運命のカケラ_短編その8

Last-modified: 2010-07-19 (月) 22:49:41

 ふと我に返る。足元にはクレーター。頭上にはひび割れた空。バケモノに出会ったときのままの怪しげな空間は変わらず存在している。そしてシンがなのはを背負って消えてしまった今、雄介は1人だ。
 寒々しい空気を感じ、雄介は半ば無意識に呟いた。

 

「どうしろってのさ」

 
 
 
 

 呟いたところで答えが返ってくるわけもない。我ながらワンパターンとは思いつつも、やはり溜息が漏れる。
 妙に達観した、あるいは気の抜けたまま、雄介はとりあえずクレーターに背を向けて歩き出した。流石に熱気に耐え続けるのも辛くなってきていたからだ。
 歩きながら上を見上げる。変わらない。ひびだらけの、空全体がぼんやりとした光を放っているわけのわからない空のままだ。
 足を止めず下を見下ろす。変わらない。そこら中に穴や爪あとや瓦礫や引き裂かれた鉄の欠片が転がっている以外は普通の駐車場の地面――アスファルトなのかコンクリートなのか、いまいち雄介には区別がつかないが。
 スクラップと化した自動車にかろうじてくっついていた元ドアの鉄くずが、道の横でゆらゆらと揺れている。不意に強まった風に煽られ、ごく薄い鉄板は数回のゆらぎに耐えた末に落下して、大きな音を立てた。
 クレーターの傍では心地よかった風に寒気を感じて、雄介は両手をポケットに突っ込んだ。足元のガラクタ、外れたホイールキャップをつま先でつつく。
 何かを探せばここから出ることができる――わけもない。本当の意味で、ここから元の世界へ戻るには何をどうしたらいいか、見当もつかない。
 こうして『世界に自分ひとりだけ』という稀有な体験を文字通り『独り占め』したまま朽ちていくのかも知れない、などという可能性を頭の後ろ半分あたりで転がし、雄介は小さく笑った。

 

――まあ、ないだろうけどさ。

 

 そんな雄介の思考に答えるかのように、場違いなほど勇壮なテーマが流れる。唐突なそれにも慌てることなく、波打ち際で白馬を駆る将軍様のテーマを奏で続ける携帯電話をポケットから取り出した。表示の乱れた相手番号の表示に、やっぱりと気の抜けた笑顔を浮かべる。
 何故かといえば、彼女とあの狼は、何にでも見てみぬふりをする自分とは違う存在で。
 そんな彼らなら自分をこのままにはしておかないだろう、という消極的な信頼があったからだ。
 手のひらをズボンの太ももで拭い、携帯電話を持ち直して雄介はボタンを押した。

 

「もしもーし?」
『あ、ごめん三珠く、ん』

 

 常のはつらつとした様子からは程遠く、話をすること自体が既に辛そうななのはの声。思わず心配の言葉が口をつきかけたが、雄介はあいまいに口を開いて閉じた。どうせこんな状態だってこちらの話を聞きやしないだろう。雄介はうん、と反応を返した。

 

『忘れてたんだけど、んー……ああ、三歩。三歩だけ右に歩いてくれないかな?』
「は?」
『お願い』

 

 女の子にお願いとまで言われた上で動くことを断るだけの理由は、今の雄介にはなかった。
 首を傾げつつも一歩、二歩と位置をずらし、三歩目を踏み出しながら携帯電話を持ち直す。

 

「動いたけど」
『ありがと。シーンくーん、アロンダイトお願い。うん、そう。座標同じ。げんてーかいほー』

 

 電話ごしにおう、というぶっきらぼうなシンの声が聞こえた、その瞬間。
 雄介が引き寄せた足の踵と振り返りかけたもみ上げ近辺を削って、巨大な何かが突き出した。
 長く伸びる硬質な響きが風を波立たせ、質量と共に巨大なエネルギーを叩き込まれた空間が悲鳴を上げる。

 

「……は?」

 

 ばりばりと迸るスパークの音、単なる道路すらも明るく見えるほどの蒼い光の反射に顔を青ざめさせながら振り返ると、そこには薄蒼い金属の壁があった。
 つい先程なのは達が消えたあたり、虚空から突然その壁は突き出し突き抜け、雄介の背中をかすめて再び何もない空間に突き立っている。

 

「えー」

 
 
 

 この目の前にあるコレがアロンダイトという奴なのだろうか。そんなのんきな事を考えながら、雄介はぼりぼりと頭を掻いて視線を上げる。溶接現場のごとく荒れ狂う火花は凄まじい音と光を撒き散らし、さきほどまで満ちていた静寂が嘘のようだ。
 ごぐんと腹に響く鈍い音がして、さらにその次の瞬間には一瞬で巨大な壁が上空へ飛んでいった。
 文字通り『空を裂く』甲高い残響を引きずって、アロンダイトと呼ばれたモノはずらりと半円を描く。
 高く長く走った裂け目から、圧力に耐えかねたように火花が吹き込み始める。雄介は溢れる光量に耐えかね、手で目を覆った。圧倒的な光と音に身を丸めるしかできない中、ふと地面を踏みしめていた、その感触が消えた。

 

「うわっ――」

 

 半ば焼きついた目、きんきんと唸る耳。視覚も聴覚もふさがれたまま、雄介の身体は落下感に包まれた。

 

「――あ痛っ!!」

 

 内臓の浮き上がるような不快感は、始まりと同じく唐突に消えた。もがきかけた不安定な姿勢の背中がどすん、と硬いものにぶつかる。何の反応もできていなかった故に勢いを殺すことなど当然できず、首は慣性に引っ張られて大きく仰け反った。すぐに頭も背中と同じものにぶつかり、後頭部を中心につんとした振動が脳を突き抜ける。

 

「げほっ……ごほ、ぉお……」

 

 衝撃の後、ようやく重力の感覚が戻ってきたことを確認し、雄介は咳き込みながら頭を押さえた。後頭部や掌が触れているゴリゴリとした感触は――アスファルトあたりか。
 ごろり、とうつぶせになって涙を拭う。
 何かごわごわとした音が周囲に満ちているが、急激な変化についていけていない聴覚ではそれが何だかはよくわからない。
 それでも、周囲の気配が先ほどまでのバケモノ達とは違うことくらいはわかった。それだけで、ずいぶんと安心してしまう。

 

「ごほっ、げほっ」

 

 さらに数回咳き込んでから雄介は目を開き、そして硬直した。

 

「…………」

 

 人がいる。前に数人、横にも数人。多分足方向、後ろにも数人。
 それはいい。人がいる世界に帰ってこれたのだからとてもいい。懐かしい匂いがするような気さえしてくる。
 だが、そのすべてが興味深そうに、あるいは訝しげに自分に視線を集中させているとなれば話は別だ。
 バケモノに追い回されていたときならば気にもならないだろうが、非日常の危険が遠ざかれば日常的な感覚と羞恥心は戻ってくるわけで。
 若い男性、買い物バッグを下げた夫婦、カートを押す老婆、子供連れ、小学生らしき男児その他。

 

「あー……」

 

 クレーターで感じた単純な放射熱とはまったく別の『熱さ』に、雄介の背中や額にたちまちのうちに汗が浮かぶ。
 まさしくさらし者状態になった雄介は、老若男女でできた輪の中心で小さく鼻をすすった。

 
 

「たーだーいーまー……」

 

 傾いた日差しが差し込む自宅――なんだかんだいって一戸建てだ――の玄関。おざなりな帰宅の声を上げ、奥から行き先を訪ねてくる母親の声にも適当な生返事を返して、雄介は疲れた足取りで階段を登った。
 立ち上がってからここまで自分の脚で駆け抜けてきたことは確かだが、途中の道筋は正直なところ覚えていない。階段を登るだけで痙攣するふくらはぎの筋肉が、明日は筋肉痛だと告げていた。
 子供の頃に蹴りを叩き込んだ時のまま小さな穴が開いているドアをくぐり、ベッドに直行。とりあえず上着だけを脱ぐと、そのままうつぶせに倒れこんだ。顔が枕のくぼみにおさり、段々息が詰まってくる。
 面倒くさいながらも顔をずらしつつ、考える。どうしたらいいのか。考えるために、シンの言葉を思い出す。
 残りの時間は? 約60時間。
 自分の必要性は? なんだかわからないがとにかく必要。
 彼女があのバケモノに関わっているのか? 関わっている。
 本当に?

 

――本当に?

 

 バケモノに実際追い掛け回された身としてはあの恐怖は真実ではなく事実である。そしてその恐怖に自分から立ち向かう勇気がなかったのも事実なのだが、それでもなのはとシンを信用しきれない――自分の必要性が信じられない――自分がいるのも事実だ。
 いきなり現れて、いきなり助けられて。あの圧倒的な力を見せられた後でいきなり『君が必要なんだ!』などと言われても、それはバケモノの存在云々とは別次元で信じがたい。
 彼らが常識の範囲外、それこそ魔法とかそんなレベルの力を持っているのはわかった。どんな力なのかなど理解できなくとも、その力は認識せざるを得なかった。

 

――だけど、だったら。

 

 『彼女』を助けるために自分にできて、彼らにできないことなどあるのだろうか?
 自分がわざわざ死ぬ場所にいかずとも――

 
 
 

「お願い! 君の力が必要なの!」

 

 胸の前で手を組み、瞳をうるうるさせてなのはが叫ぶ。その背後ではなぜかシンがひっくり返って4つの脚を痙攣させていた。
 周囲はぼやけた町並み。色も薄く、遠近感が感じられないがそれが自然なので雄介は疑問に思わない。

 

「うん、わかったよ! 僕は選ばれた天人なんだね!!」

 

 なのはに向かってぐっと親指を立て、完全かつ完璧な確信とともに、雄介はあるべき台詞を叫びながら両手と左ひざを振り上げた。

 

「さあ出ておいで、僕のスペシャル!」

 

 ラーラーと女性のコーラスに似た効果音がどこからか鳴り響き、雄介の全身が発光を始める。つま先から振り上げた手の指先、さらには髪の毛一本にいたるまで神々しく輝き、雄介はそのままふわりと浮き上がった。

 

「はっはっはっはっは! どうだー!」

 

 両手を上に、右ひざを高く高く、いうなればゴール直前のランナーのようなポーズ。腰の後ろ辺りからキラキラと光を撒きながら雄介は自在に飛び回り、その威光におびえたようにバケモノ達――いつの間にか周囲を取り囲んでいた――が身をよじり、挙句しおしおとしぼんで消えていく。

 

「すごい、すごいよ三珠君!」
「あーっはっはっはっは!」

 

 目を輝かせて万歳をし続けるなのはと相変わらず痙攣するシンを眼下に、雄介は笑い続けながらくるくると縦回転した。
 さあ障害は排除した、これで『彼女』の身柄を確保して伝説のスクール水着を奪えば、最後の穴へと至高のたこ焼き機を――

 
 
 

「・‥……――?」

 

