まっていた雄介は、いぶかしげに目を開けた。

 

「……」

 

 目の前。わずか10cmほどの距離に迫っていたバケモノの刃物のような爪が、ぴたりと静止している。

 

「…………」

 

 静止しているのは何故か。それは――

 

「……7時から16時?」

 

 ――突如真上から降ってきた道路標識、時間帯限定進入禁止の標識が、バケモノの腕を刺し貫いて道路に突き立っていたからだ。

 

『ゴ、ガ』
「っ」

 

 完全に貫通されているというのに、バケモノの腕が無理矢理に動き出す。それを眼にしてようやく本能を思い出したように、身体が勝手に飛びのこうとした途端。

 

「――そのまま動かないっ!!」

 

 またもや突然、聞き覚えのある声が響き渡る。
 反射的に見上げた頭上には、桜色の光。光球からちらちらと見え隠れする栗色の束髪がどういうことなのかを思考する暇もなく、光は雄介の視界を塞ぐほど近くまで迫ってきていた。

 

――って近い近い近い、ぶつか――

 

「うぐぁ!?」

 

 降ってきた光は道路標識とバケモノに直撃し、爆発を起こす。耳を破壊されそうな轟音と共に衝撃が弾け、雄介の身体は軽々と吹き飛ばされた。
 慣性にもてあそばれるまま放物線軌道を描く雄介の意識は脳からはみ出しかけ、まともな思考をする余裕などなかった。回転を続ける視界に占める回数と面積が徐々に増してくる灰色の壁が地面であるとぼんやり認識し。

 

「ぐぇ」

 

 落下軌道の途中でぐいと無理矢理に腰を引き上げられて、雄介は潰れたうめき声を漏らした。そのままガクガクと揺さぶられ始めたが、地面に激突する感触はいつまで経ってもやってこない。

 

「……?」

 

 更に何故か漂ってきた焦げくさい臭いに、不思議に思って目を開ける。
 恐ろしい勢いで眼下を流れていく巨大な紙やすりのようなものに、ぶら下げられた自分の足先が擦れていた。

 

「え、わ、うぉぁわぁぁ!?」
「やかましい」
「へ、ぁ?」

 

 耳鳴りがやまない中でもかろうじて聞き覚えのある声に顔を無理矢理に上げてみれば、硬質な血色の視線が雄介を見下ろしていた。そろそろ脳が麻痺しそうだと思いつつ、ああやはりコイツかという諦めが雄介の中の何かに通り過ぎた。そしてシンがいるならば当然。

 

「やっほー。やっぱり来てくれたんだ三珠君」

 

 その声に半笑いになりながら振り向こうとし、振り向く途中に自分の現状――シンにベルトあたりを咥えられてぶら下げられて、ついでに物凄いスピードで運ばれている――を思い出し、どこか疑問を感じつつも振り向ききった雄介は目を剥いた。
 動物の子供のようにぶら下げられている雄介の、すぐ右側。なのはが長い棒――視線を後ろに振れば、でかでかと描かれた進入禁止のマークが眼に入った――を担ぎながら、シンと併走していたのだ。

 

「……? どしたの?」

 

 学校にいるときと変わらないブレザーに包まれたなのはは肩に先程の標識を軽々と担ぎ、腰から下はやはりスカート姿。
 だが、ただ併走している程度ならまだ許容範囲――と、言えなくもない。その時点で相当おかしいのだが、どうにかそのくらいは予測の範囲内だった。今まで見せられた『高町なのは』の身体能力ならそんなことをやっても不思議ではない。
 では何がおかしいかといえば、その滑らかに移動する上半身以外全てだった。
 とにもかくにも一番気になるのが音。衣擦れの音を数十倍に集めて固めたような、違和感のある音がひっきりなしに雄介の鼓膜を叩いている。

 

「いや、うん……」

 

 その異様な足音の主は誰かなど、今更確認する気にもならない。両手で進入禁止の標識をのぼりか何かのように担いだまま、左の人差し指と中指だけを立てた挨拶のポーズなどとって見せて笑顔でいる高町なのは――彼女以外にはありえないからだ。
 だが、雄介はげんなりと小さく手を振り返すだけだ。何故かといえば、逃避に過ぎないとわかっていてさえ目をそらしたくなるバカバカしいほど人間離れした動作がなのはの足元で――というか脚そのもので繰り広げられていたからだ。
 なのはは二本の脚で走っている。それは確かだ。だがその細い脚は凄まじい勢いで振り上げられ振り下ろされ蹴り出され、雄介の動体視力では捉えきれないレベルにすら達している。もはやうっすらと肌色の残像が見える程度にしか見えていない。
 速度だけでも大概だが、その上に下半身のみが分離しているような異様な走法まで見せ付けられては、雄介の精神は色々と限界に近かった。

 

「……~~」

 

 この十数秒だけで、今までの人生全てを費やして築き上げてきたとても大切な何かがボロボロと崩れていっているような気がする。雄介はシンにぶら下げられたまま、のろのろと頭を抱えた。

 

「三珠君、頭痛いの? ぶつけた?」
「違うって」

 

