補完小説パトリック・コーラサワーⅡ アロウズ離脱 後編

Last-modified: 2014-03-07 (金) 14:00:58
 

 ◇    15    ◇

 

 パトリック・コーラサワーの派手な撃墜癖と度重なる遭難癖、これにカティ・マネキンとの
風聞を利用した離脱策は一まず成功を収めたようだが、パトリックは不満が残るらしく、
小さくぼやいた。
「俺、ガンダム戦以外、不敗なんすけど……」
カタロンふぜいにやられたと思われるなんて、スペシャル様のとんだ名折れですよと、
無念そうに肩を落とした。
「人というものは往々にして他人の功を忘れ、失敗のみを心に留めあげつらうものだ。
戦略的撤退に人的被害を伴わないのであれば、勝利と思え」
「……『負けるが勝ち』ってコトですかね大佐? よっしゃぁあ!」
カティの一言にあっさり気を取り直すと、パトリックは意気揚々と胸を反らせる。
いつもは自分の後ろにある彼の背は、その顔に劣らず表情豊かだった。
頼もしさより可笑しさが先立って、彼女は思わず口許を綻ばせた。

 

 再会の時パトリックは、泣き笑いに顔を紅潮させ、そのままカティに抱きつかんばかりの
勢いで駆け寄ってきた。
迷子が保護者を見つけた時のようなその表情を目にしたときには、彼女が彼に抱えていた
小さな苛立ちは、とうに霧消してしまっていた。
カティの無事な姿に嬉しさを隠そうともせず、恐らくは不安のうちに過ごしただろう間隙を
埋めるかのように、パトリックは普段以上の饒舌さで、さかんに彼女に話題を振っている。
これから彼女が指揮を執り行動を共にすることになる、連邦軍クーデター派の活動拠点までの
道のりは遠く、周囲への警戒さえ怠らなければ、彼の話に付き合う時間は十分にあった。
アロウズにいる間、カティはずっと神経を尖らせていて、心安い間柄の彼に、辛く当たったことも
一再ならずあったような気がしていた。
しかもひどいことに、パトリックの情けない半べそ顔以外、何を言われて腹を立て、
それに自分がどう返したのかも、ろくに記憶に留めていなかった。
TPOを全く考慮しない彼も確かに無遠慮には違いなかったが、上官と部下という立場に加え
彼が年下であること、そして自分に好意を持っているという事実に甘えていた節は否めない。
ここは感謝と謝罪かたがた、とことん話を聞いてやろうと、カティは彼の問いかけに
快く応じることにしたのだった。
「まだこれからだパトリック、先は長いぞ」
「でも今回みたいなのは、これきりで頼みます」
自分の腕前に絶対の自信を持ち、およそ深い考えなどなさそうに見える彼とはいえ、
彼女に向け引き金を引くのには、それなりの葛藤があったのだろうか。
これまで想像を絶するバリエーションとバイタリティーとで彼女に好意を示してきた彼の心情を
察すれば、酷な命令でなかったとは言えない。
「そのつもりだ」

 

 「そういや、俺が落としちまった艦は」
話の流れで思い出したのか、パトリックはカティの乗っていた艦の行方を尋ねた。
「反連邦勢力を装い、アロウズに先んじて回収するよう指示を出した。損傷も中破程度で
修復可能、乗組員も全員無事だ。……艦と人員、MSはおいそれと渡す訳にはゆかんが、物資は
手土産がわりにくれてやる」
クーデター派がカタロンと連携していることを考慮すれば、実際回収に来るのは万年物資不足の上、
ブレイクピラーで相当のダメージを受けたカタロンだろう、と彼女は当たりをつけていた。
アロウズ討伐に際しては、カタロンとの共闘は不可欠であろうし、彼らはソレスタルビーイングとも
友好的な関係にある。
また討伐成功のあかつきには、協議の上、彼ら反連邦諸勢力を連邦に取り込むことまでをも
視野に入れるとすれば、ここで多少なりと誼を通じておくのも悪くない。
彼女の言葉からどこまで察したのかは定かではないが、彼はなるほどと頷きつつ感嘆の声を上げた。
「ぬかりないっすねえ、さすが俺の大佐!」
「誰がお前のだ……」

