その部屋に入った時、一瞬だがリジェネ・レジェッタは自身の身体が浮遊する錯覚に捕らわれた。
だが、あくまでも一瞬であり、すぐに足の裏にしっかりとした固い床の感触が戻る。
次いで、機械が放つツンとした臭気と、芳醇で芳しい香りが、エアコンの温かい風に乗って届いてくる。
「やあ、何をしているんだい? リボンズ」
「リジェネか。いや、暇だからね、昔の映画でも見ようかと」
リボンズ・アルマークがリーダーを務めるイノベイターは、世界でトップクラスのアイドルグループである。
現在はリフレッシュを目的に、活動を一時休止しているが、あくまでそれは表向きであり、実際はなんやかやと陰謀をめぐらしちゃっている最中なのだ。
「昔の映画?」
「最近の映画はつまらなくてね、金をかけたら何でも大作になるわけじゃあないのに」
世界の各地に、イノベイターは『別荘』を持っている。
どれもが、広い土地に大きな屋敷で、それこそ『金をかけたら』の見本のような建物ばかりだ。
そして、中身の方も豪勢で、メンバーの個室以外に、それぞれの趣味に応じた設備も整っている。
センスが古い、と時としてメンバーに指摘されるリボンズの趣味の部屋は、最新の映像設備と過去ほとんど全ての映画・ドラマを揃え、もう小さな映画館と言っていい程のものである。
先程リジェネが平衡感覚を狂わせたのは、部屋の中が真っ暗だったからだ。
「暇とは言うけれど、いいのかい?」
「何がだい」
「君の計画にほころびが生まれないか、ということさ」
「連中のことなら、当面放っておいて問題無いよ」
リボンズが言う連中とは、彼の手足となっていろいろと『悪さ』を働く者達のことである。
巨大総合企業アロウズのホーマー・カタギリ、アーサー・グッドマン、リー・ジェジャン、アーバ・リント、トリニティ運送のヨハン、ミハエル、ネーナの三兄妹、リニアトレイン社総裁のラグナ・ハーヴェイ、そして傭兵、盗賊、なんでも屋のアリー・アル・サーシェスといった面々だ。
彼らは今、大まかにはリボンズの計画の下であるものの、独自の判断で動いている。
「まだ始まったばかりだからね、正確に言えば、スタートラインにも立っていない」
「でも、ネジが一本緩んだだけで壊れるメカもあるわけだし」
「君は心配性だね」
クスリと笑うと、リボンズはリジェネにソファを勧めた。
位置的には、リボンズの対面になる。
「コーヒー、飲むかい?」
「せっかくだからいただくとするよ」
本来なら、こういった会話は彼らには必要ない。
その気になれば、音声に出さず、『脳内で』意思を疎通することが出来るからだ。
イノベイターのステージはダンスや歌の統一感が売りになっているが、それは彼らがこのような特性を持っているからである。
もっとも、通常時はほとんどこの力は使わない。
それぞれが近い位置にいて、普通に生活を営む分には、声に出して言葉を交わす方が楽なのだ。
「インスタントとはいえ高級品だよ」
「そうなのかい?」
「我らがマネージャーが買ってきたのさ、ウルトラスーパーゴージャスミラクルゴールドブレンド、というらしい」
「香りは格別だけど、名前は上品とは言えないね」
イノベイターのマネージャー、アレハンドロ・コーナーは豪華主義な側面があり、色々と派手さを好む。
アリーなぞは露骨にそんな彼を嫌っているし、トリニティの面々もあんまり関わりたくないのか、話しかけようとはしない。
イノベイターの面々でさえ、時としてそのキンピカ趣味が鼻についてイライラすることがある。
マネージャーとしての手腕は優秀で、それについては文句は無いのだが。
「まあ、君が大丈夫と考えているならそれでいいか」
「連中にミスがあっても、その反動が返ってくるのは結局連中までさ」
リボンズはコーヒーの湯気を顎にあてつつ、微笑んだ。
実際、今の段階で多少の躓きが出ても、イノベイターには何もダメージはない。
もう少し『材料』が揃ったところで、リボンズをはじめメンバーが動くことになるだろう。