 ごく普通に心配されて、雄介はますます泣きたい気分になった。
 わかってはいるのだ。シンもなのはも、雄介とは住む世界が違っていたなどということは。だから普通に心配するという考えしか出てこない。なのはにとっては今の状況はまったくおかしくないのだろう。なのはにとっては。
 しかし一般人中の一般人である雄介はそうもいかない。
 狼が喋るのもいきなりバケモノに襲われるのも空から光が降ってくるのも自動車並みの速度で狼と少女が走るのも、全て『存在するほうがおかしい』のが雄介にとって常識だったのだ。だというのに。
 それを何だ、この少女と狼は。平然とした顔で雄介の世界に穴を開け、広げ、ついに粉々に砕いてくれるレベルでぶち壊しにしてくれた。

 

――もしかしたらあいつの失踪だって、いやそんなことは……だけど事情を知っているようだし、けれど知っているだけかも知れないし。

 

 頼んでもいないのにせっせと稀有な体験を与えてくれている破壊者達はそんな雄介の精神状況に気づいていないのか興味が無いのか、雄介に外傷がないことだけ確認して話題を切り替えた。

 

「うん、やっぱりこのくらいの強度ならこっちのが楽かなぁ……来てるね」
「ああ。まだ増えてるな――今、37になった」
「段階が上なの、いる?」
「いーや」
「ハズレかな、っと!」

 

 言葉を途中でいきなり切り、なのはが肩に担いだ標識を持ち上げた。
 さして溜めもとらずに振り抜かれた半円軌道が空を切る。途中、背後あたりでがきゅんと金属音と火花が起きたのが何故だったか、雄介は2、3秒考えて気づいた。
 というか、雄介の見ている先――なのは達の背後、これまた相当な速度で追ってくるバケモノの一団の中で、警官から奪いでもしたのか拳銃を持っているものの姿が眼に入ったのだ。

 

「じゅ、銃! 撃たれてる!」
「わかってぇ、るっ!」

 

 何度も続けて発砲音が追いかけてくるのに合わせて、なのはが片腕を同じように振るう。
 その度に前方の道路でアスファルトが小さく砕け、横で自動車のガラスが割れるものの、なのはの速度はまったく落ちない。
 標識というより自分の身体のほうを振り回すような動きにも関わらず、その速度と精度は超人的としか言いようがない。なのはは全ての弾丸を完全に捉えきり、弾き飛ばしてしまった。
 ぶん、といくぶん遅めに標識を振り回す反動で肩に担ぎなおし、元通りシンに寄り添うような位置に戻ってきたなのはは眉をしかめている。
 流石に銃弾はまずいという意識があるのか、と妙な安心をした途端、それを覆す言葉がなのはの口から飛び出した。

 

「危ないなぁもう。三珠君に当たっちゃうよ」
「…………」

 

 自分達に当たった場合は危なくないとでも言うのだろうか。とても気になるし尋ねれば答えてくれるだろうが、それはそれで聞きたくない回答がぽんと返って来そうで怖い。

 

――どうしようもないよなあ。

 

 猛スピードで流れていく大通りの町並みにもいい加減慣れてきて、昨日から昼まで感じていたのとはまったく別の気だるい無力感が染み出してきた。
 先に感じていたような焦燥はない。自分が何も出来ないからといって焦るようなレベルをはるかに超えている。大抵の人間は、ポエムな気分にでもならなければ自分が飛べないことを嘆いたりはしないだろう。
 そもそもズボンがずり落ちないように手で引っ張りながら狼にぶら下げられている身分では、格好つけようとしても滑稽なだけであることだし。

 

「あとどれくらい?」
「300。右だ」
「ん。三珠君、曲がるよ?」
「あぇ?――おぐぉ!?」

 

 なのはの注意は何の意味もなさず、なのはとシンが突然開始したドリフト走法に雄介は何の心構えも出来なかった。一転して真横に流れだす景色と慣性に、雄介の三半規管が存分に揺さぶられる。
 歯を食いしばる雄介を物理法則の掌は容赦なく引っ張り上げ、浮いた足先が歩道の柵に当たる。鈍い痛みと共に、冷たい汗が背中に浮いた。
 ずりずりと滑りながらわき道へ直角のターンを決めた先で、視界が急激に開ける。広い敷地にでんと立つサイコロ状のビルは、雄介も見覚えがあった。
 たどり着いたのは街の中央部からやや離れた立地の大型ショッピングセンター、その駐車場。不気味なほど静まり返った敷地内を、なのはとシンは駆け抜けていく。通路の両脇に自動車がひたすら並んでいる様子は、相変わらずひび割れた空と相まって『死んでいる空気』とでも形容すべき冷たさをかもし出していた。
 どしゃんがしゃんと背後で連続する破壊音に振り向くと、バケモノ達が塀に突っ込んだり転倒したりしながらも曲がり角――駐車場の入り口近辺にたどり着いていた。
 首を振っていた一体がこちらを見つけて耳障りな鳴き声を上げると同時、一斉にバケモノ達が雄介を見る。
 甲殻の隙間から。
 むき出しの頭蓋骨の奥から。
 頭そのものから。
 胸元にある、板のような無機質なものから。
 黒い穴にしか見えないその奥から。
 色も位置も、そもそも形態すらまったく統一されていないのに同じようなモノを含む数え切れない異形の視線達に一斉に突き刺され、雄介は息を呑んで硬直した。

