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Last-modified: 2008-11-30 (日) 07:42:13

目次

サンプル小説





0. Nightmare / 記憶


 静まり返った闇の底。
 焼き尽される様な痛み。
 凍りつく様な恐怖。
 気がつけば、私はそこに落とされていた。
 大好きだった父と母の死体が、無造作に捨てられていた。
 あやとりが得意だった私の手が、両腕が、肩口からなくなっていた。
 もう、血と糞尿と吐瀉物で判別がつけ辛くなっていたが、ここは確かに私の部屋だ。ここは確かに私の部屋で……。
 その先は見てはいけない。
 その先は見てはいけない。
 その先はきっと怖いから。
 その先に怯えているのはもうわかっているから。
 その先にいるものが何をしているのかわかっているから。
 その先にいるものが、ただただ怖いから。
 その先にいるものを見るくらいなら、死んだ方が良いと思うくらいに恐ろしいものだという事はわかっているから。
 それを見るくらいなら……。
 それを見るくらいなら……。


 目があった。
 目があってしまった。


 逃げ出したい衝動に駆られた。
 この場のあらゆる事に目を瞑って、逃げ出してしまいたかった。
 喰らわれる父と母など、どうでもよかった。無造作に捨てられた自分の両腕など、どうでもよかった。ましてや、血と吐瀉物と糞尿で汚れ切った部屋など論外に等しい。


 ただ、怖かった。


 闇の中で猶も輝く銀の髪が、死膚とも言うべき肌の色が、燦然と狂気を表す紅の眼が、現実から浮遊する存在感が、その全てを備えた偉丈夫が、怖かった。


 怖かったのだ。
 全てが、己の生死さえも、どうでもよくなる程に。


 忽然と現れ、私の両の腕を喰い千切り、父と母を己が血肉とせんと卑しく貪るその存在の糧とされる、ただそれだけが怖かった。
 体は既に恐怖と痛みで満たされ、失った両腕どころか全身の感覚までもが死に絶え、この場から逃げる事もできず、目の前の人の姿をしたものに喰らわれるのを待つしかできない。
 いっそ、腕を喰い千切られた時にショック死でもしてしまえばよかったのに。
 いっそ、今も大量に流れる血を流し切って失血しでもしてしまえばよかったのに。
 今はそれさえも叶わない。
 できる事といえば、ただ祈る事だけ。






 神さま神さま、どうかお助けください。
 神さま神さま、どうかお助けください。
 神さま神さま、どうかお助けください。
 神さま神さま、どうか、どうかお助けください。


 神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま、神さま神さま……。


 神さま神さま、どうかこれが夢であってください。
 神さま神さま、目が覚めたら、いつもどおり、パパとママがいる世界であってください。
 神さま神さま、私のお願いをどうか、どうか叶えてください。
 一生に一度のお願いです。
 どうか、どうか叶えてください。神さま。
 それさえ、それさえ叶えてくれれば……。
 それさえ、それさえ叶えてくれれば……。
 それさえ、それさえ叶ッテクレレバ……。
 ソレサエ、ソレサエ叶ッテクレレバ、私ハコンナ道ヲ歩マズニ済スンダノニ……。
 コンナ血ト硝煙ト恐怖ト復讐ノ日々ヲ歩マズニ済ンダノニ……。






1. Hunter / リュド・イリイニシナ・エヴァルド


 夢から覚めると、私の肌の色とは違う忌々しい死膚色をした両腕が見えた。
 ああ、そうか。また私は現実に戻ってきたのか。
 死膚色の両腕がそれを教えてくれる。腕、とは言っても、実際は義手だ。ただ、それは義手というには余りにも有機的で人間の腕としか思えない造りをしている。それもその筈で、魔導師が吸血鬼の腕にサーヴァントの術式を施したものである。義手に見えないが、確かに義手なのだ。そして、それは私が幼い頃に両腕を失った証であるし、私が幼い頃に両親を失った証でもある。


 ……思い出したくもない事だが、先程まで見ていた夢は昔、現実であった事だ。
 全く、現実が最悪なら、夢見まで最悪だ。


 そう思いながら、ベッドから起き上がと相変わらず、殺風景な部屋が広がっていた。
 部屋を飾るのは最低限の調度品とコンクリート剥き出しの壁。そして、女が持つのにも男が持つのにも手が余る拳銃とは思えない図体を持った拳銃と銃弾だけ。それ意外は何も見当たらない。それだけあれば、十分だった。
 自分の生活の全てを如実に表した空間。私の空間。何一つ着飾る必要もなければ、何一つ女らしくする必要もなかった。今は亡き師にもそう教わったし、不自由も何一つしていない。それに、女など師に教えを請うてから捨てている。


 問題があるとすれば、銃弾が聊か高過ぎる事くらいだろうか。
 しかし、仕事で必要だ。こればかりは仕方がないと諦めるしかない。


 尤も、大人しく銃を買い替えれば済む話だが、修行を終了した直後に師の勧めで使用していた銃なので、買い替えるには手に馴染んで――両腕を失っている自分が使うには難のある表現だが――しまっている。何より、現行の拳銃の中でも世界最強の威力を誇る拳銃だ。更にリボルバー式で私の腕でも手入れがし易いのも嬉しい。ただ、装弾数が五発と少なく、確実に仕留めなければならないというデメリットもある。
 その点を考えて、オートマチックの拳銃や短機関銃と使い分けたいとも思うが、内部構造が複雑で私一人では扱いかねる。全ては私の両腕が義手であるという事がネックとなっている。まぁ、お蔭で大口径の拳銃だろうが、短機関銃だろうが、片手で乱射できるし、信頼できる相棒さえいてくれれば、軽機関銃でも何でも扱える。


 ……そういえば、あいつは死んだんだっけ。


 思い出す。
 先週の狩りの時に喰われた筈だ。
 これで3人目になるだろうか? 相棒が殺されたのは。
 多少、残念ではあるが、人外相手のこの家業では生き残る努力をしても命を落とす事が当然であり、それについて一々、悲しんでいられないのも当然である。
 そういう訳で、今日の仕事は私1人で行う事になる。必然的に。
 1人で行うというのは多少は不安だが、今までも新たな相棒を見つけるまでは1人で仕事をこなした事も多くあるし、体調も至って良い。義手のレスポンスも良好だ。問題はないだろう。


