RePlus_第七幕_後編三

Last-modified: 2011-08-02 (火) 14:43:11

「何だ…これ…」
 目の前には光りすら写さぬ暗闇が広がっている。
 上下の概念があるのかすら怪しいあやふやな空間の中で、シン・アスカは一人佇ん
でいた。そこは暑さも寒さも感じる事は無く、素肌の上を這い回る感触だけが不快だ
った。
 シンは、不思議な事に衣服一つ身に着けておらず、虚ろな瞳のままで暗闇の一点を
見つめていた。何故そうしようと思ったか、シン自身理解出来ていない。そもそもこ
んな空間に居る事事態が理解出来ていなかった。
 疲労の海に沈んだシンは、恥ずかしながら先刻まで確かにフェイトの膝で眠ってい
たはずである。それが、一体どうして、いつ、こんな場所に訪れたと言うのだろうか。
「フェイトさん!キャロ!」
 大声で二人の名前を呼ぶが、シンの声は反響すらせず無限の闇に飲み込まれていく。
 探しに行かなければ、そう思うが何故か足は動かず、まるで、見えない何かに眼前
に広がる虚無の空間に視線を釘付けにされているかのようだった。
 無限とも思われた静寂が続くかに思われたが、変化は意外なほど直ぐに現れた。
 シンの目の前の闇が歪み、歪み撓んだ亀裂から赤い染みのような物がゆっくりと滲
み出て来る。赤い染みは、光り輝きながら次第に闇を食い散らかすように徐々に広が
り、拡散し収束し忙しなく動き回り球形を形付くって行く。
 やがて、赤い光は、ボーリング大の大きさになり、シンの目の前に静かに浮遊して
いた。
「お前は誰だ」
 施設の奥で見つけた、ディープホエールの炉心にそっくりの赤球にシンは、誰に聞
かせる訳でもなく呟く。
 それは、まるで、赤い光球が意思疎通の出来る存在であると確信しているような聞
き方だった。
『オマエはダレだ』
「シン…シン・アスカ」
 赤い光球の声は、幼くまるで赤子が喋っているかのようにたどたどしい物だ。アク
セントも妙で、生物と話していると言うより機械と話してような気がした。
 赤い光球に鸚鵡返しのように訪ねられ、驚いたシンは反射的に思わず答え返してし
まう。
『おまえはだれだ』
 再度光球が聞き返してくる。言葉を学習しているのだろうか。声は今度はさっきよ
りも格段に聞き取り易くなっていた。
「シン・アスカだ。さっきから何度も言ってるだろ」
『お前は誰だ?』
 赤い光球は、シンに向け尚も聞き返してくる。
 今まで無機質だった光球の声に僅かながら感情が宿ったように聞こえた。
 怒りや悲しみの感情が混じった声を聞くと、まるで自分が非難されているように聞
こえどうにも気分が悪い。
『お前は誰だ?』
 尚も問いただしてくる光球。
 今度は、光球の声から疑いようの無い悪意が明確に伝わって来る。恨み辛みと言っ
たどどす黒い粘性を持った敵意。恨みを買う事は沢山して来たシンだったが、こうも
あからさまな憎しみをぶつけられた事は記憶に無い。身に覚えの無い事で攻められて
いるのでは無い。赤い球の口ぶりは、シンの人格や精神性を否定しているのでは無く
「お前の存在は無価値だ、無意味だ」とシンの存在そのものを否定しているように聞
こえるのだ。
「しつこいな。俺はシン・アスカ。管理局機動六課スターズ分隊所属三等陸士シン・
アスカだ!」
『本当に…』
 とっさに"現在"の境遇を喋ってしまったのは、シン自身、赤い球の持つ憎しみに心
当たりがあるからだろうか。
 後ろ暗い過去を暴かれたような気がして、球の声にシンの心が荒立たせ、自然と声
がささくれだっていく。シンは、球の言葉を否定しようと苛立ちに任せて語気を強め
ようとした。
『いいや、違うな…シン・アスカは俺だよ!』
 暗い空間に血のように赤い光が明滅し、シンの視界を赤く染めていく。光から身を
守るように動き、目の前に現れたのは、シンにそっくりな"ナニ"かだった。

魔法少女リリカルなのはStrikerS RePlus
第七幕"オーシャンダイバーズ-Deep Striker"後編三"

