雪にぼその6だよ~

Last-modified: 2017-07-30 (日) 00:42:29

大体バーテックスが悪いのだ。
海岸線から三好邸への道すがら、家主の夏凛と並びあって歩きながら秋原雪花は不機嫌だった。
何がと具体的に言える問題ではなく、あるいは何もかもがと言うしかない事柄について。
例えば、周囲がすっかりと暗くなってしまって居る事。例えば、この所三好夏凛が鍛錬に費やす時間が増加傾向を辿って居る事。
後者についてはこの所特に顕著なのだった。切っ掛けは恐らくこの所頻繁に襲撃を掛け来ている乙女座型バーテックスの襲来だった。
執拗に、と形容できるような頻度でもって襲撃を掛けてくるこの強力なバーテックスを、現在勇者部は襲撃が有る度に追い返してはいるものの
未だに討ち取る事が出来ていない。今までに無い力を持った星座型の脅威を受けての事だろう。この所夏凛は鍛錬に余念がない。
今日も今日とて遅い夏凛の帰宅にじりじりとしながら時間を潰し、何も無いかの確認でも取ろうかと思い立って端末を引っ張り出したのが暫く前で
またぞろ稽古だろうと、邪魔する事を躊躇して直接足を運ぶ事にしたのが少し前。そうして案の定海岸に居た夏凛と合流して部屋に戻っているのが現在だった。

 

夕闇に覆われた白亜の砂の上を、黒く塗り潰された一個の影が動く。それが誰かなど考えるまでも無い位、その形には見覚えがあった。
影はざあざあと波の音だけが繰り返す波打ち際で、一人流れるように動いては、音も無くひらりひらりと二本の木剣を躍らせる。
舞う様に、と言う形容をするしかない程夏凛の稽古姿は見事な物で。思わず見惚れてしまいそうになるのだが
夜に見る稽古姿を何故だか雪花は好んで居ない。昼間に見る分にはそんな思いを抱く事も無く、ではその違いが何かと言われれば本人にも分からない事だった。
あるいは夜中に見る影法師がまるで他との繋がりを持たない、昼間の三好夏凛とは違う何かの様に感じられるのが原因かもしれなかった。
全身を一振りの剣か何かの様にして、くるくると踊る影はとても遠い存在に感じられ、声を掛けるのも近付く事も憚られる物に思えた。
そうして夏凛の鍛錬が終わるまで、海辺から離れて影法師から見慣れた三好夏凛の姿で戻ってくるまでひっそりと息を詰めて居なければならない。
そうしている間に、有りもしない想像をしてしまうのも雪花にとっては面白くない事だった。
例えば影がそのまま周囲の闇に溶け込んで消えて失せるのではないかとか、そのまま海辺から戻ってこないのではないかと言う考えなどを。自分が抱きそうになるのが。

 

そう言う訳で、秋原雪花は不機嫌だった。
今日も無事に影は三好夏凛の姿で戻って来て、待っている雪花に気づいて何時もの調子でひらひらと手を振った時も
海に背を向けて、肩を寄せ合う様な近さで並びあってのろのろと歩いている今も。
表面上は何時も通りにとりとめも無く話しながら、違うのは何時もであれば何気なく繋ぐ手を延ばせない。今になっても触れていい存在だと確信が持てない。
それはほんの些細な違いなのだけれども、三好夏凛と言うのは普段のにぼっとした所からは想像できない位とても聡い子なので。
「どうかした?」
内心の思い等先刻承知だったのだろう。それでも何時も通りを強いて装おうとしていたのだが、とうとう不意に声を掛けられる。
「何でも無いよ?」
「雪花」
努めて平静そうな声を出したのに、夏凛は騙されてくれなくて、どこか追い詰められた気分になる。
ふと、耳を澄ます。ざあざあと言う波の音はもう彼方の物で、耳を澄ませても聞こえない。
そんな事にまで縋らないといけない位に追い詰められている。せめてもの救いは街灯の少ない夜道と言う事で
恐らく現在浮かべているであろうだめな顔を相手に見られる心配が無いと言う事位。
「何でも無い。何でもないんだけど、何と言うか、夏凛ちゃんの稽古姿が綺麗だったなあって」
「?」
「夏凛の姿が綺麗で、凄いなあって。それだけだよ。それだけ。でも、普段あんまり見ない姿だからさ、正直知らない人かと思った」

 

考えに考えて、どうにか内心に近そうな言葉を紡ぐ。正直これで精一杯。これ以上何が言えるんだろう。
夏凛の行動は勇者として非の打ち所がない。同じ勇者として責める事なんて思いもよらない。
個人であるよりも勇者である事を求められるのが世の中で、嫌だと言っても敵が来たら戦わなければならない。
神様が代わりに戦ってくれるわけでもないし、むしろ神様は敵として襲ってくる側だから。だから人が戦わなければならないのは分かるし
戦える人間がその役目を負わないといけないのも、分かる。分かるんだよ。分かるんだけど、勇者として戦う事で、知っている人間が知らない人間になってしまうのは悲しい。
なってしまうのではないかと可能性を思うだけで慄きそうになる。そんな事今までは知る事すらなかったのに。
行かないで、なんて言葉は言っていい物では無く。そんな殊勝な言葉は多分死んでも口にする事は無いのだろうけど。
せめてもの代わりに萎えそうな心を叱咤して、強いて何でも無い事の様に手を伸ばす。ほんの短い、永遠じみた距離を踏破して、直ぐ傍にある手まで辿り着く。
握ると、握り返された。ようやく何時もの日常が戻って来た様な気になる。その気楽さが続いてる間にと、急いで言った。
「とりあえず、帰ろう」