犬吠崎三姉妹その2だよ~

Last-modified: 2017-06-17 (土) 17:57:59

ふと思い立ったこと、それが最大の過ちだった。
目の前に表示されている現実の数字は風呂上りの体を一気に冷やしていく。膝が自嘲するように笑う。
何度も何度も目をこすって確かめてみたが、無情なそれはなにも変化しない。
今、季節は初夏。そのうちに海に行こうなどという話題はきっと上がるはずだ。
そこでこの悲惨な現実を勇者部の面々の前にさらすわけにはいかない。下手をすれば今後の活動にも影響してくるだろう。
「なんとかしなきゃ……!」
小さな背中を震わせて、自身の改善を決意する樹であった。

「メェェーーーーーーーン!!」
威勢のいい掛け声と共に、上段から振り下ろされた竹刀は小気味いい乾いた音をたてて相手の面の中心をしっかりと捉えた。
「面あり! 勝負あり!」
審判三名の旗は文句なしに一致した。蹲踞をして下がった選手二人は、ありがとうございました、と礼を交わす。
マネージャー役を請け負っていた樹は、手にタオルとテーピングサポーター用のテープを持ったまま惚けていた。
試合の間中、応援の一つでもしなければと思ってはいたが口が開いても声が出ない。圧倒されていた。
面で顔が見えないせいか、すらりと姿勢よく中段に構えた姿も、一瞬の隙をつき打ち込む姿もまるで普段とは別人のようだった。
試合を終えたその人は樹のそばまで歩いて来ると、行儀よく正座をしてから面を外して軽く頭を振った。
「お、お疲れ様です夏凜さん。これ使ってください」
「ありがとう樹。剣道部といってもたいした事なかったわね、ちょろいものよ」
タオルで汗を拭った夏凜は、いつもの不敵な笑顔を見せた。
「すごいかっこ良かったです! 剣道やってたんですか?」
「鍛錬のために本を読んだり、教えてもらったことはあるけど試合をやったのは今日がはじめてね」
「はじめてだったんですか……すごい」
羨望の眼差しを間近で受けた夏凜は少し戸惑い顔を背けてから、当然よ、と返した。
勇者部本日の活動は部活の助っ人。大会の近い剣道部は練習相手を求めて依頼してきたわけだが、思わぬ反撃を食らった形となった。
リベンジを誓った部員たちは夏凜と握手をしたり、アドバイスを求めたりしたあと、稽古を延長して大会に備えることにしたようだった。
二人は一足先に道場を後にし、部室へと向かった。
道すがら樹は昨夜の決意を思い起こし、隣を歩く夏凜を頼るほかないと確信していた。
「あ、あの夏凜さん!」
「な、なに? 何か用?」
立ち止まり、いつになく真剣な様子の樹は夏凜の顔を真っ直ぐ見てくる。
ただならぬ雰囲気を察した夏凜は次の言葉を待った。すると。
「お願いします! 私もトレーニングに参加させてください!」
「……え?」
「お邪魔にならないように頑張りますから、ぜひお願いします!」
思いもよらない申し出が飛び込んできたものだ。
あまりに突然のことだったためか、夏凜は周囲を見渡して人がいないことを確かめた。
なぜだかあまり人に見られてはいけないような気がした。後輩にここまで頭を下げさせているというのは、印象は良くないはずだ。
何よりも身内に見られるわけにはいくまい、特にこの子の姉には。
「と、とりあえず頭を上げて樹。いきなりどうしたのよ、そんなこと言い出して」
「どうしてもやらなきゃいけない理由があるんです! それに私そういうことしたことないから、夏凜さんを頼るしかないんです!」
「……!」
樹の真摯な言葉は、夏凜の胸を強く貫いていた。頼られると弱い、これだけはどうにも慣れない。
しかし気分が悪くなるような話ではないし、それで自分のトレーニングに支障をきたすようなこともないだろう。
一瞬の間にぐるぐると頭の中で考えをめぐらせた夏凜は結論を出し、樹の肩に手を置いた。
「しょうがないわね、途中で弱音を吐いても手加減しないわよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
満面の笑みの樹を見ると、それだけで何だかいいことをしたような気分になる。
部室に帰るまでの間にトレーニングのスケジュールを伝えていた夏凜は、思わず顔が緩んできてしまった。 
一人っきりで淡々と行うよりもきっと楽し……効率がいいはずだ。どうにか厳しい先輩であろうと顔と頭を締める。
そんな少し浮かれた夏凜とは裏腹に、樹は熱心にメモ帳にペンを走らせていた。
きっと言葉で聞くよりも実践すると相当に厳しいトレーニングなのだろう、だからこそやるべきだ。
樹はメモをそっと閉じて、やるぞとばかりに拳を握り締めた。