 そう判断すると、最低限のカロリーを摂取する為に不味い固形菓子と冷蔵庫からゼリー状のドリンクを取り出す。
 時たま、人を食い散らかした現場での戦闘があるので、胃にはあまり物を入れたくないというのが本音だが、最低限のカロリーくらいは摂取しておかないと万全の状態とは言えないので、仕方なく胃に物を収める。


 はっきり言って、不味い。味気がない。そして、飽きた。
 固形菓子にはバリエーションが何種類かあるが、どれも私の口には合わない。それでも、飽きないようにとバリエーションを全て揃えているのだが、こんな生活を三年も続けていれば流石に飽きる。
 手っ取り早くカロリーを摂取できるのはいいが、ストレスの溜まる食事だ。
 そう思うと、余計に苛々してきたので一気にゼリー状のドリンクで胃へと流し込む。


 不毛な上、ストレスの溜まる食事を済ませ、ごみを捨てるとクローゼットへと向い、何時もの仕事着に着替える。
 ノースリーブのシャツにGパン。Gパンの下には衝撃に対する防御の為のレガースをつける。同様にノースリーブのシャツの上にも衝撃に対する為のプロテクターを着込む。これにスウェーバックの技術を用いれば、大抵の物理攻撃は防げる。さらにその上に防刃処理を施したコートを羽織り、後は大量の銃弾を入れた大きめのパンクバックをコートにつけて着替えを終える。


 何時もなら、パンクバックには銃弾を装填したマガジンも入れるのだが、今は相棒がいないので、手入れをできないものは使いたくない。というよりも、手入れ自体していない。暴発などされたらそれこそ命取りだ。命のやりとりは慎重過ぎるくらいが丁度いいだろう。
 短機関銃で弾幕を張れないのは痛手だが、今日は新月の夜だ。人外の活性は低く、その能力も弱まる。危険を感じる様なら、勘付かれる前に逃げるなりなんなりすればいい。勘付かれたとしても、炸裂系の呪式弾頭を2~3発撃ち込んで腹や胸に当たれば、よほど高位の化け物でない限り、それで終わりだ。それでなくとも、当たればその部分が弾け飛ぶ。その隙をつけば、逃げる事など容易い。


 幾つかの状況をシミュレートしてみるが、それほど危険と思える事はそれほどなかった。
 最も危険と思える事は上位種との遭遇だが、高い知能を持つといわれる上位種は能力を最大限に発揮できない新月の夜にハンターに遭遇する事を嫌い、出歩く事は少ない。更に上位種自体、個体数が少ない事も手伝って、遭遇する可能性は零ではないが、宝くじを当てるような確率だ。新月の夜というシチュエーションで遭遇する事はまず有り得ない。
 大体、上位種との遭遇を恐れるくらいなら、こんな仕事はやっていない。




 そう結論付けてベッドの横のテーブルに置いてある拳銃とは思えない巨体の愛銃、Pfeifer Zeliskaを手に取り、殺風景な部屋を出た。






2. Vukodlak / 復讐


 やはり、頭の悪いものは人間であろうと人外であろうと状況や日取りを考えずに動くものなのだろうか?
 それを裏付ける様に、人気の無い路地裏で身の丈2メートルを軽く超える全身体毛に覆われた1匹の人狼がいた。卑しく舌なめずりをしながら、一歩一歩迫ってくる。
 何時かどこかで、人狼は満月の晩に人間の姿から人狼の姿になると聞いた事がある。実際の所、月に影響されて変身する人狼など存在はしないのだが。
 まぁ、人狼を見た人間などが表の社会で生きていける筈もなく、大抵は人狼の腹に収められるのが精々だ。それに人狼自体、夜でも明るい目立つ場所へは行かない。大昔には人家を堂々と襲ったりもしたそうなのだが、その後にそれらを狩る事を生業とした人間達に大々的に報復措置として種の危機にまで狩られた為か、それ以降は闇に乗じて人を喰らうなど、目立たぬように自らの食欲を満たしているらしい。
 そして、闇に乗じて人を喰らう人外を処理するのが私の仕事だ。


 それにしても、運がいいのか悪いのか。
 相手は人狼。硬い毛皮と強靭な筋肉で凡その攻撃を通さない上に高い再生能力で内臓を破壊されたところで、怯む程度で終わってしまうような化け物が相手を1人で相手にするには分が悪い。例え、新月の影響で能力が落ちていたとしてもだ。
 とにかく、逃げる事を第一に考え、対人狼戦術を展開していくしかない。幸い、人狼の硬い毛皮であろうと強靭な筋肉であろうと撃ち抜ける銃がある。上手く心臓や脳に当たれば、一撃で屠れるだろう。
 覚悟を決め、Pfeifer Zeliskaのグリップを握り直す。
 人狼はそれに気付いたのか、やや慎重な足取りに切り替えた。だが、何が可笑しいのか下卑た笑いを絶やさずに舌なめずりを繰り返している。


 ああ、そうか。
 人狼の剥き出しの獣性を見て納得する。
 あれは雄で、大半の下卑た吸血鬼と同じ嗜好を持っているのだろう。人狼と吸血鬼の違いなど、知能くらいしかない。それ以外での思考など、似たようなものだ。
 特に人狼から成った吸血鬼はこの下卑た嗜好を強く持つと言われている。ならばこそ、この人狼の嗜好も納得がいく。恐らく、この人狼が吸血鬼に成ったとすれば、このような下卑た吸血鬼になるに違いないだろう。


 こんな存在を目に映すのが嫌になる。
 知能のない下卑た笑いが嫌になる。
 舐るような目が視姦を楽しんでいる様で嫌になる。
 最悪だ。
 輪姦を楽しむ男も似たような顔をするのだろうか?
 輪姦している女が処女だと知って喜ぶのだろうか?
 そのような状況に陥った経験などないが、きっと今の状況と大差は無いのだろう。所詮、モラルの無い男は送り狼だ。下卑た笑いも浮かべられれば、処女を奪う事に喜びも感じる。
 そんなモラルの無い獣性に支配された人間と目の前の人狼は同種の存在として扱った所で何の問題も無い。男も目の前の人狼もそれぞれの意味で女を食す行為が好きなのだろうから。


