マルグリッド(ストーリー)

Last-modified: 2019-03-05 (火) 15:09:13

マルグリッド
【正体】ケイオシウム研究の第一人者たるエンジニア。一人息子クレーニヒへの愛故に禁忌の研究に踏み込み、夫の裏切りで死亡したかに思えたが、ケイオシウムを発明したことでパンデモニウムに断罪されたメルキオールと出会い、請われて彼の代役となる。次元を渡る航海士・・・ジェッドを付け狙う。
【死因】審問官による誅殺
【関連キャラ】クレーニヒ(息子)、ジェッド、ミリアン、ロッソ、ノイクローム

3378年 「扉」

マルグリッドR1.jpg
薄暮の時代の工学師『エンジニア』達が製造法と用途を確立したと言われているケイオシウム。
かつては様々な用途があったと過去の資料には記されているが、現在は兵器や動力源としての単純な用途が大半を占める。
協会『アカデミー』がそれ以外の用途を禁じている為だ。
渦『プロフォンド』の発生原因がケイオシウムの暴走であった為、無理もない事だった。
レジメントを編成して渦『プロフォンド』の除去を続けてはいるが未だ道半ばであり、完了する目処は立っていないと聞く。
工学師なら誰でも知っている話であった。
パンデモニウムにおいても研究してはならぬ領域があり、マルグリッドもまた、それに従っていた。
もちろん、今まではそれでも良かった。
しかし、このままでは失うしかない我が子の命を救える可能性があるとなれば、そんな掟に従っている訳にはいかなかった。
彼女の背後で無邪気に笑っている赤子は、致命的な心疾患をもって生まれてきた。
今のエンジニアの医療技術では数年しか生きられないと告げられていた。
旧時代では確立されていた医療技術も、薄暮の時代にあっては様々な欠落、散逸があるのだ。
マルグリッドは口惜しかった。
なぜ、生まれてきたばかりのこの子の命が失われなければならないのか。
この世界の可能性を広げるために自分は研究に実を捧げてきた。
しかし、この自分の分身、そして未来であるこの子の可能性がこのままでは奪われてしまう。
マルグリッドにとって、それは絶対に認められないことだった。
 
それからマルグリッドは上級工学師『テクノクラート』以上のみが利用できる図書館へ通い、薄暮の時代の書物を片っ端から読み漁った。
子供の治療法を探すためだった。
それが無謀な事だと分かっていても、やらずにはいられなかったのだ。
結果の出ない日々が続き、マルグリッドの焦りは積もるばかりだった。
パンデモニウムの研究室に篭もりきりの日々が続く。
子供のための研究、それと平行して自身の本来の仕事である渦の分析も続けていた。
特殊モニターには現在、レジメントの観測班によって補足された渦の状態がリアルタイムに表示されている。
大きさや渦の速度やケイオシウム濃度などを元に、脅威度や存続時間を予想するのが彼女の仕事だった。
モニターに映る渦は様々な光彩を放ちながらゆっくりと回転している。
厳密には渦ではなく異世界との結節点『ノード』なのだが、遠目にはやはり渦としか形容しようがなかった。
ケイオシウムが暴走した本当の理由は秘匿されている。
ただ、起きた事は工学師ならば誰でも知っている。
渦は異界との扉となったのだ。
違う法則、違う歴史を経た別世界との穴が地上に現れてしまったのだ。
ある高名な工学師は言っていた、
「ケイオシウムは元々確率からエネルギーを取り出す物質なのだから、可能性というエネルギーを奪われた他の平行世界との境目を失うのは道理だ」と。
可能性の固まりとしてのケイオシウム。
多重世界からエネルギーを奪うその仕組みは、夢のエネルギーから悪夢の厄災へと変わったのだった。
マルグリッドは渦の分析と共に、レジメントの報告書に書かれた奇妙な報告を思い出した。
レジメント達の中には渦の周辺や内部で活動を繰り返す事で、特殊な知覚力が身につく者が居るという。
ケイオシウムの影響である事は想像に難くないが、パンデモニウムで日常的にケイオシウムに接している工学師が、特殊な知覚力を身につけたという話は聞いたことがない。
ここにおいて、マルグリッドは自分の研究と子供の治療との接点を見出した。
研究を続けすぎ、疲労した脳が創りだした錯覚かもしれないが、それは暗闇に指す一条の光のように感じたのだった。
ケイオシウムを制御できる「暴走」状態にし、我が子をケイオシウムの影響下に置く。
可能性の固まりであるケイオシウムが人体に与える影響を利用するのだ。
例えば、レジメントの兵士達は過酷な異世界空間の狭間で戦い続けることによって、新しい知覚力を得たのだ。生き続けるために。
その影響を人為的に作り出すことさえ出来れば、子供もきっと助かるはずだ。
それがマルグリッドの出した答えだった。
 
