犬吠崎三姉妹その1だよ~

Last-modified: 2017-06-17 (土) 17:56:58

日が落ち始め、空の半分が夜の静けさに染まる夕暮れ時。
今日の活動を切り上げた風は帰宅の途中で買出しに立ち寄ろうと、通学路を外れて近くのスーパーに向かっていた。
今夜の献立を考えながら歩いていると端末に次々と部員から簡単な活動報告が上がってくる。
樹は地域清掃の募集ポスターの作成。下書きが完了したので部室に鍵をかけて帰宅。
夏凜は柔道部の助っ人。武道を学んできた夏凜だからこそ引き受けた投げられ役だが掛かり稽古では逆にぶん投げてやったと満足そう。
友奈と東郷は子猫の里親探し。特に成果は無かったらしく、申し訳なさそうだったので気にするなとフォローを返す。
今日も勇者部一同は校内から街中を駆け回り、精力的に活動中。思わず笑みが漏れてしまう。
「順調ねーえらいえらい」
足取りは軽い。ひとまず日常に関しては頭を悩ませる必要は無さそうだ。
ふとよぎる不安は全てあのアラームから始まる非日常の光景、敵の襲来、戦いに赴く自分たちの姿。
そのもう一つの勇者部活動についても、部員たちはみんな積極的に取り組んでくれている。
貴重な存在だ。だからこそ、すぐにでもあの活動を終わらせたくあるのだが。
「あーダメだ! 弱気になるな女子力が逃げちゃう」
頭を振って思考を切り替えよう。
今晩のおかずすらまだ決まっていないのに、その後の不安ばかり抱え込んでも仕方がない。
いつの間にか止まっていた足を再び前へ。日はだいぶ傾いてしまっていた。

常日頃利用している馴染みのスーパーはかきいれ時を越えた後のようで、大きなビニール袋をさげた人たちがぞろぞろと店から出てきた。
タイムセールは逃したか、残念だが残り物には福があるはず。風はかごを手に取り店に入った。
ざっと見た感じでは野菜は多く残っていて精肉コーナーは空きスペースが目立つ。魚介の方を向くとそちらはまだ選べる余地がありそうだった。
旬のものから冷凍ものなど色鮮やかな魚たちを前にして自宅の冷蔵庫の中身に思いをはせる。
だいぶ空きがあったが使い残しているくず野菜なんかがちょこちょこと貯まっていたはず。ここは一気に冷蔵庫の掃除といこう。
風は塩鮭の切り身を備え付けのビニールに押し込み、他の材料を取りにいった。

