運命のカケラ_25話

Last-modified: 2009-06-07 (日) 23:33:23

 斬撃を終えた姿勢のままで左右に顔を巡らせた翼を持つヒトガタは、ゆっくりと身を起こして刀を担ぎなおした。数歩ばかりの距離を歩き戻ると、手近な場所に刀を突き立てて腰を下ろす。まるで既定の動作を終えた機械が静かにその動きを止めるように、それきり動かなくなった。無音の空間に、文字通りの静寂がおずおずと戻ってくる。どこからか吹く風以外に動きはない。ヒトガタの周囲にも、闇の中にも。ヒトガタの大きく開いた翼の後――光を放つ花畑の中で眠る少女にも。
 
 

 

 
 
 その瞬間に残っていたのは、焚き火の燃え残りの中でくすぶる火のような最後の意志――いや、無様な執着だった。
 家族とともに流れ流れた末、ようやく得たと思った住処を戦火に追われて失った。 
 その家族も空から落ちてきた光に焼かれ、一人残らず失った。
 身一つで流れ着いた先で自分は戦いの道を選び、戦いの中でたくさんの友を失った。
 戦いの中で出会い、守りたいと思った金色の少女を失った。
 苦楽を共にし、住処と言っても良かった艦を失った。
 人知れず苦しみを抱え、自分に未来を託してくれた友を失った。
 世界に選ばれた存在の前に膝を屈し、矜持を失った。
 人生の3分の1を共に過ごした、前の艦が沈む前からの友を失った。
 ずっと共にいてくれた、赤い髪の少女――いつの間にか自分の中で大きくなっていた、一つの戦う理由を失った。

 

 ――最後に、命を失った。

 

 死んだままどことも知れない時の果て、空間の果てに流されて。
 それで終わっていれば色々な意味で静かだったものを、無理矢理引き戻された。意識らしきものが組み直された時には成果を押し付けられた上に代価も払わされ済みだったのだから、たちの悪い押し売りも良いところだ。
 払わされた代価は、『唯一の本物』。
 押し付けられた成果は――『無限の本物モドキ』。

 
 

 壁面を駆け上がるビル風に、ひっきりなしに叩かれるビルの壁面。そこに大きな染みのように貼りついた平たい影から、シャボン玉のような魔力球――プローブが無数に宙へ放たれる。拡張された感覚から流れ込む情報量は1秒ごとに増えていくが、その程度の情報処理負荷でどうにかなるほどやわな構造ではない。処理領域内に描かれた地図がどんどん漂う魔力素の密度別に塗り分けられていくのを、『彼』の意識はじっと眺めていた。
 あるものは地表を滑るように、あるものは遥か高空へ、またあるものは風の流れに任せて。ほとんど無色透明の、ごくごく薄い『目』はバラバラな位置からバラバラなデータをもたらし、『彼』に刻々と最新の情報をもたらしていた。
 地図に引かれ、更新され続けるのは等高線のような魔力密度分布図。それに加えて圧力や音響、魔力素に電磁波。様々なデータを織り上げ縦横に広げ、過去の事例とあわせて戦略的な、そして戦術的な判断を下す。『彼』にとっては気の遠くなる回数繰り返してきた、今までと同じ作業だ。
 無関係な人間。不確定要素になり、影響も大きい。制限の許す限り排除が望ましい。
 所定の方向性にのっとり、プラン策定用の演算スレッドを確保。
 切替。
 ちり、と膨らんだ円状の薄い魔力の膜――レンズが光を屈折させ、縁に縞を作る。風に紛れて飛べるほど小さく薄いその『目』が見下ろしているのは、海鳴市の中でも最も人口と建物密度の高いエリアの一つだった。
 街角を行く人々はどれも足早で、その割に前を向かずに下や手元、隣を向いて歩いている人間は意外なほど多い。そして、そうやって歩く人間は互いに、もしくは障害物にぶつかりそうになってからようやく目の前にある物の存在に気づく。非効率的な話だ。
 プローブの配置演算および制御を継続。個々の重心、残存魔力量、風による軌道への影響。全ての情報は遅延なく『彼』に到達し、またほぼ遅延なしに制御命令が返されていく。
 ボディの移動、基準点は定点プローブ、目的位置への移動経路探索――完了。
 解析作業を進めつつ、更に様々な演算を平行して片付けていく。人間には不可能なレベルでの精度を維持した超並列処理こそが機械の利点だ。
 切替。
 高空からの視界は雲も無く、良好。黒々とした影がどんどん大地に伸びていき、入れ替わりに浮き上がるのはびっしりと灯る街の光や、そこかしこのビルから上空――つまりこちらに向かって放射される看板のライトアップ。海の色も1秒ごとに黒へと近くなり、海岸線はむしろ明かりの輪郭線として浮かび上がってくる。弓形や尖った形の境界を挟んだ外側、海ではまばらながら船の灯火がゆっくりと移動していた。