 瞬間、怒りが込み上げた。
 同時にフラッシュバックされる幼い頃のビジョン。トラウマ。復讐を誓った日の記憶。
 下卑た吸血鬼に喰らわれ、貪られ、品のない咀嚼と嚥下で屍肉から化け物の血肉へと変えられる父と母。
 血と糞尿と吐瀉物と、父の屍肉と母の屍肉と喰い千切られた私の腕と、下卑たものに犯され喰らわれる恐怖と失った両腕の痛みとカニバリズムへの嫌悪と父と母への哀しみと屍肉を犯し喰らう怒りと下卑た哄笑とで埋め尽された私の部屋。


 吐き気がする。熱が込み上げる。
 人狼の下卑た仕草が一々、思い出させる。
 吸血鬼に、人外に、復讐を誓ったあの日を思い出させる。
 ああ、何て素晴らしい日なのだろう。
 吸血鬼に成るのならば成ってしまえ。
 あの日の吸血鬼と同じものを殺せる。
 ああ、何て素晴らしい日なのだろう。
 この素敵な出会いを神に感謝しよう。
 ああ、何て素晴らしい日なのだろう。
 あの下卑たものを殺せるなんて。何て素晴らしい日なのだろう。


 思考は回転する。思考は回転する。
 人狼は笑いを浮かべながら、にじり寄る。
 思考は回転する。思考は回転する。
 距離は8メートル。銃はまだ構えない。
 感覚が鋭敏になる。感覚がクリアになる。
 失った筈の両腕の感覚が戻ってくるほどに。
 人狼はにじり寄る。人狼はにじり寄る。
 距離は7メートル。距離は6メートル。
 人狼が全身の瞬発力を駆使して飛び掛る。
 私の義手が最高のレスポンスを持って、撃鉄を引き、人狼の身体に銃口を向ける。
 距離は縮まる。人狼の移動速度は正に神速。人間の動体視力では正確に捕らえる事は難しい。
 距離は縮まる。距離は縮まる。5メートル、4メートル。
 息をつく暇さえも無い。気がつけばもう、半分も距離を詰められた。それでも、まだ銃弾を撃たない。
 3メートル……。
 もうすぐ、人狼の爪の射程に入る。もうすぐ、もうすぐ……。
 2メートル。
 知覚が加速する。全てが遅く遅く、あらゆるものが遅く見える。身体は動かない。全神経を知覚に費やしている所為だ。
 1メートル80センチ。
 人狼の右腕が振りかぶられる。完全に人狼の射程だ。身体は動かない。身体は動かない。全神経を知覚に費やしている所為だ。
 1メートル75センチ。


 雷鳴。雷鳴。雷鳴。雷鳴。雷鳴。


 雷鳴にも似た発砲音と呪式弾頭の炸裂が路地裏に響く。
 人狼の右腕が吹き飛んだ。人狼の右足が吹き飛んだ。人狼の左肩が吹き飛んだ。人狼の左足が吹き飛んだ。人狼の下卑た獣性そのものが吹き飛んだ。
 全ての衝撃を受けて、人狼が吹き飛んだ。
 動いたのは義手。加速した知覚の中でなお、神速を誇る私の腕の代わりを果たすサーヴァント。
 サーヴァントは忠実に動く。主の意に逆らう事無くサーヴァントは動く。吹き飛んだ人狼が地に落ちる前に排莢し、パンクバックから銃弾を5つ掴み取り、装填する。


 唸り声。遠吠え。人狼が吠える。痛みを叫ぶ。地に這い、自らを狩る狩猟者に平伏し、ただ吠える。
 人狼の右腕は肩口から吹き飛び、左腕は辛うじて皮膚で繋がっている。両足に至っては下腹部から消失していた。消失した下腹部からは内蔵と背骨が姿を見せ、実に無残な姿となった。
 だが、既に人狼の再生は始まっている。しかし、痛覚は痛みを訴える。人狼は痛覚の激しい訴えに呼応するかのように力の限り吠える。許しを請うように腹を見せ、ただただ負け犬のように吠える。もしくは、何かの助けを求めるように吠える。
 醜い姿だ。醜悪と言ってもいい。糞尿にまみれた家畜小屋以上の醜悪さだ。
 何が醜いといえば、その態度もだが、無造作に生えて来ようとする毛も生えていない右腕。吹き飛び、再生した毛の生えていない部分と辛うじて残った部分の所為で継接ぎのようにみえる左腕。何より、再生してなお、処女に盛る雄の獣性が醜い。


 なまじ人の醜さを持ったその存在が醜悪だ。
 こんなもの、すぐさま浄殺してしまえ。
 死膚色のサーヴァントが動く。再装填は既に終えている。
 世界最強の拳銃の銃口が動く。撃鉄はもう引かれている。
 サーヴァントの指が動く。雷鳴が轟き、人狼の心臓と額に全弾撃ち込まれた。
 人狼が最後の遠吠えを上げる。それが断末魔の叫びとなり、街に木霊した。
 それきり、人狼は動かなくなった。恐らく死んだのだろう。


 しかし、人狼は死後、吸血鬼に成ると言う。尤も、人狼あがりの吸血鬼(クドラク)など、儀式で吸血鬼化した魔術師――いわゆる、ヴァンパイアという奴だ――や、赤い羊水に包まれて生まれた生まれつきの吸血鬼(ヴァンパイア・ルーラー)に比べれば大した事はない。サーヴァントを発動させれば、浄殺しきる自信がある。
 だが、その自信も無意味だ。死後吸血鬼になる人狼(ヴゴドラク)の存在は日々疑問視されている。誰も人狼の死後、吸血鬼に成る姿など見ていない。復讐心に煽られて、そんなものに期待するなど、どうかしている。


 そう、どうかしている。存在しないものは存在しない。あの死体が吸血鬼になると期待するな。落ちつけ。復讐は大事だ。私が戦う理由だ。だが、勝たなければ意味がない。浄殺しなければ意味がない。復讐とはそんなものだ。だから、理由を無駄にしない為にも、今日はこれで終わりだ。これ1匹で十分だ。満足しろ。このまま、復讐心に任せて吸血鬼を探し、見つけ出してもリスクが大きいだけだ。最悪、私の人生が無意味になってしまう。万全な状態で、確実な情報を元に、奴らを狩るべく、襲いかかる機会待てばいい。そうだ。それでいい。落ちつけ。気を静めろ。復讐の場を今ここで求めても、何の意味もない。私は私の目的の為に、私の理由の為に、死ぬわけにはいかない。殺されるわけにはいかない。全てを無意味にしては駄目だ。そう、私が私を否定しては駄目だ。リスクは避けろ。両腕の絶大な力に躍らされるな。気を大きくして死んでいった奴らなら何度も見ている。絶対などない。その為にリスクを可能な限り低くし、勝つ可能性を上げるのだ。それを忘れるな。理由を忘れるな。落ちつけ。
 だが、復讐心は抑えつけども隙間から鎌首を擡げる。吸血鬼の浄殺を求める。そして、それに答えるが如く、異様な力がこの場に現れた。


