運命のカケラ_24話

Last-modified: 2009-05-03 (日) 13:35:31

「まぁったく、もう。わかったわよ、じゃあ私は怒りながら待っててやるんだから」

 

 治ったらああしてこうしてぎっちり問い詰めてやるわ、と腕組みして宣言するアリサに、すずかはそうだねと小さく同意した。
 勿論ほめられたことではない。だが一度くらいは、自分もそうしてもいいだろうと思ったのだ。
 
 

 

 
 
 こつん、と放り出したペンが音を立てる。机の上で転がって止まったそれを眺めながら、リンディ・ハラオウンはぐいと両手を突き上げて伸びをした。『船』の中では立場上抑なければいけないような仕草も、人目も大きな窓もないここ――あまり使うことのない、本庁に割り当てられた執務室――ならば体面を気にする必要はない。
 砂糖をたっぷり入れた黒茶をカップの中でくるくると回しながら、今しがたサインを入れた報告書にもう一度目を通す。仕事上の必要性というよりは、実の息子――そう、実の息子にして部下であるクロノ・ハラオウンの仕事ぶりを改めて見返したくなったから、というのが本音だった。
 今回の事の発端は、ある次元世界にて『発掘』を行っていた集団、通称スクライア一族が海賊に襲撃され、発掘品を含むさまざまな物品を強奪されたことである。
 勿論、管理世界内で発見されたロストロギアは、基本的に誰が発見したかに関わらず時空管理局の管理下におかれる――手段は買い取りや強引な没収、場合により様々だが――こととなる。問題は管理外世界の場合だ。当たり前だが時空管理局、大抵は管理局と略して呼ばれるこの組織は無敵の戦闘組織でも無限の情報戦力を持つ諜報組織でもない。
 管理外区域から持ち込まれたものははっきりいって『その辺の次元領域や宙域で拾われた』ものと区別する手段がないと言っていい。事実上区別なく管理局の入手対象、特に買い取り対象となるのであれば、それは必ず需要があるという部分では安定した生活の糧を得る手段となり得るのだ。
 スクライア一族は管理局にその存在を知られる以前から『発掘』を行っていたこともあり、ことそのような集団は、管理世界外でひっそりと活動する限りはいちいち取り締まられることもなかった。非生物であるロストロギアの取引に限るなら、むしろ大口の顧客となってやることでその能力を活用すればいい、というのが現在のスタンスだ。

 

「ユーノ・スクライア君は……うん」

 

 息子よりも更に年下の彼は、驚いたことに協力させてくれと直接リンディに頼み込んできた。それが管理局をあまり頼りにしていないことの裏返しだとしても、発掘部族はある部分においては管理局所属の研究員以上にロストロギアに精通していると言える。さしたる見返りもなく協力が得られるのは、リンディにとっても悪い話ではなかった。
 読み進めるたびにその彼への不満が増えていく報告書に苦笑をもらしつつ、ページをめくる。海賊の拠点を確保したこと、これまでの海賊活動の結果であろう物品を多数押収したものの、いくつかの――スクライア一族の彼が探していたものも含めて――ロストロギアについては次元間航路で事故が起こって散逸してしまった、という尋問結果に憂鬱なため息を漏らした。色々な意味で頭が痛くなる――巡り合わせ、とでも言えばいいのだろうか?

 

「仕方ないけれど、事故ねえ。事故」

 

 この事態の焦点となる海賊については、これは明らかに非合法組織である。次元世界間の交易を妨害する要素はそれだけで管理局の存在意義――次元世界間の経済活動を含めた各種交流の円滑化――を脅かすに十分な存在なのだ。航路の安全という観点を度外視しても、個々の世界にとって検疫を通っていない物品――この場合、ロストロギアよりも農産物など『普通の物品』――の流入は生態系や環境への危険が大きい。水際作戦と同等以上に次元間航路の巡回警備は重要といえる。
 そんなわけで、いくつもの次元世界、その統治機構が共同出資して作り上げた管理局という組織は伝統的に個々の世界に存在する水際担当の支局、つまり『陸』方面よりも独立艦隊の領分である『海』を重視する傾向がある。管理局組織の中枢たる本局自体どこかの次元の惑星に建設されているのではなく巨大な次元航行艦なのだから、その傾向はほとんど組織設立以来からの体質といっていい。
 それだけに現地組織と『海』との間に挟まれることになる『陸』側からの不満の声は少なくない。現地組織からはエリートゆえの高い能力を期待されつつも自分達の領分を侵す異物扱いを受ける一方、身内である『海』からは脇役と見下される。事実地に足のついた『陸』よりも次元間航路のほうが環境的にも勤務形態的にもハードなのだから、仕方ないといえば仕方ないのだが。