 

「――っ!!」

 

 かなりの距離があるはずなのに、『見られている』事がはっきりとわかる。何故自分なのか、何がこめられているのか、まったくわからないのに自分が見られているということが――錯覚かも知れない、という思考は本能から湧き上がる恐怖が否定した――得体の知れない確信として存在した。
 何もできない。何をしようが、アレからは逃げられない。ただの人間でしかない雄介には、アレから逃れる術などないのだ。

 

「だから、だーいじょうぶだよっ」
「!?」

 

 無邪気さと優しさに満ちた笑顔に突然視界を占領され、雄介は別の意味で息を呑んだ。かすかに赤い光を内に収めた藍色の瞳が雄介を懐かしそうに見つめ、次の瞬間には後ろ――バケモノ達へ振り向く。

 

「ロードシルエット、『ガイア』。じゃあシン君、三珠君お願い」
「応。行って来い、なのは」
[Gaia Silhouette,Ready]
「うん」

 

 走りながらシンの声に頷くなのはの手足に、磁石にひきつけられる砂鉄の如く灰色の光が現れ集まる。一瞬で圧縮された光がはじけた後には、黒光りする金属質の鎧が現れていた。ところどころ鋭角的に尖った鎧の形状は肉食獣の爪のようだ。

 

「言ったでしょ? 無駄になんて――」

 

 鎧の形状が定まるのと同時、身体全体で振り向いたなのははびたりと静止した。路面を蹴っていた足は一転して地面を噛む柱になり、砂埃を起こしながら急激に速度を落とすなのはの背中は見る見る内に遠ざかる。バケモノ達の真正面にあって、長い束髪をなびかせるその背中はまったく萎縮していなかった。
 バケモノ達が一斉に飛び上がる。
 なのはが滑りながら脚をたわめる。
 覆いかぶさるように迫るバケモノ達にたった一人、真っ向から突っ込むなのはの声は、雄介の耳にもしっかりと届いていた。

 

「――させないから!」

 

 それはまるで、フィクションのヒーローのようで。

 

「ほーらこぉ、っちぃ!」

 

 言いながら投石か何かのように大きく標識を掲げて仰け反ると、そのまま乱暴に標識を投げつける。
 次の瞬間、蹴り出しで砕かれたアスファルトの破片を置き去りに、なのはは駆け出した、というより飛び出した。投げられた標識は凄まじい勢いで飛翔し、その回転速度によって鋭利な刃物となった表示板部分が眼前に迫っていたバケモノの顔面に突き刺さった。
 脳天を真正面から突き刺され、血ではない濁った色の光をこぼしながら仰け反るバケモノの身体と標識を踏みつけ、なのはは更に足から突っ込むように踏み切りなおす。
 スカートが翻り、砲弾のように突っ込む足甲の靴底がバケモノの顔にめり込んだ。鋼鉄のドロップキックは完璧な角度で着弾し、真っ直ぐ身体を伸ばしたなのははそのままの姿勢で身体全体をぐるりと捻る。
 なまくらなドリルのように無理矢理な回転で2体目のバケモノの顔面をねじり砕き、数回転目に広げた脚でバケモノの側頭部を蹴り落とす。虚を突かれて見上げる他のバケモノ達を背にしつつなのはの身体は反動で高く飛び上がり、きりもみの加わった伸身宙返りはバケモノが噴出した光を引きずりながら、緩やかに最高高度に達した。
 派手な動きでバケモノ達の注目を集めながらなのはは姿勢を開き、身体の回転を止めた。上下逆さになった体勢で地面へ向かって腕を掲げ――何もないはずの空中を蹴ってミサイルのように落下する。先程蹴り落とした一体とその下敷きになったもう一体へ、重力と脚力による加速の全てを乗せた拳が叩き下ろされた。

 

「……」

 

 爆発もかくやという衝突音と共にバケモノ達の向こうへ消えたなのはをぽかんと見送って、雄介はただ息を吐いた。
 シンが足を止めていることに気づいて見上げると、いきなり咥えられていたベルトが放される。べちゃりと情けなく路面に落ちた雄介は、顎をさすりながらシンに文句を言おうと顔をあげ――はっと気がついた。
 主人(多分)がバケモノの只中、それも後から後からやってくるバケモノ達と雄介達の間を遮るような場所にいるというのに、何故この黒狼は余裕たっぷりに座ってなどいるのか。
 ごずん、と向こうで再び響いた重い音が何なのか、こちらからではまったくわからない。

 

「ちょ、ちょっと。いいのか!?」
「あん?」
「高町さんが! ええ、と……あそこに行っちゃったのにさ!」

 

 ああそうだな、と口では答えながら、その血色の瞳は雄弁に語っていた。何を言ってるんだコイツ、と。なのはを心配している様子は全くない。
 さすがにここまであからさまな視線と表情に気づかないほど鈍くもない雄介は、考えもまとまらないまま怒りを口にしようとし。

 

「何でお前っ――!?」

 