度胸のある子だと思った。
大赦と直接の関わりはなく、武道の経験もないごくごくありふれた女子中学生。
それも今年の春に進学したばかり、ほんの少し前までは小学生だった子だ。
そんな彼女は勇者に選ばれて突然巻き込まれた樹海で、自ら戦う意志を見せて見事バーテックスを撃退したという。
何年も修行を続けて勇者システムも調整されたものを支給された自分とはまるで違う。
だからこそ、この現状は多少予感していたものではあったが。
「樹……まだ10分もたってないわよ……」
「面目……ない、です……」
ひっくり返ってしまった樹に濡れタオルを渡して、夏凜は大きく大きくため息をついた。

夏凜と一緒にトレーニングをしたい、そう言ってきた樹はいつになく深刻な表情をしていた。
どんな理由で思い立ったのかは聞かなかった。勇者として体を鍛えるのは当然のこと、今までがお気楽なだけだったのだ。
それでも他の部員や姉の風ではなく自分を頼りにしてもらえたことは、少し照れくさいが嬉しいことだった。
せっかくはりきっている樹のやる気に応えなくてはならないだろう。
自分自身も俄然やる気が出てきた夏凜は、さっそく今日からはじめようと、部活帰りに樹を自宅へ誘った。
この件に関して風に説明しておくべきかと思ったがそれは樹が頑として首を縦に振らなかった。
姉に知られると余計な心配をかけるし、内緒にしたい理由もある、とのことだ。
まぁあまり遅くならなければ問題ないだろう、途中まで送ればいいわけだし、本人の主張は尊重したいと思う。
そんなわけで、夏凜宅でのトレーニングを開始したわけだ。
「いきなり私のスピードに合わせるのはきついだろうから、かるいジョギングくらいの速度にしたわ。これでとりあえず30分走ってみなさい」
「はい!」
大きくいい返事を返した樹は初体験だと言うルームランナーに挑んだ、挑んだのだが。
まさかものの10分でこうまで見事撃退されてしまうとは。
「はぁはぁはぁ……」
ルームランナーから転げ落ちるように倒れ、全身で息をしている。まるでマラソンでもして来たかのような様子だ。
それにしてもここまでぐったりしてしまうものなのか。前途多難すぎる。
頭に手を当てて考える。少し段階を下げなければならないようだ。
「まずトレーニングをするためのトレーニングが必要なようね。基礎になる体力がないと何も身につかないわ」
「そ、そうですね……。ルームランナーはちょっと……手ごわかったです……」
「ルームランナーが強いんじゃなくて樹が弱すぎるのよ。少しは落ち着いた? あまり時間ないしドンドンいくわよ」
「はぁはぁ……はいぃ……」
弱弱しく返事をした樹はふらつきながらも立ち上がることは出来た。
そこから樹のトレーニングを始めるためのトレーニングがはじまった。
腕立て、体を持ち上げることができずそのまま倒れる。
腹筋、せいぜい30度ほどであえなく倒れる。
背筋、あごがわずか10センチほど上がったところで力尽き倒れる。
もはやこれ以上は意味がないと、夏凜は悟った。
床に突っ伏している樹をソファーに寝かせて頭を抱える。これは相当に深刻な状況だ。
「樹……その、言いにくいんだけど……」
「す、すいません……何となくわかります……」
「前提になる体力もないわけだから……あとできることはストレッチとかかしら。その様子じゃ体も固そうだし」
「そうなんです。前屈で床に指もつきませんでした」
安易に引き受けたことを軽く後悔した夏凜ではあったが、しかしこのまま見放すわけにもいかない。
樹は大切な仲間で、後輩で、まるで妹のような存在なのだ。将来のためにもここは心を鬼にしてかからねば。
自分の中でそう再確認をしてはみたが、今日のところはもう切り上げるしかなかった。
方針としては、トレーニングを始めるためのトレーニングに入る前の準備運動を重点的に行うこと。というよりそれしかやることがない。
しばらく休んでいた樹は、ようやく家に帰られるぐらいに回復したようだ。
しかしまだふらふらとおぼつかない足取りだったので、肩を貸して途中まで送ることにした。
「すいません夏凜さん、迷惑でしたよね……」
「いいのよ別に気にしないでも。むしろ、鍛え甲斐があるってもんだわ」
「はぁ……情けないですね私」
がっくりとうなだれる樹。今日のダメージは心身ともに大きかったようだ。
足は動いているが体はほぼ夏凜に預けてしまっているものだから、肩を借りるというより抱えられながら歩いているようなものだった。
少しばかり歩き辛くはあったが、樹の体自体は軽い。トレーニング、トレーニングと自分に言い聞かせる。
「はじめは誰だってうまくいかないものよ。それでも続けるってことが大事なんだから、継続は力なりよ」
「そ、そうですね。明日もお願いします」
「明日……ね。まぁお風呂上りにストレッチとマッサージはやっとくべきよ、焼け石に水かもしれないけど」
「? はい、わかりました」
夏凜の忠告を充分に理解できなかったのか、樹は頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。

