鎮魂歌_第03話

Last-modified: 2007-11-17 (土) 19:17:37

朝は早かった。
スープを一杯平らげた後、それほど間をおかずに眠ったのだから、自然と起きる時間も早くなったのだろ
う。夜明け前に目覚めたキラはゆっくりと身を起こす。

(痛い…けど)

昨日に比べれば随分と痛みが引いた。火傷については時間がいるだろうが、打撲の類は薮井医師の軟
膏や痛み止め、「冷えぴた」なる冷却シートの活躍によりもう立ち上がっても平気だった。
もちろん、薮井医師からは「調子に乗るな」との注意は受けている。

しばらく、ベッドに腰かけて窓の外を眺めていた。
空。
夜が明けて、朝になる。
空から夜色が薄れ、蒼が広がっていく。東の山々の隙間には、太陽の光が燃えていた。
ずっと、日が顔を出しきるまでそうやって空を眺めていた。
こうやって、いつも大空を眺めていたような気がする。
いつ、どこで。それは思いだせない。ただ、体が覚えているような。

ノックが聞こえた。

「おや、おはようございます」
「おはようございます」
「お着替えをお持ちしました。それと、お薬です」

鮫島が笑顔とともに入ってくる。
ぼんやりしていたキラも思わず立ち上がった。

「もう、大丈夫なのですかな?」
「薮井さんの薬のおかげで、痛みはかなり引いたみたいです」
「流石、若いですな。食欲はどうですか?」
「昨日よりは…あると思います」
「朝ご飯は、しっかりしたものを用意しましょう」

手早く着替え、食前の薬を服してから鮫島について下の階へと降りて行った。
途中、廊下にかかっていた絵画がさんざん目についた。素人目のキラにもわかる。間違いなく高額なも
のだ。特に風景画が多く、少なくとも通った廊下では絵画を目にしなかった時間がないほどにかけられて
いた。

一室の前で立ち止る。扉の向こうにあったのは、随分と長いテーブル。厨房もすぐそばにあるようだ。
もうアリサは座っていた。

「おはようございます、ヤマトさん」
「アリサちゃん、おはよう」

対面するように、鮫島に促されたキラは、椅子に腰かけて少し息を吐く。
まだところどころに痛みがあるので、それを刺激しないように動くのに少々神経を使うのだ。

「痛みますか?」
「大分良くなったけど……まだちょっと」
「そうですか…あたしは学校があるので、屋敷を案内できませんから、歩きけるくらいになれば誰かに
言ってください」
「学校……」

キラが反芻するのに重なって、使用人がパン、サラダ、スープ等を運んでくる。
割と短めに髪を切った、ボーイッシュな印象を与える女性だった。まだ若い。

「真由良さん、この人がさっき話したキラ=ヤマトさん」
「あーこの方ですか。はじめまして、真由良です。何か困ったことがあれば気軽に声をかけてくださいね」
「あ…はい」

見た目とかっちりと合った明るい声に話し方だ。
樹理と朝木にも言ってこよっと、と嬉しそうに厨房の方へと消えていった。
アリサが手を合わせていただきます。キラもそれに続けて手を合わせた。

「キラさんくらいの年齢なら、学校にも行ってたと思うんですけど」
「うん、いたと思う……でも」
「やっぱり、思い出せませんか」

ちぎったパンを口に入れてふむ、とアリサは難しい顔。

「知識はあるんだ。学校も知ってる……でも、どこで何をしていたかが……全然思い出せないんだ…」
「……」

昨日、薮井が言っていた事だが、記憶にもいくつか種類がある。
記憶喪失になっても、ベッドや机、風呂など日常で生活する物ついては大概忘れる事はない。その使用
方法についても、忘れる事はない。記憶喪失で欠落するのは、言ってみればその人間の経験だ。これは
ただ単にストーリーの都合上というわけではない。おおよその場合で、知識はあるがそれを用いた経験
がない、というケースになる。

「怪我が治ったらすぐに記憶も戻りますよ。だからまず、怪我を治しましょう」
「うん…」
「ほら、すぐ暗い顔になる! もっと笑った方が、絶対体にいいですよ」

キラが苦笑する。
「笑ったり楽しめ」というのも薮井からの言葉だった。
すぐに実践したり、そもそも意識してそうしようとするのが間違いだが、それでも意識にとどめておこうと
キラは思いながら、スープに口をつけた。

それから、食後の薬を服用して、アリサを送って帰ってきた鮫島に案内され、屋敷について色々と教えて
もらった。ところどころに犬が放してあり、どの子も人懐こいものだった。
山の中腹に建っている屋敷だ。森には事欠かず、手入れされた庭も歩かせてもらえた。いくつか屋敷の
中で入ってはいけない部屋や、どういう構造なのかを教えられたが、その大きさにキラは驚く。