 

「でもまあ、今回は――」

 

 『陸』がほとんど仲介程度にしか干渉しなかったこともあって、息子は現地の治安維持組織とそれなりに協力することが出来たらしい。現地側から上がってきた報告書にも、友好的な評価が記されていた。特殊な例にすぎない、とは言っても息子が上手く仕事をこなしているのは喜ばしいことだ。協力相手が『陸』であれば、もう少し面倒だったのかも知れないが。
 とはいいつつも、単なる独立行動艦の艦長にすぎないリンディではそんな管理局全体の問題を憂うことはできても対処することはできない。管理局の組織方針そのものを決定する立場など、一艦長の更に遥か上の問題だ。
 とりあえず目前の問題は散逸したロストロギアの特定、可能ならば回収だろう。事故座標から考えれば管理外世界へ落ちた可能性も高い。ならば、探索拠点は担当艦――自分の船、アースラになる。ドック整備明けすぐに出航できるよう航行計画を立てさせなければいけないな、とリンディは手を伸ばし、インタフェースのキーを叩いて航行管理官の連絡番号を探し始めた。

 
 
 

 茜色に染まるビル街の中でも、一際高く屹立する一棟のビル。騒音源からの距離と立地に比して良好な景観を高さによって作り出し、安く狭い部屋で数を稼ぐのではなく部屋の質と金額を高めることによって中・上級クラスの客を相手に収益を狙う、いわゆる都市型高級マンションだ。

 

「んっふっふーっ」

 

 ちょうど他のビルの屋上近くの高さにある一室。壁かけ時計が時間を刻むコンクリート打ちっぱなしの壁に、うきうきとした声と擦れあう軽い金属音が反響していた。
 高い天井と仕切り壁の少ない、床と手すりで階層を作り出す間取り。南側の壁面を占める巨大な窓ガラスの向こうには、茜色と影の二色に染め分けられたビルと空。どこか生活感の薄い、小洒落たモデルルームのような雰囲気の内装に合わせた真っ黒なソファに座り、赤い髪から尖った三角形の耳を、腰からふさふさとした尻尾をはみ出させている女性――アルフが、缶から直接スプーンで中身を掻き込んでいた。
 目の前のガラステーブルには種々雑多なドッグフードの紙ケースや缶、パウチが積み上げられている。スナックのようなドライタイプからしっとり湿った半生タイプ。素材は牛、豚、はたまた鳥や、野菜のみ。更に成犬用、老犬用、子犬用まで。まさしく手当たり次第にかき集めてきたといった様子だ。
 一つの缶が空になるまでわずか数秒。そんな乱暴とも言える食べ方に反して、食べ終わった缶を置く動作は誰かに気を使っているかのように静かだった。

 

「こっちの世界の食事も」

 

 ぱきん、と新たな缶を開ける。プルタブ式なので簡単なものだ。

 

「なかなか悪くな、んがっ――いよねぇ」

 

 喋りながらスプーンで缶の中身に切れ目を入れ、缶を捻って中身を一気に口に放り込む。今度はちまちまとスプーンで掻き込むのではなく、完全に一口で。
 そのまましばらくもごもごと口を動かし、盛大に喉を鳴らして飲み込んだアルフはさてと、と紙箱のひとつを手に立ち上がった。見上げた先は上階にあたる部分。同じ部屋に階段と床を増やしたような構造なので、デッキとかステップフロアと言ったほうが正しいだろうか。
 がらんとした棚に、一つだけ写真立てが置かれているのが下階から見えていた。

 

「うちのお姫様は……と」

 

 気分のままに軽快に揺れていた尻尾は、アルフが階段を一歩ずつ登り、上階の様子が見えてくるのに従ってその角度を下げていく。
 下と同じく、上階にある家具もそう多くはない。小柄な人影が横たわるベッドに、サイドテーブルを兼ねた引き出し、それに姿見と棚机が一つ。そしてそれらの家具を彩るものは更に少なかった。下から見える位置にある棚は言うに及ばず、机の上にも2冊ほどの重厚な本が置かれているだけだ。それ以外には何もない。本当に、何もない。
 サイドテーブルに置いておいた食事が少しも減っておらず、パンをかじった様子すらないのを見ると、アルフはため息をついてベッドの端に腰掛けた。ごろ、と横向きからうつ伏せ気味に転がった小さな頭を撫でながら口を開く。
 まともな食事をとらないような生活を続けていれば、結果がどうなるかは明白だ。安静にしているならまだしも、連日のように動き回り続けているこの生活では身体を休める時間すら十分とはいえない。