以降、マルグリッドはケイオシウムが直接人間に与える影響力について研究を続けた。
レジメントからの報告書を丹念に読み込み、薄暮の時代の書物から人間とケイオシウムの直接的影響について調べた。
そんなある日、一人の男がマルグリッドの研究室を訪ねてきた。
「私は、いや我々はケイオシウムの可能性を諦めていない者です」
「事なかれ主義である協会の方針に従っていては何事も成せない。そうは思いませんかな」
自身も含め、公には禁止されている研究に勤しむ人間が少なからずいるらしいという事はマルグリッドも知ってはいた。
とは言え、それを自称する人間に会うのは初めての事だった。
「皆で研究データを共有できれば、少しでも早く目的に辿り着く可能性だってあるでしょう」
「どうです、あなたも我々の仲間に加わってみませんか」
自分一人ではどうにもならない所にいるのは分かっていた。
ただがむしゃらに子供のために全てを擲って研究を続けていたのだ。
その研究に、協力者が現れたのだ。マルグリッドは迷わず答えた。
「わかりました。よろしくお願いします」
マルグリッドが手を差し出すと、男もそれに応える。
「ありがとうございます。貴女ならそう仰って頂けると信じておりました」
「そうですね。お近づきの印にこちらを貴女にお預けします」
「我々がコデックスと呼んでいる文書の複製です」
「もしかしたら貴女の行っている研究の助けになるかもしれません」
手渡された数枚の紙に視線を移すと、判読に苦労しそうな文字と図がびっしりと詰まっていた。
研究の行き詰まりを感じていたマルグリッドは、手渡された文書の解読を試みる。
まるで足らないピースが埋まるかのように、その文書にはマルグリッドの求めていた装置へのヒントが詰め込まれていた。
「これで研究は一気に進むわ……」
それからマルグリッドは不眠不休で作業を続け、一気に装置の完成まで漕ぎ着けた。
大部屋をまるまる占領した巨大な装置にケイオシウムを設置し起動する。
巨大な筐体に負けじと巨大な駆動音を鳴らし続けるだけで、何の変化も起きなかった。
「失敗……みたいね」
マルグリッドは疲れがドッと出て脱力し、尻餅を付く。
腰を上げ、装置を止めに移動しようとした時、変化が起きた。
装置のやや上方に黒い空間が発生し、渦を巻き始めた。
渦は徐々に色付くと共に消えていく。
残ったものは、見たこともない生物たちが闊歩する世界が映った空間。
それは異世界の光景だった。

「-了-」

3378年 「追跡者」

マルグリッドR2.jpg
マルグリッドは、自らの行なっている研究が外に知られた場合、どうなるかを理解しているつもりだった。
かつてパンデモニウムに吹き荒れた大粛清を知らぬ訳がなかった。
ケイオシウムに対する研究が「異端」とされ、記録や成果の放棄が求められた。
頑迷に拒否し続けた工学師《エンジニア》は命を落とし、そうでない者もパンデモニウムから地上へと逃亡した。
身の危険があると分かっていても、パンデモニウム以上に研究環境の充実した場所は無かった。
何より急を要する研究だった。ここを動く訳にはいかなかった。
最新の注意を払っていたつもりだったが、それでも協定審問官《インクジター》達はマルグリッドの下へやって来た。
「こちらで協定違反研究を行なっているとの情報があった。まずは本部へ来てもらおう。それから、ここの機材は我々の管理下に入る」
反論を許さない、高圧的で一方的な通告だった。
抵抗してどうにかなる相手ではない。
マルグリッドは黙って審問官に従った。
本部と呼ばれた場所の地下に到着すると、両手両足に枷を嵌められた。
「子供の食事に間に合うようにしてくれると有り難いのだけど」
マルグリッドの軽口に答える者は誰も居なかった。
各々が何らかの準備を始めており、これから起こるであろう事をマルグリッドに予感させた。
「では聴取を始める」
審問官の言葉にマルグリッドは思わず笑いそうになる。
これから始まるものは、そんな生易しいものではない事が明らかだった。
審問官の興味はマルグリッドの研究そのものよりも、マルグリッドに接触してきた相手……開放派と呼ばれる者達にあるようだった。
不定期な情報交換のみで彼らの背景は詳細に知らなかったが、マルグリッドは開放派の情報は一切話さなかった。
「何度聞かれても、知らないものは答えようがないわ」
初めから全てが自分個人の独自研究だと言い続けた。
今の研究が自分の息子を助ける宥一の望みだった。
何としても研究を続ける、そのためにはここを出なくてはならない。
組織的な開放派と見られれば、ここから出られなくなる。
「ここのやり方は原始的だが、とても効果的だ。抵抗は無駄だ」
「……っ!」
何度目かの強烈な電撃がマルグリッドを襲い、ついに気を失った。
同じ質問をされ、同じ回答をし、電気ショックを与えられる。
気を失うまで繰り返され、目を覚ましたら再開された。
受け答えもできないほど衰弱したマルグリッドに対し、淡々と休みなく「聴取」を続ける審問官。
自身がこんな場所で時間を費やしている間にも、我が子の残り時間は確実に減っている、一秒でも早く研究を再開しなくてはならないのに。
マルグリッドの中には、我が子に会えない焦燥だけが募っていった。
声にならない声を上げながら戒めを解こうとするも、当然びくともせず、電気ショックを与えられ気を失った。
全てを語って楽になってしまおうという誘惑に駆られた。
しかし、我が子が生きる可能性は自分に掛かっているのだと思い直し、その誘惑を断ち切った。
マルグリッドを突き動かすのは、我が子の命への執念だった。
 