 その力は魔力だ。人狼の体を夜の魔力が覆い隠す。月光もない夜の下、暗い慟哭の魔力が人狼の魂を繋ぎ止め、人狼の破壊された心臓を突き動かす。
 このままではまずい。そうは思えど、体が動かない。渇望していたものがくるのだ。動く筈がない。目の前の現象に心はもう止まらない。既に如何に殺すかその思考だけで埋まってしまっている。理性ではない。本能で、それを求めている。理性が願った復讐は本能にまで刷り込まれた。もう、後戻りなどできない。最初からわかっていた筈だ。復讐に身を任せれば、後はそれにしか命を懸けられなくなる。ならば、この復讐劇を楽しまなくてはならない。ヴ人狼(ゴドラク)の存在の証明を喜ばなくてはならない。全ては復讐の為に。


 人狼はその体の再生を始める。悉く破壊された体を内外問わず、集まる魔力に任せて明かにむりやりで投げやりな再生を行う。
 人狼の目に映るのは復讐だ。自らを殺した復讐の目だ。死という計り知れない痛みを与えた私への復讐心が剥き出しだ。
 そう、あれは私と同じ復讐の為にこの世界に甦るのだ。
 吸血鬼として。
 私の復讐の原因となるものとなって、甦るのだ。


 さぁ、立ち上がれ。吸血鬼へと姿を変えて。
 ――人狼の体組織が変革を始める。
 さぁ、立ち上がれ。人狼(ヴゴドラク)から吸血鬼(クドラク)へと姿を変えて。
 ――人狼から人型へ。
 さぁ、立ち上がれ。心臓を穿つのはそれからだ。
 ――無茶苦茶に手足を再生させ、人のそれへと再構成される。
 さぁ、立ち上がれ。その身を塵も残さず浄殺し切ってやる。
 ――そして、体組織の再構成が終わった。


 立ち上がる吸血鬼の髪は狼を思わせる銀。銀に隠れる顔は深窓の麗人と言えばいいのだろうか。憂鬱気で溜息さえも美しく思わせる美貌を誇る。膚は生けるものと思わせない死膚色。体つきは貧相で華奢。触れれば折れてしまいそうなほど現実感がない。瞳は紅色。狂気を常とする魔眼。死を見据え、死に魅入らせ、恐怖も悲しみも忘れさせるゴシックの邪眼。それら全てが殺した人狼が吸血鬼へと変貌を遂げた事を告げている。
 私の記憶の奥底に、私の心の奥底に刻み込まれたあの吸血鬼と同じ姿と同じ狂気を持った吸血鬼が私の前に立っている。


 魅惑。畏怖。圧倒的な生物としての差が心を掴もうと触手を伸ばす。やがて、触手は私の傷に触れ嬲り始めた。
 まずいと思ったが、遅かった。私は吸血鬼の魔眼を直視していた。
 視線を逸らそうとするが、魔眼の支配力から逃れられない。ただ、視線の触手に傷を嬲られ、記憶を犯され、心を姦淫される。
 吸血鬼はその姿を眺め、口元に笑みを浮かべる。その上品な顔立ちからは想像もつかないような下劣な笑みを。
 瞬間、怒りがまた私を満たした。だが、幾ら強い意思や感情で自分を塗り潰しても魔眼の支配力からは逃れられない。それでも、私は怒りを武器に視線の触手を振り解こうと足掻く。


 痛みが快楽に変われば、もうあの吸血鬼の虜だ。それだけは避けなければならない。あんな下劣な化け物の糧となるものか。その思いだけで快楽へと変わりゆく痛みを痛みのままに維持する。
 吸血鬼はただ眺め、足掻く私の姿を楽しみ、やがて哄笑を上げる。快楽に溺れ、快楽に身を奉げ、快楽に堕落させる悪魔の哄笑。いずれ私が吸血鬼の生み出す快楽に堕ちるだろう事を悟る余裕あるものの笑い声。吸血鬼はわかっているのだ。私がこの手の魔法に対する抵抗力が低い事が。どんなに抵抗しようとも、私が魔眼の魔力から逃れられない事を悟っているのだ。だから、笑い声を上げて楽しんでいるのだ。


 だが、その余裕が命取りだ。快楽に溺れ、節制を怠るという事は生きる事をやめる事と同義なのだ。つまり、それは死ぬ事なのだ。目の前の吸血鬼はそれを理解していない。だからこそ、死ぬのだ。
 とはいえ、この状態を自力で脱するのは難しい。快楽に溺れるものは須く自滅するとはいえども、今すぐに死を迎えるわけではない。あくまで、いつかの話だ。そして、私が吸血鬼の魔眼に落ちるのはその自滅よりも圧倒的に早い。足掻いているといえど、ただ意識を快楽へと持っていかないだけで根本的な解決にはないっていないからだ。つまり、私1人の力で脱する事は不可能だ。私1人の力では、だ。


 思考している間にも蹂躙は続く。心を姦淫する不可視の触手はより力を強め、意識を快楽へと向けさせる。現に体を震わせるほどの心痛は徐々に心地よいものへと移り変わっていく。恐らく、後一息で私は快楽に堕ちる。脳の奥から痺れにも似た感覚が広がっていくのを感じ、そう確信する。また、目の前の吸血鬼もそれを確信したのか、血走るような眼を持って、血が集まる雄の獣性を持って、私の確信を肯定した。同時に私の勝利への確信をも肯定していた。