必要なものをそろえた風は再度かごの中を確認しながらレジに向かっていた。
「あれ」
その時、スーパーの中でいるとは思わなかった人物の背中を発見して立ち止まった。
惣菜コーナーを右往左往しながら手に取ったパックを見比べている、ツインテールを赤いリボンでとめた女子中学生。
にやりとした風はそっとその背中に近付き、無防備なところを指でつんと突いてやった。
「ひやぁあ!? んなっ! 何!?」
「あっはっは! なにその“ひゃあ”って! 声裏返ってるわよ夏凜」
「ふ、風~~~!!」
顔を真っ赤にした夏凜は風から距離をとり構える。息荒く、手に持ったから揚げのパックが震えていた。
少し驚かせすぎただろうか、完全に敵対心がむき出しだ。
「もう悪かったわよ、そんなにおびえること無いじゃない」
「お、お、おびえてなんかないわよっ! 不意打ちされたら誰だって怒るわ!」
「まぁまぁ落ち着きなさいって。ほら、から揚げ潰れちゃうわよ?」
「う、うぅ……」
拳を握れず不満そうだが、から揚げを守ることを選んだようだ。
不機嫌そうに並んでいた惣菜をいくつか手に取った夏凜はそっぽを向いてレジへ向かおうとした。
そこでピンッと閃いた風はその前にさっと立ちはだかり行く道をふさぐ。
風をにらみつけ、牙をむく夏凜。
「なによ、もう帰るんだからどきなさいよ」
「今日も出来合いのものなのね。栄養偏るわよ」
「うるっさいわね。人を怒らせておいてその上説教はじめるなんて、あんた喧嘩売ってるの?」
「そんなわけないじゃない。驚かせちゃったお詫びに夕食ご馳走するわ。それも売り物じゃないからおごりよ」
「……え、な……?」
またも不意打ちを受けたと言わんばかりに、夏凜は目を見開いていた。
「2人分作るのも3人分作るのも手間は変わんないし、樹もきっと喜ぶわ。ね、どう?」
「ど、どうって……」
さっきまでの勢いも刺々しさもなくなり、すっかり丸くなり悩んでいる夏凜。
こんなものの数分でコロコロ表情を変えるものだからいじり甲斐があるというものだけれど、それを本人に言ったらまた怒り出してしまいそうだ。
胸の中で笑いをおさめた風は、かわりに息を一つついた。
「ほらほらもう悩んでないで。樹がお腹すかせて待ってるんだから、これは置いて行くわよ」
「あ、ちょっと! ま、まだ行くとは……」
「いいから来なさいって。レンジの温かさと出来立ての暖かさは違うものよ」
夏凜の手から惣菜を奪い取り棚に戻していく。
手持ち無沙汰になった夏凜の手は所在無く宙をさまよっていた、そこをすかさず風は捕まえ引っ張っていく。
思ったほど抵抗は無かった。もう観念したようだった。
「き、嫌いなものだったら食べないわよ……?」
「好き嫌いは言わせないし、有無は言わせない。それに勇者部五箇条覚えてるでしょ」
「う、うぅ~……」
勇者部五箇条の一つ。よく寝て、よく食べる。
慣れ親しんだこの言葉は充分な効果があったようだ。
腕を引っ張られながらも素直についてくる夏凜は、スーパーを出た後の道でぼそぼそと何事かをつぶやいていた。
「さぁ早く帰って仕度しないとね。私もお腹減っちゃったわ」
聞き返すことはせずに風は歩き続ける。
それはきっと、ありがとう、だと確信していたからだった。

ヘッドホンから流れる曲がすでに4周はしていた。
ずっと同じ曲をリピートしているわけだが、今一番のお気に入り、いつまでも聞いていたいぐらいだ。
歌は聴くのも歌うのも好きだ。
部屋で過ごす時も夜寝る前も、妙な静けさが耐えられなくなって曲を流し続けることはよくある。
歌う方はといえば、人前で緊張してしまうのは正直テストが終わった今でも変わってはいない。
しかし、暇を見つけては一人でカラオケに通うようになったのは大きな変化。
胸に抱いた小さな夢もその原動力の一つだった。
「ふんふんふふ~ん……」
パソコンの前で特になにをするでもなく、何となくネットを眺めていた樹は画面の表示時間に目をやった。
すでに18時を過ぎてすっかり日は落ちている。
だというのに姉はまだ帰宅していない。確か、幼稚園や老人ホームを回って次の訪問を企画しているとか。
端末にも特に連絡は来ていないので、そう遠くまで行ったわけではないと思う。
とはいえ、そろそろ小腹が空いてきてしまっていた。
お菓子でもつまんでしまおうかとも思ったが、下手に動くと現場を押さえられてお菓子禁止令もあり得る。
大人しく待つしかない身であった。
「はぁ、お姉ちゃんまだかな」
とつぶやいた瞬間。
「た・だ・い・ま!」
「ひゃわぁ!!」
お気に入りのアーティストの声が遠くなり、ついでジャックの抜けるブツッとした音と共に親しんだ大声が響いた。
椅子から転げ落ちそうになったところを何とか机を支えに押し留める。
ドキドキする胸を押さえながら振り返るとそこには、悪戯っぽく笑う姉の姿があった。
「お、お姉ちゃん……おかえりなさい。いつの間に……」
「何度もただいまって言ったのに、全然返事しないんだからー。もう少し音量おさえなさい」
「あ、うん。ご、ごめんね」
しょうがないわね、と息をついた風は手に持っていたヘッドホンを机の上に置き、また樹の方へ向き直った。
「もう油断しすぎよ樹も。夏凜みたいにスーパーで悪戯されたらどうするの」
妙な例えだななんて思ったら突然、入り口に話題にされたその人が姿を現した。
「ちょっと! 何でそこで私が出てくるのよ!」
「へ? 夏凜さん?」
姿を現したはいいものの、はっとして顔を真っ赤にした夏凜は、お邪魔するわよ…とつぶやいてそっぽを向いた。
どうしたんだろうと姉を振り返ると、姉はとても愉快そうにニヤニヤとしていた。
「本日のゲストよ。お腹をすかせて道で泣いてたから助けてあげようと思って」
「泣いてないし! あんたが無理やり連れてきたんでしょ!?」
「まぁまぁ、そんなに叫んだら余計にお腹すくわよ」
いつも通り夏凜をからかいながら部屋を出て台所へと向かう風。夏凜も律儀に反論しながらそれについて行く。