何度か、鮫島に大丈夫かと聞かれたが痛いだけで、疲れがあるわけではなかったのでキラは続けても
らった。むしろ最後の方は鮫島が疲れた様子でさえあった。

「体力がありますな。薮井さんもおっしゃってましたが、体を鍛えていたようですし」
「自分では…ちょっとわからないです…」

診察していた薮井から、間違いなく鍛えていたようだ、と言われている。
それも、軍隊ではない所で軍人に鍛えられた感じ、と何とも良く分らない分析のされかただった。

遅めの昼食を鮫島と共にし、いろいろと語った。
とはいえ、キラには語るべきものがないので鮫島が話し、キラが答えたりする形だったが。
若い男の子が話し相手という事で、鮫島も舌が軽かった。アリサの祖父の代から運転手をこなし、今では
執事と兼ねて勤めているらしい。ところどころに、アリサの自慢話が挟まれたりと、老人との話によくある
退屈など微塵もありはしなかった。
いきなり現れたよそ者のキラに対して、大きく心を開けて接してくれているのだと、キラ自身よくわかる。

食後に振舞われたお茶の席では、使用人の参加もあり、昼食での鮫島とのゆったりとした会話と一変、
随分と姦しくなった。
屋敷に今のところ努めているのは三人。朝木、樹理、真由良というまだ若い女性三人だ。屋敷の大きさに
しては少ない人員と思ったが、案内された場所については手入れが行き届いていたので十分機能はでき
ているのだろう。

その後、キラは1人で森に入る。
そろそろ休んだ方がいいと鮫島にも言われたのだが、もうちょっとだけ、と少し無理を通してもらった。
どうも、鮫島は押しに弱いように思えた。

ぼんやりと、木々の隙間を縫って当てもなく歩いた。
屋敷が大きいからどこにいようと視覚に捉える事ができ、迷子にはないまい。
斜面が多かったが、そう歩きにくくはなく、邪魔なのは痛みぐらいだった。

キラはいろいろと、考える。
家族、友達。多分、いるだろう。ならば、心配してくれているだろうか?
連絡どころか、その顔も思い出せない今、影のように付きまとい、粘つくように張り付いて離れない孤独
感が気付けば心に大きく浸食してくる。心を空虚にして、何も考えずに現実を考えずにいれば、それも幾
分かマシになるだろう。
しかし、その時、思いだすのは薮井の眼だ。

逃げるな。

そう言わんばかりにじっと、キラの瞳を射抜いた双眸。
考えを見透かされるような眼光で、実際見透かされているのだろう。

だが、だからと言ってすぐに腹をくくれるようになるわけではなかった。
逃げるな、というのはつまり考えるのを止めるな、不安であり続けろと言っている事だとキラは薄々気づ
いている。

「無理ですよ……」

それを呟けば、今度はアリサが脳裏に浮かんだ。

そんな暗い顔してちゃ、思いだせるものも思い出せないでしょ! もっと思い出すぞー! って思わな
きゃ!

不安であり続けて、なお思い出そうという前向きな姿勢を崩さない。
難しい、事だ。キラだけでなく、ほとんどの人間にとってもそうだろう。

随分と考えこんでいたようだ。足はいつの間にか止まっており、木漏れ日を浴びながら空をずっと眺めて
いた。空を眺めていた事も無意識である。空を見ているのがクセなのだろうか、とぼんやりとキラはまた
考える。

空は広く、遠い。
見上げていれば、自分の足場が消え去ってしまいそうな気がする。
そして、そのまま空へ落ちてしまいそうな奇妙な錯覚。

(…僕は…空の何を見てるのだろうか……)

自分でも、分らない。
空には雲があるばかりで、どこに焦点を合わせていいものか分らない。それでも眺め続けた。
青?
いや、蒼。
吸い込まれるような、蒼穹。
これに惹かれて、記憶を失う前の自分は眺め続けていたのだろうか?

手を伸ばした。
手を伸ばせば、その蒼は掴めるだろうか。

ギュッと握った掌には、何も掴めない。

リムジンのドアを鮫島が開けば、中から降りてきたのはアリサと可愛らしい客人2人だ。
高町なのは。
月村すずか。
アリサの親友なのであるが、どうにも雰囲気が重い。

「鮫島、お茶の用意をお願いね」
「はい、アリサお嬢さま」

3人は玄関前に降ろされる形となり、鮫島はそのままリムジンを車庫へと走らせる。

「さて」

アリサがずいとなのはの前に強く出る。

「フェイトの事はわかったけど、はやてについてはゆぅっっっくり聞かせてもらうからね」
「う、うん…」

学校にてフェイトが数日前から休みを取っていた理由はアリサにもすずかにも大体分かっていた。
管理局の仕事だ。
それは、いい。
むしろこれからも学校をひとまず置いて、そちらへ力を注ぐ事はあの境遇を乗り越えたフェイトには有り得
る。今日、なのはから細かくその内容も聞いて納得もした。リンディとしては、フェイトをまだ学校の友と学
ばせたいと説得したが、フェイトが固くアースラについていくと言って聞かず、結局リンディが折れた。
それは、いい。
しかし、はやてについて――正確にはその家族について――アリサもすずかも何も聞かされていない。