 

 記録にある敵性存在について検討を開始。
 戦略的見地から価値を試算、目的物の探索手段としての価値を認める。作戦目的達成に対するリスクは中程度。直接的な障害である場合のみ排除を選択、それ以外は追跡のみを行うこととする。
 目的物の特性。魔力残量も十分、特殊な手段を用いずとも単純な性能差で制圧は可能。周囲の要素を排除する前提であるため、特にプランの必要性はなし。
 空間振動の兆候はなし。温度分布および光学観測より、目的物の存在可能性のある座標をピックアップ。魔力分布の分析、および魔力素密度を計測――候補座標を61箇所まで限定。該当位置の近接観測および高空からの広域観測を継続。
 切替。
 特別監視地点に設定した家屋・病院・店舗ともども、動きはなし。当該部分の監視情報解析処理をカット。行動プランへの不一致、監視の終了を提案――非常時の強制割込み手段確保を理由として却下。第二案を採用、積極監視を終了してプローブ信号を受動処理スレッドに移行。
 優先度高の信号割込みを検知。優先度の低い処理を一時停止、該当プローブからのデータ受信を開始。
 魔力の振動を検知。目的物のパターンとは別種、解析開始。円周状のものと仮定し、周辺プローブの検知タイミング差から発信位置を推測――完了。当該エリアへプローブを一機割当。
 体内に保管した、先立って捕獲に成功した目的物と同種の物体を解析。高密度魔力結晶体、安定化済み。干渉パターンは解析済み、非常時のエネルギー源として活用可能――優先情報の登録完了を確認。当該スレッドの処理比率を低下させ、共振パターンの解析へ移行。
 全ては無音のうちに、そして誰も知らないままに進められていく。主を持たない今でも行動プランさえあるのなら、戦うために作られたその知性はいささかもその判断に迷いを生じさせることは無かった。
 そもそも、『彼』にそんな機能はなかった。迷うのは、『彼』の役目ではないからだ。

 
 

 そう高くない厨房の天井に、水の流れる音と陶器のぶつかり合う小さく、硬い物音が響く。様々な調理器具がびっしりと押し込まれた高い棚で仕切られた、翠屋の厨房の端。大型のシンクに二つの人影が並んで大量の食器――今は丁度、学校帰りの学生や定時に上がることのできた会社勤めの女性達でにぎわう時間だ――を洗っていた。

 

「ねえ、恭也」

 

 視線は手元に落としたまま、長い紫色の髪を持つ女性、忍が口を開く。ぎゅ、と強めに押し付けられたスポンジが皿と擦れあって音を立てた。

 

「ん?」

 

 忍と揃いの翠屋のエプロンをつけて、同じように洗い物をしていた恭也が疑問符を浮かべながら目線を忍へ向けた。その手尽きは流石に忍より慣れており、さらりとスポンジで撫でているだけのように見えて素早くかつ的確に皿の汚れをふき取っている。
 大きなシンクの中央、二人の中間に築かれている泡のついた皿でできた塔に、かちりと静かな音を立ててまた一枚皿が重ねられた。
 忍は傾けた視線でそれを見ながら、次の皿を手に取った。蛇口から落ちるぬるま湯で軽く汚れを流し、スポンジを擦りつける。汚れが残らないよう、段に沿って丁寧に。
 ぬるま湯とは言え空気よりは暖かく、熱伝導の法則に従って温められた水蒸気混じりの空気はそよ風未満の微風となって忍の頬をくすぐる。なんとなくかゆみにも似た感触だが、今の手でそんなことをすれば悲惨な事になるのは明白だ。

 

「なのはちゃんて……今、どう? すずかも会いに行ってるのは知ってるんだけど」

 

 忍がこうして手伝いをしているのも、なのはの入院を知った為だ。士郎と桃子は悪いからと遠慮していたが、忍は自分がやりたいから、と理由をつけて押し切った。元々知らぬ仲ではない事もあり、結局は忍の希望が通ってこうなったわけだ。

 

「ああ。まあ……落ち着いて、きてるよ」

 