 眼前をかすめ、どごす、と縦回転の勢いそのままに地面に激突して飛んでいったバケモノに出鼻をくじかれた。
 バケモノが飛んできた方向――なのはが飛び込んでいった方向から、力強く澄んだ声が響き渡る。

 

「必殺っ!! 人間迫砲っ!!」

 

 センスはえらく残念だが、その破壊力は凄まじい。硬質の物体が軟質の物体にめり込むくぐもった音と硬い物体が砕かれる音、周囲の道路に飛び散る液体の音やらが入り混じった音とともに哀れな『元バケモノ』が宙を舞う。
 またも雄介の目の前を掠めて飛んでいったソレがべちゃりとトラックのコンテナで『立体的な壁画』になるのを平然と横目で見送り、シンはため息をついてなのはの方を振り向いた。

 

「近いぞ、あんまり横に飛ばすな」
「あ、うん! だいっ! じょおっ! ぶっ! わかってるか、らっ!」

 

 言葉の区切りごとにごきりぐしゃごしゃどちゃと物騒な効果音が鳴り響き、雄介は思わず顔を歪めた。
 同時にシンが全く心配していない理由を理解できた気がする。つまり、なのはの方がバケモノより圧倒的に強いから。それだけだ。
 次元が違う、とでも言うのだろうか。やや数を減らしたバケモノ達の隙間から見えるなのはの運動速度は、バケモノ達の動物的な動きと同質のように見えて一段も二段も上回っていた。

 

「流っ星っ! ミサイルマイトーっ!!」

 

 バケモノの群れの向こうで再び謎の掛け声が響き、今度は爆弾でも炸裂したような爆発が無数に巻き起こる。
 形を保ったまま吹き飛ばされ崩れていくのと、今しがたのように肉片にされて消えていくのと、どちらがバケモノにとって幸せなのだろうか。

 

「……あぁ」
「わかっただろ? なのはは、こんな奴らにやられたりはしないさ」

 

 その言葉は、実際の光景によって圧倒的な説得力をもって聞こえた。マニアックな大人向けアレンジを施されたヒーローショーの如き光景を見ながら、伏せていた身体を起こしてあぐらをかく。
 バイオレンスの中心たる見た目だけは可憐な少女は、凄まじい速度で駆け抜け跳ね回り、黒い甲冑に包まれた手足を振り回す。そのたびにハリボテ以下のゴミの如く化け物たちが殴り飛ばされ蹴り上げられて光を飛び散らせ宙を舞う様子は、はっきり言ってシュール以外の何物でもない。

 

「それにな、オスガキ」

 

 何も言えなくなった雄介から視線を外し、シンが太い首をめぐらせた。
 つられて横へ動かした視線は、真っ黒な空洞から放たれる異形の視線とぶつかった。その視線の元は、自動車の屋根の上に四つん這いになったバケモノ。そこまで認識して、雄介はあ、とマヌケな声を出した。
 自動車の屋根をへこませるほどの脚力を見せて、バケモノが跳び上がる。低く長い軌道は雄介へと一直線に迫り、バケモノが腕を――剣のようになった腕を振り上げる。
 そして次の瞬間には雄介の背後、シンの方から伸びた血色の光で出来た一本の鎖のようなものに腹を貫かれた。
 自身の運動エネルギーに引きずられ、深く空中に縫い付けられたバケモノは濁った悲鳴を上げる。バケモノとはいえ哀れささえ感じさせるその声を一切意に介さず手近な自動車に叩きつけ、落ち着いた声で黒狼は言葉をつないだ。

 

「お前のお守りを直々に仰せつかってるんでな。まあその辺で座ってろ、すぐ終わる」

 

 ふと気づけば、なのはの周辺ほどではないにしろシンと雄介の周囲もバケモノ達に囲まれていた。先程の奴のように自動車の屋根の上で姿勢を低くするもの、ゾンビのようにふらついた動きで歩いてくるもの、人間に似た構造をしていながら4つ足でべたべたと地べたを這っているもの。
 おぼつかない足取りで近づいてくるそれらがどんな凶悪な存在なのかを知っている雄介は思わず尻を浮かせかけ、しかし小さく残った『何かに対する対抗心』がそれを押しとどめた。

 

――大丈夫、大丈夫だ。ここは逃げるところじゃない。

 

「ふん?」

 

 そう、今頭上で意外だというような、感心したような声を漏らした奴にこれ以上バカにされていては男として情けなさすぎる。なのはもこいつも、恐らくバケモノなどより遥かに強いのだから。虚勢でしかないのはわかっているが、虚勢を張る姿勢くらいは見せなければ意地が通らない。
 震える腕を無理矢理に組んでごまかし、雄介はフンと鼻をならした。

 

「ここにいればいいんだろ? いいさ。見ててやるよ」
「――おう。それがいい……それで、いい」

 

 少しだけ質の変わったシンの笑い声が響くと、あぐらをかく雄介を背後から守るように光の鎖が揺れた。
 きん、と澄んだ音を響かせる光鎖は雄介の視界、居並ぶ自動車で囲われた通路の両端をなぞるように滑り、ぴたりと正面で静止する。見ようによってはバケモノとシン自身の間に雄介を挟んでいるような格好で、ちょいちょいと鎖の先端が手招きした。
 それに誘われてというわけでもないだろうが、バケモノ達が叫びを上げて走り出す。倒れこむように走ってくるそれを、雄介は必死でにらみ返した。

