朱炎の追憶(クレーニヒ)

Last-modified: 2018-09-08 (土) 00:39:24

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「湖畔の追想」

導き手に示されるままに進んで分け入った深い森。じっとりと蒸すような暑さの森の中を、どれくらい進んだのかはわからな い。
暑さのせいか、クレーニヒは少しだけ疲れていた。だが、疲れているのは先頭を歩くイデリハとて同じだろう。そう思い、その疲れをおくびにも出さず歩みを進めていた。
そんな時、木々に囲まれた湖に出くわした。
そこは、不気味で鬱蒼とした森の中にあるのが嘘のような、神秘的な場所であった。
木漏れ日に煌めく湖は広く、水は湖底に生える水草の色なのか、綺麗な藍色をしている。生い茂る草は柔らかな毛布のような感触であり、よく見ると全体に綿毛のようなものが生えていた。
 
イデリハは周囲を注意深く見回すと、次いで湖の水面を覗き込む。
「魔物の気配は無い。ここで一度休憩し……しよう」
安全だということを確信したのか、クレーニヒ達にそう告げた。
「あ、はい」
「ここの水は綺麗そうじゃ……だ。顔を洗えば少しは疲れも取れる……と思う」
気付かれていた。イデリハの観察眼にクレーニヒは少々驚いた。
イデリハはそれだけを伝えると、導き手と共に湖の近くにあった倒木を椅子代わりにして腰掛けた。
もとより必要なこと以外は喋らない導き手。喋りに難があるのか、口を開くことの少ないイデリハ。そしてクレーニヒ自身も率先して話し掛ける性格ではない。
風と葉擦れの音だけが周囲を支配していた。
沈黙を他所に、クレーニヒは湖に手を浸した。ひんやりと心地よい冷たさが暑さと疲れを和らげていくように感じられた。
クレーニヒは湖の水面を見つめながら、ぼんやりと考えた。
自分の見ている世界が、人とは違うものであると自覚したのはいつだったか。
クレーニヒはパンデモニウムにある遊興施設の一つである、遊泳場を訪れていた。
パンデモニウムが課す教育プログラムの一環によるもので、クレーニヒ自らが進んで訪れた訳ではない。
遊泳場では、自分と同じ年高の少年少女が思い思いに水と戯れていた。
クレーニヒは水の中に入ることに抵抗を感じ、プールサイドに腰掛けて、足だけを水につけて遊んでいるように見せていた。 ゆらゆらと揺れる水面を眺めていると、プールの底に植物が揺らめいているのが見えた。
赤い色をした植物の影から、大小の鱗に覆われたワニのような生き物がゆったりと近づいてくる。 その生き物はクレーニヒの傍までやって来ると、クレーニヒを水中から見上げてきた。
クレーニヒと生き物の目が合う。奇妙なその生き物は口のような器官を吊り上げ、鋭い牙を見せつけるように威嚇してきた。
「ひっ……!」
奇妙なその生き物の不気味さに、クレーニヒは思わず声を上げた。
水につけていた足を引き上げ、後ずさる。
「クレーニヒさん、どうかしましたか?」
その様子に気付いたのか、引率の教育指導員が声を掛けてきた。
クレーニヒはその声にはっとなる。次の瞬間、見えていた奇妙な生き物は消え失せた。
「あの……、プールにワニみたいな生き物が……」
恐る恐る指導員に言うも、彼女は水面とクレーニヒを交互に見やって首を傾げた。
「安心してください、このプールに外の生き物が入ることはありません。泳いでいる誰かと見間違えたのでしょう」
「そう……ですか」
クレーニヒは俯いた。指導員はそれ以上問題がないことを見て取ると、別の誰かのところへと行った。
指導員の目には、クレーニヒが見たものは見えていないようだった。
――やっぱり、ボク以外にあの風景は見えていないんだ。
この時、頭のどこかで漠然と感じていたことが、はっきりとそうであると確信したのだった。
いまクレーニヒが身を置いている世界では、かつて己が幻視していた風景が形を持って現れている。綿毛のような草も、硬いガラスのような質感でできた丸太のようなものも、望めば全て触れることができる。
パンデモニウムで暮らしていた頃に見えていた幻覚は自分が作り出した妄想ではなく、全て実在しているものだとわかった。
それでも、クレーニヒは時々不安になる。
この目に映る世界は他の人……、例えばイデリハや導き手にも見えているのだろうかと。
「ここの水は宝石みたいに綺麗……だな」
後ろからイデリハの声がした。よく見れば確かに、この湖は宝石のように煌めいている。
「そう、だね。水草の色がよくわかるくらい綺麗な水だ」
「なるほど。……ようけ見えるのう」
聞き慣れない訛りのある言葉だった。だが、クレーニヒ気にならなかった。
イデリハはクレーニヒと同じ世界を見ている。目の前にあるこの世界は、目を閉じたときに見せられる幻覚とは違うのだとわかったから。
そんな風に思っていると、水面に幻獣の姿が映った。
幻獣はゆったりと笑っているようだった。

「―了―」