翌朝、樹が寝起きが悪いのとは別の意味で起きられなかったのは、これもまた当然のことだった。

ジリリリリリリリリリリ……。
騒がしいベルの音が壁を越えて台所にいる風の耳にも届いてきた。もうそんな時間か。
朝食を皿に盛っていた手を止め、最愛の妹を起こしに行く。この時間がとても好きで、とても大事。
「樹ー。朝よ起きなさーい!」
部屋に入りまず目覚ましを止める。声をかけた程度ではこの子は起きない。
カーテンを開けて朝日を部屋の中に取り込む、これでもまだ足りない。
「ほら起きて。朝ごはんはフレンチトーストよ」
結局いつも布団を剥いで、体をゆするまでしないと起きない。
まぁ、ここまで来て寝顔を見るのが目的だから問題はないのだが。
「んん……」
ぼんやりと開いた目がぱちくりと瞬きを始める。ようやくお目覚めだ。
一安心して部屋を出ようとすると、背後から何とも情けない声がかかった。
「お、おねえちゃ~ん……」
「早く着替えなさいって。作りたてだからはやくしないと冷めちゃうわよ」
「起きたいんだけど……起きられない……」
一体何を言い出したのだろう。もしかして体調でも崩したのだろうか。
季節の変わり目、昼は暑くても夜は多少冷える。夏風邪は長引くからもしそうなら大変だ。
まずは熱を測ってからとベッドの方を見ると、なんと当の妹が手足をぶるぶると震わせながら起き上がろうとしている。
いわゆる、生まれたての小鹿状態だ。
「ちょ、ちょっと樹どうしたの!? 具合悪いなら無理に起きなくていいのよ?」
「ち、違うの……。ここまでしか……上がらなくて……!」
苦しそうな声を上げた樹は、そのままばたりとベッドに倒れ伏した。
駆け寄り、ひたいに手を当ててみる。熱がありそうな感じではない。
どうしたんだろう。風邪よりもっとたちの悪い病気だったりしたら? 病院はもう開いてるだろうか? 市販の薬で代用は効く?
悪い考えがドンドンと頭の中に押し寄せてくる。
焦り始めた風、だが樹は顔をこちらへ向けると困ったような笑顔を見せた。
「え、えへへ……その、実は筋肉痛で……」
「は?」
「だからその……体中痛くて起きられないよ、どうしよう……」
朝の静けさとはまた別の静寂が、犬吠崎家を包み込んだ。

