目次
注意書き
当SSはネちょ学SSです。
ご出演者の方のお叱りを受けた場合、謝罪と共に削除させていただきます。
Lunatic Trance
夢の姉と思える人間に似た少女と出会ってから、ドックンドールの中の何かがおかしくなった。
割れるような頭痛。強い衝動。
それらは脳の奥からやってきた。脳の奥から脳内物質が分泌され、その衝動を煽ってくる。それは本能と呼ぶものだった。
本能は、生物の身体を維持する為だけに付け加えられたものだ。
食欲、睡眠欲、性欲。それらは必ず、本能を司る脳の奥からやってくる。
ドックンドールが感じているものも正にそれだった。そして、そうだという事もドックンドールはわかっていた。求めているものも、わかっていた。ただ、それを認めるにはいかなかった。それを認めることは、人として異常となってしまうからだ。
ドックンドールは社会が異常を、異質を許さない事を知っていた。
何かがおかしなものは必ず、隔離される。迫害される。抹殺される。
何故か、経験則ともいえる正確さでそれを理解しているドックンドールはその頭痛が、その本能が納まるのを、ただ蹲って待つしかなかった。それこそ、死ぬほどの苦痛と思える程の頭痛だ。気が狂いそうになるのを抑えるだけでも精一杯だった。
それもその筈だ。
それは生に反抗する行為だ。
本能は生を求める純粋な衝動だ。
ならば、本能に反抗するという行為は生に反抗するという事に他ならない。
その苦しみがドックンドールを苛むのだ。
ただ、血を求めて。
「……血……か」
頭痛が治まり、ドックンドールはベッドから体を起す。頭痛を理由に保健室に来て、寝ていたのだ。
ドックンドールが血で思い出すのは、やはり、夢に出てきた姉と思える人間だった。彼女が幼いドックンドールに血を与える夢は鮮烈過ぎた。そして、同時に屋上であった、その夢に出てくる姉に似た少女だった。少女を思い出すと、また、本能が疼き出した。
頭痛。渇く喉。
何度、この渇きは襲ってくるのか。今のドックンドールにはそんな事を考える余裕すらなかった。
「……辛そうだね。私の事を……覚えている筈はー、ないか。死ななかったのが奇跡だしね」
女性がドックンドールに話し掛けるが、ドックンドール自身はそれどころではない。頭痛が苛み、目の前の女性を傷付けてしまいそうで、それを抑えこもうとドックンドールは身体を丸くする。
「まぁ、聞いてはいないだろうけどね。じゃあ、行こうか」
それだけ言って、女性はドックンドールを立ちあがらせようとする。だが、頭痛に、本能に耐えるだけで精一杯のドックンドールにそんな余裕はない。そもそも、話すら聞こえていないのだ。立ち上がる筈がない。
「仕方ないなぁ……」
空気が歪むような感覚、怖気。ドックンドールは頭痛の他に何か嫌なものを感じた。それは間違いなく非日常的な何かであったと判断する頃には、もうドックンドールは保健室から逃げ出すように走り去っていった。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
早く逃げなければ、ドックンドールの意識にはそれしかなかった。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
ドックンドールが誰かにぶつかった。
だが、確認する暇もなく、謝る余裕もなく、ドックンドールは走り去る。
駆ける駆ける駆ける駆ける駆ける。
渇きから逃げるように駆ける。
本能から逃げるように駆ける。
非日常的な何かから逃げる為に駆ける。
やがて、ドックンドールの身体能力は人間のそれを凌駕し始めていた。
空を飛んでいると見紛うような高度と速度で跳躍し、見るものの目には止まらぬような速さで駆ける。人間の持つ身体能力では決して叶わない事だ。
それすら自覚せず、ただドックンドールは駆ける。人のいないところへ、何もいないところへ、ただただ駆けた。
