運命のカケラ_06話

Last-modified: 2008-10-15 (水) 00:11:03

 なのはに握られてぶんぶかと振られる前足を見つめながら、『彼』――シンは多大な心配と後悔とほんの少しの期待を込めて口の中で呟いた。

 

――我が主なのは、か。なんか言いづらいよな。
 

 

 
 住宅街の中で一軒だけ灯っている明かりが自宅のものだと気づいた時、なのははうぁ、と呻いた。
 自分が出てきた時には明かりは消えていた。それが灯っている。ということは考えるまでもなく。

 

「どうしたんだ?」
「いや、あの。黙って出てきちゃったんだ……うぅ、どうしよ」
「いや、どうしようもないだろ……と、いうか。いるぞ。敷地の中だけど」
「えぇ、本当?」

 

 嫌そうな声を上げるなのはに抱えられたまま、『子』型に縮小しなおしたシンは耳をくりくりと動かした。

 

「足音がな。……どっちにしろ行くしかないだろ?それに」

 

 そう言いながら尖った鼻が漏らした息はどんな心境の表れなのだろうか。動物だから当然だが見た目や表情になんの変化もなく、シンは口の中で転がすように小さく続けた。

 

「家には、帰らなきゃな」

 

 シンの言葉にやっぱりそうだよね、とため息を吐いて目を泳がせる。行きたくない。だが行くしかない。
 ゆっくりゆっくり引き戸を開け、抜き足差し足で玄関へと近づいた瞬間。

 

「おかえり。こんな時間に、どこへお出かけだったんだ?」

 

 横合いから聞こえてきた精悍な声。なのははびくりと震えて、ほとんど反射的にシンを後ろ手に隠した。悪いことをしてしまった自覚のある子供の行動は大抵似たようなものである。意味のなさも含めて。
 小学生の身分で深夜外出、しかも無断である。出てくるときは半ばそんな事を意識しなかったが、実際問題深く考えなくても猛烈にまずい。意図してのことではないとはいえ公共物や他人の家を破壊してしまった事への後ろめたさも手伝い、なのはは玄関横で手を腰に当てて見下ろしてくる恭也へまともに視線を合わせられなかった。 

 

「お、お兄ちゃん。あの、その、えっと……」
「あら、可愛い!」
「!」

 

 更に背後からの声に、なのはは恭也のときほどではないにしろ驚いて振り向く。ちょうど恭也の反対側から歩いてきた美由希が、腰をかがめてなのはの手の中、つまり抱えられたシンを覗き込んでいた。

 

「お姉ちゃん?」
「なのははこの子が心配で、様子を見に行ってたのね?」
「……あの、う、うん」

 

 優しい声に促されるように頷き、なのははシンの頭頂部へと視線を落とす。ぴくん、と耳が動いて上向きになった赤い目と視線が合う。こくり、と小さく頷きあう一人と一匹。
 やりとりに言葉はなかったが、その一瞬のうちに彼らの間には合意が成立していた。
 いわく、魔法のことはとりあえず秘密で。

 

「気持ちは分からんでもないが。だからといって――」
「まあまあ、いいじゃない。こうして無事に戻ってきてるんだし。それに」

 

 あくまで不機嫌な恭也の言葉をさえぎった美由希は、そこで言葉を切ってなのはに片目を閉じて見せた。

 

「なのははいい子だから、もうこんな事しないもんね」
「……うん、その。心配かけて、ごめんなさい」

 

 ぺこり、と頭を下げたなのはを見ていた恭也が視線をそらし、身体ごと横を向く。言葉ではなく態度で心配かけやがってと叫ぶその姿は小学生のなのはにも流石に理解できるもので、なのはは心の中でもう一度ごめんなさいと呟いた。

 

「はい、これで解決!……でもほんと可愛いわねー、ちょっと生意気そうだけど」

 

 なのはからシンを受け取り、高い位置に持ち上げながら美由希が口にした。たまに鋭いところもある美由希がシンの異常性に気づくのではないかとなのはも気が気ではないが、考えてみれば見た目は普通のイヌ科だ。いっそハスキー犬だと言い張っても通りそうな気はする。

 

「お母さんなんてもう大変じゃない?」
「その可能性は否定できんな……さて、二人とも。いつまでも突っ立ってないで戻ろう」

 