「しっかし珍しいこともあるものねー、樹が筋肉痛になるぐらい運動するなんて。何かあったの?」
「え、えっと体育でテストがあって……。ちょっとはりきっちゃったかなって」
恥ずかしそうに樹が答える。テストとはいえ、こんなになるほど必死に受けるなんてことあまり無かった樹だ。
そこに少しばかり疑問をもったが、頑張るのはいいことだ。うんうんと頷く。
「それはいいけど、無理しちゃダメよー。あんまり酷使すると溶けるのよ筋肉」
「ええぇ!? それホント!?」
「冗談よ、冗談」
「やめてよお姉ちゃん、もう心配しちゃったよ」
抗議してくる妹の声を耳元で聞きながら、風は一旦止まって背中の樹を背負い直した。
腕も足もまともに動かせない状態の樹を学校まで連れて来るにはこうしておぶっていくしかなかった。周りからの視線が痛い。
しかし学校まで行ってしまえばあとは座って授業を受けるだけだ。幸運にも今日は体育がないらしい。
背中に妹の温かさと重さを感じていると、何だか懐かしい気持ちにもなる。昔はこういうことも良くやってたものだ。
「何年ぶりかしらね、樹をおんぶするの」
「うーん、どうだろう。もうずっと前のような気がする」
こんな滑稽な格好でも自然に会話できるのは姉妹ならではといったところ。
「転んでケガしたときとかね。あの頃に比べたら樹も大きくなったもんだわ」
「……!」
風の何気ない言葉は樹の小さな胸に突き刺さった。
まさか気づいているのだろうか、嫌な予感が冷や汗となって背筋を流れていく。
樹は恐る恐る口を開く。姉の言葉の真意は果たしてどこにあるのか。
「も、も、もしかして……私……重い?」
「んー? そんなことないわよ。むしろ、軽くて不安になっちゃうぐらいよ」
「そう……」
安心した、とまではいかないが気づいている様子も無い。
心の中でごめんね、と1回だけ謝っておく。姉に隠し事をするのは辛いが、こればかりは避けて通れぬ茨の道。
不安になっちゃう、と言われても実際の数字はいまだまぶたに焼きついている。夢に出てきそうなほどに強烈に。
だからこの問題が解消するまでは、こういう話題にならないよう気をつけなければいけないと感じた。
「着いたわよ樹。どう? 歩けそう?」
「うん、頑張ってみる。ありがとお姉ちゃん」
「きつかったらいつでも保健室に行くのよ。無理はしないこと」
忠告をしっかりと聞き、樹はよたよたとおぼつかない足で歩き出した。
ぎこちなく危なっかしい妹の後姿を風はしばし見送った。よちよちしてる赤ん坊みたいで可愛い、とは本人には言わないでおこう。

放課後、昨日と同じように部活動帰りに夏凜宅へ立ち寄った樹は、そこまで歩いてくるだけでもう疲れてしまった。
何度か通ったことのある道がまるで何回もぐねぐねと曲がりくねっているかに思えた。
自分で脚をマッサージしている樹を見て、夏凜はまたも大きくため息をついた。
「やっぱりね。慣れない運動したからだと思うけど、そこまでひどいのは想定外だわ」
「私もこんなに辛いものだとは思いませんでした……。でも続けないといけないんですよね……?」
「当たり前よ、筋肉痛ぐらいでへこたれてたら一歩も先に進めないわ。さぁ今日もルームランナーからよ」
教える立場となった夏凜はビシッと昨日の無慈悲な機械を指差した。
見ているだけで残りわずかな体力が削られてしまいそうだ。
「今日はウォーキングぐらいの速度でやりましょ。長い距離を体験した方が体力作りにはなるんだから」
「は、はいぃ……」
囚人を連れる看守のごとく、樹の腕を引きルームランナーへ乗せる。
ストレッチに筋トレに、樹にとっては地獄のメニューが監獄の壁のように高く高く立ちふさがっていた。