そうして、気がつけば、ドックンドールは河川敷まで来ていた。
頭痛が少しばかり治まってきたのか、ドックンドールは周囲を確認する。
電車が鉄橋を走る音。川を流れる水の音。遠くで鳴く鳥の声。他には何もない。
それを確認したドックンドールは一息吐いて、腰を落し、頭痛が完全に治まるのを待つ事にした。
「……吸血鬼か」
殺気。
ドックンドールは声の主を見る。
そこには、浮世離れしたような、そんな格好の人間が立っていた。
恐らく、まともな人間ではないだろう。そんな予感がドックンドールの脳裏によぎる。
そして、その予感が当たっている事を示すように、男は懐から拳銃を取り出した。
ツェリスカ。六十口径ニトロエクスプレス弾という象などの大型獣に用いられる銃弾を撃ち出す世界最強と呼ばれる拳銃だ。尤も、その6kgという重さと全長55cmという図体が問題で拳銃としての形はしているが、拳銃として携行するには向いていない銃だ。
何故、男がそんな物を当然のように携行しているのか。銃器に疎いドックンドールはわからなかったが、あの図体を持つ銃に撃たれたら、どんな生き物でもただでは済まないだろうという事だけわかった。
「全く、弱った吸血鬼なんて、運がいい」
銃口がドックンドールに向けられる。
瞬間、ドックンドールの中の生存本能がより強く、暴走し始めるのを感じた。
目の前の男の世界が属する世界で魔力と呼ばれるものがドックンドールの身体から発散される。
その膨大さに男の顔が歪む。
そして、ドックンドールはその力に翻弄される。
「……なんだよ。これ……」
湧きあがる力。
懐かしい感覚。
何かが、大事な何かが砕け散った感触。
魔力が、生存本能に従い、暴走する。
「真祖……だと……!?」
男が驚く。
その魔力は絶大だった。
太陽と月にその力を左右される、普通の吸血鬼が昼間に放つような魔力の量ではない。
即ち、ドックンドールはそれらに左右されても、関係ないと思えるくらいの力を持つ吸血鬼なのだ。
「……早く、逃げ……。抑え、られない……」
ドックンドールの呟きも虚しく、ツェリスカを握り潰す高濃度の魔力。
魔力とは本来、触れられるようなものではない。濃度を増し、世界の裏に潜む虚数から実数に変化しなければ、この世に影響を与えられるものではない。魔法とは魔力を実数としやすいように物理現象として顕現させるが、今のドックンドールの魔力は物理現象としてではなく、虚数存在である魔力をそのまま濃度だけを増して、実数存在として顕現させているのだ。
男はその事実に気付き、恐れをその顔に張りつかせ、逃げようとするが、既にドックンドールの魔力は彼自身の意思とは関係なく実数化して男を取り囲む。
「早く……早く、逃げてくれ……。傷付ける前に……!」
ドックンドールが息を切らしながら叫ぶ。自身の魔力がどんな動きをしているかどうかすらわからない。ただ、ドックンドールは魔力を抑えこもうと、頭痛と戦いながら、必死に堪えているのだ。それも急に顕現した膨大な魔力を全て。幾ら、ドックンドール自身の力とはいえ、どうなっているのか判断できなくなるまで消耗するのは当然だ。
「傷付けてしまえば、終わりなんだ……。だから、早く!」
人を傷付けてしまえば、人に害をなせば、迫害され、駆逐され、社会的にも、最悪の場合はそのままの意味で抹殺される。ドックンドールはそれを怖れていた。ずっと昔から、そう言い聞かされてきたように、ずっと昔から、それを実感してきたかのように、それを恐れていた。
「全く、逃げろと言われて逃げないなんてねぇ」
突然、声をかけられて、跳ねるように逃げ出す男。男が逃げ去った後には実数化した魔力に大穴が開けられていた。
ドックンドールが声がした方を見る。
そこには、あの夢の姉に似た少女が立っていた。
「……辛いんでしょう? おいで」
少女が、腕の動脈を、躊躇いなく、鞄から取り出したカッターで、切った。