 

 ◇    16    ◇

 

 「……あのぉ。ところで、何で大佐はノーマルスーツなんすか」
と、ここでパトリックは遠慮がちに話を切り出した。
彼ほど遠慮の似合わぬ男もいるまいに、一体何のつもりだとカティはいぶかしんだ。
「非常事態に備えてだ。離脱プランの中に、宇宙へ上がるプランも提示しておいた筈だったが」
まさか戦術プランに一通り目を通さなかったのではあるまいなと、彼女はややきつい口調で咎めた。
クーデター派の活動拠点において、目を通す時間は十分にあった筈である。
事態を軽んじてそれを怠ったのであれば、不心得も甚だしい。
叱責の言葉をカティが探していると、画面に穴が開くほど読みましたよと、手短かに彼は断ったのち、
「非常事態ってんなら、機能的で身軽なパイスーが、俺的にはオススメなんですが……」
彼女は暫し返答に窮した。
何故か下手に出てのパトリックの提案は、唐突で話の先が読めないのだった。
「……パイロットスーツのことを言っているのか? ノーマルスーツには慣れているから問題ない。
お前がいる以上、パイロットはお前以外あり得ん。不死身だのワンマンアーミーだのとぬかしたのは
どこの誰だ? よって私がパイロットスーツを着用する必要はない」
カティはパトリックの真意を摑みあぐねていた。
が、彼女がパイロットスーツに身を包む必要に迫られるとすれば、それは彼の身の上に何かあった
ときに他ならない。
「ちょっと期待してたんすけどね……」
「何をだ?」
期待というからには、自分に起こる最悪の事態を想定しての提案ではないらしい。
とするとなおのこと見えてこない発言の意図に、彼女はあからさまに疑問の態を呈した。
「いえね、大佐のご無事な姿にホッとしたら、ついアレコレと、欲が……ええ、何でもないです。
ハイ」
パトリックは意味不明な事をぶつぶつと呟きつつ、それにまた一人で相槌を打ち、塩を振った
ナメクジよろしく、後ろ姿を一回り縮こませた。
結局何が言いたかったのか、カティには分らなかった。
だが本人が何でもないと言っている以上、大した理由ではなかったのだろうと、彼女は考えることを
そこでやめた。

 

 程なくして、パトリックは再び何事もなかったかのような上っ調子に戻ると、今度は何を
思いついたのか、
「ねぇねぇ大佐~、じゃあ俺の膝の上乗りましょうよ! ひ・ざ・の・う・え!!」
そんな所じゃ窮屈でしょうと言い足して、彼女を促すように空いた片手で自分の膝を何度か叩いた。
「馬鹿を言え。手許が狂ったらどうする。私はここでいい」
カティは手狭なジンクスⅢのコクピットの、シートと内壁との間に身を滑り込ませ、訓練生の機体に
同乗する教官のように、彼の斜め後ろで周囲に警戒の目を光らせていたのだった。
彼女の斜め下にある、このお気楽な頭からはよくもこう次から次へと、突拍子のない発想ばかり
浮かぶものだ。
「MSにレディを乗せるといったら男の膝の上ってのが、MS乗りの常道、お約束なんですよ~」
曲りなりにも30を過ぎた、分別盛りのエリート士官が戦線離脱途中、更に年嵩の上官を膝の上に
乗せたいなどとねだりだす精神構造に、カティはいつものことながら頭を抱えた。
どうやら少々、手綱を緩めすぎたようだ。
「いつの時代の話をしている。今時コクピットには救難用にもう一人ぐらい乗れるスペースを
確保しているのが、世界のお約束だ」
カティがぴしゃりとたしなめると、パトリックは蚊の鳴くような声で未練がましく抗弁を続ける。
「つれないなぁ。男の夢とロマンを次々と粉砕しないで下さいよぉ……」
次々と、などと言われても身に覚えのない彼女は首を傾げ、呆れ顔で彼に聞き質した。
「お前の夢とロマンは一体いくつあるんだ?」
「俺の愛と夢とロマンは、無限大です!」