 そう、その余裕が命取りだ。私は魔眼に囚われてからこの瞬間を待った。この最大の隙を。
 雷鳴が轟き、吸血鬼の哄笑が寸断される。吸血鬼は私が魔眼の縛鎖から逃れた事を知る頃には銃弾は吸血鬼の頭を吹き飛ばしていた。
 だが、吸血鬼は倒れない。それどころか、新月の晩にもかかわらず、吹き飛んだ頭部を瞬時に復元してしまう。
 あらゆる化け物を押し退けて夜の王の名をほしいままにするだけの事はある。
 だが、復元した頭部には驚きの表情が張り付いていた。
 それもそうだろう。吸血鬼の魔眼から逃れる事は私1人ではできない。確かに私1人の力では、魔眼から逃れる事は不可能だ。それは私1人の力では、の話であってそれを破る手段なら他人の手を借りなくとも今ここにあるのだ。それも最善にして唯一の方法が。


 そう、それは両腕。死膚色の腕。切り札にして憎むべき腕。普段は不便な義手。それは
膨大な魔力と圧倒的なまでな力を発揮するサーヴァント。それは、吸血鬼の縁から放たれた吸血鬼の腕。それも、最大の魔力と力を持つとされる赤いの羊膜に包まれて生まれた、生まれつきの吸血鬼(ヴァンパイア・ルーラー)の腕。たかが、人狼あがりの吸血鬼如きが敵うレベルではない。
 そして、そのサーヴァントが解き放たれた以上、この吸血鬼に生きる道はない。存在する道はない。浄殺するだけだ。私が、私ではない私の仇の腕を持って。


 ――さぁ、復讐の時間だ。


 吸血鬼は私の腕から溢れる魔力に気がついたのか、すぐさま逃げようと試みる。しかし、遅い。既に折れそうなまでに細く頼りなく見える脚は吹き飛ばした。逃げる事ができないと悟ると、吸血鬼が最も得意とする魔法で反撃を行う。無論、脚の復元も行いながらだ。隙があれば逃げ出す気なのだろう。だが、無駄だ。逃がす気もないが、そもそもこの吸血鬼が逃げ出すだけの隙を作るだけの事もできはしない。簡単な話だ。既にサーヴァントがこの空間を魔法領域として制圧しているのだ。反撃として行った魔法が起こる筈もない。
 それに気付いたのか、吸血鬼は銃口から放たれる弾を防ごうと結界を張ろうとするが、萎縮した心ではその程度の事も叶わない。


 ――さぁ、復讐の時間だ。


 覚悟はいいか? いや、覚悟なんてする必要はない。
 発砲。
 そんな時間も与えない。恐れろ。慄け。
 発砲。
 体が凍りつくように熱いだろう?
 発砲、発砲、発砲。
 ああ、そうだ。私が以前に味わった感覚だ。
 排莢、再装填。
 痛みの灼熱と、恐怖の絶対零度。
 発砲、発砲、発砲、発砲、発砲。
 さぁ、恐れろ。私が狩人でお前が獲物だ。
 排莢、再装填。


 目の前は血の海。飛び散った手足、脂肪、筋肉、骨、臓物。それでもなお、吸血鬼は健気に復元を繰り返す。無駄だというのに。いまだに生きる為に足掻いている。
 なんだこれは。これが夜の王の姿か? 私が恐れた夜の王の姿か? 人の形をした人ならざるものの姿か? 絶対の狂気と高貴を併せ持つ者か? なんだこれは。これではまるで、お前達の食料の私達、血袋と変わらないではないか。
 ああ、そうか。お前達は私達と変わらないのか。夜の王。生きる為に生き血を啜り、繁殖する為に人を仲間に変えるのか。これではお前達の血袋と同義だ。だからか。だから、己が生からも逃げ出した死霊を嫌うのかお前達は。そうだろうな。生きて永遠を手に入れるのと、死んで永遠を手に入れるのでは全く違うものな。
 ああ、そうか。だからか。お前達がわざわざ、凄惨な殺戮を行って食事を行うのか。食は生の彩りだ。人間が調理を行うように、お前達は獲物の心を調理して食らうわけか。なんだ。本当に血袋と変わらないな。
 ならば、私はお前の心を調理して生き血を啜ってやろうか? それがお前達の流儀だろう? ああ、もう我慢できない。お前を食らい尽して――


 発砲、銃声、二の腕から吹き飛ぶ右のサーヴァント。


 ふざけるな、サーヴァント。お前の主人はお前の食物で、お前は食物に傅いて跪いていればいい。呪うなら、負けた自分を呪え。哀れな吸血鬼。飼い慣らされた吸血鬼。今更、私を乗っ取って如何する? かつての力は甦らない、栄華も取り戻せない、何もできない。私はお前がいなければ、すぐに取り殺されるような脆弱な人間だ。魔法に対する力も持たない。そんなものを乗っ取ったところで、目の前の吸血鬼にも劣る身になりたいとでも言うのか? お前は黙って私に仕えていればいい。それがお前に与えられた唯一の生の道だ。わかったか? サーヴァント、哀れな下僕(きゅうけつき)。わかったならば、奴を塵も残さず浄殺するぞ。わかっているな?


 サーヴァントは吹き飛んだ部分の再生を済ませ、ただ大人しく私に従いその膨大な魔力を拳頭一点に集中させる。この一撃で吸血鬼どころか、この世のあらゆる物を塵も残さず消滅させる事ができる。そんな一撃を放てるほど、生まれつきの吸血鬼(ヴァンパイア・ルーラー)の魔力は高い。何度放っても、その力に畏怖を抱かざるをえない。だが、これは私の力だ。その力を振るう事に何ら躊躇いはない。全ては私の意思で決断を下す。その自信がなければ、いずれサーヴァントにその身を乗っ取られてしまう。だから、私は自信を持って振るう。自分の力だと声を上げて、拳を思い切り突き出す。そう、この魔法は夜に属す者には放てない魔法。私と契約をしたサーヴァントだからこそ、この魔法への耐性が得られる。私だけの魔法。それが、突き出された拳頭から吸血鬼へ向けた放たれた。
 太陽よりなお、明るく白く全てを照らす光。それこそが、この魔法の正体。最大出力ではありとあらゆる物を光で包み消滅させる究極の消滅魔法。両腕のサーヴァントを作り上げた魔導師に名づけられた言霊は無限光(アイン・ソフ・オウル)。闇を祓う神の光だ。その何よりも強い言霊を持ってこの魔法は成立する。私の声を持って、この魔法は成立する。だから、叫ぶのだ。私は、ありったけの憎しみを篭めて、神の力を、遠吠えのように、宣言する。