エプロンを着て、ビニール袋と冷蔵庫から食材を取り出す。
風は夏凜を適度にあしらいつつ、仕度を始めている。良かった、お菓子の誘惑に負けずに待っていた甲斐があった。
安心して食卓に座って、テレビでも見ようかとリモコンに手を伸ばす。
まるっきりいつも通りの犬吠崎家の動きであったが、今日はゲストがいるのだった。
「ささ、すぐには出来ないから夏凜も樹と一緒に待ってて。お菓子に手を出しちゃダメよ?」
「い、いや待つだけなんてのも暇だし……手伝うわよ。簡単なことしか出来ないけど」
自ら腕まくりをして風の隣に立つ夏凜。
その姿を見た樹は、胸の内側がちくりとした。今まで見て見ぬ振りしていた罪悪感というやつが騒ぎ出したようだ。
「そう? 別にいいのよー。いつも私一人でじゅうぶん……」
「お姉ちゃん! 私もお手伝いするね!」
姉の言葉をさえぎり、樹も腕をまくって夏凜の隣につく。風と夏凜の珍しいものを見るような目は気にしないことにする。
そんな妹の様子を風は微笑ましく思い、手に取った野菜を二人にそれぞれ渡していく。
「あんまり広い台所じゃないんだけどね。せっかくだからみんなで作ろっか」
「うん!」
「と、当然のことをするだけよ」

今日の献立は、残り物の野菜を一掃するためのシチュー。
時期はずれかもしれないが、煮込み物に失敗はほぼないし一人増えたところでそこまで工程が変わるものではないところが何よりの強み。
しかもルーなんていう便利グッズまである。
これもまた神樹様の恵み……そして企業努力の賜物である。
鍋は一切を風が見守ることとし、二人には付け合せのサラダを任せることにした。
シンクの前で並んで野菜を洗う二人を見て、満足そうにうんうんと頷く風。もうずっと見ていたくなる光景だ。
順に野菜を煮込みつつ、危なげなところは一つ一つ教えていく。こっちは慣れたものだが、二人は真剣そのもの。
包丁を握らせるのは不安があるかと、そこは代わろうと提案したが夏凜は頑として譲らなかった。
「全っ然問題なんてないわ! いつも刀を二振りも使ってるんだから、これぐらいなんてことないわよ!」
まるで予想通りの答えであった。
とりあえず横目で見守りつつ、火を止めた鍋にルーを投入。これを溶かしてしまえばあとはただただ煮込むのみ。
危なげではあったものの知識だけはあったようで、猫の手、猫の手とぼそぼそ言いながら夏凜はトマトを切っていく。
樹も息を呑んでじっと見学している。おそらくこれも夏凜のプレッシャーになってしまっているのだろう。
どうにかこうにか人数分切りおえた夏凜は静かに包丁を置き、大きく大きく息をついた。
「ど、どうよ……?」
「夏凜さんすごいです! 私なんてまだ包丁持たせてもらえないんですよ!」
「えらいえらい。いやー夏凜のおかげでトマトがとっても美味しそうだわ」
「そんな褒めたって何も出ないわよ……」
ずいぶんと消耗してしまったらしく、夏凜は力なく返答した。
その後の作業は樹が引き継ぐ。野菜を皿に盛り、ドレッシングをかけるだけではあるが。
とはいえ、不慣れな二人の作業を見守り時にはフォローを入れて一品作り上げるのにもかなりの時間を要した。
しばらくしてシチューの味見をしてみると、ちょうどいい頃合。
「完成~。夏凜、下の棚からお皿出して。樹はフォークとスプーン。あとパン持ってきて」
鍋から漂う匂いをひとしきり嗅いでいた二人は、ようやく食事にありつけると足取り軽く動きだした。