流れる血。滴る血。一滴一滴、指先から流れ落ちる。
頭痛。ドックンドールを頭痛が襲う。本能が求めるものが今、目の前で流れ落ちている。だが、ここで啜ってしまえば、それで彼の人生はお終いだ。異常と害意で人間は人生を踏み外させる。常に勝者となれば、その限りには入らないが、常に勝者となることなど叶うはずもない。だから、ドックンドールは躊躇う。
「どうしたのさ? 飲まないのかい」
笑う少女。
まるで、そうする事が当然と言わんばかりの笑顔だ。
夢で見た、目の前にいる少女に似た姉の笑顔と全く同じの笑顔だ。
思わず、何の疑問も持たず、ドックンドールはその血を啜ろうと思うが、やはり、その一歩を踏み出す事を躊躇った。
それほどまでに、彼は異常となる事を怖れた。既に、異常に身を浸しているにも関わらず、それを怖れた。
「そのままだと、心が壊れるんだけど、それでいいのか?」
少女が、血を啜るように促す。
ドックンドールは子供のように首を横に振り、耐えるように身体を丸める。
「……昔から、変らないんだねぇ」
少女がドックンドールの頬を触り、こちらを向かせた。
ドックンドールは振り払おうとするが、少女の強い眼力と、力によって阻まれてしまった。
「もう、やめてくれよ……。何なんだよ。あんたも、僕も、さっきの男も……」
ドックンドールは憔悴し切った表情でうわ言の様に疑問を呟く。いや、その呟きはうわ言だった。ドックンドールの目の焦点はもう何にも合っていない。少女も空も、何もかもがその目には映っていない。
既に、ドックンドールの意識も何もかも限界だった。それを見かねた、少女はドックンドールの頬を思い切り叩いた。
それから、ドックンドールの意識は少女に戻る。
「吸血鬼。そう、あんたもあたしも吸血鬼なんだ。だから、血を飲むのが当然なのさ。遠慮なく、飲めばいいだろう?」
吸血鬼。
ドックンドールはその事実を簡単に認めてしまえた。
というよりも、先ほどまでの異常な状況と、血を求める本能がそれを肯定していたのだ。
そして、事実を認めてしまえば、その与えられた血を啜る事は容易だった。
「そう、それでいい」
血を啜るドックンドールの頭を撫でながら、少女は傷口を舐められる痛みを懐かしむように愉しんでいた。
やがて、ドックンドールの頭痛が吸血衝動と共に治まった。
「……僕は、人間じゃないのか……」
ドックンドールの呟き。衝撃ではあったが、人間嫌いであったドックンドールにとっては、人間でない方が嬉しかったのかもしれない。自分でもよくわからない感情にどうしたらいいのか悩んで、ドックンドールは少女を見上げた。
「そう、吸血鬼。あたしと同じ吸血鬼なんだ」
「……吸血鬼、か。はは……そんなもの、存在しないと思っていたんだけどな」
「そうだろうねぇ。記憶も力も封じられていたんだからねぇ」
「……なんで、そんな事を?」
「直に思い出すさ。何せ、封印は解かれてしまったんだから」
電車が鉄橋を走る音。それだけが響いていた。
Reverse Side
「……らいぶらり~先生。これでよかったんですか?」
疲れ切ったドックンドールを寝かせて、刹那は図書室の魔女、らいぶらり~に話しかける。
刹那は彼女に強い信頼を寄せていた。
かつて、ドックンドールを救い、殺した魔女。そして、刹那とドックンドールの身を匿ってくれている魔女。それが刹那がらいぶらり~を信頼する理由だった。
「そうだねー。封印が解けた以上は、そのままにする方が危険だしねー。しかし、まさか、あそこまで封印内で魔力が回復するとは思わなかったなー。幾ら、真祖でも力の核があんなにズタズタにされて、魔力を取り戻すとも思えなかったんだけどなー。うーん、ちょっと、見積もりが甘かったかー」
暢気そうにらいぶらり~は返事をしつつ、自分の研究の為と思える、反省点を述べている。常に自分の興味の向く方向に意識を向ける。らいぶらり~の癖だ。その所為で、何度か本に埋もれている姿が確認されていた。