 ぱちりと目を開いた雄介が抱いたのは、何故自分はこんな暗い場所で寝転がっているのかという疑問だった。両手を広げて飛び、『彼女』を助けに行こうとしていたはずなのに。

 

「??…………!」

 

 混濁した思考のままに周囲を見渡し、頭を掻き、そしてようやく血流が戻るように正気がじわじわと雄介の頭の芯に戻ってくる。
 正常に稼動を始めた回路に注がれたのは先ほどまでの記憶、そして導かれた感情は……絶大な羞恥。

 

「くぉぁぁああぁぁ……がっ!」

 

 ついさっきまでの自分の思考も言動も行動も意識も記憶もすべてが恥ずかしくなり、頭を両手で抱えてボスボスと枕に額を叩き付ける。30秒ほど陸に揚げられた魚のようにぐねぐねと身体をうねらせ続け、息も切れてきた雄介はもう一度頭を持ち上げると、ぼすんと枕に額を落とした。

 

「………………ぐぬぅ」

 

 猛烈に増加する血流と、それに伴う熱気が耳や首から立ち上る。いくらなんでもこれはないだろうという要素をてんこ盛りにした夢は忘れようとするとかえって意識にのぼり、どんどんと記憶が補強されていってしまう。
 いっそ強烈に後頭部でも打ち付ければ記憶がなくなってくれたりもするだろうか、いや額のほうがいいのだろうかなどと馬鹿な考えをたっぷり数分は巡らせて、ようやく雄介はあきらめがついてきた。
 枕元の目覚まし時計を手に取る。帰宅してから4時間は経っており、家でのいつもの夕食時間も過ぎていた。母親が気を使って自分を起こさないでいてくれたのだろう。
 ごろ、と時計を持ったまま仰向けになり、逆の手で顔を拭う。
 『そんなこと』を期待していない、といえば嘘になるのだろう。安いヒーローものの主役が自分で、彼女がヒロインであれば――そんな好都合な展開があるかもしれないとあれば、それは否定しようと自分に言い聞かせても無理がある。
 しかし、もし万に一つその妄想が現実だったとして、そしてそうではなかったとしても命がけだということは確かだろう。その部分についてシンとなのはが二人がかりで雄介をだましているとは、今改めて考えてもやはり考えづらい。
 そこを信じるとなるとやはり本当に自分が鍵なのかも知れない。だが、やはり信じられない――というより、信じたくない。

 

「くっそ」

 

 信じなければ、危険ではない。あの一人と一頭が決着をつけてくれるだろう――『彼女』を助けることはできないにしても、だ。
 なら信じればどうなるか。当然自分がやる気になって危険を冒さなければ決着はつかない――『彼女』もろとも自分もあのおかしな世界で力尽きる羽目になるかも知れない。
 シンに選択肢を提示されたときから、自身がまったく進むことも何もできていないのは自覚している。だが。

 

「わかってるよ……けど、怖いんだよ」

 

 一度思い出してしまえば、今も部屋の外、壁一枚隔てたすぐ近くにあのバケモノ達がいるのではないかと考えてしまう。あの息遣いや視線がどこかから自分に向けられているような気がしてしまう。
 あの時振り上げられていた腕で自分があっさりと死んでいたであろうことも、思い出してしまう。
 怖い。怖い。怖い。けれど、そう言って自分が行かなければ『彼女』は。

 

「……死ぬのかな。やっぱり」

 

 もしそうなれば、それは紛れもなく雄介のせいだ。なのはやシンはそれについて何も言わないだろうし、彼らが何も言わなければ誰も知らないままだろうが、それでも『自分のせい』だという事実が残る。誰も知らなくとも、何より雄介自身の中に残るだろう。
 『彼女』が自分のせいで死ぬ。間接的に自分が『彼女』を殺す。一人の人間を自分が殺す。そんなことになったら自分は一生……

 
 

「…………」

 

 がり、と頭を掻く。脳の芯には冷たい死の恐怖がこびりつき、背中には罪の恐怖が焼き付いている。どちらをとるかは雄介に委ねられている。
 ふと気づいた。シンは雄介に選択権を残していったのだ。問答無用に助けを押し付けるのではなく、あくまで雄介に選ばせる形をとった。
 それがどういう意味かなど、考えてみればすぐに思い至った。自分で立て、というその一点だろう。学校の屋上でも、なのはとシンは雄介自身が動くことを重要視していたではないか。

 

――ああ、よくあるパターンじゃないか。一般人も立ち上がれ! 勇気を持って!

 

 わーかっこいい、などと投げやりな思考で締めたところで何が変わるかというと何も変わらなくはあるのだが。
 がり、とまた頭を掻く。
 自分にあるのは選択肢。降ってわいたというか、唐突に突きつけられた選択肢。その選択肢に続くのは、選択に伴う結果。そしてその結果は『自分が選んだ故の結果』だ。
 などと持って回った言葉を転がしたところで、結局戻ってくる場所は決まっている。
 すなわち、二日後――時間からしてそのくらいだろう――『彼女』がもし消えてしまったならば、それは雄介が『行動しなかったせい』だということ。

 

――いなくなる。永久に。自分のせいで。

 

 皆が何故、と悲しんでいる中、自分だけはその原因を知っていて……

 

「くそっ」

 

 ちらつく罪悪感の不快さに声を上げると、雄介はもやもやとした気分のままで携帯電話を手に取った。

 
 

 それから約20分後。雄介は夜の光に照らし上げられるビルの前で、首を反らして上を眺めていた。

 

「…………」

 

 視界に鎮座するのはいかにも高級そうなタワーマンション。表側の5階ほどには商業施設が入り、その上に居住区画が乗っかっているという最近よく見るタイプだ。
 黒で統一された石材が使われている出入り口周辺の外観のみならず、景色が写りこむほど磨かれた床のタイル、柔らかい照明、手の込んだ装飾のほどこされた郵便受けなどが撒き散らす空気は正直な話、雄介には辛いものがあった。
 しかしここで止まっていては奮起した意味がない。雄介はそわそわしながらも呼び出し用のパネルに部屋番号を打ち込んだ。
 数秒間のコール。何をどう言えばいいのかなどと今更考えているうちに、はい、となのはの声がスピーカーから聞こえてきてしまった。

 

『はーい、高町ですっ』
「ああ、ええと、あー……」
『あ、三珠君? 良かった! 今開けるから』

 

 やはりというか何というか、ぼそぼそと喋っただけの声であっても即座に雄介のものであると判別され、そして機械音と共にロビーの電気錠が解除される。どうあっても引き伸ばしは無理そうだ。
 もうちょっと話を聞いてくれてもいいのにとは思うが、考えてみれば時間と共に可能性は逼迫していくのだ。なのはの方にしてみれば選択肢を提示した上でこうして雄介が来た以上、覚悟を決めていると考えるのが自然だろう。
 そう、この期に及んでまだうじうじと決められないでいる自分のほうがおかしいのだ。
 エレベーターに乗り、目的の階――11のボタンを押す。
 機械なのだから当然、エレベーターも遅れることなく上昇を始める。そう、雄介がボタンを押したからそれにしたがって動いているだけだ。
 ここまで来てしまったのだから、もうどうしようもない。覚悟が決まっていなかろうが、どうしようもない。このエレベーターと同じようなものだ。もう『そうするしかない』。

 

「…………まだ……いや」

 

――ああくそ、まだ『そんなこと』を考えてるのか。

 

「行く、行かなきゃ」

 

 もう、ここへ立ってしまったのだから。だから『行かなければいけない』。
 逃げ出したい気分を押さえつけながら、雄介はインターホンを押した。

 

『――はいはいっ、今開けまーす』

 

 何の変哲もない金属のドアががちゃがちゃと鳴り、大きく開かれる。

 

「とっとっと……いらっしゃいまーせっ。さ、入って!」

 

 覗いたのは当然、なのはの朗らかな顔だった。アンダーウェア、といった雰囲気でぴっちりした黒のランニングに、大きめの白いトレーナーを重ね着している。肩が襟元からはみ出しているのが、いかにも楽な格好といった様子だった。
 そういえばシンはどうしているのだろう。例えペットと同居可能を謳っている部屋でも、あの大きさでは断られそうなものだが。
 そんな事を考えながら、促されるままに靴を脱いで扉をくぐり――その広さに驚いた。
 まず、集合住宅に不釣合いな『玄関らしい玄関』と、その先に廊下があること。更にそこを通り抜けたリビングは二階吹き抜けになっているらしい。廊下から見える方向のリビングの壁1面はガラス張りになっており、その外はテラスが見えている。
 家賃がどのくらいになるのか、それともまさか購入したのか――まだ家から出たことのない雄介には想像するしかできないが、それでもこの部屋の価値が一般的なレベルを大きく上回っているであろうことくらいはわかった。

 

「す、凄い部屋、だね」
「え? ああ、うん。シン君いるから広くないと……待ってて。お茶入れるから」
「え、室内?」

 

 そうだよ? と軽くうなずき、なのははテーブルを指差してキッチンの方へ行ってしまった。促されるままに椅子に座る。
 カウンター状になったキッチンからは、なのはが動き回る様子がよく見える。ぱたぱたとテンポ良く重ねられていく手際を見ているうちに鼻に届いてきた香りは、紅茶のものだ。
 ナチュラル調の、透明なコーティングだけが施された塗装はなのはの趣味なのだろうか。自分を招き入れる直前に拭いてあったのだろう天板は薄く湿っており、きちんとした気遣いにどこか申し訳ない気持ちにすらなってくる。

 

「はい、どうぞ」

 

 ことりと置かれたシンプルなカップに満たされているのは、透明感のあるストレートティー。
 少しだけ砂糖をいれてカップを傾けた雄介は、目を見開いた。
 口に含むと、非常にすっきりとした味と香りが広がっていく。霧が立ち込めているような味わいの強さに比べて渋みはほとんどなく、かすかなスパイスの香りとともに渇いた喉に心地よく染み込んでいった。
 『まるで喫茶店で出される紅茶のような』味わいに没頭していた雄介は、ふと我に返ってカップを置いた。

 

「悪くないだろ?」

 
 

「へ!? あ、うん」

 

 唐突に響いたシンの声に、雄介は振り返る。
 リビングに置かれているソファの背もたれから、見覚えのある毛並みが山脈のようにはみ出していた。ちょこんと突き出た耳がぱたついて、面白がるような血色の瞳がひょいと覗く。仰け反るようにしてこちらを見ているらしい。

 

「凄くおいしい……って、いや」

 

 ここに来た目的は、なのはに紅茶をご馳走してもらう為ではない。自分が決めたことを伝えるためだ。

 

「うん?」
「……その」

 

 どう切り出せばいいのだろうか。顔を戻しつつも正面に座るなのはからは視線をそらし、雄介はぶつぶつと口の中で言葉を転がした。
 とにかく行くべきだ、行かなければならない事を最初に口にするべきなのか、それともいっそ紅茶の話でもして考えをまとめるべきなのか。
 ぐるぐると上滑りだけする思考をまとめられず、雄介は口を開いたり閉じたりしたまましばらく沈黙していた。