 持ち上げられたままどこか達観したような表情でパタパタ尻尾を振り始めるシンに心の中でエールを送りつつ、なのはは恭也に促されるままに家の中へ入っていった。
 

 

 
 ――同時刻、ある神社の境内。鳥居の真下で、青白い輝きが瞬いていた。

 

 
 
 朝の日差しが差し込む部屋の中。こんもりとした毛布のカタマリを載せたベッドに転がっているのは携帯電話。
 かわいらしいピンク色をしたそれは、時間と共に昇ってきた太陽の光を合図にしたように唐突に音楽を奏で、リズムに合わせた振動を始める。
 もぞもぞと動き始めた毛布のカタマリに押されて携帯電話は床に落ち、それを――濃淡のついた黒い毛に覆われた口が拾い上げた。
 その拾い主は一息にベッドに飛び上がり、咥えた携帯電話でこつこつとカタマリの一部分をつつきまわす。毛布の下からにゅるりと出てきた茶色い髪の毛の上に携帯電話を落とすと、度重なる刺激に根負けしたように、ようやくカタマリからその中身が姿を現した。
 ふにゃ、とあくびのようなものを漏らしながらカタマリの中身――高町なのはは起き上がった。小さな黒狼、つまりシンから携帯電話を受け取って、さらに伸びをしながらもう一度
大きなあくび。

 

「……ん……んん!おはよう、シン君」
「おはよう、なのは。とりあえず寝癖、凄いぞ」
「わ。眠れなかったからかな」

 

 まるで植物のトゲのごとく過激に跳ねたなのはの髪の毛を見て、やれやれと言わんばかりにシンが首を振った。妙に堂に入った仕種というか雰囲気に年上の家族が増えたような気分になりつつ、服を手早く着替えて――着替え始めた途端「ぶほぁ」とか妙な音を吹き出してシンが後ろを向いたのは何故だろう――部屋の鏡を覗きながら髪の毛をまとめていく。
 左右のバランスを見ながら位置を合わせていた時、鏡の中で耳をひくつかせていたシンがそろそろと振り返るのが見えた。

 

「……何か速そうだな、その頭」
「そう?」

 

 少々気分を変えて、髪の房の位置を真横近くから後頭部よりへ。言われてみれば確かにこう、風に乗れそうというか速そうな気もしないではない。

 

「あ、そだ。――とりあえず、昨日はお疲れ様」
「あー、ああ。お疲れ様」

 

 そう、昨日、というか昨夜はかなり大変だった。
 かわいいかわいいと連呼する桃子に振り回され、頬擦りされるたびに上下左右満遍なく危険な角度まで回転するシンの首。半分目が死んだ上に鼻と口からうっすら再生に伴う湯気を吹いているその顔、そしてそんな損傷再生無限ループ状態にも関わらず士郎の「お手」を初めとした数々の要求に反応して見せた根性を、なのはは多分忘れない。

 

「どんどん煙が濃くなるんだもん。シン君が燃えるかと思っちゃった」
「再生するときにどうしても熱が出るんだ。しかし、あの人……あれが続くのは勘弁だ」
「あはは……まあ、皆に止められたし。今度からはきっと大丈夫だと思うよ。多分」
「だといいけどな。と、朝飯食べて学校に行くんだろ?」
「そうだね。お話したかったけど、学校終わってからになっちゃうかな」

 

 頷きながらかばんの中身を確認し、ドアノブに手をかけたところではたと気づく。
 何故シンはこれほど自然にこちらの生活に合わせていられるのだ?

 

「ねえ、シン君」
『聞きたいことがあるんだろ?後にしろ後に。遅れるぞ』
「わ!?……あ、これ、前の?」
『念話、って言ってな』

 

 床の上に行儀よく座り、なのはを見上げる赤い瞳。昨夜やそれ以前にも聞いたように、頭の中に直接響く声は、音の方向というものがないのにシンから聞こえてくるのはわかるという奇妙な具合だった。

 

『心を震わせて声にする感じでやってみろ』

 

 促されるままに目を閉じ、なんとなく胸元に下げたレイジングハートの宝玉を握り締める。
 胸の奥にある自分の心、それが直接震えて声を――

 