「最近樹の様子がおかしいわ」
放課後、勇者部部室にて作業中に風はふとそんなことをつぶやいた。
「おかしいって、どんな感じなんですか?」
同じく作業中だった友奈とPCに向かっていた東郷が振り返る。
手を止めていた風は真剣な目つきで、窓の外をにらんでいた。
今日、樹は夏凜と一緒に部活の助っ人に行っていた。最近はよく二人で行動してることが多い。
「私に何か隠し事をしてるようでね。帰りがいつもより遅いし……なによりいつも疲れて帰ってくるのよ」
「そういえば確かに樹ちゃんが風先輩と一緒にいるとこあまり見なかったかも」
「この前筋肉痛で動けないぐらいになってたこともありましたよね……風先輩は心当たりはないんですか?」
たずねられた風は残念そうに頭を横に振った。
何気なく帰宅時に聞いてみたことはあったが、なんでもないよとか体育の授業の練習だよとか、どうもはぐらかされてばかりであった。
もちろん本当のことを言っているという可能性もあるが……女の勘という奴が何かを予感している気がしてならない。
これも普段から女子力を高めていたからこそ、頭の中で引っかかっているのだ。
でも、と風は視線を落とす。
「樹が私に黙って何かをしているなんて……もし、もしよ? い、いかがわしいことに関わってたりしたら……?」
自分で言っていて恐ろしくなったのか、風は自分の体をかき抱く。
そんな様子に友奈と東郷の二人は目を合わせる。
「そ、そんな! 樹ちゃんに限ってそんなこと……!」
「そうですよ、風先輩がそんなことを疑ってどうするんですか」
「わかってる、わかってるわ。でも考え出すと止まらなくなっちゃって……口に出さずにはいられなかったのよ」
力なく、椅子に腰を落とす。考えただけではなく、言葉に出すともっと胸に来る。不安ばかりが募る。
風は額に手をやった。少し熱い、冷静になろう。
その後、樹の最近の言動を振り返ってみた。
友奈が黒板の前に立ち、箇条書きにしていく。帰り時間、食欲の有無、疲労の度合い。
一際異様であったのはやはり、あの朝の筋肉痛事件。よくよく考えるとあの辺りが起点になっているような気もする。
三人で並べられた文字をにらみ、うーんと唸る。何かこの全てを繋げる糸口は無いものだろうか。
「う~~~ん……! ダメだ! 全っ然わかんないよ。東郷さんはどう?」
「そうね、運動してることが本当だとしても何のためにしているのか。そのヒントらしき情報はないみたいだし……」
東郷たちもお手上げといったところだ。
何より情報が少ない。ここのところ樹が部室にいることを避けていたから、余計に想像がつかなかった。
「ここはやはり、本人に直接聞いてみるしかないんじゃないですか?」
「そうですよ! ちゃんと話し合えば樹ちゃんだって答えてくれますって」
「うん……そうするしかないようね。二人ともありがとう、樹たちが戻ってくるまでに心構えをしておくわ」
拳を握り締め、風は今一度窓の外を見る。
日も暮れ始めた。運動部の活動もそろそろ終わるだろう。
風にとって、勝負の時は近かった。