「勝った」
 ケルベロス弐型から発射された弾丸は、ディープホエールの魔力炉心を確実に捉え
ていた。ディープホエールの体皮を、超高密度に圧縮された魔力弾が貫き、赤い魔力
炉心に弾丸となったジュエルシードが到達する。
 ディープホエールに痛覚の概念があるのかは不明だが、ディープホエールは、緑色
の体液を巻き散らし未だ続く爆圧の中でもがき苦しんでいるように見えた。
 魔力弾が突き刺さった場所は、高熱で焼け爛れ、たんぱく質が燃える独特の異臭を
放っている。
 もう数秒もすれば、魔力炉心に到達した臨界寸前のジュエルシードが、局所的な時
空震を起こしマイクロブラックホールを精製するはずだ。
 僅か二秒間で消える代物だが、その二秒でディープホエールの駆動中枢を飲み込む
事は可能だった。はやては、羊水に満たされた制御ユニットの中で、作戦の成功を確
信し、腕を振り上げようとした瞬間にそれは起こった。
 
 体が、痛い痛いと叫び続けている。
 心底に宿る怨嗟の雄たけびよりも、心臓に打ち込まれた異物による激痛はディープ
ホエールに耐えがたい苦しみを齎していた。
 今も体内に残るコーディーネーターも目障りだが、心臓に感じる激しい痛みはその
比では無い。
 痛み止めの役割をしていた魔力が遮られ、全身に行き渡らない。皮膚がカサカサに
乾き、ひび割れこそぎ落ちていくのを感じる。
『何故私はこんなにも酷い目にあっているのだろうか』
 体中を襲う想像を絶する痛みは、一時とは言え彼の精神を正常な物に引き戻してい
た。
 ミッドチルダに生息する生物ならば、ケルベロス弐型の狙撃により、衝撃で瞬時に
絶命していただろう。
 だが、擬似リンカーコア"レリックレプリカ"の魔力とスカリエッティによる肉体改
造によりディープホエールの肉体強度は、従来の生物とは比較にもならない程頑強な
物となっていた。
『私はナニカしただろうか?』
 造物主の命により、彼は生まれから間もなくして深海に沈められた。暗い海の底で
彼は、造物主の呼ぶ声を待ち続けたはずだ。
 だが、そこから後の記憶が無い。
 気が付けば、空腹と痛みだけが彼に残された唯一の物だった。
『きっと自分は捨てられたのだろう』
 造物主に捨てられたからこそ、自分はこんな酷い目にあっているのだと。
 彼はそう結論付けた。
 では、何故捨てられたのだろうかと自問する。
 彼は造物主が作った道具だ。仮初の命と心を与えられているとは言え、生物として
の等級はドクターが作った"戦闘機人"に数段劣る。
 生物であると同時に彼は道具だった。
『何もしていないから捨てられたのだろうか』 
 道具であるのならば、造物主の役に立つのは当然だ。誰も役に立たない物を好き好
んで作るわけは無い。特に彼の造物主は、伊達や酔狂からは程遠い人間だ。そんな事
は有り得るはずは無かった。
『私は死ぬのだろうか』
 恐らく死ぬのだろう。
 胸に打ち込まれた銀の弾丸は、彼の体を蝕む毒のような物だ。今は全力を持って毒
が溢れるのを押さえ込んでいるが、それも長くは持たないだろう。
 どんな毒が入っているのか、彼にうかがい知る事は出来ないが、それでも弾丸が胸
の中で弾ければ、彼の命が終わる事は本能が感じ取っていた。
『嫌だな…』
 そう素直にディープホエールは思った。思い返してみれば彼の生きた人生の中でこ
れ程物を考えた時間は無かった。僅かな時間だが、彼の生きた記憶が走馬灯のように
、脳裏を駆け巡っていく。
『死ぬのは嫌だな』
 そう誰だって死ぬのは嫌な物だ。
 死が何を齎すのか。それは個人の解釈と思想による物が大きいが、少なくとも彼の
"死"によって喜ぶ人間は居ても、悲しむ人間は居ないように思えた。
『死にたくない』
 死にたく無い。
 そう念じ続けた。 
 生きていたい。
 そう祈り続けた。
 意味も無い死は真っ平御免だ。そう思うだけの意味が彼の人生にはあったはずだっ
た。道具は道具なりの矜持があった、はずだった。

 折角生きてきたのに、何故こんな無慈悲な死を与えられなければならないのか。自
分は只、造物主の役に立ちたかっただけなのに。
 ディープホエールの中で、薄暗い感情が蠢き始める。憎い憎いと何処からか聞こえ
てくる声で、心が張り裂けんばかりに痛む。
 憎悪が、悲しみが、絶望が、彼の中で嵐となって渦巻き感情の奔流となって現れる。
『生きたい』
 そして、自分をこんな目に合わせようとする、全てのモノに復讐したいと。
 死の淵に瀕したディープホエールを生への渇望が支配した時"何か"が彼の中で弾け
飛んだ。