 一瞬言葉を選ぶように母音を伸ばした恭也が口にした答えは、なんとも当たり障りの無いものだ。それは入院から1週間以上経つのだから、落ち着いてくるのは当然だろう。一瞬上げた目線で恭也が困った顔をしているのを認め、忍は小さく落胆の息を吐いた。

 

「やっぱり、言えない?」
「あ、ああいや。忍には言えないとか、そういうことじゃない」

 

 ただな、とやはり困った顔のまま、恭也は言葉と視線を左右にふらつかせる。そんなやりとりのうち、いつの間にか二人の作業の手は止まってしまっていた。
 蛇口からの湯がシンクを叩く音を背景に、忍は恭也が言葉を選ぶのをじっと待つ。恭也の表情がごまかしでなく、真剣にどういうべきか悩んでいるのがわかったからだ。

 

「言わないんだ、あいつが。シンもいなくなったし、何かあったのは確かなんだが――」

 

 シン。ペットの子犬のことだ。忍は一度見たきりでよく知らないが、すずかが心配そうにその話をしていた。なのはが事故に巻き込まれたときに行方知れずになってしまった、と。それに関して、もしくはそれだけではなく。『何か』があったのだろう、と恭也は迷い無く言った。

 

「――何か、隠してる。でも……あいつは昔から一人で悩んでると、何も言わないんだ。困ったもんだよ」

 

 けど、と恭也は苦笑いに新たな苦さを加えて息をついた。前髪を弄るいつもの癖が出たのか腕が上がり――途中で止まる。ごまかし笑いが表情に重ね塗りされた。

 

「俺も、父さんもだから……血、なのかもな」
「……そっか」

 

 そんな血筋ならば、恭也の母親――桃子はどれだけ苦労してきたのだろう。それとも穏やかな顔の裏に、相当な押しの強さでも隠れているのだろうか。どちらにせよ、そういう性質の人間が何人も集まっているなら。
 口を開きながら、忍は手を再び動かし始める。シンクの中を探る手に触れる皿の感触は、大分まばらになってきていた。

 

「大変だね」
「ああ、でも……大丈夫さ。あいつは自分の答えを見つける」

 

 それが希望で目を曇らせた誤認なのか、それとも事実に基づいた確信なのか。恭也ほどなのはを知っているとは言えない忍には、恭也の確信をもった声の理由が何なのか判断がつかなかった。
 その理由は、積み重ねだ。言葉も、行動も、思い出も。忍にとってのなのはは、そして恐らくなのはにとっての忍も、確信を持つに足りるほどの積み重ねが無い。けれど、その積み重ねが『足りる』日は永遠にこない。それだけの話だ。
 だから、忍はさきほどと同じ一言を繰り返した。

 

「そっか」

 

 そうだといいね、とは言わなかった。言ってしまえば恭也の言葉を否定することになってしまう気がしたから。
 かちり、と。一枚分ずつ、皿の塔は高さを増していく。薄い陶器の積み重なりの癖にすぐに目に見える高さになっていく塔が、今の忍にはうらやましかった。

 
 

「この辺り、だね」

 

 ビル風にマントをなびかせ、フェイトが細めた視線を下に向ける。いつものように寄り添っていた狼状態のアルフが、ふんふんと鼻を鳴らして眉を寄せた。

 

「ねえ、フェイト。なんかこう……妙じゃないかい?」
「妙?」

 

 フェイトは特に違和感を感じない。それでもアルフの言葉を疑わないのは、人格に対してだけでなくアルフの能力にも信頼を置いているからだ。自分が気づかない時に、アルフは気づく。逆も然り。むしろ、フェイトにとってはアルフを信じることは当たり前と言えた。

 

「どんな感じ?」

 

 んー、とアルフは首をかしげる。戦闘的な外見で無邪気な仕草をする様は、見方によっては可愛らしい。
 こう、とぐるりと前足の先を周囲に向けてまわして見せる。アルフが示した方向全てに無数に灯る街の光は色とりどりで、フェイトにはそれが単に無秩序というよりは、あらゆるモノが混じっているようにも見えていた。

 

「クモの巣がかかってるみたいな、さ。ほっそーい何かがもやっとしてて、やぁな感じ」

 

 はっきりはしないが、何か危険があるということか。ジュエルシードは発動していないはずだが、暴走して実体を持った上で隠れている可能性も否定はできない。あるいは、あの白い少女と黒い獣がここに来ているか。
 こちらに向けて魔法を放つときでさえ迷っていた少女の瞳を思い出すと、何故かフェイトは気分が重くなった。やりたくない、と言うか、やってはいけない、というか。一番近いのは罪悪感だろうか。『人間』を相手にした故の困惑なのかそれとも白い少女にはそれだけではない何かがあるのか――

