湖畔に潜むもの(幼生ウボス緑)

Last-modified: 2018-09-05 (水) 21:06:07

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「湖畔」

力尽きた触手の化け物が、水泡と共に湖の中にゆっくりと沈んでいく。
ついに湖面から見えなくなり、水泡も見えなくなると、先程まで黒く淀んでいた湖の水が、嘘のように青く透き通る水へと変化していた。
緊張の糸が切れたアインはその場に座り込んだ。霧は晴れ、焼け付くような日差しが湖とアイン達を照らしていた。
アインの衣服は大量の返り血を浴び、変色しただけではなく、臭いも耐え難いものになっていた。行動を共にしているパルモとシルフにとっても、それは同じようだった。シルフは既にその身を湖に投げだし、一秒でも早く悪臭から逃れようとしていた。その様子を見たアインとパルモは、思わず笑みを益した。二人も衣服に付いた血と悪臭を取り除くべく、水辺へと足を運 んだ。
この継ぎ接ぎの様な世界は、場所によって気候が大きく異なっていた。霧のあった時はそれ程でもなかったが、触手の化け物がいた場所は暑かった。
化け物の返り血で汚れた衣服を湖で洗いながら、アインの意識は別のところへ移っていった。
それはアインの元居た世界、『黒いゴンドラ乗り』達が来る前であり、妖蛆の脅威に晒される前の平和な世界。
あの日も、今のように暑い日だった。


アイン達の住んでいる集落から最も近い川と湖は聖なるものとされていたために、入水が禁じられていた。
故に暑さから逃れるためには、遠方にある湖まで足を伸ばす必要があった。
「待ってよー。 お姉ちゃん」
後を追ってくるのはアインよりやや年下の獣人、スプラートだった。
家が近かった事もあり、二人はよく行動を共にしていた。実の家族のように仲が良かった。
湖に到着すると、既に数人の先客がいた。見たところアイン達と同年代のようで、同じ村に住む顔見知りもいた。
服を脱ぐと、アイン達もその輪に加わった。
湖の水は冷たくて心地良く、とにかく良く遊び回った。帰る時の体力を残しておこう、などと考えて動いている者は一人もいなかった。
遊び疲れた後は、木陰で将来の事について語り合った。
立派な戦士になると語る者もいれば、大母様をお近くで支えられるようになりたいと語る者もいた。
アインもまた、村のために役立てるようになりたいと語った。
もちろん、僅かばかりの休憩時間に語った戯れにすぎないと、皆が理解していた。
あの時はそれがずっと続くと思っていた。少なくとも成人の儀が終わるまでは。
だが、そうはならなかった。それ故にアインはここにいる。スプラートは元気にしているだろうか。父さん、母さん、大母様、村の皆は無事だろうか。あの人は……。
普段はなるべく考えないようにしていた事が、一気に頭の中を駆け巡った。
自分はいつまで、この異様な世界に留まらなければならないのだろう。
アインには成すべき使命があった。そのために皆から、あの世界から旅立ったのだ。
「大丈夫? あなた、ひどい顔をしているわよ」
声がした方向に視線を移すと、目の前にタオルが差し出されていた。
手の止まっていたアインを不思議に思い、様子を見に来たパルモだった。
言葉の意味を解さない様子のアインに、パルモが両目の部分を指す。アインはようやく気が付いた。
アインの目から涙が零れていた。
「ありがとう」
礼を言ってタオルを受け取ると、水で涙を洗い流して顔を拭い、そして、彼女達の導き手の元へ歩き出した。
元居た世界と曖昧な記憶。全てを取り戻すためにも、立ち止まるわけにはいかなかった。
「―了―」