「戻ったわよー」
「ただいま、お姉ちゃん」
西日が差し込む廊下から、夏凜と樹の二人が帰ってきた。
それを迎えたのはしんと静まり返った勇者部部室。もちろん居残っていた三人はまだいる。
友奈と東郷はPCの前から不安げな表情をして、扉の前の二人と奥の風を交互に見比べている。様子がおかしい。
何かあったのか、夏凜が訊ねようとする前に風から声がかかった。
「樹、ちょっと話を聞いてくれる?」
「え?」
部室の妙な雰囲気に首をかしげていた樹。姉の方を見ると、こちらの目を真っ直ぐに見つめたまま近付いてくる。
表情も静かな歩き方もただごとではない。あとずさりすると、後ろの扉はもう閉まっていた。
「ちょ、ちょっと風? どうしたのよ」
「ごめん夏凜、これは私たち姉妹の問題だから口を出さないで」
「んなっ……?」
夏凜のことを気にも留めず、風は妹の前に立ちふさがった。
目の前の妹はと言えば、すっかり立ちすくんでしまって少し目が潤んでしまっている。小動物のような反応だ。
怖がらせてしまっているのは悪い、と思うがしかしこれは避けては通れぬ道だ。あとでうどんで許してもらおう。
「樹、怒らないから正直に話して。最近放課後どこに行ってたの?」
「え……?」
「部活以外でどこかに出かけていたでしょ。それも遅くまで毎日……それを聞きたいのよ」
樹は姉の言葉に思いも寄らず、事態がただただ悪い方向へ進んでいることを感づいた。
あぁ、はじめは自分の小さな見栄から思いついたことだったのに、まるで予想外だ。
真ん前の姉の顔を見つめ続けるのが辛くなった樹は、夏凜へと目線を移す。
夏凜は言葉を出さずため息をついて、手振りでもう話してしまった方がいいと伝えてきた。
目線を戻すと、姉はまだ厳しい顔のまま樹の答えを待っていた。これではもう降参、ゲームオーバーだ。
「あ、あのお姉ちゃん……ごめんね。黙ったままで……怒ってる?」
「怒らないって言ったでしょ」
「そ、そうだったね。あの……実は放課後に……夏凜さんの家に行ってて」
えぇっ、と友奈たちが声を上げる。それに夏凜が顔を真っ赤にして反応している。
後ろの様子を聞いてはいるだろうが、風は頑として目をそらさなかった。
「その、夏凜さんに手伝ってもらってト、トレーニングをずっとやってたの……」
「トレーニング、ね。何でまたそんなことを? まさか、勇者のためとか?」
「えっと、そうじゃなくてね。その……」
結果として、自ら告白させられることとなった。自らの恥。
こんなことになるぐらいなら、はじめから姉に相談してから行動したほうがよかったかも知れない。
樹は深呼吸を一度して、しどろもどろにあの夜の衝撃を語った。
「え? たったそれだけ?」
「そ、それだけって。××キロだよ!? 今年の四月に量った時より×キロも増えちゃってて……何とかしなきゃって」
「は、はは、はぁ~~~……」
乾いた笑いから、緊張していた全身の力を抜けるように息を大きくつき、肩を落とす風。
後方にいた友奈たちも、なんだぁそんなことなどと軽く笑い飛ばしていた。
たかが数キロされど数キロ。バカにできる数字ではないのだ、それも暑くなって来るこの時期だからこそ余計に。
「これでも真剣に悩んだんですよ。授業で水泳もありますし……」
「ごめんね、からかってるわけじゃないよ。でも樹ちゃんそんな気にするような体型には見えないけど」
「見た目はそうかもしれませんけど、でも実際に数字で見ると増えちゃってるんですよ」
「そうね……ねぇ、樹ちゃん。同じ数字でも他の部分はどうだったの?」
「他の部分?」
頭の上からつま先まで見定めた東郷は、懐からメジャーを取り出した。

「あ、ちょっと大きくなってます!」
「良かったじゃない樹、ただの勘違いで。だいたい成長期なんだから気にしすぎなのよ」
「夏凜さん……すいません、無理に付き合ってもらったのに」
「いいのよ、今回の事とは別に体力は必要なんだから、続けたっていいんだし」
むしろ続けるべきだとせまる夏凜に、少しの間は勘弁して欲しいと逃げる樹。
先ほどまでの不穏な雰囲気から一転、良かった良かったと安堵した空気が部室中を満たしていく。
そのはずだった。ごく一部を除いて。
「……がう」
ふらりと、立ち上がった風がなにごとかをつぶやく。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
俯いたままの姉に近づくと、姉は小さく肩を震わせて涙を溜めた瞳で見かえしてきた。
「そんなの違う! 樹は……樹は……いつまでもちっちゃくてふわふわして可愛くないとダメなのよーーー!!!!」
校舎中に響かせるかのような咆哮を残し、風は踵をかえして駆け出していってしまった。
突然のことに唖然となり見送るしかなかった勇者部一同。
樹は少し育った胸に手をやり、帰宅後に姉にどう話しかければいいか、考えをめぐらせるしかなかった。