 

「――わかった。気をつける」

 

 考えに没入しかけていた自分に気づき、フェイトは一度目を閉じて思考を整えた。身体の中心から末端、そしてバルディッシュへ流れる魔力を意識しなおし、『目的を持つ魔導師としての自分』を作り直す。
 ジュエルシードの位置ははっきりとはわからなかった。だが、未だ発動していない為に位置が探しづらいなら発動させてしまえばいい。元から不安定な分、全方位を叩ける程度の強さでも反応するだろう。消耗はきついが無茶な方法ではない。

 

「ちょっと荒っぽいけど、無理矢理起こして……!」
「フェイト、真下!」

 

 何が、とは聞かなかった。声に出して確認するまでもなく、膨大な魔力と共に世界が裏返っていく感触が迫ってくる。ぶわりとビルを駆け上がって来てフェイトの肌を撫で髪をなびかせていった、そのどこか異質で気味の悪い魔力の感触には覚えがあった。
 白い少女の使い魔の魔力。黒い身体と赤い瞳を持った、得体の知れない獣が操る魔力の感触だ。
 使い魔が来たということは、あの白い少女も来ているのだろうか。いや、来ているにせよ来ていないにせよ関係はない。どちらにしたところで、自分がやることは同じなのだから。
 一瞬露になったジュエルシードの魔力が結界に飲み込まれたのを確認すると、フェイトは右手に持ったバルディッシュを突き出した。がしゃり、と黒い戦斧の先端が鎌首をもたげてビルの間、平穏に戻ったように『見える』路地に狙いをつけた。

 

「中に入ろう。バルディッシュ、干渉を」
「待った。アタシがやるよ」
「……そう? 大丈夫?」

 

 何いってんだい、と言葉をつなげながらアルフは光に包まれると、人間の姿となってビルから飛び降りる。後を追って空中を滑り降りていくフェイトの見守る先、ビルの間でばちりと魔力が干渉を始めた。

 

「アタシはフェイトの使い魔なんだよ。これくらい」

 

 アルフの足元に展開された魔法陣が輝きと回転速度を高め、干渉光がその密度を増す。結界を破る方法としてアルフがよく使うのは魔力による力任せと解析による侵食、今はそのうちの解析だけを行っているらしい。力任せと比べれば、確かに魔力消耗の点ではずっと効率がいい手段だ。
 アルフの性格からすれば手っ取り早く力任せに破るものと思ったのだが――

 

――ああ、そっか。

 

 要は気を使っているのだろう。使い魔の魔力は、主から供給される。使えば使っただけ、だ。だからアルフは効率のいい、言い換えればフェイトから大量の魔力を受け取らずに済む方法を選んだのだ。
 干渉光が収まり、空間に空いた虫食い状の穴を前にして、アルフはふんと得意げに鼻を鳴らした。

 

「ふっふーん。朝飯前さ」
「……いっぱい食べた後だけどね、今日は」

 

 がくりと姿勢を崩したアルフに、くすりと笑ってフェイトは高度を下げる。結界の穴をくぐり内部の様子を視界に納めた途端、その表情が引き締まった。
 一拍遅れて入ってきたアルフも同じものを認め、驚愕の声を上げる。

 

「ありゃ何、っていや、あの時のアレかい!?」

 

 アルフの愉快な文法にも反応を示さず、フェイトは観察する。何が起きているのか、何がその状況を起こしているのか。一点を黒に満たされた無彩色のビル街は、まるで描く途中で塗りつぶされた絵画のようだ。
 いや、今まさに塗りつぶされている最中というべきだろう。不気味な響きを立てながら無彩色の地面――道路の上にあふれ出してビルの間を満たし、数十メートルはある渦を巻く黒い液体。液体かどうかも判然としない何か。
 その花をグロテスクにしたような立体的な渦の中心、見たことの無い魔法式と触手状に伸びたモノに取りこまれている青白い光を確認して、フェイトは目を見開いた。

 

「ジュエルシードが……! アルフ、援護お願い!」

 