目を覚ますと、戒めは解かれ、診療台と思わしき上にマルグリッドは横たわっていた。
傍らには夫であるイオースィフの姿があった。
「イオースィフ」
力なく名前を呼ぶと、イオースィフはほんの僅かに静止した後、マルグリッドを抱きしめた。
「あの子は……」
「もちろん元気にしているよ。さぁ、帰ろう」
そう微笑みかけるイオースィフの顔には疲れが見えていた。
マルグリッドを助ける為に各地を奔走した所為だったが、それをマルグリッドに説明する事はなかった。
体力が回復していないマルグリッドをイオースィフが支えながら本部を後にする。
「テクノクラートとは言え、次はありません。努々忘れなきよう」
出入口前に居た審問官の一人が、冷たい表情でマルグリッドとイオースィフへ告げた。
研究室へ戻ると、作り上げた装置は跡形もなく消え去っていた。
研究記録も、コデックスも、全てが無くなっていた。
「なんにせよ、君が無事で良かった」
イオースィフの優しい言葉に、マルグリッドは素直に頷くことができなかった。
もう少しで何かが掴めそうだったのに、振り出しに戻ってしまった。
そのことが悔しくてたまらなかった。
「とにかく、今後は審問官に目を付けられるような真似はしないことだ。いいね」
「……私はあきらめない」
 
小さなベッドに眠る我が子の頬に触れながら、マルグリッドは言った。
「絶対に、可能性はあるわ……」
次は無い、と審問官に言われた。その通りにしたところで我が子の病は治らない。
この笑顔をいつまで見ることができるのか。
この子の行き先を思うといたたまれない。
最後の時を座して待つなど、マルグリッドには耐えられないことだった。
開放派の思想や背景には興味がなかった。
しかし、この状況で頼れるのは彼らしかいなかった。
「審問官の手は長い。貴方も危険な目に遭うかもしれません。
もし困るような事になったら、パストラス研究所跡地まで来てください。力になれる筈です」
いつか連絡係から聞いた言葉だった。
大粛清の直後、パストラス研究所は治安部隊によって焼き払われた。
開放派にとって重要な場所だったのだろう。
とりあえず連絡を付けるために、マルグリッドは研究所跡地へ向かった。
 
夜になって廃墟に着いた。
研究所跡地は周囲を含め、人気のない、忘れ去られた場所となっていた。
「先日は災難でしたね。そろそろ来て頂ける頃だと思っておりました」
突然背後から話し掛けられた。
驚いて振り向くと、何度も会った事がある連絡係の男がそこにいた。
落ち着かない様子で周囲を見渡すマルグリッドを見て、連絡係の男はその原因に思い当たった。
「大丈夫、周囲に連中は居ません。居たのなら私は出てきません」
「私は研究を続けたいの。協力してほしい」
「貴方はあの審問にも負けなかった。もう我々の同志です。協力を惜しみません」
「私は研究を続けたいだけ。時間がないの」
「わかっています。今からそれができる場所へ行きましょう」
 
物陰に隠されたクリッパーに乗り、マルグリッドと連絡係は廃墟を後にした。
クリッパーは夜のパンデモニウム周辺を低高度で飛び回った後、街路灯一つ無い、更地が続く場所に降り立った。
「ここは……」
案内された場所はパンデモニウム内でありながら、マルグリッドの知らない場所だった。
「整理区域を知っていますか? 中央が定期的に古い区画を整理している区域です。パンデモニウムは完全な人工都市ですから、全てを定期的に刷新する必要があるのです」
「ここで研究ができるの?」
「我々は中央の制御システムに穴を見つけましてね。整理区域の地下を一時的に中央の管理から取り除くことに成功したのです」
そう言うと、何でもない地面がゆっくりと地下へと下がっていった。
こうして、マルグリッドはパンデモニウムから姿を消した。
夫と、あれだけ執着していた子供を残して。
 