「お腹すいたー。はい、お姉ちゃんのパンはこれね」
「ありがと樹。夏凜も座って、サラダはこの小皿にとってね」
「あ、ありがと……」
出来上がった品々は、風自身が一人で作ったものと見た目は大差が無い。しかしその中には三人分の時間と想いが込められている。
いつもより数倍は輝いて見える食卓だった。
「じゃあ食べましょうか。二人とも、ちゃんと手と声を合わせてね」
「うん!」
「え、えぇ」

二人の妹、二人の姉、二人の友達にそれぞれ感謝をして。
「「「いただきます」」」

テレビの中で知らない男女がキスをしている。
海岸に点々ときらめく街灯、家の明かり、少し離れたビルの電灯。
波打つ水面に映りこんで、夜空から地上までいたる所に星を散りばめたかのよう。
四国のどこで撮ったのかは知らないが、ずいぶんと雰囲気のある夜景だ。
静かに、だが耳に残るBGMに乗せて俳優が歯の浮くようなセリフを冗長に語っている。滑舌が悪い。
これっぽっちも惹かれないドラマに飽き飽きしてはいたが、自分にチャンネルの所有権はなかった。
ちらっと隣を見てみると、樹はもうハンカチ片手にして完全に見入っている。
水をさすわけにもいくまい。時間的にももう少しの辛抱だ。
夏凜は姿勢を直してもう一度テレビに付き合うことにした。
「かり~ん。お風呂先に入っちゃって」
洗い物を終えた風がエプロンで手を拭きつつ帰ってきた。
「樹はまだテレビ見てるし、私は洗濯物たたまないといけないから、特別に一番風呂よ」
そう言って、かごの中の制服やシャツをたたみ始める風。
それならお言葉に甘えて……と立ち上がった時、ふと夏凜は正気に戻った。

「って! 何で自然な流れで入ることになるのよ! もう帰るわよ!」
そう叫ぶと、犬吠崎姉妹の視線が夏凜に刺さる。なにを今更?と言った表情。
晩御飯をご馳走になったことは感謝するが、それはそれ。長居は無用、ケジメはつけなければいけない。
そもそも着替えも何も用意してないんだし、とかばんを手に取ろうとした。
したが、風がその手をさっと捕まえる。
「こんな遅い時間に女の子一人帰すわけにはいかないわよ。いいから泊まっていきなさいって」
「いいわよ気にしなくても。私が夜道で誰かにやられるとでも思う?」
「そういうことじゃないの。一宿一飯の恩って言うじゃない? つまりご飯とお泊りはセットなわけよ!」
「意味わかんないこと言うなっての! 着替えだってないんだし……」
すこし葛藤してしまい始める。その隙を、風は決して逃さず攻め込んでくると言うのに、だ。
「なーんだ、そんなこと。だったら私の貸してあげるわよ、樹のだとちょっと小さいだろうしね」
「……お姉ちゃん、ひどいこと言ってる……」
自分の胸に手を当て、落ち込む樹。ドラマは終わって、ニュースに移っていたようだ。
「気にしない気にしない。そこも樹の可愛いところなんだから、そのままでいいのよずっと」
「ずっとは気にするよ~」
むくれる樹、それを見てまた可愛い可愛いとからかう風。
帰るタイミングは今しかない、夏凜はできるだけ自然に気づかれないように動こうとした。
したが、相変わらずかばんは風がガッチリガードしてるし、いつの間にか樹が廊下までの道をふさぐかのように位置を移動していた。
「ふふふ……お前はもうすでに包囲されている! あきらめてお縄について寝床につきなさい!」
「いいじゃないですか夏凜さん。もう少しいてくれると私も楽しいです!」
「う、うぅ……」
風のぐいぐいと来る押しにも弱いが、樹のぐっとくる引きにも弱い。
三好夏凜は弄ばれていた。思えばはじめっからそんなような気もするが。
もはや逃げ場はなく、外堀を埋められ、孤立無援の状態。
そういえば自らの精霊である義輝のモチーフであろう13代足利将軍も、そんな状況に陥っていたらしい。
なぜかそんなことに頭が回っている間に着替えとタオルを持たされ、湯気立ち上る風呂場の前。洗面所に押し込まれていた。
「な、なんなのこの状況……」
大きくため息をつき、渋々風呂に入ることにした。