 

「まぁた食べてない。駄目だよ、食べなきゃ」

 

 小柄な主は髪を解くこともせずベッドに横たわり、軽装のバリアジャケット姿のままでこちらに背中を向けている。寝転がるというより身体を投げ出しているように見える寝姿はリラックスしているのか、それともその背中に滲む赤い――

 

「……少しだけど、食べたよ。大丈夫」

 

 そう言って、アルフの主――フェイトが身体を起こした。起き上がっていく頭の動きに従い手の間をすり抜けていく髪を見送りながら、アルフは声にならない返事を漏らす。
 少しの間フェイトの頭はふらふらと揺れていたが、数秒もしないうちにしっかりと位置を定めて振りかえった。いつものように透き通った冷静な瞳がアルフの方へ向けられる。

 

「そろそろ行こう。次のジュエルシードのおおまかな位置特定は済んでるし、管理局が動いてるのなら尚更急がないと」
「ん、あ――そりゃ、まあ。フェイトはあたしのご主人様で、あたしはフェイトの使い魔だから行くっていわれりゃ行くけどさぁ?」

 

 だがしかし、と無言のうちに反語をつなげるアルフの態度をどう解釈したのか、フェイトはくすりと笑って目じりを緩めた。

 

「それ、食べてからでいいから」
「へ?……あ」

 

 唐突な台詞に目を丸くしたアルフはフェイトの視線を辿った。ぐるりと首を回したその先には――アルフが手にしている紙箱。写実的に描かれた犬のキャラクターが舌を出している。キャッチフレーズは『トップブリーダーが推奨!』だ。やたらとツヤツヤした毛並みの表現が目に付いた。

 

「いや、ぁ――っ、そうじゃなくて! 広域探索魔法はたださえ負担がかかるのに、こないだだってあんな訳のわかんないのまで出てきたし――」

 

 一瞬それを手放す事を躊躇した自分をごまかすようにアルフは頬を染め、これでもかとばかりに紙箱を押しやってフェイトに向き直った。

 

「フェイトってばろくに食べないし休まないし! それにその傷だって、軽くはないんだよ?」
「――平気だよ。私、強いから」

 

 困ったような、それでいてすまなそうな。フェイトが浮かべる笑顔は、アルフが行動に難色を示す理由をきちんと理解している証拠だ。今のやり取りに限らずとも、もう何度もフェイトには自身の身体を気遣うように言ってきたのだから。
 それでもそのたびに話をそらし、茶化すようなことを言ってごまかすのは、きっとフェイトは『それ』を譲る気が最初からないのだ。譲れないが、アルフの言っていることを跳ねつけるほど押しの強い性格ではない。だから『それ』もアルフの意見もどちらも否定せずに、ごまかすような態度になるのだろう。
 すい、と真っ直ぐ突き出された手首に魔力の粒子が集まり、光の帯が集束して黒い手袋と金属質の三角プレートを形作る。同じようにして黒い表地と赤い裏地を持ったマントを作り出すと、フェイトはばさりとそれを広げて身に着けた。

 

「フェイト……」

 

 呼びかけに直接答えず、フェイトは軽く振り向いた。アルフを見ているようで微妙に焦点のズレているその視線の先にあるものを、アルフはよく知っている。知っているからこそ、フェイトを止めたくて仕方なくなる。
 うつむき加減のアルフを他所に、フェイトは今までと変わらず平板な声で『やるべきこと』を口にした。

 

「行こう。母さんが待ってるんだ」

 

 フェイトの視線の先にあるのは棚に置いてある小さな写真立て――濃灰の髪を持った女性と、金色の髪を二つに結い上げた小さな女の子が揃って微笑む、幸せそうな写真の入った写真立てだった。

 
 
 
 

「それじゃ、高町さん。おやすみなさい」
「はぁい、おやすみなさいっ」

 消灯を告げに来た看護婦を意識して明るい声で見送った後、なのはは暗くなった部屋の中で細い息を吐いて笑顔を『止めた』。ベッドに寝たままでドアに向けていた顔を仰向けに直すと、視界に入るのは夜の薄い明かりに照らされる天井だけになる。それだけで随分と休まる自分がいて、そしてそんな自分が嫌になる。自分を省みることができるようになってからの数日は、ずっとその繰り返しだ。
 誰かが近くにいる、それだけで何故か身体が緊張してしまう。それでも、先週あたりまでの目の前に誰かがいるだけで何も解らなくなるほどのパニック状態に陥っていた時から比べれば大分改善した。少なくとも、そういって家族や医者は喜んでいた。実際なのはとしても、自分の状態が良くなることは嬉しくないわけではない。
 だが、根本的なところはまったく変わっていないことがわかるだけに喜べないのだ。それでいい、と言われてもいいわけがない、としか思えない。治らなくてはいけないのに、治らない。治れない。
 怖い。理由はわからないが、『他の誰か』が怖い。
 向けられる視線が怖い。
 自分というものを意識されるのが怖い。
 近づいてくる体温が怖い。
 語りかけられるのが怖い。
 ――何もかもが、怖い。