 全ては一瞬の出来事だった。
 魔力弾がディープホエールに突き刺さった瞬間から変化は始まっていたのだろう。
魔道士全員が勝利を確信し、警戒心と緊張を解こうとした瞬間をディープホエール
は見逃さなかった。
 ボコボコと奇怪な音を立て、全身に無数の眼球が生まれ、まるで火器管制システム
のように魔道士達の姿を次々に捉えていく。
『オオオオオオオ』
 咆哮と共に音が弾け、大気が鳴動し、ディープホエールの筋肉が盛り上がっていく。
「何これ!」
「危険だ」とレイジングハートが告げるより早く、ディープホエールは行動を開始し
た。背中にも生まれた眼球が、空に浮かぶ空士達の姿を捉える。背中の砲塔が筋肉の
合間に沈んで行き、代わりに生まれたのは八対の翼だった。
 まるで、羽化したての昆虫のように透明な翼が、ディープホエールの魔力を受け取
ると、翼としての体裁を急速に整えて行く。羽は、振動しているのかその輪郭が激し
くぼやけていた。ディープホエールの八対の翼は、振動の速度を徐々に速め、なのは
の顔が驚愕に歪むと同時に、ディープホエールの翼がより一層羽ばたいた。
 暴風にも似た衝撃がなのは達空士を襲い、突如なのは達の頭上に大型の"釣鐘"型の
雲が出現する。
「緊急防御!」
 なのはの顔が蒼白に染まった時には全ては遅く、ドンと大砲のような轟音が響き、
なのは達空士部隊の意識を衝撃と共に瞬く間も無く刈り取った。

 まさに悪夢のような光景だった。
 管理局が有する魔道士中でもエリート中のエリートである武装隊の面々が、まるで
虫か何かのように次々と海面に落下していく。
 全員意識を失っているのか、ピクリとも動かず、重力にその身を任せている。
 地上数百メートルの場所から落下すればどうなるか。鋼鉄のように硬い海面に頭か
ら落下すれば、答えを導くのは非常に容易い。簡単な物理、いや、理科の問題である。
「なのはさん!」
 ティアナは、顔面を蒼白にし、重力に逆らう事無く落ちてくるなのはを呆然と見つ
めていた。
「ティアアアアアア!頭下げて!」
「えっ?」
 恐らくスバルの声に気が付くのが、コンマ一秒でも遅れていれば、なのはより先に
ティアナ・ランスターが死んでいただろう。
 ティアナが、声に導かれるように半ば無意識のまま頭を下げると、目の前を青い光
が掠め、ティアナの体が宙に浮かび上がった。
 スバルに抱きかかえられているのだと理解出来た時には、耳を劈く轟音が辺りを支
配していた。

「何や!」
 なのは達が謎の攻撃に晒されていた頃、ケルベロス弐型の制御室で、はやては顔を
青くしディープホエールを呆然と見つめていた。
 はやては、今まさにディープホエールが息絶えようとした瞬間に、ディープホエー
ルの体に恐るべき変化が起こるのを誰よりも早く"客観的"に見つめていた。
 まず、ディープホエールの背中が盛り上がり、肉を突き破るように八対の翼が生え
た。粘性を持った緑色の体液が輝き、ゲル状の塊が海面に落下していく。
 強酸性の物資なのだろうか。ディープホエールの体液は、海面に落ちると煙を上げ
酷い異臭を放っていた。
「ダウンバースト現象を…起こした」
 なのは達空士部隊を落としたのは、まず間違いなく"白い嵐"と呼ばれるダウンバー
スト現象だろう。
 ディープホエールが羽ばたいた瞬間、周囲の気圧が急激に下がったのを、ケルベロ
ス弐型の制御ユニットが捉え、なのは達の直上に大型の積乱雲の形成を観測している。
 制御ユニットのドップラーレーダーが故障していなければ、風速九十m/s以上大
暴風が、至近距離から直撃した事となる。
「冗談では無い」と、はやては力任せに制御ユニットの鍵盤を叩く。
 現状の数値から見てもディープホエールが天候を操ったのは間違い無い。只でさえ
難航不落の要塞だったディープホエールが、自然現象まで操られては人類に勝ち目は
無いでは無いか。
 今も昔も地震や台風に勝てる魔道士など存在しない。
 それを可能とするディープホエールは、何と言う無茶苦茶な生き物だ。
 はやての中では、ディープホエールを生き物と言う分類に括っていいのかさえ、も
う定かでは無かった。
「リイン救助隊の編成急いで。シャマルお願いや」
『了解しました』
『はいですぅ』