体を洗い、髪を洗い、熱々の湯船にゆっくりと沈んでいく。
自宅の風呂場より広いためか、いつもより落ち着ける気がした。
「ふぅ」
全身の力を抜いて、浮力に任せるまま体を湯に馴染ませていく。湯船と一体になっていく感じ、まるで溶けていくかのようだ。
「あ、トレーニング……」
なんとなく体の感覚が違うなと思えば、そうだ今日は何の鍛錬もせずに風呂に浸かっている。
勇者部の活動こそあったが、自らを律するための日課は欠かすわけにはいかなかったのではないか。
ここにきてまた一つ帰るための理由を思いついたわけだが、きっとそれも意味が無い。
何だかんだいって丸め込まれるに決まっている。丸め込まれる自分にも問題はあるのだが。
「何やってるんだろう私……」
どうにも自分が情けなく思えてしまうが、今日のことはもう考えないようにしよう。
事故、これは事故なのだ。
ついつい好意に甘えてこんなところまで来て、あまつさえ風呂にまで入ってしまっている。
だが、夕方に風と会ったのは本当にたまたまの偶然であったし、多少の遅れぐらい巻き返せないでどうするというのか。
頭を振って湯をはじく。ぬるま湯は気持ちのいいものだが、それに慣れてはいけない。
「明日! 明日はちゃんとするのよ、完成型勇者なんだからきっちり取り返して見せるわ!」
拳を握り、自分を奮い立たせる。
自律する精神を湯船に溶かさぬよう、夏凜は決意と共に湯船からガバッと大波をたてて立ち上がった。
「ちょっと夏凜、お風呂でなにはしゃいでるのー?」
「あ……」
無防備に立ち上がったところにいぶかしげな風がドアを開け、ばっちり目を合わせてしまった。

「あ、あんた何勝手に開けてるのよー!!」
「大声出すから気になっただけでしょ、ってこら! お湯かけるのはやめなさいって! 無駄になるでしょ!」
「うぅぅうるさい! いいから出てけーーー!!!」

来客用の毛布と枕を用意していた樹は、浴室から響く騒がしい声におもわずくすりと笑った。

布団を被る前に、まず枕を並べてみる。
シングルのベッドだが横幅は多少余裕がある。枕の位置は問題なしだ。
次に実際に横になり、調整をしていく。派手な寝返りをうつことがなければ腕や足が触れ合う程度で、これも問題なし。
寝相については、悪くないほうだという自覚は二人ともにあった。
「悪いわね、樹。何だか押し付けられちゃったような形になって」
「いいんですよ。夏凜さんも気を使わないでくつろいでください」
にこやかに答えた樹は目覚ましをセットして枕元に置く。
あの子は朝弱いのよー、と風が言っていたが一応自分で起きようという意思はあるらしい。
明日も学校があるわけだし夜更かしはせずにさっさと寝てしまうことにした。
それに夜更かしが得意な二人ではない。
時計の短針が頂点に近付くにつれて、まぶたはもう閉店だとばかりにシャッターを下ろしはじめる。
改めて横になり、毛布と布団を被る。スイッチに近い夏凜が明かりを落とした。

