イリュリア=ヴラフ及びユーゴスラビア連合帝国

Last-modified: 2019-11-03 (日) 11:11:11

イリュリア=ヴラフ及びユーゴスラビア連合帝国、もしくはテッラ・コロナエは、バルカン半島に位置する立憲君主制国家であり、
イリュリア帝国、ルーマニア王国、ユーゴスラビア帝国で構成される、軍事・財務・外交を統一した物的同君連合である。
バルカン半島の過半を領土とし、黒海、アドリア海、エーゲ海と接する。

イリュリア=ヴラフ及びユーゴスラビア連合帝国
Perandoria e Bashkuar e Ilirisë, Walachia dhe Jugosllavia
Imperiul Unita al Illyriei, Vlach și Iugoslavia
Обединена Империя на Илирия, Влах и Югославия
国旗イヴユ国旗.png
国の標語分離され得ぬ統一
unitetit të pandashëm
unitate inseparabilă
Неделимо единство
国歌帝冠に栄光あれ
Lavdi Kurorës
Gloria către Coroană
Слава на короната
イヴユ地図.png
地図は『CraftMAP(http://www.craftmap.box-i.net/ )』様のものを加工させて頂きました
公用語ユーゴスラビア語、ルーマニア語、アルバニア語目次
首都タルノヴォ
最大の都市ブカレスト
皇帝シメオン6世
首相ルカ・チャウシェスク
面積イリュリア帝国:40,260km2
ルーマニア王国:272,250km2
ユーゴスラビア帝国:423,256km2
総計735,766km2
人口イリュリア帝国:3,786,944人
ルーマニア王国:21,963,383人
ユーゴスラビア帝国:36,232,783人
総計61,983,110人
人口密度:84.243人/km2
GDP(自国通貨表示)2兆1894億ダボーグ
GDP(MER)9687億US$
GDP(PPP)9382億US$
一人あたり:15136US$
成立1878年3月1日
通貨ダボーグ(IVĐ)
1Đ≒55.27円≒0.49USドル(2018/11/22現在)
時間帯UTC +1:30(DST +2:30)
ISO 3166-1IV / IVY
ccTLD.iv
国際電話番号359
ツイッターアカウント@illvlayugo3emp

国名

変遷

 ヨーロッパ各国に吹き荒れる民族主義の嵐はバルカン半島南部に居するセルボ=ブルガリア帝国にも波及した。
 特に南スラヴ諸氏を統合した民族国家を形成するべきであるという『イリュリア運動』は、オスマン帝国の衰退と共に新領土獲得の余裕が出てきた帝国政府の支援も受けて激化し、バルカン半島北西部を支配するオーストリアが1848年革命によって混乱したことをきっかけに実行へと移された。
 セルボ=ブルガリア帝国はオーストリア支配下にある南スラヴ人居住地域の民族的解放を名目として二度のサヴァ川戦争を引き起こし、1869年のベオグラード条約においてこれらの地域をあらかた回収し終えた。

 しかし南スラヴ人の大半を統合したセルボ=ブルガリア帝国が彼らの民族国家となるには、スラヴ人とは異なる民族が主に住まうルーマニアやアルバニアが足枷となった。既に1821年にワラキア地方で大規模な反乱が起きており(第一次ワラキア蜂起)、またその他にも両地方では小規模な反乱が多発している以上、南スラヴ民族国家への変態は両地方支配の正統性を更に薄め、収拾の付かない状況を呼び込む恐れがあった。

 帝国は、この内アルバニアについては、イリュリア運動の更なる普及によって解決できると考えた。そもそもイリュリア運動とは南スラヴ人の起源を古代のイリュリア人に求める主張であり、またこの古代イリュリア人はアルバニア人の祖先ともされるからである。即ちこの主張においては南スラヴ人とアルバニア人は古い兄弟であり、セルボ=ブルガリア帝国を『イリュリア帝国』とする事で『我々の帝国』を共有できる存在となると考えられた。
 一方のルーマニアにおいては、長らく解決の目処がつかない状態が続いた。1873年には第二次ワラキア蜂起が発生し、既にセルボ=ブルガリア帝国のルーマニア支配は限界を迎えつつあった。オーストリアの復讐的言動やロシアの干渉が激化する中、帝国政府はついにルーマニア独立運動への歩み寄りを決断する。

