Fate of Destiny 02話/PART-B

Last-modified: 2009-04-17 (金) 22:06:33

 数多ある次元世界の一つ、ミッドチルダ。その中心から遠く離れたアルトセイム地方の山中に、時の庭園と呼ばれる庭園が存在している。ミッドチルダの魔法技術によって作られた、次元航行すら可能な移動庭園。多少古ぼけてはいるが作りは頑丈で、住居としての機能は健在なため、資産家の間ではちょっとした別荘として人気だった。
 数年前にプレシア・テスタロッサという女性が買い取り、娘と二匹の使い魔の四人で暮らして”いた”。
 なぜ過去形なのかというと――今はテスタロッサ一家のほかに居候が増えたからだ。
「経過は順調――健康そのものですね」
 呟くリニスの表情は、安堵よりはむしろ驚愕の方が色濃い。
「どう見ても全治二ヶ月以上はあると思ったのに――半月で治るなんて」
「言ったろ、俺は人より頑丈だって」
 やや物憂げに応じながら男は上半身裸のままベッドから起き上がった。
 やや紫がかった黒髪。炎をそのまま封じ込めたかのような深紅の瞳。少年から青年へとその過渡期に差し掛かった者に特有の、精悍さと幼さが同居する顔立ち。
 彼の名はシン・アスカ。コズミック・イラの世界で、様々な戦場を渡り歩き、勇名を馳せたザフト軍のトップガン。
 しかし今は遠い異世界に身一つで放り出された、ただの漂流者に過ぎない。
「リニスの治療もよかったしな――今更だけど本当に感謝してるよ」
「ふふ……どういたしまして」
 シンの率直な賞賛にリニスは満更でもない様子で微笑んでから――事有り顔でシンに向き直った。

 

 シンは思わずしかめ面をした。リニスが何を言おうとしているのか直感的に悟ったからだ。
「それで、これからどうするんですか?」
 目覚めてから既に一週間。その問いからシンはずっと逃げ続けていた。結論から言えば、シンは元の世界に帰るつもりはなかった。かと言って、これからどうすればいいのかも考えていなかった。
 シンはこの”時の庭園”という場所に愛着を感じ始めていた。数年ぶりに戦場から離れて生活したシンにとって、ただ穏やかに日々を過ごしているこの場所は、たまらなく愛おしい場所になっていた。
 だが、いつまでもリニス達の世話になるわけにもいかない。
「その、ことなんだが――」
「やはり、帰るつもりはありませんか?」
 内心を言い当てられ、シンの心臓が高鳴った。
「な――なんでわかったんだ?」
「わかりますよ。目覚めてからずっと、故郷のことを全く口にしない。帰れる可能性が小さいのに焦る気配さえない。ということは帰れない事情があるか、そうでなければ帰りたくないのか――そのどちらかしか考えられませんから」
 リニスの言葉にシンは頭を抱えた。確かに、見知らぬ場所に独り取り残されれば我を失うのが普通だ。シンは最初慌てこそしたものの、積極的に帰る方法を探そうとはしなかった。自分が訳ありだと公言しているようなものだ。
「あんたの言う通りだよ。俺は元の世界に帰るつもりはない」
「あまり人の過去を詮索するのは趣味ではないのですが――なぜですか?」
 一瞬、シンは躊躇った。シンの過去は話す方も聞く方も気分のいい内容ではないからだ。だが、すぐに考え直した。経歴不詳の人間が家に居座っているのは、どこの世界であろうと決していいものではない。特にここにはフェイトのような小さな子供がいるのだから尚更だ。

 

