<Chapter 8>
ロンド・ベル、プリベンターの両艦隊はそれぞれ予想戦闘空域を前にして、同時に左舷回頭を行った。
縦列を横列に組みなおしたことになる。当然、俺も乗っているネェル・アーガマが陣形の左翼に回ることになった。ここまでは常識的な展開を一歩も出ていない。横列が完成した直後、ネェル・アーガマの艦長フィル・アッカマンが予定通りの命令を下した。俺の最初で最後の大博打の、第一歩だ。
「右舷180度回頭。我が本陣と敵陣の間を横断し、敵左翼へと取り付け」
全く生きた心地がしなかった。
以下は後でプリベンターの面々から聞いた話などを交えつつ記述していく。
アークエンジェルのブリッジは大混乱に陥っていた。今まさに全艦隊に戦闘速度を命令せんとし、誰もが全速力でロンド・ベルとぶつかる心の準備をしていたときにオペレーターのミリアリア・ハウが
「敵陣左端の艦、艦隊を離脱。これは…エ?ウソ!?回頭しつつ最大戦速で前進、我が陣の前面を単独で横断しています!」
というや否や、誰も当方が何を考えているのか掴めず、意図を探り出すのに躍起になっていたのだ。だがこうしているあいだにも時は無常に過ぎていく。ネェル・アーガマは敵と味方からほぼ均等に距離を置きつつ、一つの砲撃も行わぬままに戦場の主役となっていた。そんな間にも作戦参謀達とアークエンジェル艦長マリュー・ラミアスは議論を重ねていた。
「今すぐ前進し、敵艦を撃沈するべきです。敵が何を考えているかは分かりませんが、その間に主力に肉薄された所で、接触前に敵左翼艦を沈めてしまえば、数の上では有利なまま戦闘を継続できます」
「でも、あまりにも突飛な行動もあるし…あそこまで露骨に先制攻撃を誘う体制をとっている以上、何か裏があると考えるのが自然じゃないかしら?例えば、あの艦の部隊と戦っている間に敵主力が回りこんで当陣営の後方を突くとか」
「ですが現在のECM(サイド5ではミノフスキー粒子をそう呼ぶらしい)濃度では距離をとった部隊同士でそのような連携した行動をとることなど不可能です」
「いや、しかし……!」
「だが……!」
結果としてプリベンターは期待通りの行動をとってくれた。間をとって、巡航速度のまま前進を続けてくれたのだ。
接触時間を遅らせることで我々の意図にはまるのを極力遅くまで回避し、当方に主導権をとらせないただそれだけが目的の行動だ。実はそれこそが、俺の意図そのものであったのだ。
「ネェル・アーガマを除く各艦、最大速度で前進せよ。旧戦闘予定空域を通過と同時にモビルスーツを発進、以降は艦ごとの判断に従って自由に戦闘を開始!」
ラー・カイラムのブリッジからブライト艦長が絶叫するのが聞こえる。それを聞く俺が乗るネェル・アーガマはというと、予定通り暗礁空域への侵入を行う所だった。既に徹底的な調査が行われ、双方共にこの空域を安全に通行することが可能だ。が、戦闘濃度のミノフスキー粒子の下では、小惑星も戦艦もモビルスーツも見分けがつかない。この時点でロンド・ベルの勝利は確定した。
<Chapter 9>
砂糖をまぶしたオールドファッションドと、トリエの好きなチョコレートがかかったドーナツを3つずつ買って帰宅した。
居間では明かりを付けたまま、トリエが床の上に毛布をかけて寝ていた。食卓の上にドーナツの入った紙袋を置いて、オールドファッションドを取り出して齧りながら、机の上でスリープ状態になっているモバイルワークステーションを起動させる。留守の間にやっておくよういっておいた課題を確認する。うん、頑張ったじゃないか。
トリエの一番得意な科目は物理で、以下国語、数学と続く。いずれもモビルスーツのパイロットとして必要な素養である。無重力下、重力下でのモビルスーツの挙動は全く違うから、パイロットはかなり強烈に物理を仕込まれる。
国語(俺が養育してるんだから当然日本語だ。英語も無論習ってるが)能力がないことには命令を理解し、自主的に行動するというパイロットに必要な力を養うことは出来ない。数学だってそうだ。
反面、最も苦手なのは生物だ。マシンチャイルドだから普通の生物を人間のように自分の地続きのものだと感じられないのか?とも思ったが、そう思った自分の残酷さを呪った。あと化学と歴史も点が悪い。暗記が苦手らしい。
でも努力の跡が見られるなと、モニターの隅に表示されているカラオケボックスが爆発したというニュースを無視しながら自動採点の結果を見ながら思っていると
「……ン……」
幽かな声がした。
「ああごめん、起こしちゃったね」
右手でドーナツを持ったまま、しゃがんでトリエと向かい合う。
「ドーナツ買って来たよ、君の好きなチョコレートのもある」