 かくして1875年、古代イリュリアを祖とし、その末裔たる南スラヴ人とアルバニア人を包括する民族国家『イリュリア帝国』の三年後の成立と、それに伴うヴラフ王国の独立、そして両国による同君連合の形成が宣言され(リッソス宣言)、ルーマニア・アルバニアにおける独立運動は一時沈静化した。ワラキアにローマ文化を伝えたのはイリュリア人であると言われており、イリュリアの皇帝がワラキアの王を兼ねる事にある程度の正当性が存在する事もプラスに働いた。
 他方南スラヴ人によるイリュリア運動もその結実を見ていよいよ高まり、セルボ=ブルガリア帝国政府内でもイリュリア帝国の成立と同時に首都をリッソスに移す計画まで建てられた。

 しかし事態はあらぬ方向へと進んでいく。
 皮肉にも、イリュリア運動を受けて活発化した考古学研究により、スラヴ人とイリュリア人との関係性が薄いであろう事が明かされたのである。(本当に皮肉な事に、帝国政府はリッソス宣言の正当性を強化する為、考古学研究への活発な支援を行っていた)
南スラヴ諸氏を糾合する『イリュリア皇帝』の正当性はあっさりと失われ、帝国政府はイリュリア帝国をユーゴスラビア帝国へと再改称する事を決定した。

 しかしそんな掌返しを前にして、散々『自分たちの国家』への期待を煽られたアルバニア人が黙っている筈もなく、またルーマニア人も帝国政府への不信感が爆発し、更には併合して間もないクロアチアやスロベニアの人々の不安をも煽った結果、各地で反乱、蜂起、革命が頻発し(1877年大乱)、セルボ=ブルガリア帝国は完全に機能不全に陥った。宣言が出されたリッソスやかつてワラキア公国の首都がおかれたクルテア・デ・アルジェシュなどが反乱軍に占領され、ワラキア総督ニコライ・ステファノフが惨殺されるなどし、バルカン半島の民族運動は完全に制御不能と化した。

 結局帝国政府は屈服し、イリュリア帝国をアルバニア人の国家として新たに独立させる事、ヴラフ王国の独立とユーゴスラビア帝国との平等性の確約、リッソス宣言を遵守し『イリュリア皇帝がヴラフ国王を兼ね、更にイリュリア皇帝をユーゴスラビア皇帝が兼ねる』形式での同君連合の結成などが盛り込まれたドゥラス宣言が行われ、現在のイリュリア=ヴラフ及びユーゴスラビア連合帝国が成立した。イリュリアがその領土や人口に見合わない『帝国』を自称することや、中心的な役割であるはずのユーゴスラビア帝国が国名では最後に付くのはこれが理由である。

 その後ヴラフ王国は1907年にルーマニア王国に改称したが、連合名の変更に煩雑な法的処理が多数必要である為、連合帝国の名前としては現在まで『ヴラフ』が使われている。

略称

 正式名が長いため、政府が正式に通称として『テッラ・コロナエ(Terra Coronae、ラテン語で『王冠の地』の意味)』を制定している。ラテン語名であるのは所属各国の平等性の維持、また『イリュリア人がローマ文化をワラキアに伝えた』事が連合の根幹の一つになっている為である。
 ただし非公式な場では、欧州では元となった国家である『ブルガリア』、日本語では頭の音を一つずつ取って『イヴユ帝国』と呼ばれる事が多い。日本ではテッラ・コロナエを意訳した『帝冠連合』と呼ばれることもある。漢字一字では『冠』とされる。
 また、帝位及び王位を合わせて三つ有する事、各国がある程度の独立性を有している事などから、地域・言語問わず『三重帝国』と呼ばれる事も多い。そのまま『連合帝国』と略す場合もある。この略称は帝国政府もたびたび用いるものである。