 とりあえず、シンはかいつまんだ事情だけを話すことにした。
「俺は元の世界で軍人だった」
「軍人……ですか」
 眉を顰めたリニスを見て、シンは肩をすくめた。
「そういや、この世界に軍隊はないんだったな――うらやましい話だよ」
 ミッドチルダには軍隊に当たる組織がなく、戦争自体半世紀以上起こっておらず、資料でしか存在を知らない者もがほとんどという。しかも質量兵器――コズミック・イラでの銃火器やMSのような兵器ことだ――が禁止されている。
 人生の三分の一を戦火の中で過ごしたシンにとって、信じ難い話だった。
「俺は戦争で家族を皆殺しにされた」
 離すかどうか一瞬迷ったが――リニスには本当のことを離すことにした。フェイトと違ってリニスは大人だ。助けられた恩義もあり、シンはとりあえず全てを話すことにした。
「――!」
「俺が軍人になった理由はそれだ。『力さえあれば失わずに済んだんだ』ってな……正直バカだったよ」
「……」
 沈黙するリニスを見てシンは何故か笑いがこみ上げかけた。人間、どうやら感情の許容量を超えると笑ってしまうようだ。
 本当はどうしようもなく悲しいはずなのに。
「とにかく」
 自身の感傷を押し殺して、シンは話し続けた。

 

「――だいたい俺の過去はこんなもんだ」
 シンはそう締めくくって口を閉じた。
 シンは本当に全てのことを話した。大切な人を何人も失ったこと、憎しみに駆り立てられ戦い続けたこと、裏切った上司に諭され目を覚ましたこと、最後の最後で味方に裏切られたこと。今までシンが歩んできた人生の全てを。
「……つらい、思いをしたんですね」
「……そうなんだろうな」
 しばしの沈黙の後、リニスが呟いた。たしかに、シンは端から見て波瀾万丈な人生を歩んできたのかもしれない。
 だが、同情してもらうために話したわけではない。シンは事情を説明するために過去を話したのだ。いつまでも暗い雰囲気のままでは話が進まない。
 湿っぽい空気を振り払うために、大仰な仕草で椅子にもたれ掛かり、似合わない軽薄な笑いを顔に張り付けた。
「とにかく、帰ってもロクなことに巻き込まれかねないからな。当面は管理局の保護を受けて――何年か経てばほとぼりも冷めてるだろ」
 もっともほとぼりが冷めても帰るかどうかはわからない。だがとりあえず、シンはそうとだけ言った。
「それまで宿はどうするんですか? 仕事は?」
「う……」
 リニスに畳みかけられ、シンは口ごもった。純粋にそこまで頭が回っていなかったのだ。

 

「……考えてなかったみたいですね」
 シンの様子を察したのか、リニスはあきれ顔でため息をついた。シンは親に叱られた子供のように項垂れるしかなかった。
「それなら、提案があります」
「提案?」
「ここで働きませんか?」
 まさしく青天の霹靂。思わず目を見開いたシンに、リニスはおかしそうにクスクスと笑った。
「別におかしいことじゃないですよ? フェイトとアルフの世話と魔法の教育、それに家事全般……正直私だけでは手が足りませんでしたから」
「だから、俺を雇うと?」
「ええ、貴方にとっては願ったり叶ったりでは?」
 リニスの提案は魅力的だ。魅力的すぎて裏があると勘ぐってしまうほどに。しかし、今のシンを欺いたところでリニスにとっては何一つ利点がない。昔なら躊躇わずに話に乗っていたかもしれないが、考えのわからない相手の主導権に乗るのは、シンの好みではなかった。
「そのとおりだけど……何のために俺をここに置くんだ? 間違っても俺の為じゃないだろ?」
 単刀直入にシンは尋ねた。腹の探り合いは苦手だし、それほど深い話でもない。
「フェイトのため、ですよ」
「フェイトの?」
 聞き返しながらも、シンはその一言で、リニスの真意をおおかた察した。
「フェイトはここ数年間、庭園から出ていないんです」
「――それ、本当か?」
「ええ。プレシア――彼女の母の方針で、フェイトの教育は私に一任されているのですが、本当だったら首都の学校に通わせたいんです。ですが、何度言ってもプレシアは許可してくれません」
 シンの知る限り、時の庭園の周囲には民家が一軒も存在していない。半径数kmはほぼ手付かずの森林が広がっていて、フェイトやリニス以外の人間を見たことがない。
 自分のことで手いっぱいだったが、冷静に考えるとおかしいのではないか?
 陸の孤島のような環境で、同年代の友達もおらず、学校にすら通わせてもらえず、ただひたすら家で魔法の訓練を繰り返す日々。しかも彼女の母であるプレシアは全くフェイトの前に姿を現さない。リニスがいるからまだいいが、話だけなら虐待にさえ聞こえる。