 

 ◇    17    ◇

 

 「あーあ、結局新型、乗り損ねちゃいました。どうせなら行きがけの駄賃に新型かっぱらって、
大佐と駆け落ち! っての、やりたかったんですけど」
地球連邦軍少尉パトリック・コーラサワーは、アロウズからの離脱途次、ジンクスⅢに同乗する
彼の上官、カティ・マネキン大佐を相手に、思いつくまま気の向くまま、とりとめのない雑談を
続けていた。
「そんなことをしてみろ。ライセンサーの2、3人も差し向けられ、即刻処刑されるのがオチだ」
彼の軽はずみな思いつきを、カティは半ば聞き流しつつ、残る半ばを聞き咎めて眉宇に険を表した。
「アロウズは超法規機関であることを忘れるな。離反の証拠を残せば、これまで我々と関わりを
持った者、全てに累が及ぶのだぞ。軽挙は慎め。メメントモリのような兵器が、他にないとも限らん
――となれば中東に次いで焦土と化すのはAEUだ。万一、離脱に失敗しても降格程度で戻れる
くらいの小細工は、しておいた方が良いだろうからな」
新型機体の奪取などという暴挙に及べば勿論のこと、カティとパトリックがアロウズの方針を
非として逃亡したと気取られるだけでも、《イノベイター》のライセンサーが派遣される可能性は
十二分にあるのだった。

 

 パトリックは一軍人として見るならば、素行も性格も問題だらけである。
ただ、パイロットとしてその力量に見合う機体さえ得られれば、ガンダムとも拮抗する戦力と
なり得ることは、先の大戦で実証済みであった。
戦いにのめり込む余り、時に出すぎるという点を除いては、基本的に指揮官の命令に忠実でもある。
アロウズが諸問題に目を瞑り、リントの計らいを受けパトリックの志願を容れたのも、彼を連邦に
放置しておくことを危険視しての措置と思われた。
またカティは、その全てではないにしろ、アロウズの機密に与っていた。
アロウズの蛮行の生き証人であると同時に、地上に展開する戦力を把握している、数少ない人間の
一人でもあるのだった。
連邦軍クーデター派の建て直しはこれからというところであり、戦術も検討の余地を多く残している。
連邦のジンクスⅢとアロウズ新型機との機体性能差は、パトリックの奮起一つで埋めきれるような
生易しいものではなく、《イノベイター》の索敵能力も詳細不明である以上、無用の戦闘は避けるに
如くはなかった。
わざわざ上位機種を操る強敵と相対して、彼の不死身の実態を検証している場合ではないのである。
その点、作戦行動中或いは捜索中の行方不明であれば、先例から推し量るに、下級あるいは
中級クラスの士官が捜索隊として派遣される程度で済む。
プライドが高く扱い辛いライセンサー達が、たかだか行方不明者の捜索のために、早々に重い腰を
上げるとも思えない。
アロウズ討伐の準備が完了するまでとはゆかずとも、上層部が彼女らの失跡に不審を抱き、
保安局局員を派遣するまで些かなりとも時間稼ぎが出来れば、加えて、彼女や部下たちの関係者に
手を伸ばす口実をアロウズに与えなければよい、とカティは目論んでいたのだった。

 

 「第一、ミスター・ブシドーの機体を除けば、全ての新型は脳量子波対応型だ。お前には向かん」
「あー脳量子波って、人間レーダーみたいなヤツ――あのマカロン頭の、ライセンサーの
ガキ共ですか」
「マカロン……」
そのとき彼の言葉を鸚鵡返しにしたカティの脳裏を、色とりどりの丸い焼菓子が、軽快に
転がり過ぎていった。
食べるという行為に特別関心を払わない彼女だが、思い返せば何度か茶菓子として供された
気がするのだった。
「えっと緑のケアって娘がピスターシュで、紫の野郎がカシス・ヴィオレット、赤がフランボワーズ。
うまそうな色してるな~と思ってたんすけど、アレって染めてるんですかねえ」
興味があるなら本人達に直接訊ねたらどうだと言いかけたが、既に彼らに鼻であしらわれた
後のような気がして、
「……多分、地毛だと思うぞ」
彼女にしては珍しく当てずっぽうに答えると、喉元まで出かかった言葉を呑んでしまいこんだ。