 間に合うかどうか微妙だが、はやては、後詰として待機させておいた部隊を動かす
事を決断する。
 シャマルが、空へ浮かび上がり、続くように戦闘ヘリが二機空へと浮かび上がった。
 ディープホエールに狙い撃ちされ、更に犠牲者が増える危険性があったが、四の五
の言っていられる状態では無い。
 はやてに頭の中には、なのは達を見捨てる考え自体が浮かんで来なかったし、戦闘
ヘリに関しても、攻撃手段を持たないシャマルには無いよりマシと言える。
 如何にシャマルとてあの人数を一人で救助するのは難しい。
 転移魔法で転送しようにも、最中の空士達は今まさに落下の最中で転移座標の特定
も困難な状況だが、今動ける手駒はシャマルしか居なかった。
 是が非でもやって貰わねばならない。
 焦るはやての気持ちをあざ笑うかのように、制御ユニットが、けたたましい警報を
再度鳴らし、ディープホエールの新たな変異を告げる。
「次はなんや!」
はやては、半ばやけくそ気味に口汚く言い放つが、それで事態が好転する訳も無い。
ディープホエールは、はやてを見下すように、能面のような薄っぺらい顔を厭らし
く歪める。
「あかん!」
 ディープホエールの体皮が白く美しく明滅する。
 何が起こるのか頭で理解した訳では無かった。
 だが、はやては、何かが良くない事が起こるのを動物的な勘で直感した。
 ディープホエールの筋肉が蠕動し、魔法を受け流す皮膚がひび割れ、大きな音を粉
々に砕け散る。
 砕け散った皮膚は、無数の破片となり大砲のような威力を伴い、地上に展開する陸
士部隊へ散弾の嵐となって降り注いで行く。
 海面に幾つもの水柱が立ち、散弾銃のように降り注いだ、ディープホエールの体皮
は、陸士部隊の隊列を乱し、混乱に陥れ、苦痛と苦悶の声を周囲に木霊させる。
 陸士部隊の苦痛に歪む声を肴にするように、ディープホエールの透き通るような白
い皮膚は、内から競り上がって来た赤色の筋肉に取って代わり、鎧のように赤黒く変
色していた。
 肉の表面を青い血管が蛇のように蠢き、ある種生物として神々しさすら放っていた
ディープホエールの威容は成りを潜め、醜悪極まる姿を晒していた。
 ディープホエールの変態はそれだけに収まらない。"泳ぐ"事に適した流線型の形は
、徐々に形を変え、腹部からは太く大きな"足"が無秩序に"生え"た。
 その数六本。
 ディープホエールは、大地をしっかりと踏みしめるように"海面"を踏みしめ、ゆっ
くりとその巨躯を持ち上げようとしていた。
「あほな」
 はやてが、呆れるのも無理は無い。
 ディープホエールは、海面を泳ぐのでは無く、まるで、その辺の地面を歩いている
かのようにごく自然に立ち上がって見せたのだ。
 ディープホエールに起こった現象は、説明する事ならば可能だ。
 重力変化。
 設置圧操作。
 考えるだけならば幾らでも出来る。
 だが、目の前で起こっている現象は、非常識極まり無い出来事だ。
 体重何百トンもあるデカブツが海の上を立って歩こうとしている。
 魔法とは、リンカーコアを通して起こる列記とした物理現象だ。何でもかんでも魔
法の恩恵で全てを済ませるのには、馬鹿馬鹿しいのにも程がある。
 それ程までにディープホエールが立って歩くと言う事は、非常識極まりない、言っ
てしまえば常識の外の出来事だった。 
「もう滅茶苦茶や!」
 はやては、毒づきながら制御ユニットの回線をケルベロス弐型から遮断する。
 羊水が抜け切るのを待つのも、もどかしく緊急排出用のコマンドを入力する。制御
ユニットから羊水を抜くために爆砕ボルトに点火し、球形をしていた制御ユニットの
上半分が吹き飛んだ。
 ケルベロス弐型の弐型による狙撃が失敗した場合、はやて達魔道士部隊が取る手段
は"撤退"の二文字しか無い。
 既にディープホエールの自壊のカウントダウンはゼロを切っている。
 もういつ爆発してもおかしくないのだ。
「全部隊員に通達。本作戦は失敗や。部隊員は可及的速やかに安全領域まで離脱して
下さい。撤退やで急いでや!」