 

「フェイトはとてもいい子だけど――まだ今は七歳の子供です。だから――」
「だから、俺にフェイトの話し相手になってほしいと?」
 シンはほっとしていた。疑っていたわけではないが、リニスはシンを利用するつもりはないとわかったからだ。
 詰まるところ、リニスはシンに仕事と住居を与える代わりに、見返りとしてフェイトの教育を手伝ってほしいのだろう。十分すぎるくらい好条件ではないか。
「えぇ、この世界にきて間もないあなたに頼むのは、図々しいことはわかっています。でも――お願い」
 リニスが頭を下げる。付き合いはまだ短いのだが、シンからみたリニスが普段毅然とした印象が強いせいか、こうも態度を改められると気恥ずかしかった。
「何言ってんだよ。この場合、頼むのは俺の方だろ?」
 照れ隠しのために、シンはわざとおどけるような口調で言った。
「……いいのですか?」
 シンがあっさりと承諾したのが信じられないのか、反応が薄いリニスにシンは手を差し出した。ミッドチルダでもコズミック・イラでも”了承”の意を表す共通の仕草だ。
「こちらこそ、よろしく頼むリニス」
「こちらも、お願いしますアスカ」
 二人は堅く手を握り合った。これで契約が成立した――シンはそう思ったのだが。
「これでよし――と言いたいところですが、プレシアの承諾をもらわないと」
「プレシアさんか……」
 シンは唸り声をあげた。完全に失念していたのだ。
 プレシア・テスタロッサ。シンが知っているのは、彼女がフェイトの母親であるらしい、ということだけだ。ここに住んでいることは確かなのだが、シンは一度も顔を合わせていない。どうにも難しい研究を抱えているらしく、普段から部屋にこもりきっている、とリニスから話は聞いていた。

 

 正直、シンはプレシアに良い感情を抱いていない。一度も研究室から出ず、娘の教育はリニスに全て押しつけ口出しさえする様子はない。リニスがこの家にきたころから、ずっとその状態が続いているらしい。
 ただ忙しいだけならまだわかるが、どこの馬の骨とも知れない男――シンのことだ――が家に居座っているというのに、様子を見ようとさえしない。シンにその気がないからいいものの、シンがならず者だった場合はどうするのか。
 ふと、あの夜フェイトに言われたことを、シンは思い出した。
『なんでそんな大切な人を放っておいて平然としていられるんですか!?』
 あの言葉はシンを咎めているのではなく、彼女が押し隠していた寂しさの発露だったのかも知れない。
 少なくともあまり健全な親子関係を結んでいるとは思えない、シンはそんな感想を抱いていた。
 もっともフェイトはプレシアのことを慕っているようだし、所詮シンはただの居候だ。口出しをする資格などないので胸にとどめていたが、シンはプレシアにいい印象を持っていなかった。
 とはいえ、時の庭園の主は間違いなくプレシアなのだ。住み込むのならば承諾は必要だ。

 