数ヶ月が経ち、マルグリッドと開放派の研究員達は巨大な「ゆりかご」を完成させた。
人工的にケイオシウム渦を創り出し、その「影響力」を特定の人物に与える装置だった。
テストは済んでいた。あとは我が子を連れてくるだけだ。
深夜。イオースィフは物音で目を覚ました。別の部屋に人の気配がしていた。
パンデモニウム内で泥棒が入るとは考えづらい。
しかもセキュリティが反応しなかった。
「マルグリッド?」
呼び掛けると共に部屋の明かりを点ける。
そこには我が子を抱きかかえたマルグリッドの姿があった。
「その子をどうするつもりだ」
 
「何も聞かないで。これが終われば三人でいつまでも暮らせる。それだけで十分だと思わない?」
「僕は君が心配なんだ。分かってくれ」
「行かないと。必ず帰ってくるわ」
そう言うと、マルグリッドは子供と共に部屋を出ていった。
イオースィフは追わなかった。
ベッドに座り、しばらく虚空を見つめていた。
そして溜息をつくと、ベッドサイドの通信装置に手を伸ばした。
「イオースィフです。こちらに来ました。ええ。子供も一緒です。発信器に問題はありません」

「-了-」

3378年 「喪失」

ul_marguerite_r3_0.jpg
「いい子だから、もう少し我慢してね。すぐに治してあげるから」
夜の闇の中、マルグリッドは毛布にくるまれた我が子をしっかりと抱き、早足で歩いていた。髪は乱れ、顔からは血の気が引いている。しかし、その中で目だけは異様な輝きを帯び、辺りを警戒するように絶え間なく動いていた。その姿を見る者があれば、すわ事件かと驚愕しただろう。それ程にマルグリッドの表情は鬼気迫っていた。
「もう少しだから。もう少し。いい子ね」
マルグリッドの口から繰り返し呟きが漏れる。その言葉に反応するかのように、胸に抱いた毛布の中からきゃっきゃっという声が上がっていた。
 
マルグリッド達は無事に研究所へ辿り着いた。
「私達のことなど、誰も興味などないはず……」
自分にそう信じさせるように呟き、研究所の中に入った。そこにはマルグリッドの研究を手伝った研究員が待っていた。
「連れてきたわ。急いで始めましょう」
研究員は頷くと、子供の衣服を脱がせて「ゆりかご」へと寝かせた。そして、その体にチューブや電極を次々と取り付けていく。必要な事とはいえ、我が子の体に機器が取り付けられていく様子は、母親には直視することのできない光景だった。マルグリッドの目に涙が浮かぶ。
「……駄目よ。ここまできたのだから」
これが成功すれば助かる。親子3人、平和に、幸せに生きることができるのだ。
「準備、完了しました」
「……開始します」
「ゆりかご」の蓋を閉めると、泣き声が小さくなる。マルグリッドは表情を変えないまま、レバーを倒した。「ゆりかご」が小さく振動し、続いて虫の羽音のような小さな音が鳴る。
「起動成功。このまま経過を観察しましょう」
 
「ゆりかご」は順調に作動していた。このまま行けば子供の命は助かる。血の気が失せていたマルグリッドの顔にだんだんと赤みが戻ってくる。この実験の結果でどのような事態が生まれるのか、そんなことはマルグリッドには関係が無かった。彼女にとっては、自分の子供を救うことだけが全てだった。
「ゆりかご」が起動してから1時間が経過した。そろそろ子供の様子を確認しなくては。マルグリッドがそう思って立ち上がった瞬間、
「そこまでだ!全員動くな!」
扉を開けるけたたましい音と男の叫び声。
「審問官だ!」
研究員の男が叫んだ。
マルグリッドが振り返ると、銃を構えた兵士の姿が目に飛び込んで来た。その数5人。非武装の研究員に抵抗する術は無い。
「……全員拘束する。そのまま床に伏せろ」
なんということだろう。あと少しなのに。なぜ今妨害されなければならないのか。マルグリッドは審問官に逆らって作業を続けようとした。
「早く伏せろ、女。この場で射殺されたいのか」
「くっ……」
「マルグリッド……言うとおりにするんだ」
「イオースィフ!?」
マルグリッドの目が絶望と悲哀で大きく見開かれた。
「まさか、あなたが私達のことを……」
「……そうだ」
イオースィフは心底疲れた表情を浮かべながら、マルグリッドに目を合わすことなく、か細い声で答えた。
マルグリッドは隠し持っていた短銃を引き抜いてイオースィフに向ける。だが、引き金を引く前に複数の弾丸が彼女を襲った。マルグリッドの体は弾き飛ばされ、「ゆりかご」へと激突する。倒れた体の下からは真っ赤な血がじわじわと流れ出ていた。
「私の……く……」
「マルグリッド……馬鹿なことを」
我が子を守らなくては。マルグリッドはふらつきながら立ち上がり、「ゆりかご」の蓋を開けた。その背中に、さらに数発の弾丸が着弾した。衝撃を受け、マルグリッドの体は「ゆりかご」の中へと転がり落ちる。
「ああ……いい子ね。もう少しだから……」
この子を守らなくては。私が、私だけがこの子を守れるのだ。この世界でただ私だけが、この子を守ることができる。
マルグリッドは執念の力によって血に塗れた腕をあげ、「ゆりかご」の蓋を閉める。そして、我が子をその手に抱きしめた。
 
