湖畔に潜むもの(幼生ウボス紫)

Last-modified: 2018-09-22 (土) 11:47:36

幼生ウボス紫.png

「湖畔」

数多の触手を持つ化け物が湖へ沈んでいく。その化け物はベルンハルトと縁遠からぬ相手だった。
「相変わらず、面倒な化け物だ」
その化け物の最後を見届けたベルンハルトが、珍しく不機嫌さを隠そうとしなかった。
「さて、人形。次はどこに連れて行くつもりだ?」
言葉を向けられた人形はベルンハルトを見つめ返すだけで、何も答えることはなかった。
何の回答も得られないことは予想済みだったのか、溜息を一つ付くと、剣を鞘にしまった。
「……」
腹立たしいことに、その化け物の血から匂い立つ悪臭も、ベルンハルトの記憶通りのものだった。
「あなたが苛立つなんて珍しいわね、ベルンハルト」
その様子を眺めていたマルグリッドの言葉は、何処か可虐的なものだった。
返り血で染まっていたベルンハルトとは対照的に、マルグリッドの衣服には一滴の返り血も付いていなかった。
化け物と対峙したマルグリッドは早々に身を引き、ベルンハルトに任せてしまっていた。
「貴様はあてにできないからな。面倒な化け物と格闘する羽目になった」
「怒ってるの?適材適所というやつよ。いいじゃない、勝てたのだから」
マルグリッドはふふっと笑うように言ったかと思うと、すぐに顔を顰めた。
「その返り血、ずいぶんな臭いね。流してきたら?」
ベルンハルトの視線に不快感を感じたマルグリッドは、それだけ言うと木陰へ向かって歩き出していった。
化け物が力を失った影響だろうか、先ほどまで黒くよどんでいた湖の水は、驚くほど透明度の高い水に変わっていた。
手の届く位置に武器を置き、上着を脱いで水面に浸けた。上着に付いていた血が湖を染める。だがそれもすぐに希釈され、透明な水になっていった。
湖一帯を覆っていた霧は完全に晴れ、強烈な日差しがベルンハルトを照らしていた。
どうにか悪臭が気にならない程度に、血を洗い流すことが出来た。上着を木の枝に掛け、ベルンハルトも木陰で一息をついた。
強烈な日差しが一帯を照らし続けている。
一瞬、目の前の湖に飛び込みたい衝動に駆られた。しかし、得体の知れない世界の、それもつい先程まで化け物が居た場所で羽を伸ばす気になれるほど、ベルンハルトは楽観的ではなかった。
そもそも楽しむために水に入るなど、城壁に囲まれた街の中が全てだと思っていた、まだ戦い方も知らない子供の頃だけだ。
 
「待てよ。おい」
「今日は早く着きたいんだ。急ぐぜ」
ベルンハルトの先を歩く双子の弟フリードリヒは、声を掛けても速度を緩める気配をまるで見せなかった。
城壁の外、都市障壁の影響下であるが、危険の残る森を二人は歩いていた。
「なにがあるんだ?」
「着いてからのお楽しみさ」
ベルンハルトの問いをフリードリヒははぐらかした。急ぐフリードリヒを、ベルンハルトは黙って追いかけた。
二人は冒険心に溢れた子供だった。自分達の住む都市の内郭を出入りするキャラバンに紛れて外を探索するのが、休みの日のお決まりになっていた。都市の外側は危険であったが、子供の冒険心を満たすには格好の挑戦だった。いつもは他の仲間も一緒だったが、今日は二人だけだった。
「着いたぜ、見ろよ!」
二時間以上歩き続けた森の奥には、ちょっとした大きさの湖があった。
「な、すげえ綺麗だろ!泳ごうぜ」
疲れも見せずに、フリードリヒはそう言って満面の笑みを見せた。とにかく綺麗な湖だった。
 
酷く蒸し暑い日だった事を覚えている。湖面に反射する眩しい光も、水の匂いも、今でも鮮明に思い出せる。
 
結局、日が暮れるまで二人で泳ぎ続けた。辺りは既に真っ暗になっており、帰り道がわからなくなってしまった。
フリードリヒは今にも泣き出しそうだったが、ベルンハルトは黙って歩き出した。
今度はフリードリヒがベルンハルトの後をついて行く。
「なあ、帰り道わかってるのか?」
「だまってついて来いよ」
フリードリヒの心配する声を、ベルンハルトは無視した。フリードリヒはとぼとぼとベルンハルトの後ろをついて行った。
星を見ながらベルンハルトは道を探した。そうして、時間は掛かったが街に帰ることができた。
ただし真夜中になっていたため、守備兵にみつかってしまった。
この守備兵に連れられて二人は家に帰ったが、両親からそれまでにないほどに怒られた。
後に、この時の事を振り返って、
「あのときは参ったな。 こっちはヘトヘトでぶっ倒れそうなのにガーガー言われてよ。マジ死ぬかと思った」
と、フリードリヒは冗談めかして語っていた。
それでも、両親は説教の後に二人を抱きしめ、暖かい食事を食べさせてくれた。食事の後はすぐにベッドに入れてくれた。
それは、遠い幸せな記憶だった。
 
まだ濡れている上着を肩に掛けると、ベルンハルトは人形達の元へ戻った。
もう一度振り返った時に見た湖の光は、遠い記憶の残像のように思えた。

「―了―」