「しかし風も強引ね。樹と私は面積少ないから二人でちょうどいい、だなんて」
暗い天井に向けて夏凜は言った。
大人しく泊まっていくこととなった夏凜がどこで寝るかを話し合った時、風は自分の提案を押し通してきた。
別に床でもいいと遠慮した夏凜だったが、そんな話は聞く耳を持たないといった様子であれやこれやと理屈をつけてきた。
床で寝ると体に悪い、と言うのは納得できたが自分のベッドでは夏凜に女難水難就職難の相が出ているとテキトーなタロット占いを出しにしたりなど。
結局反論は許さないとばかりに毛布と枕を寄こして、二人の背中を押して樹の部屋に押し込んだのだ。
あとは若いお二人でごゆっくり、と意地悪い笑みを残して自身も部屋へ入っていってしまった。
文句をつらつらと述べてやるつもりだったが、隣の樹はそれを聞いてくすくすと笑っていた。
「ふふふ、違いますよ夏凜さん。あれはお姉ちゃんの気遣いです」
「気を遣ったって、どういうことよ」
「お姉ちゃん朝早いから、夏凜さんがゆっくり出来るようにってことだと思いますよ」
ああ、と夏凜はそれを聞いて合点がいった。そんなことだろうと思ってはいたが、妹のお墨付きなら確定だ。
風の強引さの裏には相手にそれを感づかれまいとする、風なりの心配りがあるものだ。
今日のことにしたって、あそこで声をかけられ手を掴まれて連行されてなければなかったものだ。
なんだか気恥ずかしくなった夏凜は体を横に向けた。その背中に樹は語りかける。
「お姉ちゃんがああやって背中を押してくれるから、私もいっぱい助けられちゃってますよ。勇者部のことも……お役目のことも」
昔からずっと、姉は自分の前を歩いて腕を引いてくれ、ときには後ろに回って背中をそっと押してくれた。
そんな姿をずっと見てきたからこそ、少しでも助けになりたいと樹は勇者となる道を選んだのだ。
演劇は少し恥ずかしいし、戦うのは怖いけれども、一つ一つ克服して立ち向かっていかなければならないと決心したのだ。
今の自分の素直な思いを樹は目の前の背中にただ語った。
「そう……そうね、私も……感謝してるかな……」
「夏凜さん? 何か言いました?」
「な、なな何も言ってないわよ!?」
思わずつぶやいた言葉は、夜の静寂の中では思いのほかよく通ってしまったようだった。
また樹の小さな笑い声が聞こえたような気がして、夏凜は照れ隠しのつもりで180度向き直って樹に聞いてやった。
「それなら朝起きられないのも、克服しないといけないんじゃないの?」
「う……それはまぁ追々ということで……えへへ」
ばつが悪そうに笑ってごまかしている。そんな愛嬌で許せてしまう気になるが、これも人徳と言う奴だろうか。
「朝起きられないのは目覚ましとか、寝る時間を早くするとかで頑張っているつもりです。あと、料理なんかも覚えたいかなーなんて」
「料理、料理ね。それは私も同感だわ」
スーパーの惣菜やコンビニのお弁当にも、いずれは飽きが来るだろう。
それにほとんど手を加えてはいないが、今日作ったサラダには舌で感じる美味しさ以外の何かが詰まっていたと思う。
自分の手でそれを再現できるなら、食生活に革命が起きるというものだ。
「それじゃあ一緒にお姉ちゃんに教えてもらいましょう! 今日みたいに放課後に集まって材料から買ってきたりして」
「え? い、いいわよ迷惑だろうし……」
「そんなことないですよ! 明日早速お姉ちゃんに頼んでみます!」
グッドアイデアとばかりに目を輝かせて提案してくる。その押しの強さに少しだけあの姉に近いものを感じた。
そこはやはり姉妹なのだ。
でもそれも悪くないか、泊まるのは無しにしても勇者としての鍛錬と同じく人としての生活も充実させなければ。
目を閉じて想像する。風にからかわれながら、樹に励まされながら、鍋や包丁と向き合う自分の姿。
「ま、考えておくわ。もう寝ましょ、本当に起きられなくなるわよ」
「はい、おやすみなさい夏凜さん」
おやすみ、と小さく返事をして意識を眠りへと切り替えていった。