 見て取った状況に対する行動を一瞬ではじき出し、アルフに一方的に宣言してフェイトは降下を始める。重力も味方にして加速する身体と速度に比例して間延びしていく視界。結界の外と違って何の光も灯していないビルが、まるで巨大な墓石のようなのっぺりした面に見えてくる。
 アルフでは間に合わない。だが自分なら間に合う。間に合わせられる。
 速度をほとんど落とさず、フェイトは頭から黒いモノへと突進した。船が海に沈むように、物体が流砂に沈むように、少しずつジュエルシードは黒いモノの中へと取り込まれていく。

 

――させない。

 

「フォトンランサー」

 

 ごぼり、と嫌な音がして、黒い『水面』から一斉に触手が立ち上がる。まず前方、左右、そして後方。フェイトを押し包むように覆いかぶさってくる圧倒的な密度を前にしても、フェイトは速度を緩めることなくコマンドを告げた。
 ねじ込むようにバルディッシュを突き出し、高めた魔力と意思を流し込む。フェイトのために一から作り上げられたデバイスであるバルディッシュは、先天的資質によって電気を帯びているフェイトの魔力を極めて効率的に式として組み上げ魔法へと変換していった。
 3秒とかからずフェイトの周囲に球状の射出待機体――スフィアを生成し、バルディッシュは低い声で準備の完了を告げる。声とほぼ同時にスフィアの制御がフェイトに『繋がる』感触。

 

[Photon Lancer]
「――シュート!」

 

 意識で蹴り飛ばすようにスフィアに発射を命じると、フェイトの周囲を守るように併走するスフィアが猛然と細長い大釘状のエネルギーを吐き出した。
 誘導はしないが速度には非常に優れたエネルギー弾は、フェイトの思考と目線に従ってうごめく触手に激突し、弾き飛ばし、穴を開けて叩き散らす。
 フォトンランサーの乱射で強引に隙間を開き、フェイトは黒いモノの中で光を放つジュエルシードへ突進した。翻るマントの先端へ黒いモノの先端がかすり、火花が散る。下から盛り上がってくるモノを避けて上昇、すぐに降下、眼前を塞ごうとする触手はハーケンフォームで切り払う。足を狙って伸びてきた黒いモノを際どいところで避け、そしてジュエルシードに手を伸ばした。

 

「フェイト! 後ろ!」
「っ!?」

 

 アルフの声に背後を見やる。振り向いた視界一杯に立ち上がっているのは、黒い粘液の壁だった。回避を、という判断とジュエルシードが手の届く距離にあるという判断の二つがぶつかり、フェイトの動きが一瞬止まる。
 そして、その一瞬は致命的だった。

 

「あ――」

 

 何の行動もできないままフェイトは津波のような流れに飲み込まれる。黒い液体がフェイトの目を塞ぎ、轟音が耳を塞ぎ、最後に口から潜り込んだ何かが意識を刈り取った。

 
 

「――え?」

 

 一瞬の意識の空白から覚めたフェイトは、その唐突さ――位置も、状況も、視界も自分の状態も、なにもかも――に目を見開いて声を上げた。
 赤い。すべてが赤い。物音もなく、何も見えない赤い空間――赤い闇の中で、自分の姿と声だけが浮かび上がっている。

 

「アルフ……? バルディッシュ、現ざ――」

 

 そこまでいいかけて、フェイトは自分が手に何も持っていないことにようやく気づいた。
 呆然としながらも幻術の可能性に思い当たり、手を何度か開いて握る。何を掴む感触があるでなく、完全に感覚も見た目も一致している。少なくとも視界をごまかされているわけではない。視覚だけならともかく自分自身への意識や身体感覚――指はきちんと最後まで握りこまれている――の状態までごまかすことができる幻術など、フェイトは見たことも聞いたこともない。
 空間に遍在する魔力素に意識でもってプログラムを走らせ、結果として現象を引き出す『魔法』は、原理上他人の意識に直接干渉することは出来ないのだ。上位のエネルギーである意識に対して、下位のエネルギーである魔法の動力としての魔力は影響を及ぼすことができない。
 冷たい水に何の加工も及ぼさず熱を取り出し、取り出した熱を沸騰している湯に移してやることはできないという、熱力学の法則と同じである。
 だが。

 

「これは……でも」

 

 この状況で何の干渉も受けていないなどとは、到底信じられない。ならば何が、と考えたところでふと以前読んだ本、魔法技術書の一節を思い出した。

 

――……とは言っても、我々にはそれは不可能なことではあるのだが。だが別の方法として、精神そのものかそうでなくとも感覚全てを『繋げる』ことができれば、あるいは意識同士の干渉や感情の共有を引き起こすことが可能であると私は考える。しかし干渉するには精神をその状態へと置く必要が――