 

「――決めた?」

 

 そんな雄介の醜態を頬杖をついて見ていたなのはが、優しげな笑みのままで問いかけてくる。

 

――そうだ。まずそれを。

 

 助け舟に感謝しつつ、大きく息を吸う。これを言ってしまえば、もう戻れない――いや、戻れなくなったほうが良いのだ。自分の行動は『そうでなければいけない』。

 

「決めた。行くよ」
「…………ふぅん……?」

 

 そんななけなしの勇気を振り絞った言葉への反応は、そっけないものだった。
 なのはは微妙な声を漏らし、自分の顎をなぞるように人差し指を滑らせた。上から下へついと滑った指先をテーブルに置いて、かくんと首を傾げる。そのまま沈黙。
 向けられる視線が気まずくなって、雄介は視線を落とした。視界の中央で、紅茶が薄く湯気を立てている。
 使われた器具、それを使いこなすなのはの手際から受けた印象どおり、味も香りも『金を取れる』代物だった。
 だがそこまでしてくれる程のもてなしとは裏腹に、向けられている視線はなんとも居心地が悪いものだった。
 数秒後に出てきた言葉は、先ほどに負けず劣らず単純な問いだった。

 

「それ、ほんと?」

 

 口ごもる雄介を見て微笑むと、えっとねと言いながらなのはは腰を上げた。ソファを占領して寝転がっているシンに歩み寄り、とすんとソファの座面に寄りかかるように腰掛ける。座ったまま腕を回してシンの前足をつかむと、何を思ってなのかその足の裏を口元に当てた。面倒臭いだけなのか何なのか、シンは反応を示さない。じっと寝転がったままで窓の外を眺めている。
 擬音で表すならこすこすとかごしごし、とかそういった具合に、なのははシンの前足を使って口元をくすぐり続ける。以前耳を弄っていた時のように何かの癖なのだろうか。
 ひとしきり肉球――サイズはそれこそライオンや虎やらに匹敵するが、やはり肉球というからには、一度は感触を確かめてみたい気がする――で口元を擦り終えると、なのはは今度はシンの前足を掴んで指を這わせながら言葉をつないだ。

 

「今のままだと、ね。三珠君、死ぬと思う」

 

 あっさりと告げられる言葉は、しかしあっさりと流すにははっきりとしたイメージを持ちすぎていた。特に『今』は。

 

「!――……死ぬ?」
「うん。あと私も死ぬし、シン君――は、多分死なないけど」
「ぁ? ああ」

 

 ねえ、とシンに首を傾げてみせるなのは、曖昧な母音だけで反応するシン。そのどちらにも、死への恐怖は欠片ほども見当たらない。
 ただそうであるから、そうであると言っている。物を落とせば落ちる、とでも言うようなレベルの淡白な態度。
 自分達の死をその程度に捉えているということなのだろうか? 自分の推測に薄ら寒さを感じて、雄介は居心地悪く座りなおした。

 

「んー……単純なところからいこっか。三珠君、『あの子』がいなくなってもいい?」

 

 シンの前足先で頬をかきつつ、なのははシンプルな問いを雄介に投げかける。
 シンプルすぎて、答えは実質ひとつしかないようなものだったが。

 

「よくは、ないよ」
「じゃ、二つ目ね。三珠君は、死ぬのが怖い?」

 
 

 またも同じような、答えを選ぶ余地のない質問。よく磨かれたフローリングの床は古い鏡のように、なのはとシンの影を――おぼろげな輪郭だけを映しこんでいる。

 

「怖いよ。当たり前だろ」
「ん。じゃあね、三珠君。『あの子』が死ぬのと三珠君が死ぬの、どっちが嫌? どっちも嫌?」

 

 窓の向こうに視線を流しながら答えを探そうとして、ふと気になった。

 

「どっちかを選べ、って言うんじゃないの?」
「うん。どっちが嫌? それとも、どっちも嫌?」

 

 首を傾げて、なのはは問いを繰り返した。

 

――何が聞きたいんだ?

 

 多少の不機嫌を自覚しながら答えを組み立てる。今のような状況でなければ、からかっているのかと不満のひとつも口にしていただろう。

 

「どっちも嫌、だと、思う」

 

 そうしないのは、期待故だ。
 自分が出せなかった――明確に示すことを恐れて口にできなかった答えを、違う形で示してくれるのではないかという期待。

 

「じゃあ、三珠君がついてきてくれて、私が成功するしかないのに。どうしてそんなに怖がってるの?」
「どうしてって」

 

 答えは明確だった。明確だったが、理想的すぎた。
 それこそ、雄介には真似のできないほどに。

 

「それができないから怖いんだよ」
「えー……っと」

 

 頬に指を当てて首をかしげていたなのはは、しばし難しい顔をした後にぽんと両手を打ち合わせた。
 シンが瞬きして、なのはの横顔に胡乱げな視線を向ける。黒く長い尻尾がぱたり、と一度だけ揺れた。

 

「男の子だったら、ほら。ええと『40秒で支度しな!』 って言っちゃう場面だと思うんだけどな」
「そりゃお前が言うほうじゃないか?」
「え、そうだっけ」

 

 シンにあっさりと否定され、なのはは鼻の頭をかいて考え込み始めた。
 だが、既に会話の本筋からは離れてしまっていることをなのはは自覚しているのだろうか。それとも目指すところが既にはっきりしている以上、彼女にとって考えるところはそこくらいしか残っていないということなのだろうか。

 

――そうじゃないんだ。

 

 違うのだ。自分が問題にしているのはそこではない。
 違うのだ。彼女と自分は。
 違うのだ。力も心も、何もかも。
 そんなに『割り切れる』ものではないということを、彼女はどうして理解してくれないのだろう。
 どうしようもなく話が伝わらない、かみ合わないことに、雄介は段々と苛つき始めていた。
 息を吐いて言葉を捜し、そして見つからないことに更に苛つきは募る。

 

「だから、さ」

 

 結局のところ、雄介は同じような言葉を繰り返すしかできなかった。

 

「危険なんだろ? 死ぬかも知れないんだろ!? それを、そんな……割り切れないよ。高町さん達とは……その、違うんだから」

 

 一瞬噴出しかけた感情と声は、二組の視線に押されるようにして尻すぼみになっていった。血色の方は何を考えているのだかわかりづらいが、少なくとも藍色の視線は真摯にこちらの言葉を聞いてくれているように見える。
 なのはが悪いわけではない。そもそも誰が悪い、ということもない。ただ腹を決められなくて、自分が自分に苛ついているだけ。
 それをわかっているから、一瞬でも声を荒げてしまったことに対する後悔がじわじわと沸いてきて……視線を合わせられない。
 あぐらをかいたまま、なのは達からは見えない位置で手を開き、握る。それを何度か繰り返す雄介に、なのはは少しだけ不満げな視線を向けてきた。

 

「三珠君、私たちのことヘンなものみたいに考えてない?」
「そんなこと」
「危ないことしないで済むのなら、そのほうがいいとは思ってるよ? 私も。でも――」

 

 ぐい、とシンの首を脇に抱え込んで、なのはは何故かシンの顔を雄介に向けた。まるで何かの実例でも示すように。面倒くさそうに視線を横向けているシンに痺れを切らしたのか、なのはが口を開く。

 

「――『必要なとき』まで何もしたくない、なんて言ってたら……何もかも、駄目になっちゃう。なくしちゃうかも知れないし、傷つけちゃうかも知れない」

 

 ね? となのはに再度促され、シンが渋々と言った様子で台詞を継いだ。

 
 

「何もしなけりゃ、自分たちだって守れない。そういう時には迷ってる余裕なんかないんだよ。今のお前も、俺たちも『選べる状況じゃない』ってことだ」
「三珠君が『あの子』を取り戻したいなら、三珠君が『考えていいこと』って一つしかないの。わかるよね?」
「けど、今回は逃げるって選択もある。それだけの価値があるかどうか、比べて決めればいい」
「シン君、また余計なこと――」
「けどな……失くしたものってのは戻らない。それだけは覚えとけ」

 

 途中でなのはが声を上げるが、シンはなのはを無視して言い切ってしまった。口を挟むタイミングを失ってなのはが口ごもり、そして言葉に困ったらしくシンの尖った耳に噛み付いた。複数の意味で一方的なじゃれつきを眺めながら考える。
 結果を求めるなら、行動が必要。そしてその行動というのが、今の自分にとっては覚悟を決めること。
 すがすがしいまでに異論の考え付かない理論だった。
 しかし、理論だけではどうにもならないのだ。

 

「――ごめん。ちょっと外、出てていいかな」

 

 少し頭を冷やしたい。
 リビングの大窓、テラスの方向を指すと、なのはは気を取り直したように頷いた。

 

「あ、うん。食べられるならご飯作ろっか?」
「ん……じゃあ、お願いしていいかな」
「はーいっ。ちょっと待っててね」

 

 勢いをつけて立ち上がるなのはがキッチンへ向かって歩き出すのを見ると、雄介も深いため息をついて立ち上がった。

 
 

「はぁ……高い、な」

 

 一人で出たテラスは、リビングほどではないがかなり広い。囲まれ具合がそれほどでもないのと、高さもあるのだろう。意外と夜風が強かった。
 片隅に畳まれているパイプ製の大椅子のようなもの――サマーベッドは、なのはの持ち物なのだろうか。
 テラスは、このくらいのものならひとつふたつ広げても十分に余裕がある程の広さがあった。
 部屋の広さ、階数に加えてこんなテラスがあるのだから、この部屋の値段はいったいどれほどだというのだろう。彼女たちの事だ、何か怪しげな手段を用いていないとも言い切れない。

 

――だめだ。

 

「あ゛あ゛あ゛……あー」

 

 そんな関係のないことを考えてもどうしようもない。今考えるべきことはわかりきっているのに。
 やらなければならない事がある時に限って部屋の掃除をしてみたりするように、無意識に『それを考えること』から逃げようとしているのだろう。無様な話である。

 

「は、ぁ」

 

 ぼりぼりと頭をかいて、そのまま雄介は頭を抱えた。
 踏ん切りがつかない。
 単純すぎて、どうしたらいいのか見当もつかない。
 時間もない。自分は死にたくはない。けれど『彼女』も助けたい。『彼女』の家族だって悲しませたくはない。でも自分が死ぬことで自分の家族だって――

 

「……ん」

 

 またもや思考がメリーゴーラウンドになろうとしていた時、耳に勇壮なテーマが滑り込んできた。
 どんな時も果断な決断力と強烈な行動力で悪を打ち砕く将軍様のテーマを鳴り響かせる携帯電話を取り出して、ディスプレイを覗き込む。
 友人の一人――あのジャージ野郎の番号だ。学校で別れたのが随分前のことに感じながら、雄介は通話ボタンを押した。

 

「はーいよ?」
『よ。今どこにいるんだ、お前?』
「どこ、って……あー」

 