「…………っ」

 

 重い痛みを訴え始めた目の奥を抑えるように、そして薄暗い部屋から更に隠れるように、右掌を当てて両目を塞ぐ。
 他人が怖いくせに、こういうときは酷く心細い。自分がどうなっているか、何をすればいいのかがわからないのだ。自分の一部が剥がれ落ちて勝手に動き回っているが如く、単純な意識すら思うままにできない。
 まるでメリーゴーラウンドか何かに乗せられているかのように、ぐるぐるぐるぐると回る思考。乗せられている自分が何を考えていようがお構いなしに同じタイミングで顔を出し、目の前に近づき、そして背後へ去っていく感情。どちらも自分のもののはずなのに、少しも自分の思うとおりにならない。放っておけば勝手に恐怖は膨れ上がり、今ここで泣き叫んでしまいたくなる。

 

――大丈夫。今はそれでいいのよ。焦らないで、少しずつでいいんだから。

 

 母親――桃子の微笑みを思い出す。いつもより更に優しい感じがする笑顔にも、はっきりとした疲労の色が見えていた。
 何故? 喫茶店の営業に加えて、折を見て病院に来ているから。
 何故? 自分が入院しているから。
 何故? 子供が入院していて、親が心配しないわけがないから。
 何故? 『アレ』に触れたから。
 何故? ……自分が、シンの言葉を聞かなかったから。
 そう、自分のせいだ。自分のせいで家族に負担がかかり、シンは――シンは、いなくなってしまった。
 その話題になると桃子や医者はごまかそうとするが、なのははシンが消えたことを正しく理解していた。雰囲気を察せないほど頭は悪くないし、何よりシンとなのはは、ただの動物と飼い主ではない――なかったのだから。

 

「――――」

 

 目を塞いでいた右手を上げ、日に透かすように掌を天井に向けて広げる。
 何も見えないその周囲――空気そのものに混じり漂う『存在』を、今のなのはははっきりと知覚出来た。

 

「――構築。制御範囲確立、対象確保。始動」

 

 呟きながら一つ一つの手順を記憶から手繰り寄せ、丁寧に編み上げた回路が『存在』を内に満たして目を覚ます。暗いままの天井を背景にして、さほどの時間もおかずに桜色の光がなのはの指先に集まり始めた。辺りの空気から引き寄せられるように集まってきた光は、なのはの指先の周囲を蛍の群れのように踊り続ける。
 なのはが構築した回路を通り、なのはの意志によって存在を確定された力――『魔力』。
 シンがなのはに見せ、そしてなのはにもたらした『力』。見えず聞こえず、そのままでは存在すらあやふやな『力』。この世界の、ほとんどの人間が気づくことも使うことも一生できないであろう『力』。
 そんな魔力を自分のものにできたと思っていた。魔力を操り、不可思議な現象を引き起こす術を見につけた、そう思ってしまっていた。実際はシン――レイジングハートの補助があってこそ満足に扱えていただけだというのに。シンがいなければ、今こうして指先に意味もなく集めることすら結構な集中が必要だというのに。
 そのシンが消えてしまった今、この程度の『力』では何をすることもできはしない。
 ため息をついて、目の前の指先を意識から外す。途端動きに統制がなくなり、好き勝手に飛び散っていく光を眺めているうちに、何故かその光を見ているのが嫌になった。大きく広げた両掌で顔を覆う。
 失ったものにまだ気を引きずられているのがあまりにもあからさまで、気がつけば黒い毛並みの感触を思い出している自分が惨めで。そんなものを思い出している暇があるなら、治療に専念しなければならないというのに。
 『いい子』でいなければならないのに『いい子』になれていないなのはは、薄闇の中で小さく呟いた。

 

「……弱いなあ、私」

 
 
 
 