 

「……っ!?」

 

 『それを意識した瞬間』、フェイトの全身、それこそ指先まで全てが残らず硬直した。まるでパンパンに空気を入れられたタイヤが柔軟性を失って固さを示すかのように、身体の中心から外に向かって膨れ上がる圧力がそれこそ指先まで充満してくる。
 慌てて視線を動かす――目や口は動くことに、それでようやく気づいた――混乱するしかないフェイトの脳に、どこかで聞いたような気がする低い『声』が響いた。

 

『お前は、何だ?』
「くっ!」

 

 フェイトの身体は相変わらず動かない。周囲を包み込む赤い闇も相変わらず、血のような気味の悪い色合いと臓物のように揺れる見た目を変えていない。

 

『お前は、何だ?』

 

 そして相変わらず響く『声』。まるで自分の内側から滲み出してくるような、ぬらぬらとしたものを通ってきているような感触が酷く不快だ。そう、自分の声ではないのにどこか『自分が誰かの声を借りている』ような感触が。

 

『お前は、何だ?』
「――私は、私だ! フェイト・テスタロッサだ!」

 

 だからだろう。わけがわからない故に無視を決め込んでいた『声』に、思わず声を荒げて答えてしまった。それが自分の中にある声だということをとにかく否定したくて、自分が何者かという問いを無意味なものだと決め付けたくて。

 

『――どれが、お前だ?』
「え?」

 

 問いが変わった。どれが、と。唐突に変化した内容を、思わず素直に受け止めてしまう。
 だからだろう。思わずバルディッシュを握っていた右手――今は何も無い、数知れない程魔法の訓練を繰り返してきた右手に視線を向けてしまった。

 

『それがお前か?』

 

 だからだろう。フェイトの視線をどこかから見ていたのか、何の感情も無くただの確認のように『声』が響いた瞬間。
 ぞぶり、と右肘から先が消え去った。

 

「え――」
『この腕が、お前か? ならば残った部分は、なんだ? ……この腕はお前ではないのか?』
「――あ」

 

 あまりに突然。あまりに速やか。そして、あまりに当然のように。バリアジャケットが干渉することも物理的な感触も何もなく、コマ落としのように何の痛みもなく。
 見た目ばかりでなく右肘から先の感覚がなくなっていることに今更気づいて、フェイトは声にならない吐息を漏らした。混乱しかける精神をどうにか落ち着けようと、拠り所を探す。なら、最初は現状確認からだ。自分も、周囲も。

 

『どれが、お前だ?』

 

 一つ前の問いを繰り返す『声』。そんなものを聞いている余裕はもうない。残っている身体の部分を確かめようとして、まず左腕に意識を――

 

『それがお前か?』

 

 だからだろう。意識を移した瞬間、今度は左腕が丸ごと持ち去られた。右腕の時と同じように、それがあった空間には瞬時に何もなくなる。視覚的にも、感覚的にも、魔力的にも、何も。

 

「ひ」
『この腕が、お前か?』

 

 一斉に全身から吹き出し始めた汗は玉になり、額から流れ落ちる汗が鼻筋を伝っていく。痛みは相変わらずない。出血もない。ただただ『声』と同時に、『その場所』が最初から何もなかったかのように消え去るだけ。
 切り落とされたならそれこそ気絶しそうな痛みを感じたのだろうが、不幸なことに――幸運、とはとても言えまい――フェイトはかすかな痛みさえ感じず、それ故に両腕が丸々消え去ったのをはっきりと意識してしまっていた。
 あるはずのものがない。あって当然のものがない。それも、一瞬前まであったものが。
 どんなに探しても、どんなに感じようとしても、ただ空虚な『無感覚』だけがフェイトの
『そうであった場所』を満たしていく。
 かすれた笛のような音が、フェイトの細い喉を通って口から漏れ出した。

 

『――どれが、お前だ?』
「あ、あ」

 

 四肢を順番に『食われ』、半ばパニックになっているフェイトの前に、真っ赤な1対の目が浮かび上がった。血を固めたような濁った赤色のその目は実験動物を観察するように、ひたすら無機質にフェイトを眺めて反応を、『答え』を求めているようだった。

 

『この足が、お前か?』
「あぁぁぁぁっ!!」

 
 
 

「こっの!」

 