 そのままを口にしようとして詰まる。クラスメイトの、それも女子の家などと答えていいものかどうか。
 年がら年中恋人のいる人間に向かって呪いの言葉を吐いているような奴だ、変に話がややこしくされるかも知れない。

 

「……駅前。ちょっと歩いてる」

 

 雑踏には少々遠いが、エンジン音や時折のクラクションは聞こえてくる。そう不自然でもないはずだ。

 

『ああ、そっか……探してるのか? こんな時間まで』
「ん、まあ」

 

 携帯電話を耳に当てたまま、テラスの手すりに体重をかける。
 眼下に広がる夜の街は、まぶしい程の光を放っていた。
 この小さな光のひとつくらい、なくなっても誰も気づきはしないのだろう。街を行き交う人間の一人くらい、いなくなっても誰も気づかない――当事者のごく近く以外は。

 

『そっか。でもよ、お前がそんなに気にすることないだろ?』
「そうもいかないって」
『なぁんだ、何だかんだ言ってお前』
「だから。そうじゃあ、ないって」

 

 からかいに入った声音に、いつもの答えを返す。ここ数日は少々変化しているが、まだその認識でいる部分もないではない。

 

『ははっ、まあどっちでも同じか、お前ら昔からの知り合いだし――』

 

 何度となく繰り返した、馬鹿なやりとり。しかし何気なく付け加えられた台詞に、雄介は動きを止めた。

 

『――やっぱり、皆いるほうがいいもんな』
「…………」

 
 
 

 そうだ。誰だって、知り合いがいなくなれば悲しいに決まっている。
 『彼女がいなくなれば、悲しむのは自分だけではない』
 だが、それだけではない。今まで意識に上ってこなかった、もうひとつの当たり前。
 『彼女が戻ってくれば、嬉しいのは自分だけではない』
 そんなことはわかっている。わかっていた。わかっていて、それでも踏ん切りがつかないはずだった。
 だが、いなくなったらどうしようという部分にばかり思考が傾いて、後半は忘れていた……のだろう。今の台詞にはっとするのだから。

 

「……ああ、うん」
『まったく、どこいったんだかな。じゃ、ちゃんと飯は食えよ、飯――お前までこんなになって探してるんだからきっと見つかるよ、あいつも』

 

 言った側としては気休め、むしろそれ以前のただの気遣いでしかないであろうありきたりな台詞が、耳から入り込んで頭の中に染み込んでいく。
 似たようなことは自分の母親も言っていた。何人もの人間が同じであろうと自分で想像もしたし、それが間違っていない確信もある。
 けれど。やっぱり。
 携帯電話の通話ボタンを押し、ポケットにしまいこむ。

 

――どうして今、そんなこと言ってくれるんだか。

 

 やはり自分という人間は相当浅はからしい。今にも逃げ出そうとしていた癖に、簡単な言葉を聞くだけで――それも他愛もない一言だけで、こんなにも心持が変わってしまうのだから。
 誰かのためになる。誰かに感謝される。それが『はっきりと』実感できる。結果が保証されたなら、表沙汰に感謝されなくとも自分だけが知っているというような、格好つけたシチュエーションだってありではないか。
 そんな軽薄なきっかけでも、一応決めたものは決めたのだ。軽薄故にまた揺らいだりしないうちに、伝えてしまわなければ。
 がらりと大窓を開け、テラス側からリビングへ顔だけを出した。こちらに背中を向けて料理を始めている人獣コンビへ声をかける。

 

「高町さん」
「ん?」

 

 光鎖を柄に巻きつけ、器用に中華鍋を振るっているシンの横で包丁を持ったまま、なのはが振り向いた。
 いかにも気合を入れて料理をしている一人と一頭には悪いかなと思いつつ、雄介は短く『答え』を口にした。

 

「――決めた。行こう」

 
 

 右端に雄介、中央になのは、そして左端にシン。2人と1頭は、連れ立って大通りをただ歩く。『表』ならばこの時間でも人通りも車通りも絶えずざわめきが溢れているところだろうが、『こちら』ではそういった人為的な動きや物音は一切ない。ただまばらに路上駐車がそのまま残っていたり、自転車が立てかけられていたりするだけだ。
 普通に動くのだろうか。壊れる様子からすれば、本物とそう変わらないようにも見えたが。

 

「――ぉ」

 

 益体もない事をぼんやりと考えていると、シンが何かに気づいたように声を上げた。
 顔を向けると、いかにもイヌ科らしい仕草で鼻を鳴らしたり耳をひくつかせたりしている。同じ方向に顔を向けたなのはがああ、と納得の声を漏らした。そちらに視線を向けるが――当然、雄介の目にはそれらしいものは何も見えない。ビルとビルで作り出された長い谷間が続いているだけだ。

 

「うぇ、なんかすごくおっき――違う? 小さい? あー……飛行型で、400くらい?」
「鳥だなありゃ。流石に人間素材は品切れか」
「『あの子』は、と……ん……んー? 先に数減らしたほうがいいかな。シン君、最適化レベルは?」
「4」
「ああ、じゃあ無理か……ん、反動制御お願い。私が撃つから」

 

 とんとん拍子なやりとりの後、シンがおもむろに背をのけぞらせた。その背に左手を乗せるように伸ばし、なのはも右つま先を中心にして優雅に回転する。
 ぽん、と黒い四足が軽く跳ね上がった――途端、圧倒的に重いはずのシンがなのはの左腕に『くっついて』、更に腕を軸にしたかのような不自然な後転をする。その一回転が終わった時には巨狼の姿はどこにもなく、代わりになのはの左腕に巨大な砲が装着されていた。

 

「お――おぉ?」

 

 コマ落としというしかない変形――どう見ても変身というカテゴリではない、もしかしたら変態というべきなのか――を目の前で展開され、思わず目を瞬かせる。
 自分の目がおかしいわけではないのだろうが、それでも『あるわけのない、途中経過の寸断された変化』を目の前で実行されると、どうにも違和感が勝った。
 黒光りする砲身を振り上げるなのはを、雄介は所在なげに眺めた。
 そのゴツさ、サイズ、見るからに砲。もう一度言うが『銃』ではなく『砲』だ。断じて個人が担いで使うようなレベルではなく、むしろ軍隊が車両に搭載して運用するような代物。
 質量がどうなっているのかとか、質量がそのままだとしても結局元があの巨大狼なのだから数百キロには達するだろうとか、その程度の問題はなのはとシンの前には些細なことなのだろう。
 鋼色の後部支持脚が重々しい音を立ててコンクリートを噛み、ぐいとなのはが体重を預ける。ややのけぞった格好になったなのはの目が、紫色に光りだした。

 

「『G.U.N.D.A.M』リンク開始――波形調整――接続、確認」

 

 なのはの左腕はシンの変形した大砲の中に完全に埋まっていて見えないが、左腕で狙いをつけているらしい。細かく砲口が動いている。

 

『チャンバ誘導、力場固定。粒子循環開始――確認。チャンバ構築完了。撃てるぞ』
「ん。三珠君、耳ふさいでて」

 

 がしゃがしゃと砲身の先、弾道を導くように多重反転するリングなどが回転するのは確かに複雑で、かつ高度な機構を思わせるが――なんとなく今までの彼らのイメージとは合わない気がした。必要以上に機械的というか、シンやなのはが最初に見せていた光の塊を操ってさまざまな用途を実現する能力と比べるとランクが低く感じるのだ。
 そう内心で首をかしげていると、なのはがおもむろに右掌、何も持っていない掌を前へ向けた。粒子状の細かい光が腕全体から染み出すように光り始め、さらに掌へと収束していく。砲は左腕にあるというのに、右腕で何をするつもりなのか――そう雄介が思っている間にも、どんどんと光は小さく、反比例してまぶしくなっていく。
 桜色をした、ソフトボール大の太陽とでも表現すればちょうどいいだろうか。まぶしさを感じさせるまでに強まった光を、なのははすいと掲げ。

 

「発射ぁ!」
「わぷっ」

 
 

 ボクサーのフックばりに、砲の基部へ手首ごと光を叩き込んだ。それをきっかけにしたかのように元シンの全体、部品の隙間を縫うように赤い光が走る。上部で縮んだ尺取虫のようなポジションになっていたシリンダーががしゃりと伸びた次の瞬間、元シンの砲口から轟音と共に赤い光弾が発射された。
 ぶわりと風が広がり、圧力が雄介の顔を叩いて去っていく。
 円状に白く空気を突き破り、ルビーのように輝く砲弾は残像を引き伸ばしながら一直線に空を駆け、あっという間に点のようになり――『何か』がいるのであろう遥か遠距離、雄介にもはっきり見えるか見えないかぎりぎりの上空で、弾けた。
 針状の子弾が全方位へ弾ける様子は、とげとげしい花火のようでもある。子弾が伸びる線上でいくつも燃え上がり焼け落ちる炎が瞬いた。あれがシンとなのはの言っていた飛行型という奴なのだろうか。
 それにしても――

 

「どんな爆発させて――」
「単純な拡散。んー、3分の2くらいかな。だいぶ落ちたよ」

 

 なのはの声と再びの金属音に目を向けると、シンが元の姿に戻るところだった。
 最初の変形をそのまま逆再生したかのような軽快な回転で着地したシンもぶるりと身を震わせ、成果を確認するようにビル街の向こうへ視線を飛ばす。

 

「じゃあ、始めよっか? シン君、周りはお願いね」
「ああ。雑魚は任せろ」

 

 何かを打つような音が小さく聞こえてきて、雄介は再度前方に視線を降り戻した。
 はっきり見える程度に近づいてきた、バケモノの群れ。空を飛ぶ小柄な連中だけでなく、以前見た獣のようなものの姿も見えてきている。
 一体一体が当然恐ろしい力を備え、更にそんなモノが群れを成して襲ってくる。
 正直言って、逃げ出したい。
 しかし、逃げるわけにはいかない。何しろ、雄介は選択を示してしまったのだから。
 目の前の一人と一頭――義理も義務もないのに死の危険と正面からぶつかる一人と一頭に向かって、少なくとも義理のある自分が逃げないと言ってしまったのだから。

 

「さて、と」

 

 シンが猛然と地面を蹴って駆け出すのに合わせてなのはが爪先を滑らせ、くるくると回転を始める。2重、3重と回転が重なるたびに桜色の光が散り、地面に残る軌跡は徐々に魔法陣の体を成していく。
 どう見ても足の軌跡と一致していない魔法陣を書き上げると、なのはは雄介を手招きした。

 

「三珠君、ここに座ってて。それで、絶対、絶ーっ対! 出ないこと」

 

 言われるままにあぐらをかいた雄介に人差し指を突きつけると、なのはは大きく息をついて襟元に手を突っ込んだ。タートルネックの奥から摘み出したのは血のような――まるで命そのものの赤に光を吹き込んだかのような、透き通った丸い宝石。
 光沢をついばむように軽く触れた唇が、歌うように言葉を紡いだ。