 ―――そして、全てが真っ白に染まった。


 闇も、サーヴァントも、私も、世界も、全てが真っ白に染まる。
 この時だけが、復讐を忘れられる唯一の時間だ。
 復讐を神に許される時間だ。
 復讐を許された私は復讐も忘れて、ただ心の内を叫ぶ。全て消えろと無茶苦茶に、全て消えろと懇願する。過去も未来も現実も、全て消えろと無茶苦茶に、全て消えろと懇願する。
 だが、願いも虚しく白光の世界は消え失せ、ただ吸血鬼だけがその存在を消滅させた。文字通り、塵も残さずだ。
 そして、虚しさだけが残る。何時も思うのだ。願ってもそうはならない事はわかっている筈なのに、どうしてそう願ってしまうのか。願う事の虚しさなど、既に知り尽しているのに。願いを拒否され、取り残される事の虚しさを知っているのに。だが、願わずにいられない。復讐にアイデンティティを預けてみても、あの時から立ち直れていないのだ。生きる為の術を学び、殺す為の術を学び、幾度復讐を完遂しようと立ち直れない。これから何度、吸血鬼を浄殺しようと懇願するのだろう。虚しさを味わうのだろう。
 そう思うと、涙が溢れてきた。このまま泣くんだろうな、と冷静に思った。そして、そんな自分の冷静な部分も巻き込んで、無様に声を上げて泣き崩れるのだろう。子供のように。本当に、私はあの頃から進めていない。立ち直れていない。そう実感した。






3. Kresnik / 霧碕夜月


 体が怠い。重い。軽く眩暈がする。頭の回転も悪い。
 サーヴァントを発動すると何時も決まって、この症状が起きる。
 貧血症状だ。
 早く家に帰ってしまおうと足を速めたいが、体がそういう風には動いてくれない。何より、足取りがふらふらと覚束ない。


 相手が死後吸血鬼(ヴゴドラク)になる人狼だったというのは予想外だった。
 それに、つい昔の嫌な思い出を思い出してしまい、感情的になってしまった。
 自重せねば。
 何せ、支払われる代価は自らの血液なのだ。それも、あの短時間でこんな状態になるまでの量を持っていかれるのだから、なおの事、自重しなければ。


 回らない頭で考えながら、自宅への近道である人気のない住宅地を塀に凭れ掛かりながら歩いていく。この住宅地を少し行けば、私が住んでいるアパートに着く。
 帰ったら、まずは輸血だ。それから、ゆっくりと休もう。幸い人狼(ヴドゴラク)を仕留めた事もあって、少なくとも今月は無駄遣いしなければ、生活に支障はない。しばらくは仕事を休める。さぁ、後少しだ。後少し行けば……。


 ――ふと、駆けてくる足音が幾つか聞こえてきた。強い脚力で大地を蹴り、飛ぶような速度で疾駆する足音が。そして、それらが間も無く私の視界に映る。


 全く、ついてない。やはり、遠くとも人通りの多い繁華街に行けばよかった。
 目に映ったのはこちらに向い、民家の屋根を疾駆する人狼の群れ。
 咄嗟に銃を構え、迎撃体制に移る。体の状態は、義手には関係ない。便利なのか不便なのかは、この際考えない。とにかく、目の前の災難を切り抜ける事に専念する。取り敢えずは数の確認からだ。


 2、3……6匹もいる。


 サーヴァントを発動させれば、6匹程度ならなんとかならない事もないが、今現在の状態ではそれは憚られる。人狼6匹分を浄殺し切るほどの時間まで発動させれば、相討ちまで行けるかどうかが怪しい。とはいえ、サーヴァントの発動なしで切り抜けられるのは不可能だ。使いたくはないが、連続での発動を避けて、細かく本当に必要な時にだけ発動させていくしかない。


 そうと決まれば、後は私の心を奮い立たせるだけだ。
 身も心も復讐で染め上げる。気が狂うほどの情熱と、気が遠くなるほどの平静を持って、私を奮い立たせる。
 口元を歪め、目の前の人狼どもに銃口を向ける。同時に貧血症状を誤魔化す為に体に刻まれた印魔法の刺青を発動させた。
 距離は目算で12メートル。銃身が揺れる。既に銃の射程の内だが、私の間合いの外。この距離で引き金を引いても当たらない。もっと引き付けなければ。少ない血液を目と脳に送り込み、距離が近づくのを待つ。


 人狼は疾く駆ける。空でも飛ぶような速さで猛然と。
 その速さは獲物を捕らえるそれとは違うと思わせるほど、過ぎた速度だった。
 そして、回転の遅い脳であの人狼の群れは逃げているという事を悟った。視覚とそれを処理する脳になけなしの血液を送った事で初めて見えた真実。それは目を疑いたくなるような事実だった。


 人狼が追手を確認しようと振り返る。無論そこには誰もいない。人狼の視線を追った私も虚空を眺めた。それもその筈だ。この入り組んだ住宅街を全力で逃げる人狼に追いつける人間など存在はしない。だが、人狼はそれでも追手を探しつづける。人狼は知っているのだ。自分達がその追手から逃げられない事を。その追手が自分達を見逃しはしない事を。本能の奥底で、それを知ってしまっているのだ。そう、その存在を私も知っている。そして、それは今ここに降り立つのだ。圧倒的な力を持って、人狼を浄殺するのだ。


 夜を貫き、巨大な、竜を思わせる怪腕が天壌より振り下ろされた。その腕は人狼の群れを残らず捕らえ、自らがいる夜の帳へと攫っていく。それを目で追い、天を見上げた先には世界と無の狭間があった。
 世界と無の狭間など人の目で見える筈もない。知覚すらできないものだ。だが、夜の帳をやすやすと引き裂いたそれは間違えようもなく世界と無の狭間だった。
 その狭間に人狼が触れた瞬間、まるでシュレッダーのように飲み込み塵すら残らず消滅させてしまった。あっけないくらいに。それは世界の傷痕と呼ばれる力だった。
 私はその圧倒的な力に気圧されたのか、目の前の危機を脱して気が抜けたのか、或いはその両方か、思わずその場にへたり込んでしまった。