 

「じゃ、連中がさっさと集まってくれることを期待しとけ」
「なんで集まるほうがいいのさ?」
「虫と同じようなもんだよ。まとめて」

 

 どん、と銃弾のように発射された光鎖が四つん這いのバケモノの脳天を貫く。
 反応らしい反応すらできないままに吹き飛び、仰向けに倒れたバケモノの向こうで、別のバケモノが右手を、いや右手に握ったものをこちらに向けているのが見えた。
 黒々とした銃口が紛れもなくこちらに向いていることをはっきりと認識し、雄介の掌に汗が浮かぶ。

 

「潰すってな」
「……」

 

 余裕を崩さないシンの声を頼りに、こっそりとつばを飲み込もうとした――その時には既にシンもバケモノも動き出していた。
 つい数分前に聞いたのと同じ、爆竹のようなあっさりした音が鳴り響くのと瞬時にかざされた光鎖が火花を散らしたのはほぼ同時。
 雄介の動体視力では銃声がした瞬間動いているのか直前に動いているのかすらわからないほどの俊敏さで血色の光鎖が翻り、連続して放たれる銃弾はことごとく弾き返されていく。
 シンの光鎖は凄まじいものだが、しかし銃弾の迎撃に手一杯では他のバケモノ達に対応する術がない。事実、走り続けるバケモノ達がこの隙を狙っていたように大きく踏み切った。
 正面から一体、左右から一体ずつ、振り返った背後には二体。各々の武器、爪や拳、剣を大きく振り上げるバケモノが、引き伸ばされた時間の中でゆっくりと近づいてくる。

 

――間に合わないだろ、これ。

 

 そう思ってシンを振り仰ぐ。頭上に居座る長い鼻先と顎は相変わらず憎たらしいほどに落ち着いていて、ひび割れた空だろうがなんだろうがコイツは変わらないのだろうな、とすら思わせた。
 ふと気づくと、前方に伸びている光鎖が増えた。増えていた、と言ってもいい。引き伸ばされた時間の中ですらコマ落としにしか見えない速度で、シンの背中から新たな光鎖が飛び出したのだ。
 ゆっくりとしか動かない眼球で、一本目と同じくシンの背中から伸びるその光鎖を辿る。
 銃弾を弾くため瞬間移動のような動きを繰り返す一本目に絡まることなく伸びる二本目は、雄介の視線が先端に追いついた時には既に前方のバケモノの脳天を貫いていた。
 頑丈そうな骨格の露出した頭部を紙のように貫通しているその隙間から、わずかに光の粉が漏れている。なのはが標識を投げつけた時と同じだ。バケモノにとっての血のようなものなのだろうか。
 そのまま縦に動き、バケモノの脳天を真っ二つに切り裂いた光鎖は蛇のように頭をもたげ、雄介から見て右側に狙いをつけた。
 はじけるばねのようにカーブを描きつつ伸びた光鎖が右側から跳んで来たバケモノの横っ面を殴りつけ、その勢いのままに通り過ぎていく。通り魔的に大量の運動エネルギーを押し付けられたバケモノの身体は風車のように激しく回転し、砕かれた外骨格の破片をばら撒きながら墜落し始めた。

 

「――……・!」
 ばちん、と張り詰めていた時間が元に戻る。途端に光鎖の軌跡はかすかな残像を残して消え去り、わずかに遅れて、背後でがつんという鈍く固い音が響いた。
 振り向く。少し前とまったく変わらない格好でひげを揺らしているシンの背後、空中でバケモノ二体が不自然な格好で密着、というか衝突しているのが見えた。
 あからさまに姿勢を崩している側が何故か更に相手を押し込むように動き、そのまま二体が絡み合って雄介達の左手側へ飛んでいく。
 そこでようやく気づいた。激突している側のバケモノの足首から何かが伸びている――シンの光鎖だ。
 雄介の背後に座るこの狼は姿勢も崩さず、何かで身体を支えるでもなく、涼しい顔をして大人の男程度はありそうなバケモノを二体まとめて振り回しているのだ。
 その先にいたもう一体――飛び掛ってきた内、最後の一体をも巻き込んで更に水平一回転。存分に勢いをつけられたバケモノの団子が自動車の列に斜めから叩きこまれ、ぎりぎりと歪み引きちぎれる金属の悲鳴と、盛大なガラスの破砕音が何度も響いた。
 たっぷり数台分の自動車の上半分を粉砕した末、なんだかよくわからない塊と化したバケモノ達からシンの光鎖がひゅるりと離れる。

 

「……本当に凄かったんだな」
「ぁん?」

 

 何言ってんだお前、とおざなりに雄介の言葉に答えると、シンは高く上げた鼻をひくつかせた。何かを探すように視線を動かしたシンとその前で座ったままの雄介の前へ、物騒な音と共にまたも放物線を描いてバケモノが飛んできた。
 何かを探し続けるついでのように、顔も向けずに光鎖で真っ二つに切り裂いたシンが声を上げる。

 

「確認した。いいぞ」

 

