運命のカケラ_短編その9

Last-modified: 2011-03-20 (日) 00:41:57
 
 

<くっ……ぐぬぬぬ…っ!!>

 

「もう、シンちゃんてば普段は聞き分けいいのにどうしてお風呂は駄目なのかしら……ほーらっ!」

 

 必死に両前足で踏ん張り、無駄な抵抗を試みるシンの両後ろ足を掴んだ桃子が、声と共に再びそれを引っ張った。
 爪を立てればもう少し抵抗もできようが、シンは床を傷つけることを嫌ってそれをしない。結果小さな肉球の摩擦力のみを頼りに桃子の腕力へ対抗しなければならず、今のところシンは桃子を相手に連敗記録を更新中だった。

 

「ちゃんと洗わないと、駄目、です、よっ!!」

 

 あおん、と悲しげな声と共に、シンの身体がずるずると滑り始める。一度崩れた均衡を取り戻すことはかなわず、かくしてとても賢いとご近所にも評判のウルフドッグ(推定)は風呂場へと拉致されていった。

 

「いってらっしゃーいー……っと」

 

 何度も続く光景にもすっかり慣れたなのはは手を振ってシンを送り出すと、さてととベッドに座り込んだ。
 両足を引き上げ、窓のほうを向いてベッドの上にぺったりと座り込んだ形になる。
 なんとなく扉のほうを向いて静かであることを確認すると、こっそりと――誰がいるというわけでもないが――あくまでこっそりと、なのはは胸元からレイジングハートの端末、紅い宝玉を取り出した。
 シンがいないうちに、一度やってみたいことがあったのだ。
 きっかけは、先週見た『夢』だ。普通に見る夢との境界はあいまいだが、なのははシンとの接続のせいか望むと望まざるとに関わらずシンの記憶を夢で垣間見ることがある。ほとんどが不快な、あるいは胸を締め付けられるような記憶なのだが――その時は、違った。
 皺のよったシーツを背景に、視界いっぱいに広がるのは美由希と同じか少し上程度の年頃の、赤い髪を持った女性の顔。今まで見たことも、考えたことすらないような複雑な表情をしていた。
 痛いような、嬉しいような、悲しいような、そんな全てが入り混じった表情で涙を流し、叫び、歓喜の声を上げていた。
 暗い照明の中に、一つになった二人分の影が写る。密着する肌は露で、ベッドが軋むたびに汗が飛び散り、そして――

 

「~~~っ」

 

 感触そのものは共有できず映像を見ているようなものだったが、アレが何だったかはなのはも知識として知っている。

 

――セ、セッ……セッ……セック…………え、えっちなことだよね、あれ。

 

 えっちなこと。いけないこと。好きな人とすること。桃子から聞いた内容や授業の内容がぐるぐると脳内を駆け巡り、それを自分に当てはめて考えるたびに腰と尻の間くらいの位置に奇妙な空洞感が浮いてくる。
 それをどうにかしたい。どうにかしなければならない。よくわからない本能的なものに突き動かされ、なのはは考えをめぐらせた末に一つの結論に辿り着いた。
 似たようなことをしてみればいい。真似をしてみれば、何かわかるかも知れない。
 さりとて、これが『いけないこと』である以上、家族やシンの目がある場所でやってはいけない。それよりも、シンに見られでもしたら恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
 故に、なのはは待っていた。いつもそばにいるシンが問答無用で桃子に拉致されるタイミングを。
 時は今だ。やるのは今だ。
 何度も宝玉を見つめ、踏ん切りがつかずに仕舞いなおし、また取り出しては見つめを繰り返し。時間を無駄にはできないと考えていたのに、どんどんと時間は過ぎていく。
 ふと目をやった時計の分針が驚くほど進んでいた事に気づき、なのははぎゅっと目を閉じた。

 

「……っ!!」

 

 幾度もの葛藤を乗り越えたになのはは大きく息を吸うと、いつものように宝玉に口付けてコマンドを口にした。

 

「――セット、アップ」

 

 瞬時に魔法陣が現れ、宝玉の周囲を取り囲む。1秒もしないうちに弾けた光から現れた杖、レイジングハートとしての外装を、なのはは危なげなく受け止めた。
 服まで変化させる必要はない。今欲しいのは、この外装だ。ただし今回の使用目的は、これの本体であるシンが想定しているものと大分異なるのだが。
 ごくりと唾を飲み込み、なのははシンの瞳に似ている宝玉を覗き込んだ。
 外装の赤い宝玉に自分の姿が写っている。正面をいびつに引き伸ばされ、自分がどんな表情をしているかはよくわからない。
 心音が耳の中で鳴り響く。勝手に皮膚が開いていくような感触と共に、暑くもないのに額に汗が浮かぶ。
 『これはいけないこと』という漠然としているくせに強固な枷を振り切るように、なのはは思い切って舌を伸ばした。