「わかった」
「なら話は早い方が良いですね……ちょっと待ってください」
 リニスは何かに集中するように目を瞑った。一瞬、何をしているのかと思ったのだが、つい先日、フェイトから聞いたある話をシンは思い出した。
 魔法の中に念話というものがある。この魔法は距離や障害物を無視して、意志疎通ができるのだという。信じ難い話なのだが、魔法使いならば念話は初歩中の初歩の魔法らしい。頭の中に通信機が入っているようなものとシンは解釈していた。
 リニスはおそらく、プレシアに念話をつなげているのだろう。
(便利なもんだよな、俺も使えたらいいんけど)
 試しに教えてもらおうかと、取り留めのないことを思案しているとリニスが再び目を開いた。
「……おかしいですね」
「何がだよ?」
 尋ねながらも、シンはリニスの表情が険しくなっているのを見逃さなかった。普段落ち着き払った彼女が、わずかながらとはいえ動揺している。何か不測の事態が起こっているようだった。
「プレシアと念話が繋がらないんです。何度呼びかけても反応がない」
「それは珍しいことなのか?」
「いえ、ですが――」
 どうやら、言い出したリニス自身にもよくわかっていないらしい。何かの確信があるわけではなく、どちらかと言えば漠然とした直感でしかないのだろう。
 だがシンは、そうした虫の知らせというのを信じるタイプの人間だった。
「なら、確認に行こう。プレシアさんは身体が弱いんだろ?」
 きょとんとするリニスを尻目に、シンはベッドから立ち上がり壁に掛けていた服を慌ただしく羽織った。
「案内してくれ、リニス」
「は、はい」
 リニスが傍らに置いてあった魔法瓶を掴み、部屋の外へと走り出した。シンもリニスの後を追いかける。
 城のような外見に違わず、時の庭園は迷路のような構造だ。ここにきて間もない頃、庭園の内部を探検してみようかと考えたことがあったが――実行しなくて正解だった、とシンは場違いなことを考えていた。
 していれば、間違いなくどこかで干からびていただろう。シンは死に方にこだわりなどなかったが、流石にそんな間抜けな最期はごめん被りたかった。
 そうこうしている内に、何度か廊下を曲がり、地下へと続く長い階段を下り、最下層に差し掛かったとき、何かの部屋の前で誰かが倒れているのをシンは見つけた。

 

「あれは――」
「プレシアっ!」
 シンが言い切るよりも早く、リニスが倒れた人影に駆け寄った。
「今、薬湯を出しますから……」
 リニスがてきぱきと介抱する横で、シンはただ眺めることしかできない。
「大丈夫そうか?」
「ええ、今薬湯を飲ませました――じき落ち着くと思います」
「安心したよ」
 どうやら大事には至らなかったようだ。シンは胸をなで下ろし、改めてプレシアの顔を覗き込んだ。
 シンは人相を見てまず驚いた。顔には無数の皺が刻まれ、四肢はまるで枯れ枝のようにやせ細っている。とてもではないがフェイトを産んだとは思えないほど、歳老いていた。
 病弱なのか顔色は病的な青白く、紛れもない死相が浮かんでいた。素人目に見ても、生きているのが不思議なほどに弱りきっている。
 だがそれでもなお、彼女の双眸だけが弱りきった身体とは正反対に爛々と輝いていた。幾多もの戦場を駆け抜けたシンでさえ、直視されたわけでもないのに、威圧されるほどのすさまじい執念が彼女の瞳に宿っていた。
(彼女が……プレシアなのか?)
 気圧されながらも、シンはプレシアをベッドまで運ぶ提案しようと顔を上げたときだった。
「ん……」
 プレシアが倒れた扉の向こうを何の気無しに見やった。そこには無数のポッドが壁沿いに並んでいた。大半は液体で満たされており、燐光を放っていた。
 だが、最奥のポッドには液体のほかに何かが入っていた。地下のせいか薄暗くあまりよく見えない。
 シンは中身を確認しようと目を凝らし――
「な――!」
「どうしました、アスカさ――っ!」
 シンはポッドの中身を見た。コーディネーターの強化された視力でなければあるいは見通せなかったかもしれない。
 リニスはポッドの中身を見た。この時点でシンは知らないのだが、リニスの素体が猫でなければあるいは見通せなかったのかもしれない。
 だが、夜を見通す二人の瞳は、それが何であるかをはっきりとらえてしまった。
「見たわね……」
 喘息にあえぎながら、プレシアが呟いた。
「なんで――」
 翡翠色の光を放つ液体の中に浮かんでいるのは、五歳くらいの金色の髪をした女の子だった。
 シンは少女を知っていた。知らないわけがない。シンにとって命の恩人なのだから。