 天を仰げば世界の傷痕は消え、1人の男が姿を現した。


 その姿を見るのは初めてだが、私は自由落下に身を任せる男の事を知っていた。いや、知らない筈がないのだ。単独でヴァンパイア・ルーラーを浄殺できる存在であるクルースニク。そして、ありとあらゆるものを消滅させる世界の傷痕と呼ばれる力さえも持った存在。私が属する世界、いわば退魔の世界にて最大最強の力を持つあの青年を知らない筈がないのだ。


 男の名は霧碕夜月。現存するただ1人のクルースニクだ。
 そのクルースニクが今、私の前に音もなく着地した。


 どうにも、私の存在には気付いていたらしい。人狼が全力で逃げる速度以上の速度でも私の存在を見落とさないとは、どうにも人間離れしていると確信させ、目の前のクルースニクが少し恐ろしく思えた。
 だが、それ以外は普通の人間と変わらないように見えた。恐らく、日本人とどこかの白人とのハーフなのだろう、無造作に伸ばした黒髪と青い瞳が印象的だ。顔立ちも白人らしい彫りの深い造形をしながらも日本人も親しみやすい、日本人を思わせる造りをしている。背は、少なくとも日本人の平均よりは高いように思えるが、私よりは低いように見える。体格は無駄な脂肪も筋肉もついていない、よく絞られた理想的な体格だと露出した腕から判別できた。腕が露出しているのは恐らく、あの竜を思わせるような腕に変化させたりするからだろう。それ以外の服装は特に何かを感じさせる事はなかった。強いて言うならば、細身の服で戦闘を行う方が効率的だと考えているのだろう事が伺えた。


 これがクルースニクか、等と観察していると、霧碕夜月の瞳が私を捉えていた。その瞳を直視した瞬間、吸血鬼の魔眼とは違う感情が私を支配した。


 恐怖。私は霧碕夜月の瞳に恐怖した。その瞳には私が映っている。しかし、その瞳には何も映らない空虚さを感じさせた。意志も感情も何もないように感じさせる瞳は人の持つそれとは圧倒的な差があった。例えるならば、人形の持つ瞳だ。無機質の不気味さがあの瞳にはあるのだ。だが、それだけではないのだ。いや、それ以上に恐怖を感じさせるものがあるのだ。それは、虚無感だ。ただの虚無感ならば、恐怖など感じないのだが、霧碕夜月の瞳に現れる虚無感は例えるならば、死への恐怖と同種のものを感じさせた。目の前に迫るような本能で感じる死の恐怖とは違う、理性や知性で考える思想的で哲学的な死の恐怖がその虚無にあるのだ。言うなれば、生きながらに死を体現している。そう形容するしかない瞳だった。


 突然、目の前の死の体現者が耳を澄ませても聞き取れないような酷く陰鬱な声で何事か呟いた。私はそれに驚き、今すぐこの場から逃げようとしたが、既に恐怖が私の体に芯を作っており、体の自由を奪っていた。
 そして、また陰鬱な声が聞こえてくる。やはり、耳を澄まさなければ聞き取れないような声だが、今度は聞き逃しはしなかった。


「……吸血鬼」


 血の気が引いた。
 思想的で哲学的な死に本能的な死が加わったのを確信したからだ。目の前の死の体現者が死神に変わったのを確信したからだ。そう、霧碕夜月のいう吸血鬼とは私の両腕だ。そして、この男は私に対してあの世界の傷痕を使う事を躊躇いはしない。私の生きる理由を完遂する為の力を奪う事を躊躇いはしない。私が復讐の為だけに生きているのと同じように、霧碕夜月はただ、魔を殺す為だけに生きているのだ。だから、躊躇いなど一切しない。
 恐怖感の中、いまだ残る冷静な思考が霧碕夜月の行動を予測する。安易に怒りなどの別の感情に逃避できない状況で、正気を保つだけの冷静さが恨めしいが、今はそれどころではない。


 逃げる。
 思いついたのはそれだけだった。だが、それが最良だ。最良と判断したならば動け、一目散に逃げろ。
 サーヴァントを発動させ、その力で地面を掴んで飛ぶように逃走を開始する。


 しかし、その行動を読んでいたのか、反射行動なのか、霧碕夜月の反応は早かった。すぐさま、私と同等の速度で跳んできた。
 取り敢えず、空中にいる間は距離は縮まらないだろうが、現在の2メートルという距離はまずかった。霧碕夜月と対峙した時より1メートルしか稼げていない。あの竜を思わせるような怪腕は勿論、世界の傷痕も完全に届く距離だ。他にも変化能力を活かした空中での姿勢制御に限らず方向転換も自由に行えるのだろう。その気になれば、鳥のように飛行できるかもしれない。


 などと考えている間に、あの強大な竜を思わせる怪腕が迫っていた。あの竜を思わせる怪腕はその信頼に足るほど頑強で私の持つ60口径ニトロ・エクスプレス炸裂呪式弾頭を直撃させたところで大したダメージもないだろう。できたとしても指などの比較的小さな部分の動きを止める事くらいだ。流石に振り下ろされたり、突き出される腕を止める事はできない。あの怪腕にはそれだけの重量とパワーがある。先の人狼と同じようにこの怪腕で捕らえ、世界の傷痕で私の腕を消滅させるつもりなのだろう。だが、その行動は私にとっても都合が良かった。


 迫る怪腕を右のサーヴァントで受け、私を捕らえようと閉じる指に全てに発砲し、動きを止める。指の動きが止まったのは刹那の間だが、それで十分だ。一気に竜の怪腕に押し出されるように吹き飛ばされる。それと同時に無限光(アイン・ソフ・オウル)を叫び、宣言する。瞬間、目くらまし同然の威力まで弱めた無限光(アイン・ソフ・オウル)が夜空を白光で照らす。
 取り敢えず、これで着地するまでの安全は確保できそうだ。このまま、霧碕夜月が私を見失う事を願うが、クルースニクである存在がそう簡単に標的と定めた物を逃しはしないだろう。


 だが、その考えも甘かった。視界を奪われたと思うや否や、霧碕夜月は瞬時に魔法領域を展開し、既に50メートル以上離れた私までも飲み込んだ。その規模は実に100メートル。並の魔術師では展開できない規模だ。
 魔法領域とは、自らの精神世界である。物質界の全てを自らの心を同化させ、制圧し、強い意志で魔法と呼ばれる奇跡を起こす。つまり、私は霧碕夜月にものの数秒でその位置を捉えられたということだ。
 そして、私の位置を捉えた霧碕夜月は魔法を使って固定した空気をその竜の怪腕で掴み、私の方向に雷の速度で飛来する。


