走っていた。
とにかく走っていた。
ただ人が踏み固めただけでしかない山道を。
何も考えずに、ただひたすらに走っていた。
震える妹の手を取り、先を行く両親の後を追って……
「はぁ……はぁ……」
煌めく閃光。
轟く爆音。
揺れる大地。
そんな非日常的な空間において、自らの吐息だけはやけにはっきりと聞こえて。
「……大丈夫か、マユ」
痛いほどに酸素を求める肺に空気を吸い込み、シンは後ろに目を向ける。
そう。
つながった手の先。最愛の妹へと。
「だい……じょうぶ…………まだ……がんば……れるから……」
「あぁ、もう少しの辛抱だからな」
「……うん」
だが、それは精一杯の嘘だということにシンは気づいている。
妹よりも三つも年上で、しかも男の子である自分がこうまで疲労しているのだ。
慣れない山道、そこは人が快適に通れるにはほど遠い。
運動の苦手な妹は、今すぐにでも座り込みたい気持ちだろう。
座り込んで、もう一歩だって歩きたくないだろう。
だけど、
「急げ! シェルターまではもう少しだ!!」
「二人ともがんばるのよ!!」
止むことのない爆音に掻き消されながらも、先を走る両親の叱咤が飛ぶ。
確かに、この山を越えた先にかなり大規模なシェルターはある。
戦闘は市街地を中心に展開されていたから、そこから離れた山間部は大丈夫なはずだった。
それが、混乱した思考の中で下された両親の決断。
だからシンは走った。
妹と、両親と。
(くそぉ……なんでこんな…………なんでオーブが……!!)
家の近くのシェルターは安全な場所などではなかった。
たった数発の爆弾が近くで破裂しただけで半壊してしまったのだ。
泣き叫ぶ声と崩れ落ちる肢体。
世界は一変してしまったのだ。
人々の笑顔は悲しみと絶望へと変わり。
整然とした町並みは、遊びに飽きた子どもによって散らかされたかのようで。
(ウズミ・ナラ・アスハ……)
それは全て、ひとりの男の決断がもたらした結果だった。
絶対に安全で、戦争とは無関係で。
だからオーブにはたくさんの人がいたのだ。
ナチュラルも、コーディネーターも、そんなの分け隔て無く。
(それを……! あの一家が…………!!)
果たしてあいつらはこうなることをちゃんと考えていたのだろうか?
自分たちだけ完全に安全な場所にいて、だからこんな愚かな決断を下したのではないか。
この判断が正しくないことなど、火を見るより明らかなのに……
―と
「……あ!?」
突然後方から聞こえた悲鳴に、シンの思考はその歩みと共に中断されて。
「マユ!?」
振り向けば、マユの足が完全に止まっていた。
もちろん、シェルターはまだ見えていない。
「わたしの……携帯…………」
マユは、今にも泣き出しそうな顔で辺りを見回していた。
こんな時に……普通なら、誰もがそう思うだろう。
「そんなもの、後でいくらでも買ってあげるから!!」
「そうよ! 今はそんなことより早くシェルターに!!」
後方の異変に気づいたのか、少し距離が開いてしまった両親が叫ぶ。
だけど、マユは聞かなかった。
「いや! ほんとにすぐそこにあるから…………ほら、あそこに……!!」
「バカ!! そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「でも、でもすぐそこに……!」
「シン! 早くマユを連れて来なさい!」
両親の怒声に、シンは思わずつながった手を引っ張ろうとする。
が、
「……マユ」
「お兄ちゃん……」
返ってきた思いのほか強い力にシンは戸惑う。
甘えん坊だけど、兄や両親を困らせるようなことをしない妹。
その妹が、こうまで頑なな態度を取る。
おまけにこんな危機的な状況の中で。
「シン!」
「お兄ちゃん!」
だからシンは両親の声に逆らっていた。
「すぐ戻る!!」
そうマユに言い残して、地肌がむき出しの斜面を駆け下りる。
マユの携帯は軽い傾斜のすぐ下、そこから突き出た岩石に引っかかっていて。