といっていると、トリエは少し身を起こし、俺が右手に持った食べかけにかぶりついた。
「おいおい寝ぼけるなよ。今チョコレートのをとってやるから」
立ち上がろうとする。……トリエが何かを訴えかけるような潤んだ瞳で上目遣いに俺を見る。この表情には弱い(カロチン的な意味で)。
「やれやれ、仕方ないな」
左手で頭を撫でてやると、そうされるのが好きらしく、くすぐったそうな嬉しそうな顔をする。と思ったら
「ひゃっ!」
情けない声をあげてしまった。トリエが猫のように一心不乱に、俺の指についた砂糖を舌で舐めとっているのだ。舌の感触がくすぐったい。
「おいおい変なまねするなよ……」
しかしトリエはやめない。両手で俺の右手を挟み、親指の砂糖を舐めた後、人差し指を口に含んだ。口の中の
暖かさが奇妙に心地いい。舌が、何か別の生き物のように俺の指を撫で、包み、愛撫している。……いけませんよ、これは。トリエは幸せそうな顔をしている。無理に右手を離そうと思ったら、また上目遣いに俺を見た。妙な気分になる。
「あんまり妙なことは……」
突然、指が解放された。と思ったら、俺の右手を両手で握り締めたままトリエはまた寝てしまった。
「仕方ないな、起こすのもかわいそうだ」
で、俺は左手だけでモバステを机から床に下ろし、以上の記録をつけ、これからトリエの横で眠るのである。
<Chapter 10>
「ロンド・ベル離脱艦、暗礁宙域に侵入。追撃は不可能です」
アークエンジェルのブリッジに以上の報告が入ると、議論が再燃したという。
「敵に仕掛けなどなかった!我が方の左翼を包囲し、各個撃破に移るつもりだったとは……!」
「ならば我々も左翼を下げ、右翼を前にだして敵と平行に向き合えばよい。上手くやれば、敵本陣を包囲できるかも」
「敵艦隊、モビルスーツを出しました!」
「糞っ!陣形変更の暇はくれんか」
気づくのが遅い。だがラミアス艦長も経験だけは積んでいるだけあって、それなりの統率力は見せた。無駄
だったが。
「まだ負けると決まったわけではないわ。全艦モビルスーツを発艦、迎撃して!」
ま、それ以外の選択肢もなかっただろうが。
ネェル・アーガマは既に全MS・MAの発艦を終了し、小惑星の中に身を隠していた。その前方右側に俺のデンドロビウム、左側にジュドー君・プルちゃん・ルーさんの小隊、そして中央にガロード君とティファちゃんのタッグが配置されている。高感度センサーには敵艦隊がモビルスーツを繰り出した証である小さい微かな影がいくつも映っていた。獲物以外の何者にも見えなかった。
―慢心は負けフラグだって分かってても、ハマってしまうのは何故だ?―
ここまで書いた所でそのガロード君とティファちゃんが家に来た。
トリエはティファさんと二人、それぞれお茶とケーキを前にしてテーブルを挟んで向かい合って座っている。しかしお互い一言も喋らない。一体何やってるんだ?あ、ティファちゃんが少し笑った。声は出さないけど。トリエはなぜだかむくれたらしく目付きがちょっと怖い。ティファちゃんが宥める様に手を掲げている。トリエも機嫌直したらしい。やはり全く喋ってないが。
そんな様子をチラチラと伺いつつ、俺はガロード君とテレビを見ていた。丁度新番組の第一回が放送されていた所だ。
『ココハエスディーネイション、エスディーキャラガクラスヘイワナセカイ……』
「面白そうだね。設定は王道だけどキャラがしっかり作ってあって、それだけで楽しい。何をしでかすのか楽しみだ」
「ああ、だけど次回からは無事に見れっかなー。今ちょっとイロイロとヤバくて、あっちこっち転々としてんだよ」
相変わらずおっさん臭い声だ。彼が育ったのは北米のコロニー落としの被害が地球上で最も甚大だった地域だそうで、タフでしぶとい性格を形成する上で余程の辛酸を舐めたであろうことがしのばれる。それでも、やっていいことと悪いことの違いは誰にとっても例外なくあるが。
「そりゃ、あんなことしでかすからさ。いい加減腰を落ち着けろよ。ティファちゃんと一緒に旅してるんだろ。男は女を守らないと」
「おっさんはその点しっかりしてるよな。見たぜ、ヤシマ作戦のアレ、ニュースで」
「だから俺はまだおっさんでは……いやそれよりも……」
おっさん臭い声でおっさんと呼ばれるわ、折角忘れかかっていたトラウマをえぐられるわ、今日は厄日らしい。いや、別に例の絶叫を恥かしがってる訳ではない。自分の正直な思いだと、全人類の前で誓える。だからといって人目に触れさせたいものでもない。ま、人の噂も七十五日というし、気にしないほうがいいか。
頭を抱えながら、そんなことを考えていた。ガロード君はそんな俺を気にせずテレビに噛り付いている。