 

「イクイップ、バリアジャケット」

 

 なのはが言い終えた瞬間に現れた桜色の光は、瞬く間に集まり膨れ上がって光球になる。
 光球がなのはの姿をすっぽりと覆い隠して浮き上がり、そして現れた時と同じくらいあっという間に消え去った時には、なのはの姿は一変していた。
 後頭部の左右で揺れるツーテールと、白いリボン。
 青と白のツートンカラーに、水色のラインが入ったジャケット。
 しみひとつ無いミニのインナースカート。
 腰周りをめぐるように、4つ程のパーツに分かれた長いアウタースカート。
 変形であったシンとは違い、まさに華麗な『変身』を遂げたなのはは髪をなびかせて地面を踏みしめた。指貫グローブをはめた掌を、くいくいと感触を確かめるように握りこんでいる。
 散々異常っぷりを見せ付けられた後で今更感はあるが、これぞと言えばこれぞ。『まさしく物語の主人公に相応しい』現象だ。
 どこかセーラー服を連想させる造形といい、要所に配置されている赤色の宝石といい、一昔前に大量生産され、今は淘汰の進む『魔法少女』というジャンルを思い起こさずにはいられない。

 

――少女、だよな。多分。うん、多分。

 

 雄介の前に立ちふさがるように位置を取るなのははその程度の年齢にしか見えない。多分。

 
 

「――どっちかって言うと『魔女』のほうが無難、かな?」
「うぉ!?」

 

 声に出していない思考に言葉を返され、雄介は目を剥いてなのはを見上げた。
 顎に手をあてているらしきなのはの背中からは、その表情がどうなっているかはわからない。だがその声は平静そのもので、心を読むことがなんでもないとでも言うかのように――

 

「……ぷっ。やっぱりそう思ってたんだ?」

 

 そんな雰囲気をものの数秒で吹き崩し、なのはは笑って雄介を振り返った。

 

「あ、いや、えぇ?」
「ロードシルエット、アビス」

 

 心を読めるというわけでもないのか、だがそれなら何故そんな事を予想できたのかと雄介が混乱するさまを楽しげに見やると、なのははそのまま次の言葉、コマンドを口にした。薄青い光がなのはの肩から背中、そして脚に集まる。

 

「前にも言われたことあるんだ、それ」

 

 巨大な肩当と流線型の背甲、そして推進器のような膝当てを装着したなのはは、いつの間にか左手に出現していた長い槍、もしくは杖のようなものを器用にくるくると回す。
 それを見ていた雄介の頭上から、ばさばさと大きな何かが空気を打つ音が聞こえてきた、とほぼ同時。なのはの背後、雄介の眼前に、恐ろしく生々しい落下音と共に何かが降ってきた。
 絡み合うように落ちてきた二つの物体。ひとつはぼろぼろに傷ついた巨大な鳥のバケモノ。そしてそれを上から押さえつけるように落ちてきたこれまた巨大な獣――シンが、咥えていた丸っこい『何か』を軽々と噛み砕く。血液代わりの光る液体が飛び散り、遅れて落ちてきた赤黒い羽がふわふわと視界を横滑っていった。

 

「あ、シン君」

 

 巨大な牙と牙の間で水っぽい音と乾いた破砕音を同時にたてて噛み砕かれたものが何だったのかは、あまり考えたくない。
 液体にまみれた牙がごり、と擦れあわされて、その間から不機嫌な声が漏れた。

 

「何遊んでるんだ、お前ら」
「えへへ、大丈夫大丈夫。でしょ?」
「そりゃお前が言う台詞じゃないだろ……っと」

 

 言いたいことだけ言ってほとんど垂直に『跳んで』行ったシンを目で追って、雄介はようやく思い出した。
 バケモノ達の群れはすぐそこまで迫っていたのだ。
 シンはすさまじい勢いで左右のビルとビル、壁面と地面を跳ね回り、その群れをたった一頭で押しとどめていた。光鎖を長大な刃と化し、自身の突進と合わせることで一度の行程で数十体ものバケモノを切り裂き叩き落し蹴り飛ばす。
 バケモノ達の群れを縦横好きなように引き裂く姿は、まるで小型の竜巻だった。

 

「さて、と」

 

 雄介と同じようにそれを見上げていたなのはが視線を戻して呟く。

 

「じゃあ、私は下かな」

 

 軽く開いた両腕に反応するように両肩の肩甲が持ち上がり、正面に向けた内側から薄緑の光線が発射された。
 左右3本ずつ、6本の光線が空中で弾けて18本へ。18本が更にばらけて54本へ。網目のように無数に分裂した光線は左右に湾曲しつつ着弾した。万遍なく大通りに広がった着弾点は片っ端から爆発し、まばらな路上駐車やビルの窓ごとバケモノ達を吹き飛ばす。
 巻き起こる爆炎と熱風はビルにはさまれた通りを走りぬけ、堂々と立つなのはの髪をなびかせて雄介の顔を撫でていく。
 そんな破壊力を前にしても、いびつなバケモノ達はひるむことなく爆煙を突き抜けてなのはと雄介に殺到してくる。

 

「少ないんだけど――もう! 『установите элементы,взорвите』!!」

 
 

 一閃。聞きなれない一語と共に振りぬかれた杖の軌跡がざっくりと先頭のバケモノ達をスライスし、そして次の瞬間にはその切断面で桜色の光が爆発した。
 先ほどの光線と比べれば小規模だが、それでもわずかな傷をも致命傷にするくらいの破壊力はあるようだ。真っ二つにされたものは言うに及ばず、杖自体はかすった程度のバケモノ達さえ爆発でかなりの傷を受けて倒れこみ、あるいは吹き飛ばされた。
 突き出されたバケモノの腕をひょいと頭を傾けて避け、なのはが長大な刃――昔博物館で見た長巻のように、長い刀のような刃とそれ以上に長い柄の形に変わっていた――を思い切り振るう。
 斜め下に向かって振りぬき、ぐるりと背中を回して更に一閃。身体全体を使って描かれた軌跡を、再びの爆光がなぞった。
 雄介の頭上を刃が通り抜け、なのはの束髪も後を追って空を泳ぐ。
 肩甲の先をかすらせるように殴りつけて姿勢を崩し、本命の刃がバケモノの頭を切り飛ばした。
 切り倒したバケモノの背後から更に迫る爪や刃を肩甲がまとめて受け止め、そして弾き飛ばす。肩甲は相当な強度を持っているらしく、先ほどから見ているぶんには傷も歪みも見当たらない。
 動作そのものはさほどではない、と思う。少なくとも話によくあるような、『目にも留まらない』ものではない。
 バケモノが甲高い叫びを上げて振るった長い刃腕を、なのはの肩甲がつるりと受け流す。体勢を整える間もなく、その首は切り飛ばされて雄介の頭上を飛んでいった。
 速くはない。だが、的確だった。的確すぎるほど的確なタイミングで、的確な場所を、的確な軌道で刃が通り過ぎていく。
 台本どおりのスタントのように。
 演劇の殺陣のように。
 しかし見た目とは裏腹に、その結果は一片の虚構もさしはさむ余地はない。

 

「――せえぃ!」

 

 強く踏み込まれる左足。翻る光。切り飛ばされるバケモノ。一瞬遅れて弾ける音。
 ぎゃりん、と通り抜けた刃が路面を削り、桜色の炎壁がなのはの周囲を丸く走り抜けた。

 

「――」

 

 その光に照らされた横顔を。

 

「……っ――」

 

 唐突に、綺麗だと思った。
 勿論、今更いうまでもなくなのはの顔は整った造りをしている。だが単純に見た目が整っているとか、そういう意味ではない。
 視線を吸い寄せられる。すぐ目の前にバケモノ達がいて、それらと自分を隔てるのがたった一人の少女であるという状況だというのに。そのことを忘れそうになるほど彼女の一挙手一投足から目が離せない。
 今までの人生で一度も感じたことの無いその情動を、この時の雄介は表現する言葉を思いつかなかった。

 

 影の中でぎらつく紫色の眼光が、散り上る光に濡れて踊る髪が、そしてその手に握る刃が、雄介の視線を捕らえて放さない。
 何度も何度も、なのはは刃を振るう。縦に横に、滑る刃に吸い込まれるようにしてバケモノ達は切り伏せられていく。まるで――

 

――この刃に『殺されたい』?

 
 

 そんな異常な考えを始めている自分に気づくと、雄介はぶるぶると頭を振った。
 そういえば、と頭上を振り仰ぐ。
 変わらないといえば変わらない。随分と影の数は減ったが、黒い疾風が翼を持つバケモノ達を圧倒していた。
 上下を真っ二つに切断されたバケモノの身体が横に落ちてきて、光の粒子をぶちまけて砕け散る。
 数メートルと離れていない――が、今は気にならない。そんな『危険でないとわかったもの』ものより、見ていたいものがあるからだ。
 視線を戻す。垂直に振り下ろされた桜色の刃が、真正面から最後のバケモノを断ち割ったところだった。
 ほとんど勢いを殺さず通過した刃が、道路に食い込んできぃん、と火花を散らす。
 バケモノの中心線――切断面から噴出した光は、大きく身体を伏せたなのはに届く前に薄まり消えていった。

 

「ふ、う」

 

 なのはは息をついて身体を起こす。光が収まり縮んでいく長刀の背を蹴り上げ、くるくると回して短く持ち直した。
 改めて、深い呼吸。口元から細くたなびく白い息――寒いわけでもないのに、何故こんなにはっきりと見えるのだろう――の向こうに、薄くにじんだ汗が頬で雫になっているのが見える。

 

「……三珠君、大丈夫?」
「――ほぅぁ!?」
「あ、駄目!」

 

 気がついた瞬間、視界いっぱいになのはの顔が広がっていた。
 思わずのけぞり後ずさろうとして、襟首を掴まれる。首の関節がおかしな角度で曲がり、雄介の喉からにごった悲鳴が漏れた。

 

「もう。絶対出ないでって言ったでしょ、三珠君?」

 

 ぴしりと人差し指を突きつけ、次に地面を指差す。その仕草、態度は相変わらず男を男とも思っていない無防備さだ。
 今しがたまでバケモノ達に死を振りまいていたとは思えない、いかにもお姉さんぶった態度で『い続けていてくれる』ことに内心だけで安堵の息を漏らす。
 拠り所が――いつもと変わらない『基準』が――なければ、自分も飲み込まれてしまいそうだったからだ。
 『彼女』を取り戻すために自分はここにいるのに、その自分がこの異常に引きずられては話にならない。

 

「……うん、ごめん」
「ん、よろしいっ。じゃあ」

 

 腰に手を当ててにっこりと微笑むと、なのははおもむろに振り向いた。同時に肩や膝についていた鎧が光の粒子に戻り、散り消えていく。
 なんとはなしにその光の流れを見送り――目に入った。

 

「本番、だからね」

 