 全部隊に撤退の勧告し、はやては、自身のデバイスを起動させる。現場の魔道士達
は優秀だ。自分がこれ以上あれやこれやと指示しなくとも、皆仲間を救助し撤退して
くれるだろう。
 どこからどう見ても作戦は失敗。
 この時点で機動六課の敗北は喫した。
 疲弊した六課の戦力では、ディープホエールを倒す事は最早不可能となったのだ。
 今出来る事は生き残った人間を一人でも多く救う事だ。命を数字に置き換え、救え
る人間だけを救う。
 実に理論的で理性的なシステマチックな考えだ。
 指揮官ならば、誰もが通らなければならない茨の道でもある。だが、はやては、最
後まで諦めるつもりは無かった。如何に万策尽きようと共、諦めてしまえばそこでお
しまいだ。
 はやてが、諦めればシン達の命はそこで消えてしまう。
 それは、はやてにとって到底許容出来る物では無かった。
 ここで、シン達を見捨てれば、男女の色恋や友情よりも大事な何かを失ってしまう
ような気がして、理性よりも本能が見捨てる事を拒絶しているのだ。
 はやては、自棄を起こしたのでは無く、意地になっていたのだろう。
 救える命を諦める。そんな悲観主義者の戯言を、はやては認める訳には行かなかっ
た。
「避けて!はやてさん!」
「えっ」
 はやては、命を助ける事で頭の中が一杯で冷静とは程遠い精神状態だった。
 だから、はやてがティアナの声を聞いたのは全くの偶然だったのだろう。
 シン達を助けたい。
 だが、その方法が全く浮かんで来ない。考えれば考える程状況は絶望的で、はやて
の明晰な頭脳は救う事は不可能だと導き出す。
 それを否定しようと、何度も内面で問答を繰り返す、思考と意識の空白が、はやて
の命を救ったのは皮肉としか言いようが無かった。
 絶叫するティアナの声が、全く現実感無く聞こえる。
 映像と音声が一致せず、伸びきったカセットテープのように、間延びした声に聞こ
え、内容の割りにまるで緊張感が無い。
 ディープホエールがその巨大な顎を開け、はやてが、何かが光ったと感じた時には
大地が激震し音と光の暴力に巻き込まれていた。

「何あれ」
「ティア…」
 ティアナとスバルは目の前で起こった現象が理解出来ず、ウイングロードの上で呆
然としながら事態を見つめていた。
 ディープホエールが放った、レーザー砲と思しき攻撃は、ケルベロス弐型の狙撃地
点を外れ、隣の山頂に直撃していた。
 濛々と煙が立ちこめ、二キロは離れているのと言うのに、空気が焼け付くのを感じ
る。
 攻撃の衝撃で山腹の木々が薙ぎ倒され、熱によって一瞬で炭化している。だが、そ
れよりも酷いのは山頂だった。
 端的に言えば山が溶けていた。攻撃が通った後は、円形状の穴がぽっかりと開き、
熱と何かが焼け焦げた匂いが酷く鼻につく。
 山肌を抉り取られ、素肌を表した岩塊が、熱の余波で飴細工のように、奇抜な形に
"歪んで"いるのだ。
「山が溶けた…はやてさん!」
 ティアナの顔が蒼白になる。あれ程のエネルギーが至近距離を掠めたのだ。展望台
のケルベロス弐型は無事のようだが人間はそうと限らない。
 はやての「撤退」と声を聞いたが最後、通信機からは何も聞こえてこない。
 何度も通信で呼びかけるが、はやて達からの返答が無く、耳障りなノイズが流れて
くるだけだ。慌てて念話に切り替えてみるが、気絶してしまっているのか全く返信が
無い。
「ティア!こっちも駄目」
「そんな…」
 スバルも駄目となると、いよいよ通信機の故障や魔力障害等では無く、狙撃部隊は
、考える事もおぞましいが最悪"全滅"の可能性も在り得た。
 最悪の想像がティアナの頭を掠めた時、頭の中に場違いなのんびりとした声が聞こ
えて来た。
『痛たぁいですぅ』
「リイン曹長?」
『あう…ここ何処ですか…』
 リインフォースⅡは、目を回しているのかどうにも呂律が回っていない。ティアナ
の必死の呼びかけにも何処か上の空だ。
「リイン曹長!私です!ティアナ・ランスターです!御無事なんですか!?」
『あ…オッケイですティアナ。すいません、目…完全に回してました…なにこれ…指
揮車両がひっくり返ってるですぅ』
 ティアナとスバルは、胸をほっと撫で下ろす。リインフォースⅡの後ろから、微か
ではあるが、シャリオ達の声が聞こえて来たのだ。恐らく引っくり返った指揮車両の
中で四苦八苦していたのだろう。
「無事なんですか、曹長!」
『あー取り合えず指揮車両は無事見たいですね。中は滅茶苦茶ですけど…痛たた』
 何処か怪我をしているのか、声に元気は無いが命に別状は無さそうだ。
 ティアナは、ほっと胸を撫で下ろし、リインフォースⅡ達を心配する傍ら、変異し
たディープホエールとケルベロス弐型を見比べ無意識に思案し始めた。
 狙撃による攻撃が効いてないとは思えない。
 それが証拠に、ディープホエールの心臓部には、ケルベロス弐型によって穿たれた
穴が今も修復されず開いたままだ。
 そこから、大量の血液らしき体液が海上に漏れ出している。大幅に形態変化を起し
たのにも関わらず、傷をそのままで放置していると言う事は、傷の修復に当てる余力
が無いと言う事か。
 にも拘らず、ディープホエールは、まるで平気なような顔しているように見受けら
れる。
(イタチの最後っ屁ってとこかしら)
 胸に受けた傷は、既に致命傷で、先ほどの攻撃がディープホエールの最後の攻撃だ
とそんな甘い考えが浮かぶが、ティアナは直ぐに切って捨てる。
 実に馬鹿馬鹿しい考えだ。
 戦艦以上の攻撃力と防御力を秘めている生物が、何故わざわざ格下の生き物に配慮
しなければならないのか。
 ディープホエールにかかれば、こちらを殺す事など息をするよりも簡単にやっての
けるだろう。だが、全く効いてないわけでも無い。
「なら…スバル…行くわよ」
「えっ何処に」
「はやてさん…ううん、部隊長を助けに…そして、ケルベロス弐型へ…まだ、あれは
使えるわ」
 ならば、自分のやる事は一つだと、ティアナは、怒りの表情を浮かべ山頂を指差し
た。