 また一つ、二つ、三つ。連続して追いすがる触手状の黒いモノを拳と蹴りで叩き返し、散った火花も振り払ってアルフは苛立たしげに息を吐いた。高速で踏み込んだところで大量の触手を振るわれ、対応しきれずに詰めた距離を無かったことにされてしまう。
 急がなければ。急がなければ、アレの中に飲み込まれてしまったフェイトがどうなってしまっているかわからない。
 攻撃が通らない、というわけではない。しかし一部分に攻撃を加えて弾き散らすことができたところで、それも大して効いている様子はない。フェイトを助けるにはもっと『深く』攻撃を通さなければならないのだ。
 道路の中心で変わらずうごめく黒い塊を見下ろし、アルフは一度だけ深呼吸する。吸い込んだ新鮮な空気が思考の靄を押し流し、アルフの脳裏に一つの答えが浮かんだ。

 

「――ちっ。ならしょうがないねぇ」

 

 弾くことができる。それができるならば、どうにかなる。アルフ自身広範囲の魔力行使よりも、肉体と集束させた魔力とのあわせ技が得意な方だ。先程までの触手とのぶつかりあいの結果から考えても、勝機はある。

 

「こういう時はさぁ!」

 

 上半身が傾く。両足が開き気味になっていく。空中でクラウチングスタートのような、あるいは獣のような姿勢をとったアルフの尖った歯が擦れあい、ぎしりと音を立てた。

 
 

『ぁ――』

 

 大分『小さくなってしまった』自分を、フェイトの意識はぼんやりと眺めていた。肉体のほとんどを削り取られ、五感は既に機能していない。目も、耳も口も鼻すらも奪われてしまった。皮膚感覚が残っている場所――わからない。そんな場所が残っているのだろうか?
 反発して意識を向けないようにしていても、結局は限界が来てしまう。そして意識を何かに向けた瞬間、その部分が一瞬にして消失するのだ。抵抗しようにも先延ばししかできず、そうして延ばした末にも結局『奪われる』事を繰り返すうち、フェイトの精神は酷く疲労していた。
 魔導師として鍛えてきた意識の力も、対抗手段すら取れずにひたすら意識を直接攻撃されるような状況では時間稼ぎにしかならず――そして時間を稼いだ分だけ、フェイトの精神は侵されていく。

 

『どれが、お前だ?』
『ぅ』

 

 変わらず響いてくる声に、ほとんど無意識に従うようにしてフェイトは思考を巡らす。意識が発散しそうになっているせいなのか何なのか、次々に浮かび上がってくる記憶を認識しても、その感覚を奪われることは無かった。
 アルフ。自分と共に居てくれる、自分の使い魔。大切な家族。
 リニス。自分に魔法を教えてくれた、自分の先生。大切だった家族。
 母さん。自分を生み出してくれた、自分の母親。そう、母親。
 自分、いや、自分ではない『あの子』。自分が『あの子』ではないから母さんはああなって、だから自分は――

 

『お前は、何だ?』

 

 繰り返される問い。いつしかフェイトは、その『声』に誘われるようにしてどんどんと『内側』へ入り込もうとしていた。記憶も意識も認識も、様々な色を、様々な強さを持つそれら一切をごちゃ混ぜにしたその奥へと、『声』と共に沈んでいく。
 笑顔。欲しいもの。
 痛み。与えられたもの。
 嬉しさ。悲しさ。自分の上を這い回るのは自分の中の他人。他人を写した自分。他人から写し取って作った自分のカケラ。

 

『私は』

 

 涙。暖かさ。魔力素。電流。
 黄色。黒。赤。灰色――目にも留まらない速さで景色が、音が、感覚が、それらの定義と記憶が飛び交っている。それらをあるいは受け止め、あるいはすり抜けるようにして沈んでいくフェイトの周囲を踊る、血のような赤。今現在フェイトのより深いところへフェイト自身を誘っているこの血色も、間違いなく他者だ。
 落ちていく。より深くへ。周囲を包んでいた気味の悪い赤色はいつの間にか闇へと変わっていた。巨大な縦穴に満ちる記憶、自分の中にある膨大な『他者』の中で、フェイトは『自分』を求めてココロを伸ばす。

 

『お前は、何だ?』
『私は――』

 

 しかし、何も掴めない。この空間は狭くは無いが、無限の広さというわけでもない。生まれてから10年も経っていない自分ではそんなものだ。それなのに。
 それなのに、隅から隅まで探し回ったはずなのに、『自分』が見つからない。
 奈落の入り口のような血色の光はずっとフェイトの側に浮かび、同じ『声』を繰り返している。

 