 

「何でフェイトがそこにいる……!」
 その瞬間、プレシアの瞳がちぎれるほどに見開かれた。
「違うわ! あの子は、あんなモノとは!」
 シンの腕を掴んだプレシアの力は、病人のそれを明らかに越えて強く、爪はシンの肌を食い破って肉に突き刺さった。
「私のアリシアをあんな失敗策と一緒にしないで頂戴!」
 その瞬間、シンの中で何かが割れるような感覚が走った。
 その感覚をシンは覚えていた。かつて戦場でシンの窮地を何度も救った――「頭の中がクリアになる」感覚。SEEDと呼ばれる力の発現。
 だが、何かが違う。いまは危機的な状況に追いつめられたわけじゃない。精神が高揚しているわけでもない。SEEDが発現する理由がない。別の何かによって無理矢理に感覚を押し広げられているような――
「ぐ――あぁぁぁぁっ!?」
 瞬間、割れるような頭痛がシンを襲った。

 

 若き日のプレシアと、生きていた頃のアリシアと、一匹の山猫――リニスがピクニックに出かけていた。娘の成長を幸せそうに見守るプレシアの姿が、そこにあった。

 

(これは――なんだ?)
 地下室から移動した覚えはない。プレシアに腕を捕まれ頭痛が走ったと思ったら、ここにいた。
 だが、何かがおかしい。シンがここにいるのは確かだ。シンはプレシアたちを見ているのだから。
 だが身体の感覚が全く感じられない。プレシアたちに触れようとしても、手がない。歩こうとしても足がない。
 それにわからないことがもう一つあった。
 シンは彼女たちのことを知っていた。母親らしき女性がプレシア。金髪の少女はアリシア。あの山猫はリニス。
 だが、何故わかった? プレシアは明らかに今よりも若いし、少女はフェイトにしか見えない。そもそもリニスは人間ではないのか?
(もしかして――これはプレシアの記憶なのか?)
 シンの疑問など知らないかのように、映像はシンの目の前で流れ続けていく。

 

 陰が落ち始めたのは、プレシアが試作型の魔力炉開発プロジェクトの主任に抜擢されたときからだった。
 納期最優先の、危険を無視したスケジュール。安全措置を悉く無駄にする上層部。仕事が忙しくなるにつれて減っていく娘との時間。
 そして退職を間近にした日、あの事故が起こった。アリシアもリニスも金色の光に呑まれて命を落とし、プレシアだけが取り残された。

 

 そこから先のことはよく思い出せない。アリシアを蘇らせるために、長い年月をかけ様々な秘術に手を出した。そしてプロジェクト「F.A.T.E」で。だが蘇ったのはアリシアではなく、アリシアの記憶だけを引き継いだ出来損ないだった。アリシアが寂しくさせようにと蘇生したリニスもまた、失敗作にすぎなかった。
 打てる手はすべて打った。法に触れない方法はすべて試した。だがそれでも叶わないのならば――残る方法はたった一つだけだ。
 だが長年の研究によって自分の身体はボロボロになっていた。もう何かを成し遂げる体力と時間は残っていない。

 

 いや、あるではないか。使い勝手のいい道具が。娘とその飼い猫の出来損ないが。あの山猫は使い魔にして、失敗作を魔導士として教育すればいい。
 そうすれば命令せずとも自ら思考し、あの失敗作は自分のために――ひいてはアリシアのために働いてくれる。