「ああ、邪魔した形になったけど、映画を見てくれていいよ」
「そうかい、なら君も見るかい?」
「内容によるね」
リジェネはあまり昔の映画やドラマに興味はない。
彼はイノベイターの面子の中でも、趣味に重きを置かない性質なのだ。
「ホラー映画を楽しもうと思ってね、それもB級の……」
リジェネが興味があるのは、あくまで現実の世界のこと。
世界を変え、そしてイノベイターが人類の頂点に立つ。
それが、目下最大の彼の興味であり、意欲の対象である。
「ああ、コーヒーのおかわりが欲しければ、好きに淹れてくれて結構だよ」
「そうさせてもらうよ」
しかし、まるまる《リボンズの計画》ではおもしろくない。
《リジェネ・レジェッタの計画》で世界の変革を成し遂げても、何も問題はないはずである。
今のところは、リボンズに主導権があっても良い。
だが……。
「味はいいね、このコーヒー」
リジェネは笑った。
無言の野望を、手元のコーヒーに溶かして。
◆ ◆ ◆
「はああ、つまんねーなあ」
「仕事しろよ、仕事」
プリベンターは世界の平和をひっそりと裏から守る組織である。
暇な時もあれば、滅茶苦茶忙しい時もある。
現在は、その中間といった感じと言えようか。
「仕事ったってよ、書類整理くらいしかねーじゃねーか」
「あるじゃないか、それをやれよ」
「嫌だね」
「どうせいちゅうねん」
只今本部にいるのは、パトリック・コーラサワーとデュオ・マックスウェルの二人だけ。
それ以外の面子は、先日より世界各地で頻発する奇妙な盗難事件の調査のために出払っている。
単なる泥棒というには、盗んでいく物が珍妙過ぎて、警察も正直首を捻る事件なのだが、プリベンターとしてはいささか無視出来ない事態になっているのだ。
何しろ、盗まれた物の中に、『大量の靴下』があったとなっては。
「映画でも見っかなー」
「勤務中だぞ、コラ」
「でも仕事ないだろ」
「あるって言ってるだろ」
コーラサワーとデュオは、遊軍扱いで待機中。
いざ火が起これば、即座に動ける消し手として本部にいなければならない。
まあ、この二人が残っているのは多分に現場リーダーのサリィ・ポォの意向が大きいわけだが。
すなわち、問題児とその監視役。
「いやさ、先日から243チャンネルで二十世紀の名画特集をやってるんだよ、終日」
「だから何だ」
コーラサワーの怠慢を咎めるデュオだが、彼とて何か仕事をしているわけではない。
ソファーに座ってお茶を飲んでいるだけである。
書類整理をしてもいいのだが、コーラサワーが側にいる状態で紙やデータと格闘する気にはとてもなれないわけで。
何だかんだでデュオも現場の人間なのだ。
「見ようぜ」
「ダメだっつの」
デュオは溜め息をついた。
コーラサワーが自分より二十歳近く年上にはどーしても思えない彼である。
「じゃあ酒でも飲むか」
「お前、ふざけてるのか」
「もうコーヒーは飲みあきたんだよ」
「なら、特別なやつを作ってやろうか」
デュオは腰を上げた。
コーラサワーとくっちゃべっていても、メンタルポイントががしがし削られるだけである。
ちょっとでもいいから身体を動かさないと、精神的によろしくない。
「ミレイナが持ってきたインスタントコーヒーがあるんだけどな」
「オデコ娘三号が? 大丈夫なのかよ」
「高級品だぜ、一応」
プリベンターに来てから、妙にデュオはお茶とかコーヒーに詳しくなってしまった。
単純に飲む機会が多いからだが。
「あったあった、ええと名前はな」
「名前は?」
「ウルトラスーパーゴージャスミラクルゴールドブレンドだ」
おかしな名前だ、とデュオは思った。
そして同時に、スペシャルという言葉が入っていないことに、奇妙な安心感を覚えた。
プリベンターとパトリック・コーラサワーの心の旅は続く―――
【あとがき】
誤字脱字がありましたらごめんなさいコンバンハ。
映画、秋って情報は本当なんでしょうかサヨウナラ。