 

 ◇    18    ◇

 

 「じゃああの、サムライ仮面のは」
「……ミスター・ブシドーのマスラオのことか。あれは左利き仕様だ」
右利きのパトリックは、どいつもこいつも、と忌々しげに言い捨てて軽く舌を鳴らした。
思えば四年前、国連軍より太陽炉初搭載のジンクスを支給されてよりこのかた、軍のエースで
ありながら、彼は新型機にすっかり縁遠くなってしまっていたのだった。
「あとミスター・ブシドーというのは通り名で、ユニオンのグラハム・エーカー元上級大尉と
いうことなのだが」
「ユニオンの、グラ――記憶にないっす! でもあいつの機体、クワガタみたいでカッコいいんで、
いっぺん乗ってみたいって思ってました」
ユニオンのトップガンの名を耳にしても、パトリックはさらりと受け流した。
元々、自分以外眼中にない男で、人類の上位種すらマカロンの一言で片付けてしまうくらいなの
だから、他者への認識などこんなものなのだろう。
カティは顎に手をかけ、指で蔽った口許をふっと歪ませる。
「やめておけ。心停止しかねん。いくら不死身のお前とて、12Gに長くは耐えられまい」
「ハァ!? マジっすか大佐、ソレ!?」
常識では考え難い重力負荷に、彼は奇声を発してカティの方を振り返り、目を丸くした。
「仕様書を一見した限りでは、機体性能の向上と引換えに耐G機能を排し、搭乗者の安全を
度外視した構造になっているようだな」
2Gの過重力下に一時間も居れば、大半の人間は眩暈等の不調を訴え、過酷と言われる大気圏突入
ですら、その負荷は数Gに留まる。
とすれば12Gは殺人的数値というほかなく、パトリックが耳を疑うのも無理はなかった。

 

 彼は再び正面に向き直ると、肩で溜息をついた。
「安全快適! 冷暖房完備! 低反発シートで遭難中もバッチリ快眠! レーションにも
こだわりのうまさ! のAEUイナクトとは、えらい違いですねえ……アロウズの技術屋君は
ドSで、あのブシ仮面はドMなんすか」
密かに目をつけていたクワガタは戦う棺桶であることが判明し、これで諦めがついたようであった。
気まぐれな彼の関心は、早くもあさっての方向に脱線し始めている。
「そのような個人的嗜好の問題である訳がなかろう――お前は日本の『武士道』というものを
知っているか?」
軌道修正を試みるべく、彼女は彼の問いに大真面目に答えて、逆に問いを返した。
「あいつがやってるようなヤツですかぁ? サムライのカッコで大見得きりながら意味わかんねぇ
コト言って、気の向いた時しか出撃しない言い訳ですかい」
独自行動の免許を有しているとはいえ、軍籍にある身で任務の選り好みをし、他者の理解を
自ら拒むような時代錯誤ないでたちと言動を貫くミスター・ブシドーの姿は、アロウズの2大奇人と
並び称されるパトリックの目にすら、奇異に映っていたらしい。
「18世紀の日本で書かれた『葉隠』という書物に『武士道と云うは、死ぬ事と見つけたり』と
あってな。常に死ぬほどの覚悟を以て臨めば、己の職責を全うできるという気構えを説いた
一節なのだが、後世、軍国主義下の日本で『戦陣訓』に採られて以降、積極的な死を肯定するものと
曲解されているようだ。本名を捨て、敢えてその名で通しているのであれば、あの機体も最上の力で
戦って死ぬ覚悟の表れということなのだろう」
へえ、と興の乗らぬ生返事をしつつも、説明に得心の行くものがあったのか、パトリックは
はたと膝を打った。
「それで選り好みしてたワケですか。そりゃザコ相手に血ヘド吐いて、肝心カナメのガンダムさんに
会えずじまいでくたばってりゃ、世話ないっすからねえ」
「――でも、戦って死ぬなんてのは、俺はナシです。生きて愛し愛されてこそのスペシャルな
人生っすよ!」
彼は続けて自説を弁じたてると、拳を握り自信たっぷりに胸を張った。
「随分とまともな事を言ってくれるが、そう聞こえないのはその口が言うからか?」