 きょとんとする雄介の頭上を越えて告げられたその声に対する答えは、群がるバケモノ達の中から返って来た。

 

「わかったー! っじゃーあ、一発――」

 

 ばちん、と桜色の稲妻のようなものが空間に走った、ような気がした瞬間。
 一瞬にして空気が『濃くなった』としかいいようのない感覚に包まれ、雄介は目、耳、鼻、皮膚全てを襲う違和感に意識を揺らされた。
 身体のすべてを塞ぎたいのに手が二本しかないというジレンマに悶え、手近な耳を塞ぐ。当然鼻も口も、そもそも耳を塞ぐ手を含めた全身の皮膚も無防備な為に大して意味はなかった。

 

「あ、うあっ――……?」

 

 数秒間続いたその感覚が薄れたことに気づき、雄介は恐る恐る目を開けた。
 その数秒の間に、広い駐車場、正確にはなのはがいた辺りは、またも雄介が今まで一度も見たことがないような景色と化していた。
 桜色をした光の線で複雑な模様を描かれた帯が、全体として地面におわんを伏せたような半球を描くように何重にも重なって回転している。バケモノ達の群れを周辺の自動車ごと丸く取り囲むそれら光帯の回転速度はまちまちで、ついでに模様も一つ一つ違っているようだった。
 ただの光の癖に物理的な力があるのだろう、バケモノの群れの端は光帯に絞り上げられるように押し合い状態になっている。
 満員電車みたいだな、などという感想が雄介の頭をよぎったその瞬間、光帯が爆発的に光を発した。視界は瞬時に桜色、すぐに白へと変化した光に満たされ、光の激しさに比べてやけに静かな、どしん、という音が雄介の耳に届く。
 光が満ちるだけの、静かな光景がまた数秒間続いたその後。半球の頂点から少しずつ崩れるように光が粒子となって散っていき、ぶわりと風が広がった。
 ひりつくような熱さと風に混じる塩素のような刺激臭に思わず鼻を押さえながらも、次第に露になっていったその場を見て雄介は息を呑んだ。

 

――消え、た?

 

 文字通り、何もかもが『消えていた』。
 平面どころではなく球状に、そこにあった全て、地面すら含めた何もかもが跡形もなく消滅していたのだ。
 クレーターとなった断面は赤熱し、火口か何かの如く陽炎が立ち昇っている。その中心、こちらの地面と同じ――直前まで地面のあった高さに直立不動で浮かぶなのはを見つけて、雄介は奇妙な安堵を覚えた。50mはある距離と陽炎のせいでよく見えないが、腕がなくなっているとか身体が半分になっているとかそういった事はないらしい。

 

「高、ま――」

 

 尻をはたきながら立ち上がり、薄まる陽炎の向こうへ声をかけようとして気づく。
 大怪我をした様子こそないものの、なのはが着ているブレザーのあちこちから煙が上がっていた。何より空中に浮かんだままではあっても棒立ち状態で動く様子も見せないのが不安になり、雄介はふらりと歩き出した。
 数歩進んだところで、後ろからぞんざいな声を投げつけられる。

 

「やめとけ、一応鉄の沸点越えてた残りだ。焼肉になるぞ」

 

 言われて瞬きを一つ。改めて『その場』の惨状を見渡し、雄介は我に返った。ともすればからかいのようなアホらしい台詞だが、それが冗談でもなんでもない事は明らかだ。
 クレーターの底面は未だ赤熱し、こちらにまで熱がかすかに届く程だ。進んで近づこうとする気になるのはよほど珍しいもの好きか自殺志願者ぐらいなものだろう。それにしたって熱死というのはいかにも苦しそうなものだが。
 それでも雄介は歩き続ける。胸のうちにちらちらと見え隠れし続けるシンへの対抗心というわけではない。むしろ、今雄介の胸にくすぶっているのは不安感だった。
 なのはが手足に鎧をまとって飛び出していってから、ずっと物音や声でしか彼女の無事を確認できなかった。今現在も陽炎に阻まれて、はっきりとした様子を見ることができていない。
 本当に大丈夫なのか、本当は大丈夫ではないのではないか。
 普通ならばさほど気にもしないだろう、姿が見えないというだけの事がやたら不安で、歩き続ける雄介の足取りは段々と早くなる。気づかず蹴飛ばしたアスファルト片の転がる音が、思ったより大きく響いた。
 『彼女』と一緒に買ったスニーカーの歩みに、すい、と無音で黒い毛並みの脚が並んだ。

 

「?」

 

 身体の大きさからくる歩幅のためだろうか。シンはゆったりした動作の癖に、早歩きの雄介にあっさり追いついた。何を思ったか、そのまま雄介に並んで歩き始める。

 

「……」
「……」

 

 なのはは相変わらず空中で立ち尽くしている。
 じりじりと放射され続ける熱で顔が痛みを覚える距離までやってきて、雄介は顔の下半分を掌で覆って立ち止まった。シンは立ち止まらず、ずかずかと熱気の中へ進んでいく。

 

――わかってたけどさ。

 