「…………よし、これで……」
それはほんの数秒ほどのことだったに違いない。
わずか5、6メートル先に落ちた携帯を拾って戻る。
ほんとに、何でもないこと。
すぐに走り始めれば、なんでもないと思えるぐらいの時間。
その、はずだった。
「……やった! 後は……」
ピンク色の携帯を拾い上げ、来た道を戻ろうとしたその瞬間。
「うわぁああああああああ!!」
世界が暗転する。
ひときわ激しい轟音が耳を劈き、全身を突き抜ける灼熱のごとき烈風。
身体は宙を舞い、かと思えば地面に叩き付けられて。
そうして―
そうして、いったいどれほどの時が経ったのか。
痛む身体を無理に起こし、開いた眼(まなこ)の先に。
「ぁぁ…………」
そこは、明らかに自分がいる所より高い場所だった。
なぜなら、自分はそこを下ってここに来たのだから。
なのに……
「ぁぁ……」
巨人の手で抉られたかのように陥没した大地。
今や自分の方が見下ろす位置に立っている、そこから見たモノ。
木々は燃え、薙ぎ払われ。
嗅いだことのない異臭が辺りに立ちこめる。
そして、それはあった。
「……ま……ゆ……?」
受け入れたくない現実。
嘘だと、そう信じたい光景。
認めたくないのに……
両目は、シンの意志に反して涙を流していて。
「ぅぁぁ…………ぁああ…………」
小さな身体の半分は炭化していた。
昨日買って貰ったばかりで、喜んで何度も見せてくれたその服は引きちぎられていた。
赤いはずの血は、ひどく黒ずんでいた。
それでも。
「ぁぁぁぁぁ……」
それでも、見間違えるはずがない。
ついさっきまで一緒にいて。
ついさっきまで手を繋いでいて。
ついさっきまで二人で走っていて。
なのに、今はもういない。
「ぅをぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
絶望の咆吼はしかし、上空を舞うMSの音に掻き消された……
「…………」
目が覚めると、その先にあったのはいつもの天井だった。
何の飾り気もない、ベッドと椅子だけがある小さな空間。
本当にただ「休むため」だけの部屋の、その天井だ。
「……ふぅ」
一度深く息を吐き出す。
そうしてから、シンは堅いベッドから身を起こした。
「マユ……」
すると真っ先に目をやるのは、椅子の上においたピンク色の携帯だった。
およそ年頃の男の子が持つに相応しくない、おまけにボロボロの携帯。
けれどそれが、唯一の形見なのだ。
二年前のあの日。
全てを失ったあの時。
それは一度でも忘れたことなどない。
「だけど、それも今日で終わる……」
グッと両の手の拳を握りしめる。
迷いなどなかった。
否、そんな気持ちのある方がおかしい。
全ては家族の仇である連合を滅ぼすため。
その思いを糧に生き、己を鍛え、ここまで来たのだ。
「そうだ……俺のこの手で、すべてを終わらせる……」
プラントに渡った後、直ぐさま士官学校へ入った。
以前はしなかった勉強も、そこでは全然苦にはならなかった。
やったことのないMSの操縦も、必死になって練習した。
『ナチュラル全てを滅ぼせば、戦争は終わる!』
その時に、パトリック・ザラの唱えた主張に共感した。
自分も、一日でも早く戦場に立とうと決意した。
なのに戦争は終わった。
どちらが勝ったというわけではない。
どちらもが敗者だった。
人々は憎しみを忘れ、差し出された安息に飛びついた。
けれど、それに馴染めない人間もいた。
どうしても憎しみを忘れられなかった。
シンもその一人だった。
『ナチュラル全てを滅ぼせば、戦争は終わる!』
そして、計画は実行を迎える。
細々と続き、けれどもしっかりとした意志の下で進められたひとつの計画。
「……マユ」
もう一度、その名を呼んだ。
あるはずのない迷いを、それでも消し去るために。
そしてもう次の瞬間には。
赤い瞳の少年はゆっくりと、だがしっかりとベッドから立ち上がっていた。