ふと、目を開ける。
何か予兆のような、朝だと感じさせる何かがあったわけでもなく、自然と覚醒とともに目が開いた。
目の前で寝息を立ててる樹から、時計の方へと目だけ動かしてみる。6時少し前。いつもと同じくらいか。
生活リズムは姉妹のペースに巻き込まれなかったようで、ほっと一息つく。
すると部屋の外で物音がしていることに気づいた。かすかに聞こえる足音と水の音。
何の音かはすぐに想像付いたので、夏凜は姿勢はそのままに体をずらしてベッドから這い出る。音を立てないように注意をしながら。
樹がセットしていたタイマーはまだ1時間ほど余裕がある、熟睡しているところを邪魔するような無粋なことはしたくなかった。
無事、静かに抜け出せた夏凜はちらっと樹の寝顔を確認する、変化は無い。安心してゆっくり部屋を出た。
部屋の外の物音は想像通り、風がその主だった。
制服のままエプロンをつけてテキパキと働いている。小さく、おはよう、と声をかけた。
「あら夏凜。おはよ、ってもまだこんな時間よ。ゆっくりしてればいいのに」
「別に。いつもこの時間に起きてるから普段通りなだけよ。あ、私の制服は?」
「廊下にかけてあるわよ。いやー食べこぼしの染みがなかなかとれなくて困ったわ」
「……うそ」
「ん? うそだけど」
あっけらかんと言い放つ風に思わず言い返してやろうと、口を開けたが樹はまだ寝ているのだった。文句は胸のうちに留めておく。
そんなやり取りの間も風の手は止まらない。朝食が着々と仕上がっていく。きちんと3人前。
手伝おうか、と申し出たが今回はやんわりと断られた。
確かに手を出す余地はあまりないようだった。素直に待つことにして、一足早く食卓に着いた。
「ねぇ、樹起こして来よっか」
「それもダメ。あの子の可愛い寝起きの顔を見るのは姉である私の特権なんだから」
「ホント甘いのね……」
これも姉妹愛の一つか。
やれやれと呆れ気味に言った夏凜であったが、風の横顔を見ると少しばかり真剣な面持ちで鍋を見ていた。
そして、こう言葉を続けた。
「いいのよ。あの子が穏やかな顔をしていてくれるだけで、私がどれだけ救われてるかわかる?」
夏凜に語りかけているようでいて、その言葉は内に向かっているかのように思えた。
「あの子が無理をせず普通に笑顔で過ごしてくれていれば、それでいい。だからこうして家事してるんだから」
「……そう」
そんな思いを打ち明けられても、自分は気の聞いた返事の一つも浮かんでこない。聞き下手なのだ、なんとも情けない。
そのまま、無言の時間が続く。
生活音と時計の音に耳を立てながら座って待っていると、目の前にスクランブルエッグや昨晩のサラダ、オニオンスープが運ばれてきた。
普段の自宅では決して見られない光景。少し戸惑って風を見ると、にやりと笑ってみせた。
「ほら、食べて食べて。今更遠慮しあう仲じゃないでしょーが」
「あ、ありがと。い、いただきます」
ぎこちなく、料理を口に運んでいく。やっぱりだ、なにかこう栄養とは別の何かが食道や胃を通して体に詰め込まれていく感じがある。
それをこんなに強く感じるほどに、自分はこういった手料理と離れていたのだ。あらためて実感する。
昨晩樹と話したことを伝えてみようかと顔を上げると、目の前の風はポケットからブラシを取り出し夏凜の背後へと回った。
「動かないで、虫の触覚みたいになってるから。……はっ、まさか本物の触覚?」
「なわけないでしょーが」
朝日がカーテンの向こうから顔を出している。
静かな時間。髪を軽く梳いていくブラシの動きがゆったりとしたこの時にとても合う気がする。
樹の目覚ましが騒ぎ始めるまでの少しの間、身を委ねてみるのもいいか。
まずは今日を充実させるために、心と体を満たしていくことにしよう。

