明治三十年六月、屯田歩兵第四大隊が野付牛移駐にあたり、大隊長小泉正保様が天照大御神を奉戴致し、
同年八月、現・野付牛公園南端に神殿を設け、同年二十四日・二十五日の両日鎮座祭を斎行し、
奉斎致したるをもって創始とする。当時はこれを護国神社と称した。
これと前後して開拓移民団が入植する。当時は海路にて来北する為に、一ヶ月以上もの船旅中、
海上守護神たる住吉大神を奉戴して祈願を続け、上陸後、開拓の祖神として合祀される。
明治三十八年四月、社殿を高台寺敷地の一角に移築する。
大正二年五月、野付牛の発展に伴い住民の合意により、現在地(北二条東六丁目)への遷社が決定、
同年九月十五日、遷座祭を斎行する。ここに北見神社例祭日の起源がある。
大正九年十二月、内務省より無格社に列せられる。社号を野付牛神社と定める。
大正十年四月、内務省より村社に列せられる。
昭和十七年二月、社務整備の結果、内務省より郷社に列せられる。
同年六月、市制施行に伴い、同年十月、社号を北見神社と改称する。
昭和十八年、県社昇格申請を出すも、終戦により社格制度が消滅する。
昭和二十五年四月、伊勢神宮少宮司秋岡保司様来社の折、農業神たる豊受毘売神の御分霊
御下附申請をなしたところ、同年五月、特別御裁可と決定され、同年六月二十四日、
豊受毘売神が御奉遷され、翌二十五日、御奉遷大祭を斎行し奉斎される。
すなわち、北見神社は、先人たる開拓者が一家挙げて命がけで来北し、
血のにじむような歎難辛苦の果てに、精一杯の思いを込めて建立したお宮であって、
生きる為に、家族を守る為に、厳寒の大地に働き抜き、苦しみと悲しみと疲労とが
怒濤のごとく渦巻くその胸の内を、拍手の音にこめてひたすら祈ったところの壮絶たるお宮であった。
かかる想像を絶する開拓者、農民達の努力と労苦の結果、
氷雪の大地にも米を根付かせるに至った事に対して、畏れ多くもこれに御報い下さらんとして、
我が国神祇の本宗たる伊勢神宮より、農業神であられる豊受毘売神が御分霊あそばされたのである。
昭和二十七年八月、伊勢神宮御分霊社たる由緒をもって、伊勢神宮祭主北白川房子様が
伊勢神宮大宮司佐佐木行忠様、参議院議長佐藤尚武様を随伴され、正式参拝の御儀がある。
昭和四十二年十月、同じく、伊勢神宮大宮司徳川宗敬様の正式参拝の御儀がある。
昭和五十二年十二月、北見神社御造営奉賛会が組織され、市民の御浄財により、昭和五十五年七月、
現在の総桧、銅板葺きの神明造り御社殿が竣工し、同年七月三十日、遷座祭が斎行される。
さらに社務所、神輿殿の竣工、玉垣新設、庭園造成等の境内の整備事業がなされる。
平成八年、北見神社は明治三十年の創祀から数えて記念すべき百年目を迎え、同年六月二十五日、
御創祀百年記念式年祭が斎行された。
平成十一年十月二十七日、第四十回北海道神社庁神社関係者大会が北見市において開催。
それに先立って北見神社において、藤岡重孝伊勢神宮少宮司、古谷金祐神社本庁統理代理、
片川昭壽神道政治連盟会長代理の正式参拝を賜リました。
平成十二年豊受毘売神合祀五十年を迎えるにあたり、石碑三基、歌碑二基、火灯簸一対、
管鸚一対、大幟一対、植樹三百本の記念事業により境内は一新され、
同年六月二十五日豊受毘売神合祀五十年祭が厳粛に斎行された。
平成十六年、駐車場を拡張整備し、平成十八年には御創祀百十年祭を厳粛に斎行した。
こうして北見神社は、氏子崇敬者の共有財産たる、北見の鎮守の氏神神社として今日に至っている。
工業都市・北見市の総鎮守として当地の開拓当時から鎮座する神社です。
「北見市」は「北見国」から命名されましたが、あまり歴史がある訳ではなく、
明治5年(1872)にノツケウシ村が置かれてから野付牛と呼ばれていました。
付近の屯田兵村の下野付牛は端野神社、上野付牛は相内神社が置かれました。
野付牛町から昭和17年(1942)に北見市政に移行されました。
訪れた当日は例大祭が行われていて、神輿を担いだ男たちが街を練り歩いていました。