歴史

大戦前

 成立直後の連合帝国は四方を仮想敵に囲まれていた。
 南のオスマン帝国と東のロシア帝国は長年それぞれバルカン半島やモルダヴィアを争ってきた仇敵、北のオーストリア=ハンガリー帝国は国家成立時に大幅に領土を奪ったので当然関係は最悪、西のイタリア王国も『未回収のイタリア』問題によって対立しており、連合帝国の安全保障は危機に立たされていた(この『周辺諸国のほぼ全てと問題を抱え、敵対関係にある』状態は現代まで続き、国際ジョーク等で連合帝国のお家芸とも呼ばれる)。
 近隣諸国と敵対関係に陥った結果連合帝国は遠方の国と手を結ぶ事を主軸とし、帝国は対伊としてフランスと、対露としてイギリスと条約を締結。
 更に1897年にはギリシャと共にオスマン帝国に宣戦布告(第一次バルカン戦争)、バルカン半島の領土を奪取し、南西部で同盟勢力のギリシャと接するようになった事で、全方位が敵である状況からは解放される。(ギリシャ自体は小国だが、ギリシャから海を渡ってエジプトのイギリス勢力から支援を受けられるようになった事が大きい)
 しかしマケドニアの領土分配をめぐって徐々に関係が悪化し、1912年の第二次バルカン戦争でも共同戦線こそ張るものの、第一次・第二次バルカン半島によって獲得されたマケドニア領土問題はいよいよピークに達し、1913年ギリシャとの戦争に発展した。
この戦いでギリシャは第一次・第二次バルカン戦争で敵だったオスマン帝国と手を組みオーストリアなどの支援を受けるものの、いまだ小国のギリシャと衰退真っ最中のオスマン帝国では腐っても列強の連合帝国に歯が立たず、二ヵ月後に講和、マケドニアの大部分は連合帝国が掌握した。
 この戦争で帝国は南スラヴ民族の主要居留地をほぼ回収しきる事はできたものの、再び南部を仮想敵に回すこととなった。
 一方ヴィルヘルム二世によってビスマルクが築いてきた国際秩序が崩壊しつつある中、連合帝国は英仏の仲介でロシアとある程度和解し条約を締結。協商の一角として中央同盟と対峙する姿勢を取った。

第一次世界大戦

 連合帝国はベオグラード条約によってオーストリア・ハンガリー帝国領の南スラヴ人居住地を大量に割譲させたが、これらの土地には未だ多くのドイツ人・ハンガリー人が居住していた。
これらの領土を治めたユーゴスラビア帝国はその『南スラヴ人の帝国』という性質から南スラヴ人を優遇する政策を執り、ドイツ人・ハンガリー人には不満が蓄積し、そのうちのいくらかが地下組織として成立し、いくつかの武力テロなどを発生させた。
 できる事ならこれらの土地を奪還したい、そうでなくても連合帝国の動きを鈍らせたいオーストリア・ハンガリー帝国はこれらの組織に秘密裏に援助を与えており、1913年のギリシャとの戦争でその活動はピークに達し、戦争終結後もこれらの地域では緊張状態が継続していた。
 1914年6月28日、連合帝国皇太子のイヴァン・ステファノフがこうした混乱を慰撫する為サラエボを訪問した際、地下組織の一つがこれの暗殺を実行。最初に手榴弾による爆殺を試みたが外れて失敗したものの、これによる被害者を皇太子が見舞った帰り道にちょうど地下組織の他のメンバーがいた為、彼は拳銃で皇太子夫妻を殺害した。
 暗殺事件は国際情勢に大きな影響を与えた。連合帝国はこの事件の背後でオーストリア・ハンガリーが扇動を行っているとし、バルカン半島へのオーストリア・ハンガリーの干渉を完全に排除しようとした。オーストリア・ハンガリーはこれらの内容を含んだ連合帝国からの最後通牒を一部は受諾したものの連合帝国は全面受諾しか応じない姿勢を取り、1ヶ月の外交努力と戦争準備が行われた後、7月28日に連合帝国はオーストリア・ハンガリーに宣戦布告し、これを端緒として協商側ではロシア・フランス・イギリス、中央同盟側ではドイツ・イタリアがそれぞれ参戦した事で第一次世界大戦が始まった。

