那古野神社

Last-modified: 2013-10-05 (土) 16:07:45
 

那古野神社
なごやじんじゃ
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(参拝日:平成24年11月23日)
住所:愛知県名古屋市中区丸の内2-3-17mapionlogo.gif
主祭神:須佐之男神、櫛稲田姫神
社格:県社
主な祭礼:7月15日・16日(天王祭)

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
当社は、醍醐天皇の御代、延喜十一年(西暦九一一年)三月十六日に尾張国那古野庄(現在の中区三の丸)の地に
勅により鎮祭されたと伝えられている。

当時は天王社と称し、神仏習合により別当として真言宗亀尾山安養寺十二坊(首班を天王坊)があった。

天文元年三月、織田信秀が那古野城主今川左馬之助氏豊を攻めた際当社社殿は兵火にかかることとなったが、
後に信秀は社領若干を寄せ諸役を免じ、天文七年には社殿は再興された。

時は変わって文禄四年八月三日、豊臣秀吉は改めて社領三百四十八石余を寄せる。

徳川の治世となり、慶長十五年の徳川家康の名古屋城築城にあたって、
当社並びに若宮八幡社は郭内となるため、他地に遷座の際に築城奉行佐久間政実をして御籤をとらせ神慮を伺った。

その際、当社は不遷の御籤のみ再三に及んだため、御城鎮守の神・名古屋産土神として旧知に依然として祭られ、
元和元年六月九日国主徳川義直によって改めて社領三百四十八石余を寄せ墨印地とした。

爾来、歴代国主の崇敬も篤く、毎年例祭には代拝参向・奉幣祭祀し祭儀の際も特に五十石の地を寄せて盛大に
行った。また、社殿他の修造もみな藩主が執り行った。

明治維新・廃藩置県の際に社領は没収され、逓減禄の制度に基づいて若干の金員を下付された。
神仏混淆禁止の後に社号牛頭天王を改め須佐之男神社と称して別当を廃止して神職を置いた。

明治五年郷社に列し、明治九年十月名古屋鎮台創置にあたって西区茶屋町(現在地)に遷座となる。
明治十一年には県社に列し、那古野(名古屋)創始の由緒に基づいて明治三十二年那古野神社と改称し、
明治四十年神饌幣帛共進神社に指定され大祭毎に県知事が参向し祭典を挙行した。

大東亜戦争による空襲により昭和二十年三月十九日御本殿以下を消失するが、
氏子並びに一般の寄付を仰ぎ昭和二十九年御本殿及び祝詞殿、同三十二年に拝殿、
同三十四年に渡殿及び神札授与所を完工した。

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↑拝殿↑
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↑公孫樹↑

(以下、余談)
名古屋の丸の内、官庁街に近いところに神社はあります。
明倫堂跡の駐車場を挟んで、名古屋東照宮と隣り合っています。

延喜11年(911年)の亀尾天王社がこの神社の始まりとされ、長い歴史があります。
現在の名称「那古野神社」とされたのは、明治32年(1899年)のことです。

ここの神主様に「那古野」の由来や歴史について色々と伺いました。

那古野神社は今と昔では違う位置にありました。
織田家の当主・織田信秀が那古野城を、江戸時代の名古屋城三の丸あたりに造ったのですね。
戦国時代に那古野神社は焼失していますが、織田信秀によって同地に再建されています。