 

「――んっ」

 

 ぴちゃ、と唾液の音が部屋に響く。思ったよりも大きく響いた気がして、なのはは慌てて周囲を見回した。

 

「…………」

 

 窓から見える青空、薄く陰のさした室内、シンの寝床として置いてある毛布。どれも、何の変化もない。いつもと変わらない、のどかな午後である。

 

「……ふぅ」

 

 誰かが見ていたりするはずはないのだが、何故か周囲を気にしてしまう。これがあまり褒められた行為ではないことを知っているだけに、ちょっとしたことでも気になって仕方がないのだ。
 ……しかし、それで止めようとは思わない。思えない。
 初めての行為への背徳感も勿論ある。夢で垣間見た、『本物』への好奇心も勿論ある。だがもっと根源的に、行為への欲求があった。シンに取り込まれた時かそれとももっと以前、血の臭いがするシンの背に顔を埋めていた時か。
 いつからなのかは覚えていないが、今の自身の中にどうしようもない欲求が芽生えていることを、なのはは今はっきりと自覚していた。

 

――もっと。

 

 ベッドの脇に置いてある毛布に手を伸ばすと、鼻を埋める。シンの特質からして体臭が残っているは思えないが、それでもどこか『シンの臭い』を感じられる、気がする。

 

「はふ」

 

 毛布を太ももの上に置き、外装を抱きしめた。もっと舐めたい。この形を覚えたい。臭いが欲しい。より明確に形を成してきた欲求――欲望に引きずられるように、なのはは再び外装を抱きしめ、宝玉に舌をつけた。

 

「ん、ふ」

 

 三日月のような形をした部分に手をかけると、顔にくっつけるまで引っ張る。宝玉を半ばまで頬張ると、口の中でその丸い端を舌先でちろちろと擦った。
 もっと近くに、もっと深くに、この身体全てで。
 既に密着しているというのに、後から後から湧きあがる欲望は際限なくなのはの脳を侵していった。
 三日月に沿って舌を這わせながら、手をかけていた部分を肘まで抱え込む。
 垂直に立てていた外装を少し奥へ寝かせ、胸元の中央を当てるようにして擦り付ける。
 段々と上体を外装に預けていったなのはは、しまいには外装の石突近辺にほとんど乗りかかりながら両太ももの付け根で毛布と石突を強く挟み込んだ。
 あの時の、力強い硬さ。
 あの時の、暴力的な動き。
 あの時の、心まで染め上げられそうな赤さ。
 あの時の、深い深い血の味。
 耳も、口も、鼻も、目も、そして身体も、心すらも全て染め上げられていく、あのうねりが忘れられない。

 

「ふ、ぅ……くぅん」

 

 一つの姿は、血の大河のような意志の群れ。無数に伸びる暴力的な速度と圧倒的な質量で、なのはの精神などは触れればあっという間に押し流されてしまう。
 シンに取り込まれた――『食われた』時に、一番最初に触れてしまったのがこのシンだった。結果的に自分は……あまり思い出したくもない。だが。
 あの時の、全てを塗りつぶされる、満たされる感触は鮮烈に焼きついている。身体にも、心にもだ。
 水面へ放り投げられた布に水が染み込むように内外が染められていき、そして染め上げられた末に全てが溶ける感覚。シンの意志という海の中に、自分が溶かされていくあの感覚。

 

――わたしとシン君は同じ。一緒のもの。

 

 シンの内側にある『世界』での出来事を通して、なのはとシンは非常に強いリンクを得た。なのはが意思を伝え、魔力を供給し、シンが演算し補助して共に活動する。文字通り『二人で一つ』にも近いことすら可能だ。

 

 一つの姿は、黒い毛並みの狼。最初に世話になった獣医が言うには、逆立った喉の毛なみや頭骨の形といった特徴的な構造が犬とは違うので少なくともウルフドッグ、らしい。勿論本当のことを言えば、シンは犬でも狼でもどちらでもないのだが。
 喉まわりの毛は手触りが気持ちよい。耳は少し硬く、こりこりとしている。太い骨格を力強く弾力のある筋肉が包み、そして収納式になっている足の爪はまっとうな動物ではあり得ないほど鋭い。カッターナイフ代わりに使えた時は流石に笑うしかなかった。

 