「馬鹿なマネを」
突入してきた審問官の長が呟いた。射殺したマルグリッドをそのままに、資料の回収と研究員達の拘束を続けさせた。
そしてしばらくすると、傍らにいた若い審問官に命令を下した。
「おい、子供がまだ生きているかもしれない。確認しろ。それとあの男は邪魔だ、もう帰ってもらえ」
黙々と作業を続ける審問官達の間には、「ゆりかご」の前で立ち竦むイオースィフがいた。
「了解しました」
「イオースィフさん。お子さんが生きてるかもしれません。ご一緒に家まで送らせます」
「……あ、ああ」
一人の兵士が「ゆりかご」の蓋を開けた。そこには血に塗れたマルグリッドと、安らかに眠っている子供の姿があった。
「まだお子さんは生きているようです」
そう言って子供の体に手を伸ばすと、その手を何かがひしと掴んだ。
「ん……な、何だコイツはっ!?」
慌てて「ゆりかご」の中を見ると、先程までそこにいた筈のマルグリッドの姿は無く、代わりに大きな犬のような獣がいた。その獣は兵士の腕に足を乗せている。
「化け物だ!助けてくれ!」
兵士の叫び声は途中から絶叫に変わった。噛み千切られた腕を振り回しながら、床を這いずって逃げる。しかし、獣がその上に躍り掛かり、兵士の喉笛を食い破った。
「戦闘態勢!銃だ!銃を!」
銃を構える兵士達の前に、次々と「ゆりかご」の中から獣が姿を現す。まるで生えてくるように、獣達はその数を増やしていった。
「……殺せ」
女性の呟きが聞こえた気がした。しかし次の瞬間には、兵士も研究員も、その場に立っていた全ての人間が獣達によって蹂躙された。血と肉片が飛び散った研究室の中央で、子供は安らかな寝息を立てていた。
そしてその傍には、一人無傷で残ったイオースィフの姿があった。
 
「―了―」

3378年 「白と黒」

00.png
どこまでも広がる真っ黒な空間。マルグリッドの意識はそこにあった。
体を動かそうとするが、動かすことができない。体は何処かへ行ってしまったようだ。
意識だけの存在となってこの空間に存在している。そう漠然とマルグリッドは理解した。
肉体と意識は離れ、痛みもなく、重みもなかった。あるのは意識と感情だけだった。これが『死』なのかと、マルグリッドは思った。
そして、もう二度と我が子をこの手に抱くことはできないのだという思いが心を覆った。
 
しかしあの子は助かったのだ。自分の役目は終わったのかもしれない。
あの子と過ごした時間は僅かではあったけれど、それでも幸せだったのかもしれない。
「もう……思い残すことは何もないのね……」
マルグリッドの思考は少しずつ、暗い空間に融け消えていく。
息子と暮らした日々を思い出し、彼の未来を思い描きながら、ゆっくりと意識を閉ざしてゆこうとする。
「まだだ。まだ終わってはおらぬ」
声がした。男とも女ともつかない不思議な声質が、マルグリッドを包むように響き渡る。
 
声の正体を突き止めようにも、マルグリッドには動かす視界が存在しない。
「なぜ!?あの子の運命は変わったはずよ!」
マルグリッドは激昂した。自分がやってきたことが無意味になる。そんなことは断じて許されなかった。
だが、声はマルグリッドの言葉に答えない。
代わりにマルグリッドの意識に、朧気ではあるが一つのビジョンが浮かんだ。
すっかり成長したであろう息子が、図書館で本を読み耽っていた。かじりつくように本を読み漁る我が子。
マルグリッドはその様子を見て安堵した。
 
だがそれも束の間、突然、彼は胸を押さえて呻き始めた。心疾患の発作が出たのかもしれない。
息子は積み上がった本を倒壊させながら床に倒れ込んだ。胸を押さえたまま藻掻いているが、誰一人として助けには来ない。動きが少しずつ小さくなってゆき、最後には動かなくなった。マルグリッドはその光景を、何もできずにただ見ているだけだった。
「そんな……あぁ……」
僅かに残った意識が悲鳴を上げる。
息子には助かってなどいなかったのか? それとも、心のどこかにあった不安と怖れが見せる幻影なのか?
マルグリッドには判断がつかなかった。
 