 まずいと思う暇さえ与えられなかった。


 一瞬で追いついた霧碕夜月の竜の怪腕に捕らえられ、私は道路に叩きつけられていた。幸いサーヴァントが着地の衝撃を和らげてくれたおかげで気絶や骨折は免れたが、それでも強く打ち付けられた体はプロテクターを身に着けていたにも関わらず、すぐには動いてくれないほど痛む。だが、動けないわけではない。すぐさま、サーヴァントにここから逃げるように命令を下す。サーヴァントも己の存在の危険を悟っているか、素早くその場を立ち退く動作を見せた。


 見せたが、それは叶わなかった。


 痛みから立ち直る一瞬を狙ったのだろう。霧碕夜月が魔法を使い、具現化した鋼の杭はサーヴァントを正確に突き穿ち、アスファルトに縫い付けた。
 もう、逃げられない。後ろを確認する事はできないが、世界の傷痕を使おうとしている霧碕夜月の姿が目に浮かんだ。
 終わりか、と心の中を諦観で満たされ、サーヴァントを失う事を覚悟したが、世界の傷痕が発動する気配が一向になかった。
 不思議に思い、周囲を見渡すと、霧碕夜月を脇に抱えた見覚えのある男が立っていた。


 霧碕夜月のパートナーにして天才と呼び名の高いその男の名はフセスラフ。その名前にはファーストもミドルもファミリーもない、ただのフセスラフ。かつて名を馳せた人狼公の名を継ぐものだ。人狼公の名を継いだだけあり、その身を人狼へと変化させる事すらできる。こと魔法に至ってはクルースニク、霧碕夜月を超える才能を持つとも噂される男だ。
 どうやら、そのフセスラフが霧碕夜月を止めてくれているようだった。何故かは知らないが、私にとってはありがたい事だ。


「たく、夜月。同業者を襲ってどうするんだよ」


 フセスラフの声が聞こえる。
 その口ぶりからすると、むこうも私の事を知っているようだ。それもそうだろう。ヴァンパイア・ルーラーの両腕をサーヴァントとしているハンターは私くらいなものだ。そのお陰で、どこの組織でも拾ってくれはしないのだ。そのくらいの話くらいは噂か何かで知っているだろう。


「……だが、放っておけば、危険だ。使い魔を使い魔として扱い切れていない。乗っ取られれば、新たな吸血鬼となる」


 尤もな話だ。現に、私は乗っ取られかけた事が何度もある。このサーヴァントの復活への執念は凄まじいものがある。もし、私が復讐という強烈な感情と意志を忘れてしまえば、すぐさま乗っ取られてしまうだろう。だからこそ、その復讐を忘れない為にも、この両腕のサーヴァントが必要なのだ。これは復讐を完遂する為の力なのだから。サーヴァントがなければ、私はこの世に存在する意味すらない。だから、失うわけにはいかないのだ。


「だったら、もうとっくに乗っ取られてるはずだろ? 心配し過ぎだ。夜月。それに、彼女だってハンターだ。彼女がいなくなれば、それだけ被害が増すかもしれないだろ? 俺達だけで、全部を守り切るなんて無理だしな」
「……確かに、限界はあるが、吸血鬼というリスクを考えると、そうは言い切れない。何より、命を奪うつもりはない。あの両腕を消滅させるだけだ」


 フセスラフはなんとか、私のアイデンティティを守ろうとしてくれてはいるが、霧碕夜月は譲らない。確かに吸血鬼となるリスクを考えるなら、霧碕夜月の言う通りにすべきなのだろう。私だってそうする。ただし、それは対象が私以外の場合だ。


「あー、じゃあ、わかった。彼女を監視するという意味で、俺達の仲間に入れよう。俺達もフリーランスだし、彼女もフリーランスだ。それに彼女は今、相方もいないし、丁度いいだろうしな。それに、吸血鬼化したら、夜月がすぐさま消滅させられるし、それでいいだろ? な?」


 なにやら、勝手に私を仲間に加えようとしているようだ。正直、フセスラフがここまで私の両腕に対して気遣ってくれるのかはわからない。力のあるハンターが一人でも多く必要だと思っているのかもしれないし、サーヴァントの力に魅せられているのかもしれない。だが、そんな事は関係ない。私の力が奪われなければいい。ただそれだけだ。


「リュド・イリイニシナ・エヴァルドさんもそれでいいですよね?」


 フセスラフがこちらに話を振ってくる。ここでその話に乗らなければ、更に話がこじれるだけだろう。力が奪われないのであれば、それでいいのだ。ならば、この話に乗らない理由が見当たらない。なにより、クルースニクである霧碕夜月と、人狼公の名を継ぐ天才魔術師フセスラフの仲間となれるのだ。これからの吸血鬼狩りにこれほど心強いものはない。復讐を完遂する為の力が更に強まるのだ。断るほうがどうかしている。


「……リュドでいいよ。仲間にしてくれるなら、こちらとしても有難いしね」
「ほら、リュドもそう言ってるしさ。夜月もここで手を打とうぜ? な?」


 そう言われて、霧碕夜月は少し悩んだそぶりを見せて、やがて己を納得させたのか、フセスラフの提案を渋々と飲んだ。


「よーし、んじゃ、俺らの新しい仲間であるリュドがしんどそうだし、連れてってやりますかー」


 気がつけば、鋼の杭が消えて、フセスラフが私の体を持ち上げていた。どうやら、私のサーヴァントの代価も知っているらしい。大規模な吸血鬼狩りに参加した時に私が血液を使用してサーヴァントを発動させていたのがどこからか漏れたのだろう。思いの他、私の情報は筒抜けらしい。小さく溜息を吐く。
 それからだ。フセスラフと霧碕夜月が飛ぶような速度で私の家まで駆け出したのは。





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  • 感想欄な。別にいらないって人は入れるなよ? -- ドックンドール? 2008-08-24 (日) 16:28:53
  • 深い・・・とりあえずシリアスな空気とリアルな思考、個人的にはすごく好きな部類です(大好物 (// -- ? 2008-08-24 (日) 16:38:04