 熱という不可視の境界に阻まれ進めない雄介と、境界を越えて平然と歩いていけるシン。姿形にも存在の仕方にも関係ない、一個の人格として負けた気分になり、雄介はつい1分前の自分が何を考えて歩みを止めなかったのかと後悔に似た苛立ちを覚えた。
 『できるところまで』歩いて、その結果がこれだ。差を改めて見せられただけ。
 最初からシンが歩いていくのを見送っていれば、少なくともここでもう一度それを実感することはなかったはずだ。
 無言で自分の足先を見下ろす。この両足は何を考えて動いた? 何故ここまで来た?
 無言で顔を上げる。シンが尻尾を揺らして歩いてく。その先には力なく動きを止めたなのはがいる。
 なのはの様子も、ここまで近づけば大分見えてきた。
 服装や髪の毛こそ形をとどめているが、シャツは焦げブレザーもところどころが変色している。大きな部分を占めるブレザーが紺色だったせいで、遠目には変色した部分が目立たなかっただけだ。

 

「……大丈夫なのか、高町さん?」

 

 多分、この問いはシンに向けたのだろう。自分に問いかけている部分とぼけっとなのは達を眺めている部分とに分かれていることを自覚しつつ、雄介は気だるく立ち続けた。

 

「死んじゃいない、大した傷でもない。ったく、こんなことしなくても俺がやったってのに」
「?」

 

 最後の呟きに首をかしげる雄介を無視し、クレーターの縁にたどり着いたシンはそのまま足を踏み出した。
 薄い光の膜のようなものを足先に生み出し、それを足場にして熱気渦巻くクレーターの上を歩いていく。あれだけ自信たっぷりに歩いていたのだから当然そのくらいはできるのだろう。
 なのはの側まで歩み寄ったシンは、慣れた調子で鼻先でなのはの頭を突付いた。

 

「ほれ」
「――……ん」

 

 ゆらり、となのはが顔を上げた途端、その身体が不均衡という単語を思い出したかのようにふらふらと揺れ出す。あちこちから煙を吹いている細い身体の振れ幅は数秒もしないうちに限界を越え、うつ伏せに倒れるようになのはがシンの背中に身体を預けた。

 

「まったく。わざわざ丸ごと抑えなくてもいいだろ?」
「……だーっ、て。三珠君引っ張ったの、私だもん」
「なら温度か圧力か、どっちか落とせよ」
「『ああなっちゃった』人たちって死んでもずっと『ああ』なんだよ? そんなの……あ、シン君」

 

 会話しながら下がっていったなのはの顔がべったりとシンの背中に埋まり、最後のほうのなのはの言葉は聞き取れなかった。
 だが背中を動かしてなのはの位置を調整したシンの鼻先がこちらに向くのを見て、雄介は少し意外に思って目をしばたかせた。なのはが主導権を握っているらしき普段ならともかく、シンなら『事』だけ済ませてそのまま雄介を放置しそうな気がしていたからだ。
 シンの背中にほとんど横向きに寝ているような格好で座り、上半身をうつ伏せにして潰れているなのははどう見ても大丈夫そうではないし、何か言われたからといってなのはより雄介を優先するというのも考えづらかった。

 

「どうしたのさ? まだ何かあるのか?」

 

 行きと同じように光の足場を生み出し、渡ってきたシンに尋ねる。シンは感覚を確かめるように足を踏みなおしながら、ケモノらしい無表情であいまいな反応を返してきた。

 

「あぁ。なのはが、な」

 

 言われてなのはへ視線を移すと、栗色の後頭部がもぞりと動いた。寝起きのようにゆっくりと、ふらついた動きで頭が起き上がる。肘をつき、こちらを向いた藍色の瞳は疲れてはいても朦朧としてはいなかった。
 前髪の毛先が縮れたり煤けていたり、襟や袖から煙を吹いていたりとと散々な様子だが、それでも確かに目立つ怪我はなさそうだ。なのはの常識ハズレな戦闘能力を見た後でも、それだけでほっとしてしまう。

 

「あー……と。高町さん、その。大、丈夫?」

 

 この期に及んで、しかも明らかに大丈夫そうではない相手にもそう言うしかない気の利かなさがうらめしい。
 なのはもそれを見透かしたわけではないだろうがおかしそうに笑い、しかしすぐに表情を真剣なものへと変えた。

 

「ね、三珠君。これが『あの子』のせいだ、って言ったら信じる?」
「……は?」

 

 意味がわからない。今行方不明になっている『あいつ』とこのおかしな世界やバケモノとの間に、一体何の関連があるというのか。
 シンでもあるまいに、なのはは雄介の反応など知らないとばかりに言葉を続ける。

 

「今全部倒したアレは殺された人。ここはまあ……何が元って言うわけじゃないけど。アレもここも、『あの子』が変わっちゃったせいで出来たの」

 

――ちょ、っと。

 

「ちょっとちょっとちょっと待ってって! 何だよそれ! 嘘だろ!?」
「嘘じゃないよ。私達が先にどうにかしてれば良かったんだけど、でも――ひゃん!?」
「わかったから寝てろお前は」

 

 不意に伸びた尻尾に膝の裏を撫でられて、なのははやけに可愛らしい悲鳴を上げて身体を跳ねさせた。イヌ科の癖に器用な話だが、シンは尻尾も自在に動かせるらしい。

 