 大通りの中心。後ろ手を組んで歩いてくる、制服姿の『彼女』の姿が。

 

「……シン君、上のアレお願いね」

 

 なのはがぽつりと声を浮かべるのと同時。甲高い、そして耳をつんざく大音量の叫び声がビルの窓をびりびりと震わせた。
 座ったまま見上げ、雄介は目を剥いた。
 巨大なコウモリ、もしくは空飛ぶトカゲ。そんなような生物が、今まさにこちらに向かってビルの上空を飛んできていたからだ。
 路線バスの全長にも匹敵しようかという翼幅を持ち、体躯そのものも大型車くらいはあるバケモノ――むしろこのサイズになってくるとちょっとした怪獣――はあっという間にこちらへ近づいてくる。
 尖った印象を持つその顔がぐるりとこちらを向き、大きく口を開いて――真下から飛び上がった黒いモノにかち上げられて、強制的に閉じさせられた。
 顎を打ち上げられた勢いで縦に一回転する怪獣をよそに、時折血色の光をこぼしながらその黒いモノは逆方向の雷のように上昇していった。翼を打って姿勢を直し、怪獣は怒ったように真上を見上げる。暗い空に紛れてしまってもう見えないが、その先に先ほどの黒いモノ――シンがいるのだろうか。
 再び叫び声をあげてジェット機のように上昇していく怪獣もまた、みるみるうちに小さくなっていく。やがて空中で弾け始めた光や音を見送り、ふと雄介はなのはも『彼女』も同じようにシンと怪獣の空中戦を見物していることに気づいた。
 しばらくそのままでいた二人は、やがて同時に顔を戻す。
 先に口を開いたのは『彼女』のほうだった。

 

「ねえ、三珠君?」
「あ、ぇ?」
「答えちゃ駄目。『引っ張られる』から」
「――ねえ?」

 
 

 不満げに重ねられる呼びかけに、つい答えそうになるのをこらえる。『引っ張られる』というのが具体的に何を示すのかはわからないが、平気な顔をしてこの異空間に現れた時点で『彼女』がまともな状態でないのは確かだ。
 ならやはり、なのはを信じるべきなのだろう。自分が尻の下にしいている魔法陣を含めて。

 

「高町さん」
「……うん?」

 

 振り向いたなのはに向かって、頭を下げる。ただいるだけ以外にやれることと言えば、それくらいしか思いつかなかった。情けない話だが。

 

「あいつの事、頼むよ」
「うん、もちろん。お姉さんにおっ任せっ!」

 

 どこか嬉しげにウインクすると、なのはは左手に長巻を提げて『彼女』の視線から雄介を遮るように立った。
 顔は見えないが、不機嫌な『彼女』の声が聞こえてくる。

 

「三珠君、どうしたの? その子と……何かあるの?」
「へ? ……え、ちょ!?」

 

 いかにも含みのある言葉を投げつけられ、雄介は答えを探そうとして蹴躓く。そもそも答えてはいけないのだ。

 

「三珠君、『お前なんかと話をしたくないっ!』 だってさ」

 

 そんな事は言っていない。

 

「……邪魔するんだ」
「うん、邪魔するよ?」

 

 どう見ても怒らせようとしている気たっぷりの仕草でなのはが首を傾げる。数秒間の隙間の後、なのはが左手でくるりと長巻をまわすのと、『彼女』が両手を振り上げるのは同時だった。

 

『っ!!』

 

 二人が同時に無声の気合を発した。『彼女』は掲げた両手を思い切り振り下ろし、なのはは逆手に持ち替えた刃を振り上げる。
 『彼女』の頭上、空中からいきなり現れた無数の『ゆがんだ何か』となのはの手元から地上を走る衝撃波が激突し、金属のねじれ砕ける音が鳴り響いた。
 ばらばらと飛び散る歪みを跳ね飛ばしながら、巻き上げられたアスファルトやら土やら煙の中を『彼女』が突っ込んでくる。直接狙われているわけではない雄介が思わず腰をひいてしまうような形相を前にしても、なのはは大して反応を示さず足を踏み変えて待ち構えた。

 

「どいぃてぇっ!!」

 

 『彼女』が叫ぶと同時、今までのバケモノ達のように、その腕が長大な刃へぬるりと姿を変える。それでもって他人を突き刺すことに躊躇も見せず、恐れも見せない――そんな『彼女』の姿を、雄介は想像すらしたことがなかった。
 なのはも刃を水平に構え、突進を正面から受け止める。金属音が鳴り響き、二人は鍔迫り合いの形で止まった。

 

「……ああ、そっか」

 

 ぎりぎりと腕を軋ませながら、なのはが呟いた。目の前に刃が迫っているというのに暢気に首を傾げる。

 

「発想の元、そっちなんだ。じゃあ」

 

 ぱり、とどこからか音がしたような気がして、雄介はなのはの背を見上げた。音は不吉な予感たっぷり高まり続け、二つの長い髪束が心なしか浮き上がっているように見える。

 

「ちょっと意表つこっかな。目――」

 

 などとなのはが言っている内に髪束は本当に浮き上がり、あまつさえ白っぽい電撃さえ走り出した。
 それを見た雄介の胸に猛烈にいやな予感がよぎる。

 
 

「――からビーーームっ!!」
「はぁ? ぅわっ!?」

 

 雄介が素っ頓狂な台詞に首を傾げた次の瞬間、なのはと『彼女』の間で光が弾けた。いったい何を放出しているのか、まるで放水のように『彼女』の顔面に猛烈な勢いで衝突し飛び散る光流のまぶしさと激しさは、背後にいる雄介さえまともに目を開けていられないほどだ。
 意表をついただけでなくその圧力も相当のもののようで、初撃をまともに食らって仰け反った『彼女』はよろめき、逆にしっかりと踏ん張って顔を突き出すなのはの光流に徐々に押されて後退していく。
 たっぷり数秒の照射の後、雄介が押し込められている魔法陣と『彼女』との距離は再び20メートル近く離れていた。
 二筋の轍の先で頭を振る『彼女』をまっすぐ見据え、なのはは逆立っていた束髪をぱたぱたとはたく。
 殺意が周囲にまで漏れている『彼女』とは対照的に、その後姿はあくまで飄々としていた。決してふざけているわけではなく、しかし真剣というわけでもない。
 まるで戦うことそのものが当然、もしくは習慣であるかのように、何も気負った様子なくなのはは言葉を発した。

 

「ね、わかった? 三珠君に触りたいなら、私をなんとかするしかないよ?」

 

 そう言いながら、なのはは唐突に雄介の方へ振り向いた。右足を引きつつ手に持っていた杖をくるりと回す。血玉のような宝玉のはめ込まれたその杖を軽く掲げると、なのはは雄介となのは自身との間におもむろに突きたてた。

 

「うん、じゃあ」

 

 低いうなりを上げ始める杖を指先で撫でてまた振り向き、ぱしぱしと左拳と右掌を打ち合わせて『彼女』へ向かって手招きする。

 

「おいで。悪いもの全部、吐き出させてあげるから」
「っ……!!邪魔、邪魔、邪魔なの!」

 

 『彼女』がそう叫ぶと同時、周囲の物体――元の世界では路上駐車であった自動車や、戦闘でつぶされたスクラップ、街路樹やガードレールやその他が、無理やり引き抜かれるように軋み浮き上がった。
 ばらばらとアスファルト片や土くれ、もしくはそのものの破片を撒き散らしながら浮き上がったそれらは、なのはを中心に扇状に形をとった。
 念動力、という奴なのだろうか。いよいよもって幼馴染がどうにかなってしまった事を実感した。同時に、元に戻ってほしいという思いがはっきりとした形を成す。もしかしたら正常なまま、という可能性はこれでなくなったのだ。
 正面に浮きあがったバスがゆらりと動くと同時、変わらず雄介の前に立ちふさがっているなのはが呟く。

 

「あ」

 

 瞬間、ゴムに引き寄せられるようにして『真正面から、まっすぐ』バスが迫ってきた。当然、その軌道上には雄介もいる。そして雄介は今魔法陣の上に座り込んでいて動くこともできず、なのはのほうも自分だけならともかく、雄介を動かすわけにはいかないだろう。
 そんな事を雄介が考えている間にも、バスは視界を占領してなお大きく近づいてくる。

 

「っ……!!」

 

 なのはが覚悟を決めたように刃を振り上げたその瞬間、硬質な音を立てて『血色の光』でできた槍が降ってきた。何本もの槍は目の前に迫っていたバスを貫通して路面にまで突き刺さり、縫い付けられたバスは悲鳴のような軋みを上げて動きを止める。
 停止の衝撃でかろうじて残っていた窓ガラスが完全に粉砕され、ぶちまけたように白いガラス片が飛び散った。
 なのはが振りかぶった刃を振り下ろしてバスを一刀両断すると、光の槍は溶けるように形を失い消えていった。支えを失ったバスの断片が地面に落ち、騒々しい音を立てる。

 

「――ナイスアシスト」

 

 ちらりと上空を見て呟くと、なのははぐっと膝をたわませた。両足と地面の間に、桜色の光がちりちりと瞬く。

 

「フラッシュ・ムーヴ」

 

 結晶が弾けたような澄んだ音と一瞬の光が炸裂して、なのはの姿が消えた。一気に通った視線の先で、『彼女』もとまどったように視線を左右に振っている。

 

「こっちだよー」

 

 その声に振り向くと、雄介から見て右手の奥、『彼女』から数メートルと離れていない、浮き上がった車のひとつに立つなのはの姿があった。屋根の上に直立した格好のまま、自動車と同じ向きに傾いて平然としている。頭の上のツーテールだけは重力に従って垂れ下がっているのが、かえって違和感を強調していた。
 『彼女』もそれをただ見ているわけもない。手を振り上げるのに従って、周囲の車やスクラップが浮き上がった。
 なのはの立つ自動車を指差し、コントロールされたスクラップ達が加速を始めたその瞬間、光が弾ける。次の瞬間には、なのはの姿は別の瓦礫、新しく浮き上がったガードレールの上にあった。

 

「んー、惜しいね!」

 
 

 『彼女』がそれに気づいて振り落そうとガードレールを浮き上がらせた時には更に別のスクラップの上に。念動力はどうしても反応が遅いらしい。次々と音や光を放ちながら高速移動を繰り返すなのはを『彼女』の操るスクラップ達は捉えられず、中途半端に浮いたり動いたりしてはなのはの移動速度にかきまわされていた。
 あちらに現れては腕を組み、こちらに現れては手を叩くなのはの姿は全て雄介から顔が見える位置――つまり、雄介の方へは絶対に『弾』が飛んでこない位置を保っている。
 『彼女』のほうはそんな事に気づく様子もない。攻撃があたらない、むしろ攻撃の出鼻からくじかれていることにどんどんと苛立ちを強めているように見えた。

 

「~~~ッ!!」

 

 高々と『彼女』が手を振り上げ、強く拳を握りこむ。それに従って浮遊していたスクラップ達は一斉に中央、『彼女』の頭上へと殺到した。無論なのはを乗せたまま。

 