「無事かリインフォース」
『何とかですぅ』
 シグナムは、海面にレヴァンティンを突き刺し、荒い息を付きながら、リインフォ
ースⅡの声に耳を傾けていた。
 破片の嵐により、シグナムの騎士甲冑は傷つき、愛剣レヴァンティンも後退する陸
士部隊を庇った為に刀身がひび割れボロボロの有様だ。デバイスのコアこそ無事だが
、レヴァンティンによる戦闘行動は不可能に思えた。
「あれは一体なんだ」
 最愛の主を襲った謎の熱線。
 指揮車両に居た吏員フォースⅡは無事だったが、依然とし主であるはやてとの通信
は回復していない。
 ティアナとスバルが、救出に向かったがらしいが、まだ吉報は届いて居なかった。
『待って下さい。今解析してるんですぅ…良し解析結果出ましたですよ…敵目標の放
った攻撃はプラズマ砲と判明しました』
「プラズマ?イオンとかのアレか?」
『はい、その通りです』
 そもそもプラズマとは電離気体である。絶縁体を経て両電極の間に電気を流し生ま
れその結果生まれる物だ。
 プラズマと聞けば胡散臭い雰囲気に聞こえるが、実は自然界に有り触れた物質でも
ある。少なくとも宇宙空間には吐いて捨てる程あるし、工業製品の溶接に使われる事
も少なく無い。
 プラズマ精製は極有り触れた技術なのだ。
 一般的には、水蒸気をプラズマ化し冷却水を随時破棄する方法では熱効率が悪いと
言われている。しかし、ディープホエールのプラズマ砲は、無限とも言える海水を体
内に取り込み、水を直接プラズマ化している為、熱効率が非常に優れその温度は約一
万度に及ぶ。
 工業機械では無い、一介の生物であるディープホエールが、体内でプラズマを精製
した事だけで驚愕だが、鉄をも蒸発する温度に耐え切るとは出鱈目にも程があった。
「何という化け物だ」
「全くだぜ」
 ザフィーラの背に乗ったヴィータが、シグナムの背中に降り立つ。既に霧の結界は
ディープホエールの尾の一撃で撒き散らされ、その余波で吹き飛ばされた陸士隊員は
、辛うじて生きていると行った有様だ。陣形は完璧に崩壊し絶体絶命の危機を迎えて
いた。
「なのはは!」
「分からん」
 シグナムが確認した限り、ディープホエールのプラズマ砲は一度だけだ。
 だが、シグナムは、プラズマ弾のあまりの熱量と閃光で視覚と焼かれ、気が付いた
時にはなのは達空士の姿と救援に向かったシャマル達の姿を見失っていた。
「あれで…なんで生きてるんだよ!」
 ケルベロス弐型の狙撃は確かに命中したはずだ。ヴィータは毒づき、ディープホエ
ールを忌々しくにらみ付けていた。
 シグナムが叫んだ瞬間、ディープホエールは、新たに生えたで足を"海面"にしっか
りと蹴り、大空へ舞い上がろうと翼をはためかせた。
「まさか…飛ぶ気か!」
 だが、虫のように脆い羽では、その自重をささえきれないのか、ディープホエール
を大波を巻き起こし海面に激突する。
「馬鹿な…あんな物が飛び立てば…未曾有の大災害になるぞ!」
 艦砲射撃にも耐え、天候を自在に操る移動要塞。
 そんな物が、ミッドチルダに向けて飛び立てば時空震所の話では無い。もっと直接
的で凄惨な被害が容易く想像出来る。
 基、自壊への限界時間は当に過ぎている。海面で爆発されるのと、市街地で爆発さ
れるので訳が違う。
「やらせるわけにいかん!」
 シグナムは、レヴァンティンを構え、ディープホエールに向けて飛び立とうとする
が、全身の力が抜け意識が遠くなる。全魔力を使い、霧の檻を構築していたのだ。魔
力を切らしてしまっても不思議では無かった。
「よせよ。お前だって限界に近いんだ」
「離せヴィータ。今やらねば誰がやる!」
「んな事あたしだって分かってる!でも、今神風かましても無駄死にだろうが」
「それは、だが、主はやてもアスカもシャマルも討たれた今、せめて、あの化け物に
一太刀入れねば気がすまぬ!」
「頭に血が上り過ぎだ、馬鹿猪」
「な、なにをするのだ」
 パカンと実に小気味良い音がシグナムの頭上で鳴る。
 ヴィータが、グラーフアイゼンの柄でシグナムを小突いたのだ。シグナムは、以外
に可愛い声を上げ、悔しさからか涙目で答える。
「主が死ねば我らヴォルケンリッターとて無事では済まぬ。集中すればラインを感じ
取れるはずだ」
「そ、そうか」
 二人に諭され、はっとした表情を見せるシグナム。シグナムが、目を閉じると精神
を集中すると、自身の遥か奥底で誰かと繋がっている感覚を感じる。