 

 ◇    19    ◇

 

 「新型や特別機に限らずとも、機体の特性を最大限に活かして戦えるのが、貴官の一番の強みと
私は考えるのだがな。むしろ誇りに思え」
「ええ~っ!? 何ですかそりゃあ!」
背後に立つカティ・マネキンからの言葉に、パトリック・コーラサワーは心外だといわんばかりに
声を裏返した。
危険を冒して転属しても機体に恵まれず、頼みの上官もアテにならずと、このところツキに
見放された感のある彼を慰め、励ますつもりで彼女は言ったのだが、どうやら言葉の選択を
誤ったらしい。
実際カティは、パトリックのパイロットとしての才能には内心舌を巻いていた。
航空機からMA、MSに至るまで、瞬時にほぼ完璧に乗りこなせるのは、ひとえに彼の天性の
センスと、模擬戦2000回勝利に顕現する地道な努力の積み重ねとに因ると彼女は考えていた。
長年エースパイロットの名を恣にしているのも、AEUに人なしという訳ではないのであった。
惜しむらくは自信過剰が祟って油断しやすく、敵戦力を軽視するきらいがあることなのだが、
それでも敵の攻撃をぎりぎりのところで回避し、しばしば一矢報いるだけの余力と胆力があるのは
流石と言うほかない。
また、彼女は人命を奪い合う戦闘行為を礼讃する考えを持たない筈であるが、高速で旋回しながら
攻撃する、派手やかで一見、無駄の多いように映る彼の戦闘スタイルが、中空を舞うように
美しいとさえ思うことがあるのだった。
あとは彼にいま少しの慎重さと、言葉や態度に重々しさが加わればいうことがないのだが――と
以前のカティは考えていたが、今となっては、それらの点も含めてパトリック・コーラサワーという
男たり得るのだと理解するに至っていた。
ただ表立ってこのことを口にすれば、途端に彼は調子に乗ってどじを踏んでしまうために、
カティのパトリックに対するこの評価は、ずっと彼女の胸の奥底に秘められたままなのだった。

 

 「――悔しいか。パトリック」
アロウズにいた時分、用もないのにモビルスーツ格納庫までついてきて、羨ましげに機体を眺めては
「新型下さい」と駄々をこねた彼を堪り兼ねて怒鳴りつけ、ひどく怯えさせたことを、カティは
今更ながらに思い出した。
彼を作戦の中枢に据えぬよう配置しておきながら、新型が欲しければ軍功を立てろと発破をかける
訳にも当然、ゆかなかった。
リーサ・クジョウの思考をトレースし、ソレスタルビーイングを壊滅に追い込むことに
彼女は意識を集中させていて、自分の側で役に立ちたいという彼の気持ちをろくに汲んでやることも
ないまま、アロウズで思うに任せぬ焦燥だけを、彼にぶつけていたのだった。
「大佐のいないアロウズに未練はさらさらないんですけどね、エースパイロットとしては一度くらい
あの、バーって赤く光って急に強くなんの使って、ガンダムのヤツと戦ってみたかったです」
「高濃度圧縮粒子全面開放システム、もしくはTRANS-AMと言え」
その時興味のある事柄を除いて、彼の口からいきなり正式名称が飛び出すことは稀である。
カティはその都度、本来口にすべき名称をクイズの解答者のように探し当てなくてはならなかった。
つくづく直感だけでものを言う男であるが、良くも悪くも数年でこれにも慣れた。
「トラン……あぁ? 前にどっかでチラッと聞いたような、聞いてないような」
ええといつでしたっけ、とパトリックは首をひねり、カティが彼の頭越しに、やれやれと呟く。
「国連軍が太陽炉を導入しジンクスを支給された際、整備兵から説明があったはずだが、
4年も前のこと。どうせ覚えてはいまい。お前は自分に直接関係のないことは、綺麗に忘れて
しまえるたちだからな」