――いつも一緒で、気持ちがよくて。

 

 普段、つまりは一緒にいる中で、最も長い時間シンがとっている姿。
 自分が顔を埋めたり、撫でたり――つまりは普通のペットと変わらない扱いをしている姿。

 

 一つの姿は、鋼の巨人。レイジングハートとしての姿の中でも特に古いもの、とシンが言っていた。灰に近い白色を基本に深い青が入り、背中に紅い翼を持った、血の涙を流しているかのような顔をした巨人。たった一振りの長刀だけでバケモノを駆逐し、戦闘機をなぎ払い、自身を遥かに上回る巨大な戦艦すら切り砕く鋼の戦士。
 なのはが知らない間にも戦い続け、最後には片手片足を粉砕されても立ち上がった姿は今もまぶたの裏に浮かぶ。その手に載せられていた時の安心感、巨大な存在感は――なんだろう。家族、特に兄や父親に感じるようなものに似ているような気がするが、少し違う。憧れる、というのが一番近い気がする。
 深い感謝と、そして頼りたい欲求。なのはの願いのために『ボロボロになってくれた』シンという存在は、今ではなのはの中に深く根を下ろしていた。
 精神的な意味だけではなく、身体的――存在的にもだ。
 乾いた旅人がわずかな水の雫を求めるように、なのははますます行為に没頭していく。抱きしめた腕をも擦りつけ、自分の唾液にまみれた三日月に頬擦りし、もじもじと太ももを擦り合わせた。
 足りない。足りない。足りない。
 いつまで経っても、何度舐めてみても満たされない。『これでいい』と思えない。こんなものでは満たされない。棒の部分を抱きしめ、胸の間に外装の握り部分を擦り付ける。満たされない。もっと強く、密着するように太ももで外装を締め付ける。満たされない。
 もっと違うものがいい。本物が欲しい。もっと。もっと。もっと。
 虫の鳴き声のようにうずく腹の奥の何かが、早鐘のように心臓の音が鳴り響く頭の中が、自分のもっと奥に、もっと下にあるものが欲しいと言っている気がする。
 混濁した思考では、それがよくわからない。下――どこの? 自分の? それともこの外装の? 本物なのだから、シンの?
 混濁しているなりに今あるものへ思考を当てはめたなのはは舌でなぞる位置を少しずつ下へ、薄く唾液を引きながら――
 頭の位置をずらそうと、身体を前に折り曲げた瞬間。

 

<あーくそ、酷い目に――>

 

 なのはの背後でがちゃりと部屋の扉が開き、前足で扉に寄りかかるようにしていたシンが入ってきた。

 

「ひゃわぁあぁぉああ!? っぐきゅ!!」
「っ何だァ!? 何やってんだお前!?」

 

 なのはは奇妙な体勢に身体を折ったまま飛び上がり、つぶれた悲鳴を上げる。前傾して外装に絡むようにしていたため、世にも珍しい『直線の棒にコブラツイストを受けている』ような状態で固まってしまった。
 部屋に戻ってくるなりそんなものを見せられたシンが思わず『声』でなく音としての声を出してしまっても、それは仕方ないことだろう。
 シンが慌てて近づいてくる足音を聞きながら、なのはは二種類の恥ずかしさで死にたい気分を味わっていた。

 

「――……ふがっ?」

 

 びくん、と身体が痙攣したのを感じ、なのはの意識はふわりと形を取り戻した。暗い。静かだ。少し寒い。はっきりしない頭のままで首を起こし、周囲を見回して、ああそうかと状況を理解する。
 夢、だ。
 まだ暖かかった頃の出来事を夢に見ていたらしい。
 カーテンの隙間から見える空は完全に夜、空気も暖房が切れていたせいか肌寒く、シンの寝床にしていた毛布も今はクローゼットの中に仕舞われている。抱きしめているのは、冬仕様のもこもことしたクッションだ。

 

 シンは、いない。枕元にいつも寝ていたあの黒い狼は、ここには――……どこにも、いない。

 

 口の端から垂れていたよだれを拭い、なのははごそりと毛布と布団を被りなおした。小さく身体を丸め、胸元にある血色の宝玉を抱きしめる。
 胸の中で勝手に膨らんでいく感情をかみ殺しながら、『あの時』のシンと約束した内容を思い出して呟く。

 

「…………帰ってくるって、言ったもん。私が強く呼べれば、どんなところからだって帰ってくるって言ったもん」

 

 そういった後、更に自分に言い聞かせるように小さく小さく何事かを口の中で呟くと、なのはは暗闇の中で再び目を閉じた。