「そして、まだあの馬鹿もフェイトもキャロも死んじゃいねえよ。諦めるなよシグナ
ム。少なくとも私やティアナは諦めてねえぞ」
「もう一度反撃の機会は訪れる。僅かな時間だが、体を休めておけ」
「あ、ああ。すまんな二人とも…少し頭に血が上っていたようだ」
「ったく。お前、アスカが来てからちょっと性格変わりすぎだぞ。もうちょっと冷静
になれっての」
 ザフィーラのグラーフアイゼンで、シグナムの背中を小突きながら盛大に溜息をつ
く。
「ヴィータ…何か言ったか?」
「いいや?何も」
 シグナムは、ジト目でヴィータを睨むが、当の本人は既にシグナムに興味を無くし
たのか、動きを止めたディープホエールを睨みつけている。
「後…一度何処かで必ずチャンスは来る…か…ザフィーラ…肩を借りるぞ」
 シグナムは、ザフィーラにもたれ掛かり、大胆にも静かに寝息を立て始めた。

 ディープホエールは、さっきから自分の周りをうろつく羽虫を潰した性為か実に上
機嫌だった。
 生と死の狭間で彼は"生きたい"と切実に願った。彼は神を知らず、従って願う相手
は自ずと限られてくる。
 精々造物主か自分かのどちらかである。不出来な道具である彼は、造物主に祈る事
は出来ない。道具が主に逆らう事自体馬鹿げた思考であり、同時におぞましい考えで
もあった。
 結果的に彼が祈る対象は、自分でしか無く、己の欲求に従うしか道は残されてはい
ないのだ。
 そして、彼は自身に祈った。
 死にたくない。
 もっと生きていたい。
 痛いのは嫌だと。
 毒に犯され、体を蹂躙され、傷みによって修復される傍から壊れ始める精神を必死
に集め続けた。
 その時光が見えた。
 大きな巨人。
 消える星々。
 そして、腕の中で消えた命。
 生きて復讐してやると。
 堪え難い憎しみが増幅され、どす黒い太陽のように燃え盛る。
 明確な意思を持った何かがディープホエールの中で弾けた。
 レリックレプリカでは無い、全く別の物の場所から溢れんばかりの力が供給されて
来る。体を満たす芳醇な魔力は、ディープホエールの痛み和らげ体全体を駆け巡る。
 ディープホエールは、何か復讐する為に不適切な体を投げ捨て、より攻撃的に、よ
り実践的に体を作り変えていく。
 全てを弾く体皮を捨て、何事に屈しない強靭な皮膚を、弱者を踏みにじる為に屈強
な足を、そして、他者を薙ぎ倒す為の腕を作ろうと思ったディープホエールだが、飛
ぶのに邪魔になると思い立ち、あっさりと腕を作るのを止めた。
『ざまあ見ろ』
 だが、腕の代わりに翼の構築を失敗したのは、彼の渾身のミスだった。
 体の変態は、ディープホエールが思っていたよりずっと多くの魔力を消費し、空腹
だった腹がより一層魔力を求め呻いている。
 やはり、大空を舞う為には、虫のような醜く小さな翼では駄目だ。鳥のように大き
く美しく機能美に溢れた形で無いといけない。お陰でディープホエールは、飛ぶ事に
失敗し羽虫達の前で醜態を晒してしまった。
 だが、それも些細な出来事だ。
 翼と足の構築が完全に終われば、その翼と足を持って何処へでも食料を求めて飛べ
る。沿岸部を入念に探す手間が省けると言う物だ。
 まずは、手始めに煩わしい羽虫を処分する。羽虫程度の魔力でも腹の足しにはなる