 

 ◇    20    ◇

 

 「それなら、ビリー・カタギリ技術大尉くらいは覚えておけ。一度本人の希望で、お前が操縦する
Ⅴ-TOL機に同乗しているから、面識はあるはずだ」
「ええ大佐。ポニテメガネですね。覚えてます」
「彼は恩師であり、ユニオンにおけるMS開発の前任者でもあるレイフ・エイフマン教授を、
ソレスタルビーイングの奇襲で喪っている――無茶な新型を作り、仲間に託す理由がないとはいえん。
教授の遺した資料を元に、連邦で初めてトランザムシステムを搭載した機体の開発に成功したのも
この男だ」
そこまで言うと、カティは意味ありげに口端を引いた。
「それが、くだんのマスラオなのだが――トランザム限界時間経過後の粒子残量への配慮を怠ると、
機体が爆発するという致命的な問題を残していてな」
げっ、と言葉にならぬ叫びに喉を詰まらせる彼に、命拾いしたなと、彼女は低声で囁いた。

 

 「しかし、人の名前をすぐに忘れるお前が、珍しいことだな。知り合いか?」
内部資料と調査で得たデータを別にすれば、ビリー・カタギリについては、彼女も過去に面識がある
程度だった。
まさかアテにならぬ上官に痺れを切らし、開発者に新型を寄越せと、直談判に及んだとでもいうのか
――
「ってほどでもないんすけど。ドーナツもらったことあるんです」
「ドーナツ?」
新型でなく、ドーナツ――またしても予想を裏切る食べ物の登場に、カティは嫌な予感を覚えて
顔を曇らせた。
「食堂で時々見かけるんすけど、いっつもドーナツ食ってるんで、よく飽きねえなぁって思って
見てたら『君もどうかい?』って。怖いって噂聞いたことあるんすけど、結構、いいヤツですよ!
ドーナツもうまかったです」
敵地に等しいと承知の筈のアロウズで、この男は自分と別行動の間に、一体、何をしていたのか――
「ドーナツの味は、どうでもいい」
どうせ正面から無遠慮にまじまじと見て、他人の目には物欲しそうに映ったに違いないのだから。
気になるのはむしろ、とカティは言葉を続けた。
「――その噂というのを、聞かせてもらおう」
彼女は自ずと険しい口調になり、いつもの癖で顎に手をかけ、片頬を傾ける。
「あいつ見た目大人しそうですけど、ホントはメチャクチャ怖いらしいんす。ユニオン時代にあいつ
怒らせたフラッグファイターが、エンジンにみかん入れられたって!!」
「俺その後、つい自分の確認しちゃいましたよ。もちろん入ってませんでしたけど。ドーナツ一箱、
全部、自分で食うつもりだったらって――あれ、どうしました大佐?」

 

 「……っ」
「ナニがおかしいんすか? 大問題ですよ大佐!? 動力炉にみかんなんて入れられたら!」
追い討ちをかけるようなパトリックの言葉に、カティは口を掌で塞いで首を振り、小刻みに
肩を震わせる。
物静かで温厚な印象のあるビリー・カタギリが格納庫へ向かい、遺恨ある相手の機体動力部を
こじ開け、白衣のポケットに忍ばせていた小型のオレンジを徐ろに取り出し、無言で放り込む
姿を想像して、彼女は危うく大笑いしそうになっていたのだった。
「まったく、……お前という男は、まったく……」
理性で笑いを堪え、徐々に落ち着きを取り戻したカティは、息苦しさをまだ残す中、
途切れ途切れに言った。
「私と同じ色を、しているというのに――」
「お前の目に映る世界は、さぞかし愉快なのだろうな」
「ええ毎日、楽しくて仕方ないです。もう今なんてバラ色ですよ!!」
パトリックは心底楽しげに言うと、ヘルメットのバイザーを開いて今一度振り返った。