「っと」

 

 それでも当然のごとく身をかわし、なのはは靴底で地面を擦りながら着地した。
 身体を全屈させてスカートを払い、そしてひょいと左手を振る。
 ばちゅん、と音が弾けたときには、既になのはは左手の甲で光線を打ち払っていた。飛び散る青い光の粒子を振り払い、右膝を大きく振り上げる。紫色に輝く瞳がきゅ、とつり上がった。

 

「ふんっ!」

 

 頂点から右足が叩き降ろされた瞬間、とんでもなく硬い打撃音が響いた。ただの一撃でアスファルトの路面へ踵がめり込み、割れた欠片が弾き出されて宙を舞う。
 ちょうど胸の前で上昇を止めたひとつに対して、上腕で挟み込むように両腕を突き出し、なのはが口早に単語を並べた。

 

「誘導路、起電、磁界――GO!!」

 

 同時に凄まじい電光が走り、雄介の目を焼く。直後に破砕音。にじんだ視界には、なのはから『彼女』へ一直線に伸びていく青白い光が焼きついていた。

 

「へえ、身体も硬くなってるんだ」

 

 感心したような声を上げ、なのはは立てたつま先で路面をこつこつと叩いた。
 『彼女』は先ほどの攻撃を受けたらしい肩から煙を上げつつも、相変わらず憎憎しげな視線をなのはに向けている。
 しかし、今までの立会いでの力、あるいは技量の差は明らかだ。そもそもまともに攻撃を当てることすら、『彼女』には難しいように見える。
 このままいけば、すぐに『どうにか』なってくれるだろう。
 しかし、そんな雄介の甘い考えはすぐに否定された。唐突に『彼女』が頭をかきむしり、怨嗟に満ちた声を漏らし始めたからだ。

 

「大丈夫。因子で増幅されてるだけで、あの子だって本当――っ!」
『嫌だ。嫌だいやだイヤだいヤダヤダ……――オマエガ!』
「何……だ、あれ」

 

 その時に見た変化の様子を、雄介はただ眺めていた。眺めているしかなかった。『彼女』の頭上で団子状になっていたスクラップの群れにバケモノ達の欠片が更に吸い寄せられてがボコボコと泡だち、片端から不健康なピンク色と青い血管のような筋が絡み合った肉の塊に『変化』していく様など、どうやって表現すればいいか見当もつかない。
 ぞぶり、と『彼女』がそれに飲み込まれた――というより入り込んだのを見ても、それこそ沈黙している以外に何もできなかった。

 

「最適化レベル――は、駄目か」

 

 『彼女』を内に収めた途端ぐねぐねとうごめき始めた肉塊を他所に、なのはは何かを確認してため息をついた。
 ぐい、と両手を頭上に上げて伸びをすると、両肩を払って姿勢を下げる。持っていた長巻は、いつの間にかどこかへ消えていた。

 

「ごめん、三珠君。ちょっときついかも」
「どうしたら、いい?」

 

 聞いたところで答えはわかっているが、聞かずにはいられない。

 

――ああ、くそ。

 
 

 こんな状況でどうすればいいのかなど、考えてわかるほうが常識外なのだろう。逃げ出さずにいられるだけでも割と高得点なのではないか、などと自分を慰めてみるが、しかし自分の無力さに悲しくもなる。
 理屈ではないのだ。目に見えなくとも、とか、直接は何もできなくとも役に立つ、とかそういった奇麗事が本当にただの理屈でしかないことを、今ほどはっきりと認識したことはなかった。

 

「そこにいて」
「……わかったよ」

 

 予想通りの答えに予定通りの返答をして、雄介は自分が座っている魔法陣をみやった。動くことはできないし、何かアドバイスができるわけでもない。実は暇、と言えるかも知れない。じっくり見ると、その線を構成する光は様々な色がめまぐるしく混ざり合い、分かれを繰り返している。
 改めて見ても、これが一体どういう機能を果たしているのか想像もつかない。気にしたところで仕方ない、のではあるが。

 

「ふー……さて、と」

 

 肉塊が光る液体を噴出しながら形を変えていくのを、なのはは突っ立って眺めている。

 

「高町さん」
「うん?」
「気をつけて」
「ん!」
<あ、AAAAAあぁあ゛あ゛あ゛っ!!>

 

 横顔のまま振り返らず、ぐっと親指を立てるなのはの正面で、元『彼女』――の、巨大な肉でできたボールのようなバケモノが濁った咆哮を上げた。

 

「うわっ」

 

 びりびりと顔を叩く振動に、思わず耳をふさぐ。象の体躯ほどあるボールの一部から触手が数本延びており、一際太いものの先端に口がついているようだった。
 それ以外は比較的細い、とは言っても周囲との対比からすれば直径10センチメートルはある。当たれば鞭どころの威力ではないのは明らかだ。
 先ほどまでの包囲攻撃に比べればマシなようにも思えるが、なのはが『きつい』と言ったのは何を指してのことなのだろう。

 

<ギ>

 

 ひゅるひゅると長く伸びた触手が一瞬震え、ぞぶりと死神の鎌のような刃が生えた。一瞬目を疑うが、触手の直径をはるかに超える刃渡りの刃は何の不自然さもないというかのように当たり前に触手の先から顔を出していた。
 ぶつ、ぶつんと肉を裂く音が連続し、全ての触手の先端から同じように刃が滑り出てくる。

 

「一応頭、下げててね」

 

 そして、なのはは一切恐れることなくそのバケモノ――バケモノだ、少なくとも今の見た目は――へと向かっていく。どこからか取り出した長巻の刃を思い切り振りかぶり、触手へと叩きつける。
 一本の触手が難なく断ち切られるが、たかが一本。今なお次々に生えてきている触手は、断ち切られてもどんどんとなのはに迫っていく。
 それでも、旋風と化したなのははそれら一切を近寄らせない。切り上げ切り下ろし振り回し、止まる事無く動き回りながら拮抗していた。
 なのはがくるりと足を踏み替えた場所に触手が突き刺さり、身をかわした空間を触手が貫く。圧倒的な数をもってしても、瞳を紫色に光らせるなのはの身体を捉えることができていない。

 

<………………!!>

 

 実際にどのくらいの時間が経ったのかはわからない。まったく変化を見せない状況に苛立ったのか、突然触手の振り回される範囲がなのはを狙ったものからがむしゃらなものに変化した。
 駄々っ子の腕のようにでたらめに振り回される触手は、先ほどまでとは打って変わって範囲内の全てを粉砕していく。アスファルトにクレーターが出来、荒れ狂う打撃に飲まれた街路樹がずたずたになっていく様子がひどくはっきりと見えた。

 

「……!」

 

 ちりちりとした不吉な感触。近づいてくる風切り音。視界の端――横で粉砕されたアスファルト。つまりそれは、自分が範囲に入ってしまったということで。

 

「!」

 
 

 まさに瞬きの間。ジグザグに残像を引きずりながら滑り込んできたなのはが触手の先の刃を受け止め、そしてその腕に別の触手が絡みつく。
 その二つは、雄介が動くこともできない一瞬の間に起こったことだった。

 

「しまっ……!」

 

 言い切ることすらできず、なのはの身体が引き抜かれるように振り回された。ショーウィンドウを粉砕してビルの中に突っ込み、街路樹に叩きつけられ、最後に高々と振り上げられる。

 

「がはっ!」

 

 しまいにはアスファルトにひびが入るほど叩きつけられ、なのはが声を漏らす。咳き込むなのはを大きく放り投げ、バケモノは身体中を震わせて笑ったようだった。

 

「――っ!」

 

 右手でざりざりと地面を掴み、転がりかけたなのはの身体は雄介の目の前で止まった。
 起き上がるなのはを見て、雄介は息を飲む。
 先ほど『彼女』に掴まれていた右肘から先が、本来曲がってはいけない方向――背中側に曲がっていたからだ。
 白い衣装はあちこち煤や砂、血で汚れているが、それでもなのはの眼光は衰えていない。とはいえ、片手が折れてしまっていては先ほどまでのような戦いは無理だろう。

 

<いい、気味>

 

 ずるり、と周囲の空気が引き込まれるような嫌な感覚。
 視線を上げると真正面、やや遠くに立つバケモノから無数の腕が生えてくるところだった。腕の群れはぎちぎちと螺旋を描き、なのは――そしてなのはの後ろにいるこちらに迫ってきていた。

 

「あ――」

 

 腕。枯れ枝のように細い、人間の腕である。それがわらわらと球体の表面から生え、絡み合い広がりながらなのはを掴もうと伸びてくる。雄介が背後にいるせいか、なのはは避けることもできず腕の群れに押し流され掴み上げられた。

 

「ぐぁ……!」

 

 手足や首を締め上げられ、なのはが濁った苦鳴を漏らす。ぎりぎりと骨が軋むような音と共に、なのはの身体から少しずつ力が抜けていった。

 

「が、は」

 

――駄目だ。

 

 このままではなのはが死んで――『彼女』がなのはを殺してしまう。
 そんな事をさせてはいけない。そんな事は認められない。自分は、こうなるのが嫌でここに来たのだ。自分が望んだのは、欲しいと思ったのは。

 

「駄目だ!」

 

 『彼女』を取り戻すことなのに。

 

「返せ」

 

 どうして、こんなことになる? 誰のせいで、こんなことになる?

 

「返せよ」

 

――どこの誰だか知らないけど。返してくれよ、あいつを!