「でも」
「いいから動くな。言いたいことは大体わかってる」
「ひぅ!? んぁっ、それかえって痛、ちょ、シン君っ……きゃぅん! ……うう、わかったよぉ」

 

 また何度かふさふさした尻尾が揺れ、その度になのはが切なげな声を漏らす。割とふくらはぎや膝小僧は弱いらしい。
 やれやれと息をつくシンの背中で相変わらず煙を上げながらなのはは不満げに、しかし意外と素直に身体を寝かせなおした。

 

「単純に言うぞ。ここにいた連中の親玉みたいなモンにお前の知り合いが乗っ取られてる。もう手遅れってこたぁないが」

 

 血色の瞳が瞬き、雄介の顔を映す。酷く頼りない、ちっぽけな一般人でしかない存在の顔をだ。
 何かを期待しつつ、しかしそれ以上に試すような挑戦的な視線が雄介に焦点を合わせ、そして外れていった。再び周囲を見回し鼻を鳴らしながら、シンは言葉をつなぐ。

 

「確実じゃあない。ついでに細かい部分は省くが、お前がいなきゃ助けることは絶対にできない。それを踏まえて」

 

 その言葉が雄介に届いていたかいなかったかといえば、間違いなく届いていた。シンが発した声は空気の振動として伝播し、雄介の鼓膜が振るえ、振動を神経が感知して音として認識し、脳が音のパターンを解析して言語という意味を持つモノに解釈する。問題なく通常通りのプロセスが踏まれ、しかし雄介の意識はその言葉を理解できなかった。
 理解したくなかった、のかも知れない。いや、その時は恐らくそうだったのだろう。

 

「助ける為にお前自身が今回以上の――死の危険を冒す覚悟があるなら今言うか、後で連絡すること。期限は60時間前後、時間が過ぎればその分確率は下がる。よく考えろ、ただし出来れば早くな」

 

 決定事項を読み上げているような、さらりとした口調でシンは言葉を結んだ。なのはは今の会話ともいえない一方的な伝達を聞いているのかいないのか、顔を完全に伏せて動きを止めてしまっている。

 

――どう答えろって言うんだよ。

 
 

 間接的に『彼女』の運命を自分が握っていると宣告されたに等しい。何なんだ、と理解できないフリをしても、背中にのしかかる圧迫感はその責任が――少なくとも行動の『先』に自分自身思い当たっている証拠だ。
 つい視線を外して周囲を見回すが、もとより答えがそのあたりに転がっていたり誰かが教えてくれるわけもない。
 即答出来ないでいるうちに、シンは雄介が答えられないと判断してしまったらしい。首を曲げてなのはの様子をもう一度確かめると、また身体の向きを変え始めた。
 なのはを落とさないように慎重になっているのだろう、ゆっくりと動きながらそうだ、と目線だけが再び雄介の方へ固定される。

 

「お前、携帯電話持ってるか?」
「あ、うん」

 

 ポケットから取り出した型落ちの二つ折り式携帯電話を見せる。ならそれだ、とシンが言った途端、携帯電話がばちりと音を立てた。

 

「うわ!?」

 

 驚いて携帯電話を取り落としかけるが、どうにか持ち直す。液晶面を開いて様子を確かめると、見覚えのない番号が表示されていた。
 なんとも無理矢理くさく表示され、不安定に点滅までしている画面を微妙な顔で眺めているうちに、シンは用は済んだとばかりに歩き出してしまった。
 アドレス帳への登録完了を示す携帯電話を持ったまま、雄介は尻尾とその背中から垂れ下がる栗色の束髪が揺れるのを見ていることしかできない。何か言おうにも、言葉が見つからない。言葉を見つけるより先に、考えなければならないことがあったからだ。

 

「じゃあな」

 

 ばちん、と血色の火花が垂直に円を描いた。通してみた景色もその場の見た目も変わらないいが、そこで空間がどうにかなっているらしい。
 見えない扉をくぐるように前から消えていくシンとその背中のなのはを見ながら、雄介は考え続ける。
 どうしたらいいのか、そのただ一点を。
 『本来すべきだったこと』は決まっている。助けると即答すればよかった。
 それが出来ない理由も決まっている。単純に恐怖だ。
 自分がどことも知れない異空間でバケモノに殺されるなど、昨日まで考えたこともなかった。自分が助かったのもなのはとシンが寸前で助けてくれたからであって、雄介自身の力で生き延びることができたわけではない。
 自分が必要な理由などまったくわからないが、自分が『その場所』に赴くのなら――生きるも死ぬも自分ではまったくどうにもできない状況、それも危険とはなからわかっている状況に、自分から飛び込むことになる。目隠しをして戦場を横断しろというようなものだ。運任せというよりも更に酷い。しかもこれより更に危険だ、とシンは言っていた。

 
 
 
 

「……そういえば」

 

 ふと我に返る。足元にはクレーター。頭上にはひび割れた空。バケモノに出会ったときのままの怪しげな空間は変わらず存在している。そしてシンがなのはを背負って消えてしまった今、雄介は1人だ。
 寒々しい空気を感じ、雄介は半ば無意識に呟いた。

 

「どうしろってのさ」