『お前は、何だ?』
『どうして』

 

 抉り取られるような不安感。自分が何者かという問いの答えが、自分の内にないはずはない。ないはずはないのに、見つからない。影すら見つけられない。
 いるはずなのに、いない。いなくてはならないのに、いない。何故?
 圧倒的な『強さ』の違い故だろうか。繰り返される問いが、まるで絶対の命令のような強制力を持ってフェイトを縛り付ける。そしてフェイトは、その命令を満たせない。どうしたらいいかがわからない。

 

『どうして、見つからないの? 『私』はここには、いない? ……最初から?』
『お前は、何だ?』
『どうして? どうして!? どうして――』

 

 わけがわからなくなり、一度は収まったパニックに再び陥りそうになったその時。空間全体を震わせるような音量で、酷く懐かしい『声』が轟いた。

 

『フェイト!!』

 
 

「ぐ、が――ぉおあああぁあっ!」

 

 単純な痛みと魔力放出と、二つの負荷を叫びに変えながらアルフは右腕を思い切り引っ張った。凄まじい勢いで『分解』しようとしてくる黒いモノを魔力で跳ね飛ばしながら、手の中に掴んだ細い腕の感触を離さず身体ごと持ち上げる。
 まず掴んだ右の上腕。肩。頭。そして上半身、左腕から下半身。沼に突っ込んだ足を引き抜くような汚らしい音を引きずって、小さな身体が黒いモノの中から引き上げられた。
 びちゃびちゃと落ちる黒いモノを払い飛ばし、アルフはフェイトを抱えなおして飛び上がる。フェイトが意識を失っても手放していないバルディッシュはデバイスモードのままで、何故か自動防衛機構すら作動せずに沈黙していた。

 

「フェイト、フェイト! 大丈夫かい、ねえ!?」

 

 ぶすぶすと煙を上げる右腕をだらりと下げ、無事な左腕でフェイトを抱えたアルフは後退しながらフェイトに呼びかけ続けた。
 ぐったりと力の抜けた身体を包むバリアジャケットは半ば溶け落ち、太股や腹が露になっている。長いマントはほぼその形を失い、ぼろ布のように穴と破れ目だらけになってしまっていた。リボンが消滅して素のままになっている髪は――これも大丈夫だ。自分の右腕とフェイトの何に違いがあったのたはわからないが、ともかくフェイト自身は少しも傷ついていない。その事実がアルフの不安を少しだけ和らげた。
 外傷はない、息もしている。だが衣服のように見えるだけで実質フィールド系魔法であるバリアジャケットが傷ついている時点で魔力的及び精神的なダメージを受けていることは想像がつくし、何よりあの黒いモノにどんな作用があるかわからない。
 このまま撤退、という選択肢がアルフの頭をよぎったとき、フェイトが小さく呻いて身じろぎした。

 

「――アル、フ?」
「フェイト! ああ、良かった……痛いところとかない? 大丈夫?」

 

 アルフの矢継ぎ早な問いかけにはフェイトは応えず、ゆっくりと頭を上げる。茫洋と揺れる瞳で黒いモノを視界に納めるフェイトの仕草にどこかとりつかれたような雰囲気を感じて、アルフは思わず口を閉じてまじまじとフェイトを見た。

 

「……大丈夫。うん、大丈夫だよ。右手、ごめんね」
「あ、ああ。平気さこのくらい」

 

 身を起こそうとするフェイトの動きに逆らえず、アルフは腕から力を抜いた。抜くしかなかった。何かが異質だった。フェイトであることは間違いないのに、どうにも近づきがたい。フェイトから供給されてくる魔力までいつもとは違うようで、アルフの不安感はますます掻き立てられる。
 いや、魔力が違うのではない。感情だ。感情が違うのだ。そう気がついた途端、今まで見えていなかった情報の『形』に気づく。これはアルフがよく知っている『形』だった。
 伝わってくるのは――恐れ、そしてそれを遥かに上回る怒り。フェイトが本気で怒るというのは、およそアルフの知る限り初めてのことだった。わからない。何があったのかわからないが、フェイトはあの黒いモノに激しい怒りを抱いている。
 アルフの斜め前に浮かぶフェイトの表情はわからない。ただアルフの聴覚は、許さない、と呟かれた言葉を聞き逃さなかった。

 

「……フェイ、ト?」
「大丈夫。戦い方、思いついたから」

 

 溶けかけた手袋とバルディッシュの柄が、フェイトの手の中でぎゅぅと悲鳴のような音を立てた。