「どうして……」
融けて崩れていた意識が輪郭を取り戻すように感じられた。マルグリッドの意識は、急速に人身があった頃のように活動し始める。
「脆弱な実存の末路だ。結果は変わっておらぬ」
無機質だが感情にまとわりつくような粘着性を持つ声は、淡々と言い募る。
「そんなの、絶対に許さない」
マルグリッドの意識はありったけの怒りを込めて、機械な声に言い返した。
「まだ、まだ何かできることがあるはずよ」
「かもしれぬ。常に世界は可能性で満ちている」
「絶対に変えて見せる!」
「世界は可能性の総体。そして、ここはその全事象とつながるリンボ――忘却界――ともいえる」
「お前は誰なの?」
「思いだけが可能性を選択することができる。物は思わぬ。人の意識だけが選択を行うのだ」
リンボの主はマルグリッドの質問を無視した。
「世界を変えてみせよ」
リンボの主の声が響くと、マルグリッドの意識を暗闇が包んだ。
先程のような感覚とは違い、急速に意識が落ちていく。
 
「ここだお前が選んだ世界だ」
声と同時に、マルグリッドの意識が戻った。
マルグリッドは見知らぬ土地の意識が戻った。
マルグリッドは見知らぬ土地の空をゆっくりと漂っていた。
白と黒が混ざり合う大海原が支配する世界。大地と思しきものは、海上に点在する極彩色に輝く孤島のみだった。
灰掛かった淡い色の空。昏く光る銀河の渦と海から突き出る暗色の木々が、マルグリッドの視界を横切ってゆく。
まるで、白黒の海に浮かんでいるようだった。
「ここは……」
音はあるようで無い。意識の内で思った言葉が響く。
自分の言葉がこの世界の空気を震わせているのか、それともただ思っただけなのか。マルグリッドには判別がつかなかった。
「可能世界。その内の一つ、原始に根差す力を知る、もう一つの世界」
声が紡ぐ言葉の意味は、マルグリッドには酷く不明瞭だった。
単語の一つ一つを理解するのに時間を取られる。
ただ、これは『渦の世界』の一つではないか、ということは理解し始めていた。
「人の選択だけが因果を崩す。力と意識は一体だ」
声は無機質に朗々と、歌うように言い放つ。
次の瞬間、マルグリッドは岸辺に立っていた。身体は無かったが、自意識としてそこにあった。
 
足下には黒くぬめった、人の身長の倍くらいの生物が打ち上げられていた。白と黒のさざ波に何度も打ち付けられながら、その生物は小さな呼吸をしていた。
「これは……」
マルグリッドはこの異界の生物に触れた。その黒い生物が死にかけていることがすぐに伝わった。
「生きたいの?」
マルグリッドは黒い異形の生物に聞いた。
「……イキタイ」
異形であったが、意識だけとなったマルグリッドには、その心が伝わった。
 
マルグリッドは異形の生物の意識に集中した。彼はこの世界の異端者だった。自分と同じようにケイオシウムのちからに取り憑かれて力を弄んだ挙げ句、仲間に放逐されたのだった。そして、瀕死の状態でこの浜辺に打ち上げられていた。
「この世界の私なのね。貴方は」
「マドノ……ムコウ…ノ…ジブン」
同じ意味の言葉を、二つの意識は共に語った。
「助けてあげられる?」
「二つが一つになれば、互いの力を得ることができるであろう。 束ねられた一つの意志は、新たな可能性を開く」
不可思議なリンボの主の声が再び響いた。
「わかったわ」
 
マルグリッドは即決した。不思議と迷いは無かった。どう見ても異様な姿をした不気味な生物だったが、どこかした親近感すら抱き始めていた。
マルグリッドは再び意識を集中した。同時に、黒い生物もその複数の目を瞑った。
白と黒のイメージがマルグリッドの心を満たした。
それは少しずつ混ざり合い、縞を作りうねるような文様を描きながら、一つの灰色の球体となった。
そして、マルグリッドの感覚にはっきりとした身体の感覚が戻った。
しかし、それは元の体ではなかった。黒い生物として世界を眺めているのは、はっきりと意識できた。
 
マルグリットは新しい身体をもぞもぞと動かし、海へと入っていった。
異界の海は美しかった。黒い海面でうねっていた白は、海中では光を発する微生物だった。まるで美しい黒曜石の中を、輝く星屑と共に漂っているかのようだった。
どこに行けば良いのか。マルグリットには分かっていた。
記憶も、意志も、異形の生物と共有していた。互いが互いにとって不可分であった。
その黒く長い尾を振るい、海の中を滑るように泳いでいく。深く、より深く、目標に向かって一直線に進んでいった。
 