 第一次世界大戦勃発当初、オスマン帝国とギリシャは未だ参戦していなかったが、オスマン帝国は中央同盟国のドイツに軍事支援を受けており、ギリシャは王がドイツ皇帝の義弟である事などから軍内に多数の親ドイツ派が存在していた。これらの要素は連合帝国に南部への警戒を促し、大戦序盤において連合帝国が積極的な攻勢に出られない主要因となった。それでも連合帝国はオーストリア・ハンガリー及びイタリアとの戦線において優位を築いたが、11月にいよいよオスマン帝国及びギリシャが参戦すると一転して不利に追い込まれた。
 まずギリシャ・オスマンの参戦は連合帝国の艦隊に三分を強い、アドリア海における制海権争いでイタリアに遅れを取らせ、これによってオトラント海峡の一時封鎖が実現してしまう。更に中央同盟はこの状況を千歳一遇の機会と捉え、連携による大攻勢を発動した。
 全戦線からの攻勢に加えイタリア軍がアルバニアに上陸したことで連合帝国の戦線は崩壊を起こし、ルーマニア・イリュリアのほぼ全域及びユーゴスラビアの北部地域をも失陥し、連合帝国は絶体絶命の危機を迎えた。
 既に連合帝国に余力は無い状態だったがギリシャ・オスマンへも英仏の上陸によって危機に瀕しており、またオーストリア・ハンガリーもロシアとの激戦で限界を迎えつつあった。更に連合帝国はもともと政治的に結束・安定しているとは言い難く、占領を続けられては例え勝ったとしても国家の存続が困難になるであろう事から、連合帝国は直後に大規模反攻を行った(通称『重病人同士のデスマッチ』)。
 この反攻作戦は一定の戦果を挙げたが、オスマン・ギリシャに止めを刺すまでにはいかず、北部も戦前の国境まで押し上げることはできなかった。南部戦線においては英仏による『とどめの一撃』も期待されたが、ガリポリの戦い(ダーダネルス戦役)の失敗によってこれも不可能となった。

 反攻作戦は領土的に見れば連合帝国の復活のように見えたが、実際には最大の工業地帯であるスロベニアなどユーゴスラビア北辺地域を未だ失ったままであり、激しい反攻作戦の上でこれらの領土を奪還できなかったことは武器弾薬の深刻な不足を招き、連合帝国の継戦能力に致命的なダメージを与えた。英仏に対して物資の融通が要請され、輸送路を確保するため海戦が激化した。作戦の成功で連合帝国は何とか戦争を継続できるようになったが、一方北部戦線にドイツのアルペン部隊が投入されたことで北部地域奪還の見込みは更に遠のいた。

 この頃より攻勢を放棄して防衛に傾注し損害を抑えようとする軍部と政治的な理由により一刻も早く北部を奪還したい政府の対立が深まり、結果1915年10月13日に軍事クーデターが発生した。しかし旧政府側によって攻勢を放棄する計画が英仏など協商国に漏洩し、物資支援を受けながらファニーウォーを画策するのは背信行為だとして物資支援の差し止めなどを脅迫されたことで再度の攻勢を仕掛けざるを得なくなる(この頃には人的損耗と工業力の欠落により、連合帝国はもはや列強とは呼べない程に戦力を低下させており、英仏の支援なしに広大な戦線を維持する事は困難になりつつあった)。
 しかしこの攻勢は大した戦果を上げることもできず、更にロシア革命を押し留めロシアの戦線離脱を防ぐために行った各種支援が工業製品の不足で窮状にある連合帝国民の逆鱗に触れ、旧政府勢力の煽動もあり連合帝国は大きく動揺し、『ロシアよりスロベニア(自国領であるスロベニアが他国の占領下に置かれているにも拘らず奪還の兆しが無く、その癖他国であるロシアに支援を行うとは何事か)』という声が溢れた。この革命前夜とも呼べる状況は皇帝ミハイル6世による軍事政権首班ニコラ・ジェコフの罷免と元首相イヴァン・ゲショフの復権という君主大権の行使によってようやく落ち着きを見せたが、これまでの損害に加えて度重なる政治的混乱のために連合帝国軍は終戦近くまでほぼ戦闘不能に陥り、イタリアの攻勢やブレスト=リトフスク条約によって余裕が生まれたドイツ軍のルーマニア占領などを許すことになった。
 1918年、西部戦線における『百日攻勢』によって大戦終結への希望が生まれると、連合帝国は最後の力を振り絞って攻勢戦力を組織し、英仏と協力しながらギリシャ・オスマン帝国を脱落させたあとオーストリア・ハンガリーの最後の戦力を粉砕し、これを降伏させた。時を同じくしてドイツ・イタリアも休戦協定を結んだことで第一次世界大戦は終結した。