『こう、かな』

 

 まったく喉を震わせていないのに、どこまでも自分の『声』が響いていく感触は不思議なものだ。そしてこの瞬間、既になのはは感覚的に念話を理解していた。この『声』はどこまでも、と言ってもいいくらい遠くまで届くのだと。

 

『――ん、そうだ。簡単だろ?慣れれば相手を選んだりもできる』
「わぁ……!」

 

 派手ではないが極めてわかりやすい「魔法」に、なのはは目を輝かせた。

 

「と、いうわけで。詳しい話は休み時間にでもできるだろ?」
「うん!」
「ああ、でも授業はちゃんと受けるんだぞ」
「……うん」

 

 さっくりと刺された注意に、楽しげに揺れていたなのはの髪の毛がへにょんと垂れる。

 

「じゃあ、行ってきます」
「車に気をつけてな」
「うん、大丈夫」

 

――なんだかお兄ちゃんが増えたみたい。

 

 やたらと馴染んでいるシンに再びの疑問を覚えつつも、なのははシンに見送られながら自室を出て行った。
 
 

 

 
「ねえなのは、昨夜の話聞いた?」
「へ?昨夜?」

 

 自分の席にそれぞれカバンを置くなり話しかけてきたアリサとすずかに、なのはは首を傾げて聞き返した。

 

「昨日の動物病院でね、車か何かの事故があったって」

 

 カバンから教科書を取り出そうとしたなのはの手が止まる。

 

「塀とか壁とか、すっごく壊れちゃったって」
「でね、あの子犬が無事かどうか心配で……」

 

 顔を曇らせるすずかとアリサから、なのはは無言で視線をそらした。動物病院。塀や壁の破壊。疑いようもなく、その近辺をとってもアレな状態にしてしまったのは自分達だ。

 

「あー、え、ええっと……」

 

 どう説明したものか。まさか件の子犬――シンが喋って守ってついでに自分が大砲をぶっ放しましたとは言えない。言えない所を徹底的に省いて話すとすると。

 

「その、子犬さん逃げ出してて。お散歩してたら偶然見つけたんだ」
「え?」
「で、子犬さんはうちにいるの。ほら」

 

 そう言ってシンが首にかけていた宝玉を取り出して見せると、すずかとアリサはよくわからないが子犬の無事は納得した、というように大きく息を吐いた。

 

「そっか、よかったぁ」
「でも、凄い偶然だね。逃げ出した子と道でばったり会うなんて」
「あ、あはは……そ、それでね」

 

 偶然やらよかったやら、二人の言葉がさくさくとなのはの胸に突き刺さる。色々と気まずい。気まずいが嘘はついていない。本当の事を言っていないだけである。

 

「あの子、やっぱり一人だったみたいで。当分、うちで預かる事にしたの」
「へえ……あ、名前ってもう決めてる?」
「うん。シン君って言うんだ」

 

 決めているというか決まっていたというか。ここで珍妙な名前をつけられたらシンはどんな顔をするだろうかといたずら心が動いて、いけないいけないとそのイメージをかき消す。
 どうにも彼に対しての事だと自分の性格が変わっているような気がして、なのははごまかすように笑顔を作り直した。

 

「なんか……普通ね」
「でも、いいんじゃないかな。私はあの子に合ってると思うな」

 

 ぽむ、と両手を合わせて笑うすずかに確かにそうね、とアリサが頷いたところで、ちょうど授業開始のチャイムが鳴り響く。じゃあまた後でねと立ち上がる二人に頷きを返して、なのはは机に入れていた教科書を取り出した。
 
 
 

 

「――この前話したように、漢字には”つくり”と”へん”でできています。それぞれ……」

 

 続く教師の言葉を聞き流しながら、なのはは鉛筆の先でノートをつついた。どうにも集中できない。
 思い出すのは、昨夜の幻のような体験。唐突に手に入った魔法という力、そして同じく唐突に現れたシンという謎の存在。最後にシンと共に立ち向かった、強烈な恐怖。
 本当に良いのだろうか?という疑問はなのはの中で尽きることはない。考えるまでもなく、自分は死の危険に自ら頭を突っ込んでいる。シンは魔法の才能がある、と自分を評価していたが――

 