その目標を目にした事は一度もない筈だが、はっきりと脳裏に浮かんでいた。
異形達が暮らす海底都市を支える神殿。その神殿に飾られたケイオシウムの輝きが、復讐と感情と共にマルグリットの心を捕らえていた。
 
「―了―」

3378年 「幻獣」

margR5.png
コアが座す広場に侵入したマルグリッドは、まず自身に従う異界の魔物を呼び出した。
他者を圧倒する力が必要だった。魔物を制御する術は黒い異形の生物が知っていた。
広間に魔物が現れる。その魔物の力を借りて、マルグリッドは神殿を巨大な実験場とした。
小さな結晶の中で、一匹の白い異形が小さな嗚咽を漏らして絶命するのが見えた。
その様子を見届けたマルグリッドの複数の目が、嗤いと嘲りの形を取る。
マルグリッドが持つ知識と黒い異形の持つ知識は、互いの不足を保管し合っていた。
保管され『形』となった知識を、マルグリッドは実験という行為をもって復讐に利用した。
 
小さな結晶の中で息絶えた白い異形は、ケイオシウムを戴く神殿を守る者だった。最後まで抵抗したが、ケイオシウムのコアを手に入れたマルグリッドにはまるで敵わなかった。
マルグリッドと黒い異形が作り上げたケイオシアムの鑑。この中では様々な事象が幾重にも重なり合っていた。
ある異形は意志だけとなり、自分が多元世界で死んでいく様を何度も体験させられた。
 
またある異形は、似て入るが少しだけ違う景色が続く回廊に閉じ込められ、狂ってなお脱出することができなかった。
これらの異形を使って多元世界へ干渉し、マルグリッドは様々な世界を見た。
異形が一体ずつ息絶える毎に、マルグリッドはリンボの主へと近付いていった。
一体の異形が、身体を揺らめかせながら何もない空間へ降り立った。
マルグリッドはここがリンボであるという確証を得たため、一度きりの移動を決行した。
 
空間のどこかから、男とも女ともつかない不可思議な声が、いくらかの間隔置きに聞こえていた。
「貴方がリンボの主ね」
「お前が選んだ世界は、お前を導いた」
声の主はマルグリッドの問いに答えない。
「お前は何者なの?」
「私は真の創造主。神をも私が造ったのだ。この多元世界でな」
「姿を見せてもらえないかしら?」
マルグリッドの前に、異様な風体の老人が現れた。
子供がそのまま老人となったような、不気味な姿をしていた。
「神を造った?面白い話ね」
「全ては世界を作り替えるためだ。正しい方向に人類を導くために」
「ご立派なお話。でも、それを証明できるの?」
「証明などという下賤なものは必要ない。今ここに私がいることが全てだ」
宙を見つめながら、感情を込めずに老人は言った。
「それでは妄想と区別がつかないわ。力を見せてみなさい」
マルグリッドはこの老人の精気のない瞳に、加虐心を覚え始めていた。
「今ここに力はない。いずれ生まれる、無限に世界を移動し続けることができる者、私は『航海士』と読んでいるが、その者がここに来ることになっておる」
「言葉だけならなんとでも言えるわね」
「信じたくなければ信じなければよい。世界の『自由』を私が造ったのだ」
「で、その航海士の力があれば、自由に望む世界へ行けるのね」
「全ては意志だ。意志があればそうできる。だが……」
「だが?」
「この世界を呪っているの者が存在している。この場所に私を閉じ込めた者だ」
老人の目に涙が溢れていた。
「その者は人の意思や自由を呪っているのだ。その女は……全てを混沌に帰すために、私の意思を砕こうとしている」
「かわいそうに……。酷い目にあっているのね」
その老人をマルグリッドは抱きしめた。老人は泣き続けていた。
「でも、とても面白い話」
マルグリッドは老人の小さな頭を両手で掴んだ。
「その知識、私が貰い受けるわ」
マルグリッドは魔物を呼び出し、リンボの主を喰らった。
リンボの主は抵抗しなかった。いや、抵抗するような精神すら、もはや持ち合わせていなかったのかもしれない。
再び意識と意識が交じり合うような感覚が、マルグリッドを襲った。
リンボの主――メルキオールという名であった――に成り代わった
 