大戦後

 第一次世界大戦はトランシルヴァニアのルーマニアへの編入などいくつか領土的な拡大を実現したが、連合帝国は他の主要国と同様人的・産業的に膨大な被害を出し、特に戦線が揺れ動き民族対立も激しかったユーゴスラビア北~中部地域においては壊滅的であった。連合帝国は戦勝国となり国際連盟の常任理事国とはなったものの、戦時中英仏に依存し続けた醜態から国際社会において指導力を発揮する事は出来なくなり、バルカン戦争の連勝から『ニュー・グレートゲーム・プレイヤー』とすら称されたかつての威厳を失った。更にオーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の解体は同じく多民族国家であった連合帝国の南スラヴ民族主義組織に勢いを与え、戦間期においても政治的動揺が継続された。また南部戦線において最大の力を有していたイタリア相手には常に不利を強いられ、これはイタリア国民に『我々より弱い相手に負けた』『単独でやり合えば勝てる』という意識を与え、後のファシズム政権における『未回収のイタリア』の再要求を過熱させた。
 他方、初めての総力戦かつ連合帝国として新生して初の対列強戦は連合帝国の軍事・政治・産業構造に大きな刺激を与えた。当初連合内各国には独立した国軍が存在し、それを参謀本部などが纏める形を取っていた(これは1877年大乱などにより連合帝国の立場が比較的弱体だったことによる)が、大戦後期に再編成が行われ、各国から独立した連合帝国直属の軍として再誕した(戦中イリュリア・ルーマニア共に国土の大部分が一時的に占領され発言力が弱まり、また各軍損耗が激しく再編成のために統合の必要性があったのが却ってプラスに作用した)。またギリシャ・オスマン帝国の早期攻略の失敗が多方面戦線での長期化に繋がった事を踏まえた連合帝国軍は塹壕の迅速な突破と突破後の戦果の拡大に主眼を置き、戦車を初めとした車両の有効活用を主とした電撃戦の走りとも呼べるドクトリンを策定し始め、これが転じて第二次世界大戦におけるドイツの電撃戦に対してある程度の対応能力を齎した。
 政治面についても同様に、また復興に際して迅速かつ適切に予算を振り分ける必要から財務省が統合された。
 また大戦後期においては少しでも物資の欠乏を改善するために南部地域の工業化が進み、この流れは大戦終結後も次なる戦争への備えとして続けられた。これによって後の第二次世界大戦において再び北部を失陥した際、第一次大戦に比べ継戦能力を維持し続けられた主たる要因となった。一方で強引な工業化の推進はもともと南部地域で盛んだった農業など一次産業に少なからぬ打撃を与え、現代での食料自給率の低下の遠因ともなっている。

国旗

 連合帝国の国旗は汎スラヴ旗の上に月桂冠と双頭の鷲が置かれたものであり、汎スラヴ旗が南スラヴ人の統合国家であるユーゴスラビア、月桂冠がローマ文化の末裔を称するルーマニア、双頭の鷲が鷲の子孫であるという伝説があるアルバニアを示している。