 

 ◇    21    ◇

 

 「よく見て下さい! ほら」
カティが見つめるパトリックの瞳の中に、呆れ加減で、怪訝そうに彼を覗き込む自分の顔が
映っている。
彼は仄かに頬を染め、一点の曇りもない笑顔で自分を真っ直ぐに見つめている。
こうしたとき、きまってそうであるように、恥じらう風は見せても、彼はけして彼女から
目を逸らさない。
そしていつも終いに彼女の方が照れ臭くなり、苦笑いに紛れさせて視線を逸らしてしまうのだった。
「前を見ろ、馬鹿者」
「はぁい」
「――造反とアロウズに知られれば、たちどころに処刑は免れんこの状況がか?」
離脱にこそ成功したものの、現状は薔薇色と言うには程遠い。
クーデター軍の取り纏めに他勢力との連携、圧倒的戦力差を埋める戦術の構築と、
既に問題は山積している。
「そんなことはどうだっていいんです! だって」
「大佐と二人、愛の逃避行ですよ~」

 

 夕闇が辺りを覆いつつあり、去り際の陽に染まる薄紅色の雲の欠片が、薔薇のように
見えなくもなかった。
無論、彼が言っているのは眼前に浮かぶそれではなく、心象風景なのだろうけれども。
もし、彼に寄り添い同じ方を見、同じものを見たなら、彼の瞳に映る薔薇色の世界が、
彼女にも見えるだろうか。
所詮他人は他人で、視座を共有し、理解し合うなどということは、幻想に過ぎないのかも知れない。
だとしても、互いの胸の内を言葉に変え、そして伝え合えたなら、思いを分かち合うことが
できるのだろうか。
「――大佐。これが終ったら、お食事に誘わせて下さい!」
「……ああ」
「あとこないだの、美術館巡りの続きも! 次はロマンティック美術館に行きませんか?
庭がキレイですよ」
「そうだな」
彼女は乞われるままに承諾の言葉を口にして、触れることのない彼の肩先に視線を落とした。
よしんばアロウズを壊滅させ得たとして、カティが数多の残虐行為に作戦指揮官として関与し、
心ならずも兵士達を死地に赴かせてきた事実は動かしようがなかった。
生き証人としての役目を果たし、連邦軍を本来あるべき形に正し終えた先に、彼が思い描いて
いるような未来が待ち受けているどうかは、彼女にも分らない。
今このことに思いを致してもどうなるものでもなく、悲観も楽観もしていなかった。
自らの行いに相応しい結果を、従容と受け入れるだけである。

 

 世界が目まぐるしく形を変え、三たび軍装を革めても、全く変わりのないパトリックの
能天気な楽天家ぶりに、呆れ返り、時に苛立ち、今は思いを共にすることのできない寂しさを
心に抱く一方で、そうした彼にこそ奇妙な安らぎを得ていたことに、カティは気付き始めたのだった。
――この男は変わらない。だが、それでいい。
彼女は瞼をゆっくりと伏せて、柔らかな笑みをその唇に浮かべた。
――大佐を妻に頂いて子供は3人! 
あの言葉を聞いたのは、いつのことだったろうか。
自らをスペシャルと称して恥じるところのない不遜な男の、思いのほか平凡で慎ましやかな夢を、
相手が自分であることの荒唐無稽さに返す言葉を失いつつも、それではまるで少女のようだと、
微笑ましく思ったものだった。
コクピット内の静寂を破る無機質な信号音に、カティは目を見開いた。
プラン通りにもたらされた同胞からの報せに、彼女は無言で頷いてパトリックに視線を巡らせる。
「――大佐、暗号通信です。解読しますか? ……ったく、ヤボなタイミングだぜ、ちくしょう!」
アメジストの瞳に映る世界は、数瞬の間に宵の闇に溶けていた。

 

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