 

「……シン、君」

 

 ぽつり、と呟かれた名は、なのはの最期の言葉なのだろうか。
 そんなことを考えた瞬間。

 
 

「うわっ!?」

 

 腕の束に、血のように赤い光輪が噛み付いた。丸太をチェーンソーが切断するようにあっという間に腕の群れを切り飛ばし、掴まれていたなのはが投げ出される。
 物凄い速度で回転する光輪は一旦勢いのままに抜けていくと、軌道を変えて今度は正面、なのはの頭上から腕の群れに激突した。
 後から後から追加され、広がって掌で掴みかかる腕たちを真っ向から削り、光輪はなのはの側から腕の群れを押しやるように少しずつ進んでいく。

 

「げほっ。ソケット確保、アーカイブ解凍……痛っ。最適化シークエンス進行度を確認――」

 

 喉を押さえて咳き込んだなのはがゆっくりと立ち上がり、なにやらぶつぶつと呟き始める。

 

「――よし……って、あれ? ああ、そっか」

 

 途中で気がついたように折れた右肘を見やると、それがスイッチにでもなったかのように、折れたあたりに円盤状の光が浮かび上がる。読取装置のように光が腕をなぞると、あっという間にねじ曲がっていた腕が正常な向きを取り戻していった。
 具合を確かめるように手のひらを握り開きを繰り返し、なのはは大きく両手を打ち合わせる。

 

「いいよ、シン君。やっちゃって!」

 

 瞬間、血色の光輪が一際高く吼え――圧力の均衡が崩れた。

 

「お、おお!?」

 

 じりじりと動いていた接触面をあっという間に押し込み、血色の切断光輪は腕の群れをさかのぼって切り裂いていく。
 一度勢いがつけば、もう止まらない。抵抗むなしく腕はすべて切り裂かれ、バケモノの姿が再び見えて。

 

<――っ!?>

 

 もはや勢いを殺すことすらできず、その体躯が斜めに切り裂かれた。果物にナイフを入れたように光る液体が噴出し、触手の先の口が苦悶の声を上げる。
 そのバケモノの正面に、なのはがすっくと立っていた。両拳を突き出すと、桜色の光が湧き出してなのはの拳を包み込む。
 すう、と大きく息を吸ったなのはは、恐ろしく力のこもった声で叫んだ。

 

「コード・リリース!」

 

 なのはの両手に灯っている桜色の光球の上に、更に赤い光が『被さり』、勢いを増した光が炎のように揺らめく。
 最後の一歩を踏み切ったなのはが空中で大きく身体を捻って両手をたわめ――ちらりと見えたその瞳もまた、赤紫と藍の二重色に発光していた。

 

「っでぇぇいっ!!」

 

 ぞぶり。そんな生々しい音を立てて、なのはが縦に広げて突き出した両手がバケモノの肉にめり込む。抵抗などさせる間もなく、許す暇すらなく、指が掌が手首が埋まり、バケモノが耳障りな悲鳴を上げてぐねぐねと悶え――

 

「見ぃつけたぁっ!!」

 

 会心、といった風の叫び。なのはの両手が思い切り引き抜かれ、バケモノの肉がごっそりと引きちぎられる。
 よほど弱くなっていたのだろう、その塊自体から遠心力で肉片や液体が飛び散っていく。ボトボトと落ちていく嫌な色の奥にちらりと見えた白い肌――見覚えがあるように見えて仕方ない腕が目に入り、雄介はびくりと顔を上げた。

 

「……!!」

 
 

 何故かは、わからない。バケモノの死体も混じってできたあの肉塊に、他人の死体が入っていたという可能性だって十二分にあった。道理も通らない。そもそも腕の一本を見ただけで個人を特定するなど、写真が手元にあってすら難しいことだ。
 だが、雄介はその時確信していた。その腕が自分の目的――『彼女』のものに間違いないと。

 

「高町さん! それ――」
「……うん、成功。三珠君も頑張ったね」

 

 急速に崩れていくバケモノの死体を背に、なのはは『彼女』を抱きかかえて手早く肉片を払っていく。『彼女』の顔が見えてきたとき、雄介はとうとう我慢できずに駆け出した。
 一緒に膝をつき、『彼女』の髪についた液体を肉片ごと払う。粘着質な感触が手にまとわりつくが、そんなものはどうでもいい。

 

「ああ、本当だ。本当に――」

 

 『彼女』がいる。
 ここに、いる。
 変わりなく、バケモノなどでもなく、ちゃんとした人間の姿でここにいる。
 この上なく望み通りになったことが、とてもとても嬉しかった。

 

「――良かった」

 

 きつく『彼女』の裸体を抱きしめ――ふと我に返る。

 

「……どぉっ!?」

 

 裸。ハダカ。HA・DA・KA。少女の柔肌を思い切り抱きしめて密着していた自分に驚き、放そうとしてそれでは『彼女』が地面に落ちるからと思い直し、にやにやと見ているなのはに気づいて耳まで赤くなる。
 ずどん、という音にびくりとして振り返ると、黒っぽい色をしたなんだかよくわからないものの欠片が落ちていた。断片からにじむ光る液体で、シンが上空に連れて行った飛行型のバケモノのことを思い出す。

 
 

「まったく、冷や冷やさせる」
「あ、シン君――いたっ!」

 

 久しぶりに聞いた気がするシンの声に振り返ると、心底うんざりした表情を浮かべてなのはの頭を甘噛みしていた。後ろから上あごを乗せられて毛皮を被ったような見た目になっているなのはが、ごまかし笑いを浮かべてこちらに振り向く。

 

「じゃ、三珠君」
「ん?」
「本当、お疲れ様。ごめんね、私達はまだ後始末しなきゃいけないんだ」

 

 後ろ手を組んで微笑むなのはの顔にも、流石に疲れがにじんでいた。

 

「その子、よろしくね?」
「あ、ああ。うん……うん?」

 

 笑顔と共に投げつけられた台詞に首をかしげつつも、『彼女』を背負う。
 とにかく、今は『彼女』を取り戻せたことを喜んでおきたい。
 なんとなくこれが最後の会話になるような気がして、雄介は必要な一言を忘れていることに気がついた。

 

「っと、そうだ」
「うん? 何?」

 

 体重を支える手の位置に四苦八苦しながら、雄介は万感の思いと共に言葉をつないだ。

 

「ありがとう、高町さん」
「――ん、どういたしまして!」

 

 晴れやかな笑顔に見送られ、雄介は歩き出――そうとして、ふと浮かんだ疑問と共に振り返った。

 

「あれ、どしたの?」
「いや、どうやって帰ったらいいんだろう? ここ」

 

 そういいながら、ひび割れた夜空を見上げる。忘れていたが、ここは『異世界のような場所』だ。最初に閉じ込められた時と同じく、出口でも作ってもらわなければいけないのだろうか。

 

「適当にGOGOGO! 頑張って青少年!」
「え!?」

 

――そりゃないよ。

 

 ずびしと親指を立ててみせるなのはの姿。戦っていた最中とまったく同じジェスチャーだというのに、どうしてここまで違うのか。
 あきれたような笑いたいような微妙な気分を抱えつつも、雄介は『彼女』を背負いなおして歩き出した。
 その言葉は疑いなく信じてもいいと、そう思いながら。

 
 





 
 

「――ん、行ったね」
「ああ、行ったな」

 

 あちこちにできたクレーター、哀れな元・自動車や元・街灯がぶすぶすと煙を上げる異世界の大通り。雄介を無理矢理に送り出したなのはとシンは揃って首を曲げ、『彼女』を背負った雄介のふらつく後姿を眺めていた。
 その姿が角を曲がり、見えなくなってから数秒後。なのはがふう、とため息をつき。

 

「ぉぷ」

 

 ぽたり、とその足元に血の雫が垂れた。

 

「ったく。馬鹿が」

 

 垂れる程度だった血はあっという間に小さな池を作る程に流れ出し、なのははよろめきながら口と鼻を押さえた。押さえた指の隙間からも溢れ出す血はとどまるところを知らず、傍目にも危険な領域に達しようとしている。
 しかしそれが何故なのか、何なのかをわかっているシンは取り乱すこともなかった。素早くなのはの背中側にもぐりこみ、力を失った細い身体を支えてやる。

 

「……流石にな。やめろ、って言いたいんだけどな」
「ん、にはは。やぁっぱりまだ『アレ』やるのはちょこっときつかったかにゃぁ、にゃーんて――ごぽっ」

 

 にゃー、などとやたら可愛らしく口走った直後に生々しい吐血音を聞かされて、シンはますます顔をしかめた。細く延ばした光鎖の先で空中に複雑な陣を描きながら、気を取り直して口を開く。まったく綺麗な顔してるってのに、それを大事にしないのは――ああ、俺のせいか俺のせいだなクソッタレ。

 

「今、あいつが『出た』のを確認した」
「ん」

 

 かくんと力なくなのはが頷き、そのまま数秒間。眠り込んでいるような格好だったなのはが気だるげに顔を上げると同時、二人の数メートル手前で崩れ去っていた元『抗体』が、べきべきと奇妙に硬質な音を立て始めた。
 潰れたスライム、といった様子だったそこから結晶体が一瞬で立ち上がり、そしてそれを待っていたかのように、鼻から下を血に染めたなのはが赤紫に光る視線を向けた。
 あっという間に伸びて広がり、凄まじい速度で見上げるような大きさになっていく結晶を前にして小さく、しかし確実な発音でつむがれたのは『彼女』を引きずり出した時と同じ、『世界を否定する言葉』。
 言葉であること自体に意味はない。作り出された音にも意味はない。本当に必要なのは、それらを導く元、なのはが紡ぎ、運命をも彼女のものとする意思そのものだ。

 

「――接続。測定・観測・選択。招来、『意識融合体ミネルバ』」

 

 コマンドを認識。機能モジュールの起動。シンの中のレイジングハートはいつも通り速やかにデータを処理し、結果を算出する。
 瞬間、ずしんと周囲が揺れた。上空に文字通り出現した巨大な物体が空気を押しのけた圧力差が万遍なく地面を叩き、血溜まりに波紋を作った。月明かりを反射していた結晶体の面がふ、と暗くなる。月光が『何か』――上空に出現した、やじりのような形をした物体によって遮られたのだ。
 なのはに呼応するように血色の瞳をらんらんと光らせてシンが立ち上がり、今まで支えていたなのはをゆっくりと地面に横たえる。その間激しくなる、空気が押しつぶされ押しのけられ続ける落下音の中でも、シンの背中から伸びた4本の光鎖は精密に動き続けていた。

 
 

「よし、と」

 

 先程まで描いていた魔法陣の最後の一画を書き加えた瞬間、大きくなのはとシンを囲む円の外周から、薄く透き通る血色の光粒が壁となって立ち昇った。完全指向性をもつ一方通行のカプセル型防壁が隙間なくなのはと自分を囲んでいるのを確認し、イライラを抱えたまま歩き出す。

 

――世界を、事象を、全てを否定するこの力は、人に託すためにある。

 

 そう。この力は、『託す』ために。
 自分の存在意義こそが気に入らない。ぎり、と噛み合わされた牙が軋んだ。あまりいい音ではないが、気になることもないだろう。何しろなのはは見てのとおりの状態な上に、周囲には轟音がひっきりなしに降ってきているのだから。

 

「もういい。馬鹿は寝てろ」
「あ痛っ。ひっどいなもぉ……あー。でもうん、打ち止め。すっごい辛いや」

 

 お化け屋敷に出てくる幽霊のような顔で笑うなのはの頭を鼻先でもう一度突付き、シンは今度こそ防御壁の外へ踏み出した。そのままなのはを守るように結晶体との間に立ち塞がる。

 

「ま、後は任せろ」
「うん。お願いね、『私の』シン君っ」
<やめろバカ。恥ずかしい>

 

 なのはに言われた直後、『人間の10倍はある鋼の掌』が防御壁ごとなのはを優しく包み込む。掌から埋まりこんだそれが完全に体内に収まったことをステータスで確認すると、シンは『メインカメラ』を結晶体へと向けた。既にその身体は鋼の巨人――モビルスーツを基とした形態へ変化を遂げている。
 後部カメラでミネルバの船体が順調に落下を続けてきているのを確認すると同時、眼前の結晶体が粉々に砕ける。地響きを立てて突進してくるその『中身』を確認すると同時、シンはこっそりと呟いた。

 

<……ああ、クソッタレ>