「それで、これからはどうすればいいんでしょうか」
この学園にいる限りは襲われる事はないだろうが、刹那は不安だった。あの時は何も言わなかったが、ドックンドールはこれから記憶を取り戻していく。強烈に刷り込まれた人間としての意識に対し、吸血鬼としての記憶が流れ込んでいくのだ。すぐに自分が吸血鬼であると言う事実を受け止めたドックンドールだったが、苦しいのはこれからだろう。そう思うだけで、刹那は不安になるのだった。
「多分、刷り込んだ意識と記憶とのギャップは酷いものになるだろうねー。吸血衝動を警戒して、人を傷付ける事と、異常行動に対しては特に強い拒絶反応を示すようにしておいたからねー」
刹那が思い出すのは、ドックンドールが撃退してきた、吸血鬼などの怪異を殺す人間達だった。殺しはしなかったが、時には酷く傷付けなければならない事があった。恐らく、その記憶と刷り込んだ意識が衝突し、強いストレスを生むのだろう。それを思うと、刹那はこれからが大変だとより不安になるのだった。
「……あの、何で、弟の封印は解けてしまったんですか?」
そう、封印が解けなければ、何もなかった。刹那もドックンドールも、変らない平穏を享受できた。原因は刹那が弟に出会ってしまった所為だろうが、それだけではない気がした。というよりも、出会ったくらいでは封印が解かれる事はないとらいぶらり~自身が保証していたのだ。だから、それ以外の要因が絡んでいる事が刹那にもわかった。
「んー、色々と想定外が多かったからねー。一つは魔力の回復が早かった事かなー。封印状態だとちゃんと調べないと、魔力の回復度合いが測れないからねー。後はー、夢かなー?」
「夢、ですか?」
そう言われれば、再会した時にドックンドールは物陰から出てきた。あれは寝ていたのか、と刹那は納得した。
思い当たる節があるような刹那の態度にらいぶらり~は満足して、推論を続ける。
「そー、夢ー。夢はねー、記憶の整理とか言われてるんけどー、違うんだよねー。夢は足りないものを補うものなんだよー。それも、無意識にねー。だからー、弟君は足りないものを補ったんだろうねー」
足りないもの。
ドックンドールには足りないものが多かった。
刹那が思いつく限りでも、家族、友人、恋人等の人間関係だけでなく、喜怒哀楽などの感情、安らぎや癒し等の精神的な回復力、記憶もそうだ。中でも足りなかったのは、人間としての意識だろう。急場凌ぎで刷り込まれた意識では、やはり、無理があったのだ。おかげで、吸血鬼だった頃の意識と混ざり合って、人間としても吸血鬼としても半端な存在となってしまっていた。それを証拠に、人間関係は壊滅的だった。
「多分ねー。一番、足りなかったのはー、あんただったんじゃないかなー。なんて、思うんだよねー」
らいぶらり~は刹那を指差す。
思わぬ、言葉に刹那は驚くが、同時に納得もできた。
簡単な事だった。刹那とドックンドールはかつては二人で生きてきたのだ。その上で、ドックンドールは姉である刹那しか信頼していなかった。ならば、ドックンドールが刹那を求めるのは当然の事だったのだ。
「……あたしは、弟を支えられるでしょうか?」
刹那の不安。
これから、らいぶらり~が何か手を打つまでは、ドックンドールの拠り所は刹那しかいなくなるだろう。
もし、刹那がドックンドールを支え切れなければ、容易く、ドックンドールの精神は壊れてしまうだろう。
ドックンドールはそんな危うい場所にいた。
「んー、心配はしていないんだけどねー。ボクは。とにかく、これから、新しい封印術式を作るから、しばらく、弟君をよろしくねー」
らいぶらり~は無責任に刹那を追い払うと、大量の本を魔力で取り寄せた。
その様子を見て、不安と共に溜息を一つ吐いた刹那は図書室から出ていくのだった。
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