潮風を浴び、杖をつきながらマルキオ導師は海浜を歩いていた。その後ろを、子供達が何人かついてきている。
「今日もいい風ですね…よい日です」
盲目のマルキオにとって、潮風が気持ちのいい日は、その日一日気持ちのいい日ということと同義だ。
と、一人の子供が素っ頓狂な声を上げる。
「あ、導師様!誰か来るよ?」
「ん…?」
マルキオを尋ね、師事を仰ぐ人々は少なくない。しかし、海浜を歩いていれば、その雰囲気は容易に感じることができる。何時もなら。
「…?」
とくに誰かが近づいてくるような足音は聞こえない。ただ、静かな海浜が続いているだけだ。
「…誰もいませんよ?見間違いではないですか?」
「マルキオ導師ですか?」
突然聞こえた声に、柄にもなくマルキオはびくり、と驚いてしまった。今まで、盲目だからといって誰かの接近を許したことはなかったからだ。
「…いかがなされましたか?」
「い…いえ、少し躓きまして…貴方は?」
「私ですか?」
威圧感と透明感が共生する声を奇怪に思いながら、マルキオはその男の名前を聞いた。
「私、星の智慧教会の神父、ナイというものです」
「星の智慧教会…失礼ながら聞かない名前ですね。キリスト教ですね?」
「まあ…オーブでもその子羊の数は1000人も満たしません。ささやかなる教会ですよ」
マルキオは、そのナイと名乗る神父と会話を交わしながら、どうしても違和感を拭えなかった。ナイから、少しの動きも感じられなかったからだ。
「…それで、ナイ神父殿。本日は如何なるご用で?」
クスクス、という耳障りな笑い声は、ただの愛想笑いに過ぎなかったが、その場にいた子供達も含めて、なぜか嘲笑を浴びせられたような気がした。
「いえいえ…人伝に聞いた話では、貴方はかつて、高名な仏教徒だったと。同じ聖職者として、お話を伺いたいものだ、と下種の物見心で伺っただけです」
「…聖職者を自負することはあっても、宗教家の肩書きは捨てました。それにしても…見下すわけではありませんが、このご時世で宗教家をされているとは、珍しい御方ですな」
「…このご時世、だからですよ。マルキオ導師様」
気のせいか、この男の喉からは、時折別の声音の科白が搾り出されているような気がする。
――――何を考えている。ただの人のよさそうな神父ではないか。
「ま、まあ、立ち話も落ち着きませんね。この先に私達の家があります、そこでお茶でも飲みながら、如何ですか?」
その時、ようやくこの神父の動きが掴めた。だが、逆にそれはマルキオを混乱させることにしかならなかった。
おかしい。何かがおかしい。
「ええ、喜んで」
その映像は、こうだ。
三つの眼が瞬きしながら、にんまりと笑う冒涜的な光景だ。
しかし、ナイ神父は深い知識と造詣と思慮をもった人物であり、その議論は、中々に有意義な時間となった。
時折、奇妙な発言もするが。
「ところで、ナイ神父殿。貴方はエヴィデンス01についてはどのようなお考えで?」
だが、ナイ神父からは、動揺も、一切の動きは感じられなかった。
「…ジョージグレンが見つけた、あの外なる宇宙の生命の存在証明となった化石ですな。ええ…あの発見が幾千の宗教を縊り殺すこととなったわけですな」
「ええ…実にその通りです」
「…かつて、我々が木星と呼んでいたあの星には、ある生命がいたのです」
「え?」
突如、甘美なものに溺れる声音となったナイの言葉に、マルキオは背筋をぞくり、とさせた。
「その生物を羽根を生やした一族で、タイタンとレアの間を行き来しながら文明を発達させていたのですよ」
「はあ…?」
「そんなある日、この宇宙の星々が正しい位置についたとき、とある神がこの宇宙に舞い降りたのです。
その神は、ジュピターにいたその種と交わりました。初め、その種は何が起きたのか理解できませんでした。
しかしある日、その種族は知ったのです。自分達の形が、確実にその神に近づいていることに。
ああ、かのような素晴らしきことを、なぜかその種族は拒絶したのです。彼らは神に戦を挑み――いいえ、挑むこともままなりませんでした。
彼らの心は、既に神に捧げられていたからです。戦うこともできなかったのです。
彼らはせめてもの反抗に、自害しました。その体の一片の肉片も残さぬように消滅しました。しかし、神は彼らがいた存在の証拠――エヴィデンスに、一枚のレリーフを作られたのです。
それが…エヴィデンス01」
「何を…言っているんですか…?…貴方は…」
その冒涜的な声は、少しずつ浸食を始めていた。見えぬからこそ、直視せずにすむものもある。それが今、目の前に現れたのだ。
「星の智慧、ですよ。マルキオ導師。星々は、着実に邪悪な位置におさまろうとしているのです」
その時、はっきりとその姿が見えた。これは冒涜だ。世界に対する、絶対的な冒涜の具現だ。
「う…うああああああああああああ!」
と、突然扉が開いた。そこから現れたのは、孤児の子だった。
「導師様?どうかなされましたか?」
「は、入ってきてはいけません!すぐに出ていきなさい!」
「…どうなされたのです?」
「み、見えないのですか!そこにいるものが!ナイという男の正体が!」
「誰もいませんよ。そもそも、神父様なら、三十分前に出ていきましたよ?」
「え…?…はは…はははは…そう…ですか…」
マルキオは、思わずその場にへたり込んだ。そうか、初めからいなかったのか。
なら、それならいいんだ。それならいいんだ。いない、いないんだ。ナイ神父なぞ、いなかったのだ。
では、この光の届かない網膜に焼きついている顔は、なんだというのだ。
この、振り払われない悪夢の姿は。
それから、自室のベッドで横になり、冷たい水を一杯飲み、自分が元気であることを示すと、子供達はすっかり安心した顔で戻っていった。
だが、時折マルキオは思うのだ。
今でもこの国のどこかで、なにかの神が蠢いているのではないか、と。
気がつくと、この宇宙にいる全ての人間はあのエヴィデンス01と同じ生物になってしまうのではないか、と。
この海のどこかで、あの冒涜的な姿が異質な姿の名状しがたき者どもを海の底へ導くのではないか、と。
いや、そんなことはない。
穏やかな、どこまでも澄み切った潮騒を聞いて、マルキオは思うのだ。
この世界では、神はとっくに死んでしまったのだ。
きっとあの神父はただの狂人だったのだ。星の智慧教会なぞ存在しない。明日、行政府に問い合わせればいいではないか。
ではあれはなんだ。
この網膜に焼きついて離れない顔は。
ではあれはなんだ。
窓に、窓に!
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