 

 俯瞰だった視点が主観に変わり、映像だけだった情報に別の色が混ざり始めた。悲しみ、怒り、憎しみ――そして後悔。なだれ込んでくるほの暗い激情の中にたった一つ残された光。
 プレシアの記憶、プレシアの過去。アリシアの存在、フェイトの誕生の理由。プレシアの希望。
 次元の彼方に消えた理想郷”アルハザード”。その鍵となる”ジュエルシード”。それさえあればアリシアを救えるかもしれない。
 そのためならば、あの出来損ないを生け贄にしてもいい。あまたの次元世界を犠牲にしてもかまわない。プレシアを救えれば――それでいい。

 

「リニス……あなたも失敗作だったわ」
「プレシア……あなたは……!」
 我に返ったシンがまず耳にしたのは、プレシアのリニスに対する怨嗟の言葉だった。リニスも平静を取り繕ってはいるが、尋常な状態ではないことは明白だった。リニスもシンと同じものを見ていたのだと、直感的に悟った。
「でも、失敗作なりに成果を上げた……私のために最高の道具を作ってくれたわ」
「プレシア!」
 記憶の混濁の後遺症か、凄絶な笑みを浮かべるプレシアを、シンはまるでどこか遠い出来事のようにしか見ることができなかった。
「私はもうすぐ死ぬわ……FATEプロジェクトの合間に扱った薬品が、私の呼吸器を冒している。だから、その前に取り戻すのよ。私の過去とあの子の未来を。あの忌まわしい子が、私を殺してしまう前に!」
 プレシアの過去を追体験してきたシンは、彼女の心情を理解できた。
 プレシアはフェイトを憎んでいる。フェイトに罪がないことを理解し、フェイトの魔力光が金色なのもただの偶然なのだとわかっていながら、なお激しい憎悪を抱いている。
 他人であるシンにそれを否定できる訳などない。
「あの子なんかに奪わせない……! 私の娘はアリシアだけよ……私の今と未来は、すべてアリシアのものなのよ!」
 だが、もう限界だった。
「アンタって――」
 シンは激しい憤怒に突き動かされて、プレシアの襟首を掴み上げた。
「アンタって人は……!」
 プレシアが世界を憎むのは構わない。フェイトを憎むのもまだ許せる。数え切れない不幸が積み重なった結果の感情を否定することはできない。
 許せないのは、その気もないのに欠片もない愛情をちらつかせて、フェイトを利用しようとしている魂胆だ。
 不幸を恨むのは構わない、当てもない希望にすがりつくのも好きにすればいい。
 だが、プレシアは欠片も与える気のない愛情をちらつかせて、フェイトを利用している。フェイトがどれだけプレシアの愛を渇望しているのか知っていながら、表面上拒みも受け入れもしない。
 フェイトがプレシアを愛しているのをいいことに縛り付けていることが、シンにはどうしても許せなかった。
「やめて!」
 このまま絞め殺してしまおうか――そんな考えが頭をよぎったとき、リニスにすがりつかれた。シンは振り向きもせず力任せに振り払おうとしたが、
「お願い、アスカさん……」
 リニスの服を掴む力は微々たるものだった。さほど力を込めなくても、簡単に振り払えるほどに。
 だが、これ以上ないほどに必死だった。シンは一瞬躊躇した。
「出ていきなさい――」
 プレシアはシンの拘束から逃れ、忌々しげにシンとリニスを見上げた。
「出ていって!」
 プレシアの激しい剣幕に押し切られ、二人は言い返すこともできないまま逃げ出すように、その場を離れていった。

 

 気がつけばシンたちは中庭にいた。なぜここに来たのかわからない。放心状態のまま、ふらふらと歩き続けているうち、辿り着いていたのだ。シンの後を追い続けていたリニスもここにいる。
 どれだけの時間が過ぎていたのか、すでに日が暮れ、空には二つの月と数え切れないほどの星で満ちていた。
 状況が状況でなければ、心安らぐ光景だろうに。今は何の慰めにもならなかった。