政治

連合帝国の政体は議院内閣制を踏まえた立憲君主制であり、国家元首である皇帝は1974年3月1日以来シメオン6世である。
皇帝は国家統合の象徴であり、儀礼的職務のみを行う。
議会は国ごとに分かれておりユーゴスラビア帝国が二院制、イリュリア帝国とルーマニア王国が一院制であり、またその上に連合帝国の総体となる『連合議会』が置かれる。

ユーゴスラビア帝国

ユーゴスラビア帝国の議会は庶民院と貴族院に分かれており、庶民院では4年に一度の選挙で国民から代表が選ばれる。
対して貴族院は基本的に選挙は無く、満60歳での定年かもしくはそれ以前での引退、罷免でしか職を外れることは無い。
罷免の場合を除きそれらの空席は前任者の推薦によって決まる。罷免の場合は庶民院から推薦された者が任命される。
権力は庶民院のほうが大きく、貴族院は庶民院の諮問機関及び再考の院としての役割が大きい。

 第一次世界大戦後、また特に第二次世界大戦後には『南スラヴ民族』から脱却して諸氏の独立を果たすべきであるという主張が加熱した。これらの主張は『南スラヴ人の国家』であるユーゴスラビア帝国を根幹から揺るがすものであり、ユーゴスラビア帝国は政治家を始めとした公務員やその候補者、また一部の重要な職業に就く者が民族主義的、もしくはファシズム的な言動を行う事を禁止している。
 ファシズム運動の禁止はベニート・ムッソリーニによる『未回収のイタリア』回収の主張が19世紀のイタリア統一運動を想起させ、その影響で民族主義者の蜂起により混乱が起こったオーストリアの轍を踏む可能性を嫌った為である。単純に『未回収のイタリア』にユーゴスラビア帝国領が含まれていた事、逆にイタリアも南スラヴ人が多く住む『未回収のユーゴスラビア』を有していた事による関係悪化も原因の一つとなった。ファシズム禁止の法律は第二次世界大戦前の1936年に制定されており、現代ヨーロッパの反ナチス・反ファシズムの流れとは関わりの無いものである。
一方で社会主義・共産主義は禁止されておらず、合法政党として共産党が存在する。

イリュリア帝国、ルーマニア王国

イリュリア帝国とルーマニア王国の議会はひとつの『国民議会』のみであり、これも4年に一度の選挙により代表者が選ばれる。
ただしそれとは別に諮問院が存在し、ここが国民議会及びその代表者からなる政府への諮問機関となっている。
諮問院はもともとイリュリア・ルーマニアに根拠地を持つブルガリア貴族による、独立後間もない両国の補佐(と傀儡化)の為に導入されたが、現在ではおおよそ各国民族の者が議席を持っている。選出方法はユーゴスラビア貴族院と同一である。

連合議会

連合議会は帝国に所属する各国の内閣と、各国の選挙とは別の『帝国総選挙』により選ばれた議員によって構成される。
連合帝国がひとつに纏めている軍事・外交・財務の大臣と連合帝国自体の首相はここから選出される。
各国の内閣に所属する人間は、これらの役職に同時に就任することは出来ない。

軍事

 連合帝国の軍隊は連邦間で統合された『帝国軍』と治安維持目的で各国が保有する『特別保安隊』に大きく二分される。
 帝国軍は陸軍、海軍、空軍に三分され、帝国海軍は更に担当地域によって黒海艦隊、エーゲ海艦隊、アドリア海艦隊に分かれる。
 1992年までは徴兵制度が存在し、平時の総兵力78万人、予備役236万人を誇ったが、1991年に第一仮想敵国であったソビエト連邦が崩壊、ウクライナが独立すると、国家財政の圧迫などもあって軍縮を行い、徴兵制度も廃止された。現在の帝国軍は総兵力38万人であり、軍事予算は963.3億ダボーグ(≒472億USドル)で、これはGDPのおよそ4.4%にあたり、この割合は欧州でもトップクラスの水準である(ただしGDP自体が他の欧州の大国に比べて少ないため、予算そのものはフランスやイギリスと同等以下である)。NATOなどの大規模軍事同盟を締結しておらず、また周辺諸国と領土問題を抱えているのが高比率の要因である。