 ごり、とその首が致命的な軋みを見せた次の瞬間、白く尖った牛のような角を持つヒトガタの頭部は勢いよく『引き抜かれた』。人間なら脊髄に当たるフレームから大量の液体を振りまきながら投げ捨てられた頭は、くるくると回りながら闇の向こうへ消えていく。
 頭部を失って無様にひしゃげた身体は、ついでとばかりに叩きつけられた巨大な刀で上下半身に分かたれて崩れ落ちた。
 もう何度目かもわからないほど繰り返される戦い――というよりも、一方的な屠殺。まるで翼を持ったヒトガタに殺されることを最初から承知しているかのような勢いで、無数の存在が闇から滲み出すように現れては砕かれていく。
 先程と同じ、牛のような角を持つ大柄なヒトガタが闇の中から飛び出して来る。刀を振り切った体勢だった翼を持つヒトガタは、刀から離した左手一本でそれを真正面から迎え撃った。
 激突した瞬間、火花と共に周囲の闇がぶわりと波打つ。衝撃であたりの死体が崩れるほどの突進を受けて、翼を持つヒトガタの足が闇を削ってめり込んだ。踏ん張ったその力を足場が受け止めきれず、崩れることを繰り返しながらヒトガタの足はスライドして行き――数メートルもいかずに停止する。
 激突時の勢いを完全に失い、二つの巨大なヒトガタは拮抗状態に陥った。数秒の押し合いを経て、まだ愚直に押し込もうとし続ける白い角のヒトガタが空滑りにも構わず更に足をんばった瞬間。まっすぐにその力を受け止めていた翼を持つヒトガタの身体がぐん、と沈む。
 反動をつけて高々と上げられた左腕に身体全体を吊り上げられ、自らの勢いも相まって完全に『浮かぶ』白い巨体。引いた左足を軸に、翼を持つヒトガタは獣のように滑らかな動きでその真下へ潜り込んだ。赤い光を引きずり、ヒトガタが片手で持つ刀身が地を舐めるようないびつな弧を描く。
 再びの衝撃。今度は真上へ。左肘での打ち上げが先程の突進に倍する衝撃波を発しながら白いヒトガタの胴体、その中心に叩き込まれた。
 更に浮き上がる巨体と踏み砕かれ舞い上がった細かな破片の間で上体を直角近くまで傾け、翼を持つヒトガタが大きく右腕側に身を捻る。常とは逆、右手を柄尻側に置いた握り方は自然に身体の捻りを生み出し、それによって稼ぎ出された『加速距離』を刀身は存分に滑走していった。
 半回転のうちに水平から斜め、そして垂直へと滑らかに移った赤い軌跡が白いヒトガタに食い込み、一瞬で通過する。そのまま半円を描いた切っ先が地面へと迫り――ぴたり、と寸前で停止した。引きずられてきた闇色の風だけが地面を叩き、細かな残骸の破片を巻き上げる。

 

 刀身を地に這わせるように低くしゃがみこんだ翼を持つヒトガタの頭上で、ようやく空中にいることを思い出したように元は一つのヒトガタだった二つの残骸が落下を始めた。
 崩れていく中身と吹き出す液体を被りながら、翼を持つヒトガタが伏せていた顔を上げた。
 余裕のある動作で立ち上がり、そして何度も何度も繰り返した同じ動作で刀の切っ先を再び身体の前に持ち上げる。
 再び蠢きだす闇の奥を見据えて、硬質な目が赤い光を放った。
 刀身から零れる赤い光が闇の中に軌跡を残し、それを振るう赤い翼を持つヒトガタはそれまでとまったく同じ事を繰り返す。背後に一切踏み込ませず、そして自分からは前には進まない。『その場所』に立ち塞がり、闇から現れるもの全てを光に届く前に屠り続ける。一切の例外も躊躇もなく、一連の戦闘は速やかかつ徹底的だ。
 相変わらず音はない。光もない。ただただ赤い軌跡が踊り、その軌跡が刻まれるたびに破壊と死が振りまかれて行く。それらの大半は光の中に照らされることなく消滅し、ごくわずかに光の中に入り込んだ破片も、光に焼かれたかのように溶け消えていった。だが光の中へと入り込んだ欠片は、爪先程の光を道連れに削り取っていく。ほんのわずかずつ、確実に。
 斬撃を終えた姿勢のままで左右に顔を巡らせた翼を持つヒトガタは、ゆっくりと身を起こして刀を担ぎなおした。数歩ばかりの距離を歩き戻ると、手近な場所に刀を突き立てて腰を下ろす。まるで既定の動作を終えた機械が静かにその動きを止めるように、それきり動かなくなった。無音の空間に、文字通りの静寂がおずおずと戻ってくる。どこからか吹く風以外に動きはない。ヒトガタの周囲にも、闇の中にも。ヒトガタの大きく開いた翼の後――光を放つ花畑の中で眠る少女にも。