マルグリッドは、手始めに世界を渡るのに十分な強度を持つドローンの製造を行った。
そのドローンを用いて元の世界を遡り、干渉することに成功した。
そしてメルキオールのメッセンジャーと偽って、開放派の重鎮であるラームに接触した。
「おお、導師よ。パンデモニウムが断罪した偉大なるケイオシウムの申し子、メルキオール!」
マルグリッドはメルキオールの姿をドローンで投射して模倣し、ラームを信用させた。
「導師は零地点を作った存在だ。彼を救い出せば、我々はケイオシウムを利用して新たなステージへ進むことができる」
「私が導師との接点になりましょう。そして、ケイオシウムを使って世界の望みを叶えましょう」
マルグリッドはその言葉に嘘は無かった。嘘があるとすれば、それ以外の全てだった。
「心強いよ、マルグリッド」
マルグリッドはメルキオールと接触できるのは自分だけであるとして、ラームと計画を進めていった。
同志を得たラームは、マルグリッドを介してさらなる同志を増やし、舞台を整えていった。
他方、マルグリッドは航海士――スーパーノート――の存在を観測し、補足しようとしていた。
ラームの見つけた有能な同志であるミリアンとロッソの力添えもあり、過去に遡ることもなく順調に計画は進んでいった。
しかし、航海士の力を持つジェッドをあと一歩というところまで追い詰めたものの、手酷い反撃に遭ってしまった。
ミリアンとロッソを失い、ドローンをも破壊されたマルグリッドは、リンボの奥深くで再び動き出した。
「失敗か……」
マルグリッドは粉々に破壊されたドローンを一瞥した。
「また戻ってやり直せば良い」
 
すぐさまドローンを修復し、再び過去へ旅立とうとしていたマルグリッドの前に、白い閃光が現れた。
鮮烈な白い光はドローンの視界を焼いた。
「因果を制御しようなどという、小賢しい真似をするのはお前か?」
白い光は少女のような声色でマルグリッドに言い放った。
「退け。誰も私を止めることはできない」
「否。全ては私の手の中。違える者は許されない」
その言葉で、目の前の存在が何であるかとマルグリッドは悟った。
「そうか、お前が……」
「お前を断罪する」
その言葉を聞いたマルグリッドは、反射的に光に向かって魔物の影を放った。
「無駄だ」
光は魔物の影を消し飛ばした。光は人の形となって、マルグリッドに向けて光の玉を打ち出した。
「私は私の望む世界を造るの」
「そのような望み、混沌の中では掻き消える」
マルグリッドは魔物の影を再び出現させると、光の玉を飲み込ませた。
だが、光の玉は魔物の影の中で暴れ狂うと、そのままマルグリッドに衝突してきた。
呻きを漏らすこともできずにマルグリッドは悶絶した。
「我がマスターをこの牢獄から出すとは。この程度では済まさない」
光の少女は抑揚なく言い放った。
次の刹那、身体にあった痛みが消え、マルグリッドは明るく晴れた空色の空間に、ケイオシウムのコアと共に放り出されていた。
眼下にパンデモニウムのドームが見えた。
所々で炎と煙が上がっている。ゆっくりとドームに近付くと、そこには覚束ない足取りで歩く、血塗れた少年の姿があった。
少年は伴っていた灰色の獣と共に、銃を持つ治安部隊を薙ぎ払いながらどこかへ向かっていた。
マルグリッドがその少年の正体に気が付くのに、さほど時間は掛からなかった。
「そんな……」
少年は異界の力を振るいながら、フライトデッキへと辿り着いた。
「だめよ!やめなさい!!」
マルグリッドは叫んだ。だが、その声は少年に届かない。
少年は勢いをつけてフライトデッキから飛び立った。灰色の獣がそれに続く。
瞬きもしないうちに、少年と灰色の獣の姿は見えなくなっていた。
「これが、お前が望んだことの末路だ」
「違う!私はただ――」
「違いはしない。これが因果の終着点だ」
「そんなの許さない。こんな結果、変えてみせる!」
マルグリッドはケイオシウムのコアを作動させると、今見た光景よりも前の世界を探しだし、そこへ跳んだ。
白い光は追ってこなかった。
 
少年は一人だった。マルグリッドもよく訪れていた寂れた図書館で本を手に取っていた。灰色の獣はいなかった。少年は寂しそうに本をめくっている。
マルグリッドは少年の顔がよく見たくなり、彼に近付いた。少年は驚いたような顔をしてマルグリッドを見ていた。
マルグリッドは不意に、ここで干渉すれば灰色の獣に魅入られることはなく、あの惨劇を防げるのかもしれないと考えた。
異形の姿を分かって少年に遣わした。それが少年の、我が子のためになるとの確信を持って。
少年は異形を『幻獣』と呼んだ。少年の行くところには静かに幻獣が寄り添っていた。
少年が懐かしい自宅を飛び出していくのが見えた。幻獣は少年の無意識に従い、パンデモニウムの住人を次々と血に染めた。
そうして気が付いてしまった。最初に見えた灰色の獣が、今の自分によく似た姿をしていたことに。
再び白い光が姿を現した。
「そうだ。これがお前の因果だ。お前はどうあっても我が子を助けることはできない」
「私……全て、私が……」
「終わりだ。違えた者」
それが、マルグリッドが最後に聞いた言葉であった。
 
「―了―」