『ねえ、シン君』
『まだ授業中だろ』

 

 とがめるようなシンの反応に構わず、なのはは続けた。

 

『ジュエルシードって、どんなものなの?……どうして、危険なの?』

 

 声色の変化を感じ取ったのだろう、シンがため息をついたようだった。俺が分析したデータだけなんだけどな、と前置きして話を続ける。

 

『簡単に言えば、すっごく圧縮した魔力のカタマリ。元々遺跡に埋まってたんだけど、バカが考えナシに掘り出した上に他のもっとバカな奴らに分捕られて更にバカな事にバカの船が事故が起こってこの世界に落ちてきた』

 

 バカという言葉が口癖にでもなっているのかそれともその掘り出した連中というのが気に入らないのか、えらくバカバカとシンは連呼していた。

 

『で、その魔力がやたら不安定なんだ。すぐ暴走してバケモノになったりヘンな事を引き起こしたり……悪ければ、次元干渉で次元震が起こるはずだ』
『次元震?』
『次元、要は世界そのものが震える。んで、普通震えたり曲がったりしないものがぐにゃぐにゃに曲げられるから、そのうちバキっと』
『世界が壊れちゃうの!?そんなのどうしようも――』

 

 自分がどうにかできるなら、とは考えているし、昨夜も言った。だがいきなり世界の命運を左右する、などと言われると正直困る。というよりも、たかが9歳に過ぎない自分が世界を救えるなどと思うほどなのはは自分の『力』が大きいものだと思っているわけではない。しかし、シンは即座にそれを、自分ではどうしようもないというなのはの意見を否定した。

 

『魔法を使えば、それができるんだ。次元震を防ぐ為にジュエルシードを封印する、その為に俺は……最終的には壊すにしたって、まず封印して安定させないとダメなのはわかるだろ?』

 

 不発弾を爆発させて処分する前に処理していきなり爆発しないようにするようなもんだ、となのはにはわかるようなわからないような例え。とりあえず抑える、という事は伝わったので頷く。

 

『……ちょっと難しいけど、わかる』
『あと、なのは。魔法を使える人間ってのは、この世界にはほとんどいないらしい』
『そうなの?』

 

 意外な気がして、窓から外を見やる。林立するビルや住宅、その全てに人間がいて、その数は膨大なものになるというのに魔法を使える者がほとんどいないというのは、どこか納得いかなかった。
 ……この時のなのはは『この世界』の事しか考えていなかったので、無理もない疑問ではあったのだが。

 

『正確には、使えるほど魔力を生み出せる人間がいないみたいなんだよな』

 

 少なくとも俺が調べた範囲ではいなかった、そう続けるシンは苦々しげな声をしていた。

 

『魔法を使わないとジュエルシードは封印できない。魔法を使える人間はほとんどいない……だから今、俺はお前に頼るしかない』

 

 頼るしかない。他に頼れる人間がいればそいつを頼る、と言っているようなものだが、それはそうだ。誰だって自分のような子供を好き好んで頼ろうとは思わないだろう。
 だが、何故か。頼られなかったら、と考えると少し嫌な気分になる事をなのはは自覚していた。

 

『私に、か。ね、シン君。他の人はぜんぜん魔法が使えないの?ていうか、魔法を使う才能って……どういうの?』
『……ああ、そうか。悪い。簡単に言えば、空気中にある魔力素、ってモノを使って精神エネルギーを別のエネルギーに変換して色々するのが魔法。ただ、その精神エネルギーを変換する効率に物凄い個人差があるんだ。才能がある奴は、最低クラスの奴の数万から数十万倍効率よくエネルギー、つまり魔力を作り出せる』
「……すうまんからすうじゅうまんばい」

 

 思考ではなく口の中で呟いても、そうそう実感が湧く数ではない。

 

 
『だからまったくではないけど事実上、って奴だな。で……その変換したエネルギーの使い方をプログラムにして仕込んでるのが、レイジングハートみたいなデバイス。俺はその付属システムで使用者のサポートをしたり本体のガードをしたりする擬似人格。昨日のシルエットシステムは』
『ああ……うん、アレだね』

 

 脇の下と背中のメカニックな物体の硬質っぷりとある意味すばらしい作動音は、なのはの脳に焼き付いていた。

 