ヴィータが行方不明となった。

それが親友のはやてにとってどれだけの辛さになるかは想像もできない。
できないが、知って、少しでも支えになってやるのが友というものだ。そう、アリサとすずかは信じていた。
そこで、最も事情を知るなのはを拘束。そしてバニングス邸へと連行した次第である。
管理局と密な連絡網があるなのはと比べ、管理外世界で魔法を知る者とはいえ民間人でしかないアリサ
とすずかだ。なのはが口を滑らせなければ、彼女たち2人にこの事実は伝わる事もなかっただろう。
それがアリサには気に食わず、すずかもはやての力になりたいと思っていた。

なのはとすずかを引き連れて、しっかりとした歩調で庭を闊歩するアリサの足が止まる。
森から、1人の青年が出てきたのだ。

「ヤマトさん」
「あ、アリサちゃん。お帰り…もうそんな時間だったんだ」
「駄目じゃないですか! そんなに歩き回って。傷が治りませんよ!」
「ご、ごめん……でも」
「でもは聞きません! 早く部屋で休みなさーい!」

腰に手をあてて、なかなかの迫力だ。迫力はあるが、プリプリと怒る様子は可愛らしさばかり先行してし
まい、思わずキラは噴き出しそうになった。もちろん耐えたが。

「その子たちは友達かな?」
「はい、私の親友です。なのは、すずか、この人はキラ=ヤマトさん。ちょっと事情があって、家にいるの」
「はじめまして、高町なのはです」
「月村すずかです」

挨拶するなのはとすずかの笑顔は、何とも対称的なものだった。なのはが元気のいいもので、すずかは
静かで落ち着いている。制服の友達というからにはアリサと同じ年なのであろうが、すずかの落ち着きに
キラは感心を覚えた。

「はじめまして……」

キラも笑顔で返そうとして、その視線がある物に定まって外せなくなってしまった。
なのはの、胸元だ。皮ひもに赤い宝石を括り付けたシンプルな首飾り。
ただそれだけのはずなのに、見とれるようにキラはそれを凝視してしまう。

「? ヤマトさん……?」
「あ…ご、ごめん」

不思議そうななのはの声に、キラは我に返る。
どうしてもなのはの首飾りが気になって仕方がない。見た覚えは欠片もない。
ただそれが何が途方もない気配を感じさせるのだ。

「その首飾り……奇麗だね」
「わぁ、そうですか? ありがとうございます」

ようやっと、キラは笑顔を3人へと向けられるようになり、なのはも首飾りを手のひらに乗せて笑った。
そしてその笑顔が凍りつく。

『マスター、この者の魔力は奇妙です』
「ふえ!?」

赤い宝玉から放たれる電子音。
それと同時に、なのはから桃色の光が溢れた。

「え…!?」

あっけにとられるキラは見た。なのはの足もとに広がる桃色の幾何学模様を。
魔法陣を。
広がる。なのはを中心として。その一部がアリサの足もとへと伸び、すずかの足もとへ伸び、そしてキラ
の足もとへと伸びた。

輝きに触れた、瞬間。

「!!?」

キラの頭に閃く光景。

強烈な輝きの最中にいる自分。
その自分へと差しのべられる手。
まるで抱きしめられるかのような、ぬくもり。

「―――――――――――――――」

誰かの囁きが聞こえた。

(これは…記憶? 今、なんて……?)

しかし耳を澄ませて聞こえてきたのは、なのはの焦った声だった。

「レイジングハート!」

光が止む。一瞬だった。まるで白昼夢のように桃色の光は虚空へと溶けて消えた。
掴みかかった何かを逃したかのような、虚脱感にキラは茫然とする。
驚くアリサとすずかに、焦りをありありと浮かべるなのはが目に入るが、今見て、聞いた何かでキラの頭
はいっぱいだった。

「い、今のは……?」
「あ、えっと…その…」

自分の口から洩れた自覚のない言葉がキラから零れた。
しどろもどろにキョロキョロするなのはに代わって、静かに答えたのはすずかである。

「ただの玩具です。ね、なのはちゃん?」
「う、うん」
「そ、そうそう! 良くできてるでしょう、ヤマトさん」

手を叩いてアリサもたたみ掛けてきた。明らかな不自然。もう1度、何かをキラがなのはに尋ねかけた時
に、アリサが2人の背を押してキラから離した。

「じゃ、じゃああたしたちはちょっとお話があるので、ヤマトさんは部屋で休んでください」
「………」

ただ立ち尽くすキラへと、すずかとなのはがお辞儀をしているのが見えた。
キラは、今見えた記憶かもしれない光景で頭がいっぱいだった。