開発能力

 冷戦期に東西どちらの陣営にも組しない『第三陣営』であった事から兵器の国産化に注力しており、開発能力は高いと評価される。その代表が先イージスと呼ばれる独自の艦載武器システム『キメラシステム』及びその後継である『ギガンテスシステム』であり、これらは莫大な鉄量による対艦飽和攻撃を仕掛けてくるであろうソ連への対抗手段として開発された。しかし技術力・経済力において米ソに大きく遅れる連合帝国が軍事技術で両国に対抗しようとした代償は帝国の財政・経済に重く圧し掛かり、また肝心要のキメラシステムも技術的劣位に無理を言って開発した代物であるため、より完成された米製イージスシステムの登場と共に『サーカス・シップ』などと揶揄される事になった。これらの兵器開発による出費は莫大であり、ソ連崩壊とそれに伴う帝国の軍縮が十年遅れていれば、帝国は財政破綻していただろうとさえ言われる。

経済

 連合帝国の一人あたりGDPは15136US$であり、これは世界平均よりは高いがヨーロッパではやや低めの値である。北部の工業地帯と南部の農業地帯との経済的格差がたびたび問題となっており、第二次世界大戦で北部地域が占領された為に無理に工業化した一部の南部地域も経済状況が悪化している。ユーゴスラビアでは反政府民族主義組織の活動が度々発生し、治安の悪化が外国資本の呼び込みを妨げている。

産業

 ルーマニアやブルガリアからは石油が産出し、原油だけでなく石油化学製品も輸出額の多くを占めているが、近年では産出量が国内消費量を賄いきれず、石油輸入国に転落している。また石炭や天然ガスも多く産出している。ユーゴ北部や旧ブルガリア・ルーマニアの石油産出地域周辺では工業、その他の帝国南部地域では農業が盛んであり、農業の輸出品としてはバラやタバコ、ブドウ、トウモロコシ、酪農製品などがある。近年では海外からIT企業の誘致を積極的に試みており、この分野が急速に発展している。

国民

 三国ともおおよそ自民族が大多数を占めるが、長きに渡る連邦制で他2国の民族が合わせて10~15%ほど存在する。
南スラヴ諸氏は国家が存在を認めておらず全て『ユーゴスラヴ人』として扱っている為、内訳がどうなっているかは不明である。

言語

 南スラヴ人の言語としてブルガリア語を元とした新言語『ユーゴスラビア語』が創出され、これがアルバニア語・ルーマニア語と共に公用語となっている。政府はかつて南スラヴ諸言語の使用を禁止しユーゴスラビア語に統一することを試みたが、国民からの猛烈な反対にあって頓挫している。
 しかし帝国領内の人の行き交いが加速してゆく中で、『それだけ話せればセルビア人ともマケドニア人ともブルガリア人とも、更には第二言語として学校で教育を受けるアルバニア人やルーマニア人とも会話できる』ユーゴスラビア語はその存在感を増しており、あと百年間帝国が存続すれば南スラヴ諸語はユーゴスラビア語に統合され消失するだろうと語る言語学者もいる。
 連合帝国としての政府会見では主にユーゴスラビア語が話される。これは前述の通り、ユーゴスラビア国民だけでなくアルバニアやルーマニアの人々にもある程度伝わる言語だからである。

宗教

 ユーゴスラビア正教会、ルーマニア正教会、アルバニア正教会がそれぞれ47%、29%、5%を占め、大半が正教を信仰している。
残りはローマ・カトリックが8%、プロテスタントが3%で、帝国南端地域はオスマン帝国の支配化にいた事もあるためムスリムも5%ほど存在する。

文化

スポーツ

 ヨーロッパ国家の例に漏れずサッカーが盛んであり、強豪国の一つである。国民の統一感を形成する為政府が様々な種目、特に団体競技を積極的に支援している。

外交

国際協力機構(NCA)及び架空国家協力機構(FCA)加盟国である。

国交樹立国

白海国
香港城邦國
ロシア=シベリア連邦
シルバーウィング連邦
アジア民主共和国
シナイ・イスラム人民共和国
大清汉民国
日本国連邦