「樹ー! おいてっちゃうわよー」
「ま、待ってー!!」
あたふたしながら家の鍵を閉めた樹は、再度かばんの中身を指差し確認している。
一応足は前に向いて歩き出そうとしているのだが、頭がそれについていってないのが何とも危なっかしい。
しょうがないわね、と夏凜は樹のところまで戻っていった。一足先を越されたか、姉として不覚をとった。
二人が揃って歩いてくる。忘れ物はないようだ。
「さ、早く行かないと遅刻しちゃうわよ。夏凜が廊下に立たされないようにしないとね」
「そんなことしたことないわよ!」
「ごめんね、私がまたギリギリまで寝ちゃってたから……」
早足気味に並んで歩く三人。樹は肩を落としつつ、少し遅れながらもついてくる。
「目覚めが悪いのはともかく、朝ごはん食べながら寝そうだったのはどうかと思うわ」
「遅刻確定ってわけじゃないんだから問題なしよ。ダラダラ歩いていくよりこっちの方が目もさめるでしょ」
「甘いわね風は。私だったらパジャマのままでも外に放り出すわ!」
「や、やめてください夏凜さん……努力しますから」
瀬戸の海を臨む海岸沿いをわいわいとはしゃぎながら登校する。次第に周りにも同じような讃州中学の生徒が増えてきた。
今日も天高く日は昇り、爽やかな潮風が髪をなでていく。穏やかそのものである、これがこの世界の日常だ。
神樹様の恵みや教えを学ぶ機会は多いが、この光景はあって当然の物のように誰もが思っている。
日々常に感謝しながら生きている人はそう多くはないだろう。しかし、だからこその日常なのだ。
非日常の世界を知ってしまった自分たちにとっては、この光景の持つ意味もずいぶんと変わってしまったものだ。
「ね、お姉ちゃん。やっぱり次の主役は夏凜さんにやってもらおうよ」
「……え?」
水平線を眺めながら、すっかり意識が飛んでいた風の顔を樹が覗き込んでくる。
「ちょっと樹! 私はそういうのできないって言ってるでしょ!」
「でも夏凜さん頼りがいありますから……いい主役になると思いますよ」
「そ、そう? しょうがないわね、一応考えるだけ考えておくわ」
自分が考え事をしていた間に、二人の間で何やら話し合われていたようだ。
会話の内容から察するに次の劇の話だろうか、まだ自分たちで演じるか人形劇かも決まっていないと言うのに気の早い子たちだ。
とはいえ、そんな他愛のない話こそが自分たちの日常であったはずだ。
本来であれば確認せずともそこにあることが当然であるものだ。そんなことも忘れてしまったのか。
風は自嘲するように小さく笑い、顔を上げた。
「よーし、それなら私が夏凜を主役にした脚本を書き上げて見せるわ! 洋風と和風どっちがいい?」
「えっと……それなら和風かな」
「和風ねー。だったら赤穂浪士なんてどうかしら、47人の夏凜が吉良東郷野介義央に主君結城友奈の仇討ちにいくの!」
「死ぬじゃない! それに47人の私って何よ!?」
「大丈夫! 切腹の作法ならきっと東郷が詳しいはずよ!」
「怖いわ!」
耳元でぎゃんぎゃんと不満をぶつける夏凜。どうやらお気に召さなかったらしい。
「うーん、ならもっとわかりやすく桃太郎でどう? 桃太郎夏凜、犬友奈、雉東郷、猿樹で」
「私お猿なんだ……なんかちょっとやだな……」
樹も樹で、ぼそっと不満を言ってくる。
「鬼役は風がやるの? 裏方とかナレーションとかいなくなっちゃうけど」
「何を言ってるのよ。鬼役も夏凜よ」
「は?」
「刀を振り上げ、名乗りを上げる夏凜! それに応じる凶悪な牙や棍棒を持つ夏凜! 海上の大決戦よ!」
「だから私は一人しかいないっての!!」
夏凜のわめく声を笑って聞き流しながら、歩いているともう校舎が見えてきた。
見慣れた、歩き慣れた通学路がこんなにも楽しく過ぎていく。なんて心地のいいものだろう。
これが日常だと、感じられるのは非日常を知っているからで。
非日常を知っているからこそ、こんなくだらない日常をより貴重だと感じるのだ。この思いは戦いの中で得られたものの一つ。
だから大切にしなければ、それこそ当然であるかのように自然と。
そのような振る舞いも、世界を守るためのお役目の一つであるはずだ。
三人はごくありふれた登校風景に溶け込んで、それでも一際はしゃぎながら校門を潜っていった。

「あ、東郷さん。見て見て、風先輩たちだよ」
「夏凜ちゃんもいるね、珍しい」
東郷の乗る車椅子を押していた友奈は雑談に花を咲かせている中、ふと見知った背中を登校する生徒たちの中に見つけた。
何を言ってるかまでは聞こえないけれど、なんとなく想像はできる。
からかう風となだめる樹に挟まれて、夏凜がなにやらまくしたてている。何とも見慣れた光景か。
それを後ろから眺めていた二人は、顔を見合わせて、笑った。
「いつも変わらないわね風先輩たちは。夏凜ちゃんも真に受けちゃうんだから」
「楽しそうだねー。ね、ちょっとスピード上げて追いつこうか」
「やめておいた方がいいと思うよ。人が多くなってきたし、そろそろ着いちゃうし」
「そっか、まぁ後で会えるからいっか。……でも」
言葉を切った友奈を不思議に思い、東郷は振り向いた。
眩しそうに前を見ていた友奈はそんな東郷に顔を向ける。
すると、いつも通りににっこりと、空を昇る日を思わせる笑みを見せて言った。
「なんだか本当の姉妹みたいだね!」
「ふふふ、本当にそんな感じ」
二人も、前を行く三人と同じように笑いあいながら校門へ入っていく。
どんな話をしていたのか、あとでいっぱい聞かせてもらおう。