舞台現代で雪にぼだよ~

Last-modified: 2017-09-09 (土) 23:10:28

それは猫避けのと形容するには少しばかり規模がの大きい物で。
押し寄せる猫の波を食い止める為の防壁の様な、と言えばあるいは当を得ているかもしれなかった。
ともかくその時私の枕元には、十指に余る市販の経口補水液入りのペットボトルが群れになって
少し手を延ばせば届く距離に所狭しと並んでいた。
青地に白文字、白地に青文字、白地にピンク、黄地に青。
色とりどりの包装で彩られたボトルが一対、二対、三対四対五対――
律儀にきっかり二本ずつ、メーカーと味の異なる物が並べられているのは飽きが来ない様にと言う心遣いだろうか。
はたまた通常であれば十日以上はもちそうな量を、一度にずらりと並べてみた事は購入者の動転の表れなのだろうか。
その他にもゼリーだとか、額に貼る保冷剤だとか、暫く布団の上での生存に不便を感じそうにない程大量の物を巡らせて。
その上で尚落ち着かな気にしては、珍しく動揺した様子で何かして欲しい事が有るかと尋ねる所を見ると
多分後者が正しかったのだろう。

 

何時もの余裕をどこかにやってしまった雪花のそんな様子を面白く思う事が出来ないのは
残念ながら私の病状がそれを許さない程度に重かったから。
発熱、くしゃみ、咳に吐き気に腹痛、頭痛。よくもこれ程重なる物と、飽きれを通り越して最早境地は諦めのそれ。
ぐったりと布団の中に横たわって、マスク越しに不自由な呼吸をしながら、時折鼻をすすって側に有るティッシュの箱に手を延ばす。
丸めた鼻紙をゴミ箱代わりのスーパーの袋に入れて。少ししてそれを繰り返す。
そうする内に軽くなったティッシュの箱と重くなったレジ袋は、雪花によって持ち去られ
新しい物がそれぞれに用意される。熱に浮ついた意識の中で時間の概念はとうに失われ
咳と共に感じられるのどの痛みでかろうじて今自分が覚醒して居る事を実感する。
そんな夢と現が曖昧になった状態では、大昔でもあるまいしまさかそんな事は有るまいと思いつつ
このまま死ぬんじゃないかと言う考えがちらと頭をかすめて過ぎる。
早朝体調がおかしな事に気が付いて、それが随分と重い物らしいと見て取った雪花によって
用意していた出勤の準備を差し止められて以降の事は途切れ途切れにしか覚えが無い。
園に二人分の欠勤を連絡する同居人の落ち着いた声に安心感を抱いたのと、
折しも近くの病院は休みに辺り、遠くの病院に行くのは躊躇われた。成人を迎えた大人の事。
寝ていればよくなるとたかをくくった面はあるかもしれない。
床に就いて間もなく体温は急激に上昇し、それに伴って意識から現実感が少しずつ欠けて行った。
もやがかかったような意識の中で、せわしなく雪花がドアを閉める音が繰り返されて
その度に枕元の物が増えて行く。御粥でも作ろうかと言う提案に物憂げに首を振ってしまって
相手の顔に浮かんだ心配の色に胸が痛んだ。
何時しか呼吸の度にぜえぜえひゅーひゅーと音が混じる様になり、咳の音と相まって心配を掛けない様になるべく口をつぐんでいるのが相手の献身に返す事が出来る精一杯の努力だった。
何か欲しい物はとか、何かして欲しい事はと聞かれる毎に、何か気の利いた事でも言えればいいのに。
ただ困ったように笑って首を振るしかない。
何か言った所で、掠れた声では気を重くさせるだけなのは分かっていた。

 

今になってもあの時の雪花の発言の意図は、判然としていない。
私の寡黙さをあるいは気弱さの表れと取ったのかもしれず、もっと他の意図からだったのかもしれないのだが。
私を元気付ける為だろうか。それとも自分の不安を打ち消す為だろうか。布団の傍で端然と座っていた雪花が不意に私の布団に手を差し入れて
ひんやりとした手で私の掌を包む様にすると、不意に意を決した様に言葉を紡いだ。

 

「ねえ、夏凛。良くなってくれたら、記念に毎月さくらんぼを買ってあげる。だから良くなって。ね?」

 

その時雪花がどんな顔をしていたのかは思い出せないけれど、今でも言葉だけはその調子まではっきり思い出せる。
雪花らしからぬらしからぬ、まるで祈るような声音まで。
でも、何故にさくらんぼ。確かに、お見舞いに果物と言うのはよく聞く話だれけども。
病気と言えば、桃缶と言うのが古式ゆかしい定番で
雪花の出身地的に豪華な果物と言えば、ぱっと浮かぶのはメロンなのに。
好きだったんだろうか。それとも、何か思い入れがあったのだろうか。
それは現在になるまで理由は聞けていない。
けれどもその事を思うたびに、どうしようもなくあの日の事が愛おしく感じられるのだ。
何しろあの時の私と来たら、青白い顔をした急病人。出来る事と言ったら横になって居る事がやっとの事で。
ごほごほぜーぜーひゅーひゅーくしゅん。
良くなった後に、何がしたいとか、どこに行こうとかなんて考える余裕などなかったのだ。
それを傍に居た雪花も見て取ったのだろう。それで、さくらんぼ。
何時も飄々とした顔を崩しもしない雪花が病人の気を引き立てる為に
頭を働かせて色んな引き出しをひっかきまわして、悩んで悩んで悩んだ挙句にようやく思いついたのが。
それは、なんて、雪花らしくない。

 

さくらんぼ欲しさでも無いだろうが、私の病状は数日後には嘘の様に改善し。
それを見届けて、雪花も何時も通りの日々を送る様になった。
私が一時床に臥せった日の事は、日常の中に埋もれる些細な出来事。
けれどもそれが生んだ変化も有った。
それから毎月、今に至るまで、雪花が律儀にあの日の約束を守って
決まった日には何時もぴかぴかに光ったさくらんぼの入った小さな箱を持って帰宅する様になった事。
我が家に似つかわしくない程立派なそのさくらんぼを、食後に二人して食べるのが決まった習慣になっている事。
そうして今日も毎月の様に、食卓の上にはお上品なさくらんぼの箱が乗っている。
どこどこ産と銘を打たれて、不揃いな粒も無く澄ました様子で箱に収まったさくらんぼ。
全くなんて小憎たらしくて、それからなんて愛おしい。