 

 何故シンはプレシアの記憶を見てしまったのか。今はどうでもいい。
 問題はこれからどうするか、だ。
 すべてを知ってしまった今でも、シンは解決方法を見いだせずにいた。
 リニスに「プレシアは危険だからフェイトと逃げろ」と忠告すればいいのか? フェイトに「何をしてもプレシアに愛されることなどあり得ない」とありのままに話せばいいのか? それとも、今すぐプレシアのところに戻って、今度こそ始末するか?
 そんなこと、何の解決にもなりはしない。プレシアに戦いを挑めば間違いなくシンは死ぬだろうし、フェイトをプレシアから引き離すことなど不可能だ。
 結局、解決方法など存在しない。治療すらできず、衰弱していくステラを、歯を食いしばりながら見ることしかできなかったことを思い出す。
 あの頃から何も変わっていない。シンは無力なままだった。
「……ごめんなさい」
 掠れて上擦った声が響いた。だがリニスが何に対して謝ったのか、シンにはわからなかった。
 プレシアを止める機会を潰してしまったことに対してか。
 プレシアの分身であることに負い目を感じたのか。
 それとも――もっと別の何かになのか。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
 シンには辛うじて、そう返事をすることしかできなかった。
「それよりも、これからどうするんだよ?」
「……わかりません」
 奇しくも、先の二人のやりとりが入れ替わった形になっていたが、二人に気づく余裕などない。
「できれば、私は二人を救いたい。でも――」
「何だよ」
「私に残された時間は長くて二年。どれだけ短く見積もっても一年程度です」
 シンははっとして、リニスの方へと振り向いた。
 まだ残っているプレシアの記憶の中に、その情報がかすかに残っていた。
 リニスは人間ではなく、元はアリシアの飼っていた猫だった。アリシアとともに命を落としたが、プレシアによって蘇生され、その後プレシアと契約し使い魔となった。
 契約内容は『フェイトを一人前の魔導士に育て上げる』こと。使い魔は契約を達成すれば、死んでしまう。
 いずれは――しかもそう遠くない未来に――リニスは消え逝く運命にあるのだ。
 それも、フェイトがもっとも助けを必要とする時には力になることができない。
 フェイトの親代わりであるリニスがどんな気持ちでいるのか――想像に難くなかった。
「……リニス」
「私にはもう――何もできないんです」
 絞り出すような叫びが、リニスの口から漏れた。
 無力な人間の悲痛な露吐は、同じ経験したことのあるシンにとって尚更辛かった。
 現実はいつだって残酷だ。挑む機会すら与えられずに、すでに決まってしまった事実だけを押しつけられ――諦める以外の選択肢はすべて奪われる。
 今のリニスはそんな”運命”の中にいる。もう決まってしまった運命を変えることは――神ならぬシンには不可能だ。

 だが。
 シンは涙を流すリニスを前に思った。

 

 本当に、何もできないのだろうか? 確かに今の自分に出来ることなどたかが知れている。結局、何もできずに、後悔するだけなのかもしれない。そもそも誰かを救えることなんて思うこと自体おこがましいことかもしれない。

 

 だが――それは何もしない理由にはならない。

 

 久しく燻っていた心の奥底に、火がともるのをシンは感じた。
「決めた」
 気がつけばシンは口を開いていた。
「え?」
 シンはリニスを見つめた。シンの瞳に、真っ赤に泣きはらしたリニスの瞳が映った。
「俺がリニスの代わりになる」
 ふとステラの時を思い出した。死の恐怖におびえ、泣き叫ぶステラになんと言ったのか、シンはまだはっきりと覚えている。
 あのときと同じ言葉をまた誰かに言うことになろうとは。
「俺がフェイトを護る」

 

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