『プログラムをあらかじめ組み込んでおいて、魔法プログラムのコントロールとか構築速度とかをシステム側で負担できるようにした代物なんだ。最初からいくつか用意されてるマクロみたいな、って言ってもわからないか』
『あ、大丈夫だよ』
『何?』
『コンピュータは結構得意なんだ』

 

 意外そうに聞き返したシンに少々得意げに告げる。なのはは小学3年生にして既にいくつものアプリケーションを使いこなし、翠屋のメニューや値札、POPまでも作成しているのだ。

 

『そっか、なら大丈夫か。システムに始めからくっついてるオマケだから、本当は一からプログラムを組んだほうが……まあ、システムについては実際見せながら説明するさ。学校の後でな』
『ん、うん』

 

 頷きを返した時、授業時間の区切りを告げるチャイムが鳴り響いた。皆に合わせて起立と礼をしながら考える。

 

――シン君の事、聞きそびれちゃった。

 

 もう一度聞けばいいとわかってはいるのだが、どこか流れが切れてしまった今では話し出しづらい。
 その思考が伝わっていたのかいなかったのか、シンは何の返答もしなかった。

 

 
 
「シンちゃーん、おいでー」

 

 傾いてきた日差しが差し込む、高町家のリビング。隅に小さい箱が置かれ、毛布が敷かれたその場所はシンの為に作られた場所である。
 ぺちゃぺちゃと皿で牛乳を舐めていたシンはその声に振り返った。本来必要ない事だがペット役でもあるし、昨夜既にやったことなので、尊厳とかそういったものはもはや気にしていない。……必要経費と割り切った。ちょっと泣きそうだがもういい。いいという事にしておく。
 ビニール袋を片手に提げ、今買い物から帰ってきた、という姿をした桃子の笑顔。昨夜と同じ、かわいらしいものに向ける慈愛の笑顔――それが人間たちに苦しみを与えて戯れにする邪な女神の笑顔に見えたのは、シンの気のせいだ。後ろ手に何かを持っていて、そこから├¨├¨├¨├¨├¨とかいう雰囲気が漂っているのも気のせいだ。
 ……気のせいで、あって欲しい。

 

「うんうん、ちゃーんと飲んでるわね。じゃあ」

 

 にこやかに前に出される手。

 

「ごはんの後はこれですからねー」

 

 がこんとその手によってシンの目の前に置かれた物体。
 明るい色をしたお盆のようなものに、白いシートが載っている。
 知っている。その白いシートは同じ厚さの紙などとは比べ物にならない吸水性を誇るものであることを。
 知っている。そのお盆状の物体はペット用品であり、生物ならば不可避の生理現象において使用されるものであることを。

 

――目の前ですか!?

 

 設置した犬用トイレの前にしゃがみこみ、両掌に顎を乗せてにこにことシンを見守る桃子。
 シンは硬直している。
 にこにことした笑顔は変わらずシンに向けられている。その表情には悪意などカケラもなく、ただただ善意のみが浮かんでいた。
 シンは硬直している。
 にこにことした笑顔が少しだけ崩れた。
 シンは硬直している。
 笑顔が崩れた後に現れたのは、心配げな、悲しげな表情。申し訳なさすら漂わせるその表情を浮かべさせている原因は、紛れもなくシンであり。
 シンは――

 

 
 
『う、うおおおおぉああああああ!!…………あ、あぁああ、あぅあぅぁぁぁ――』
「!?」

 

 プリントに文字を書き込んでいたなのはは突然響いたシンの『声』にびくりと身体を震わせた。
 追い詰められた焦燥から決意、そして決死となり、後に続くのはほんのわずかな達成感とすさまじいまでの『やっちまった感』。
 ほとんど咆哮とでも言うべき音ひとつの癖に異常に雄弁なそれは、始まりと同じく唐突に途切れた。まるきりの沈黙に不安になり、なのははシンに呼びかける。

 

『シン君?』
『……カ――』
『え?何?』
『あはは――俺や……まったよ、……ユ、ステ……。ついに――トロ……』
『スカ……?え?どうしたの?シン君?シーンくーん?』

 

 その後。結局、シンのトイレはなのはの訓練を兼ねてできるだけ外でやる事になった。