だろし、本音を言えば空を飛んでいった赤い宝石が一番良かった。
 魔力の質も量も抜群な代物だ。
 一つ食べれば、暫くはこの体を維持出来るだろう、
 だが、飛び立つには今しばらくの時間と魔力が必要だった。先刻心臓に食らった弾
が随分と痛んでいる。体の崩壊は止まっているのに、何故か心臓の傷だけが治らなか
った。
『変だ…心臓が痛い』
 痛みは治まる所か、時間を置けば置くだけ激しくなる一方だ。生きる為に折角体を
作り変えたのにこれでは本末転倒だ。
 何かが邪魔をしている。
 何かが自分の生を阻害している。
『冗談では無い』
 死への恐怖を克服したと思ったのに、復讐の為の力を手に入れたのに、また自分は
死のうとしている。
 不思議な事に何に復讐したいのか、ディープホエールにはさっぱり分からなかった。
 だが、復讐すべき相手と痛みの原因が未だ体内に留まっている事を本能が告げていた。

「うわっ!」
「きゃっ」
激しい揺れと騒音が通信室を襲う中、二人を抱きかかえたフェイトは、厳しい顔つ
きで天井を見上げていた。
 コンクリートの天井は、パラパラと破片がこぼれ皹が入っていた。
 シンとキャロは、フェイトの腕の中で目を白黒させ、呆然としながら事の経緯を見
守っていた。
 マグニチュードで言えばどの位出ていたのだろうか。恐らくあまり愉快な数字では
あるまい。
 それが証拠に、振動で通信室の端末が一メートルは動き、壁のコンクリートが剥が
れ落ち、中の鉄筋が丸見えになっていた。
「な、なんだったんだ今の!」
「物凄い揺れでしたね」
「…そうだね」
 漸く揺れが収まり、シンは、フェイトの腕から抜け出し辺りを油断無く見つめる。
 さっきの揺れが救いの知らせとは限らないからだ。
「攻撃にしては派手だったよね。はやてったら…もしかして、戦艦でも持ち出したの
かな?」
「戦艦…って。そんな物で使われたら中の俺達だって無事じゃ無いですよ…幾ら部隊
長が過激でもそこまではしないような」
「うん…でも、私がはやてに知らせたのは、攻撃座標と私達が居る場所だけだから。
具体的な作戦は向こう任せだし」
 何があるんか分からないと、フェイトが含み笑いを漏らす。
「はは」とシンの口から乾いた笑いが漏れる。幾つか思い当たる節があり、否定しき
れないのが悲しかった。
「私達助かるんですか?」
 キャロは、希望を込めた視線でフェイトを見つめる。フェイトもキャロの希望に答
えてやりたかったが、今の攻撃が自分達を助ける為の物か、それとも全く違う目的の
為の物なのか、外の様子が分からない事には確かめが無く楽観視は出来ない状況だっ
た。
「心配してなくていいさキャロ…俺達は部隊長を信じてればいいんだよ」
 シンは、なるべく優しい表情を浮かべ、労わるように、だが、何処かぎこちなくキ
ャロの頭を撫でる。
 キャロは、照れているわけでは無く、戸惑っている様子で、視線を感情の行き場所
を求めてきょろきょろと忙しなく動かしていた。
 突っ撥ねるつもりは無いが、止めて欲しいと言う訳にいかず、フェイトに助け舟を
寄越して欲しいと目線を送ってくる。
 そんな二人を見てフェイトは、嫌がるペットを溺愛する飼い主を見ているようで、
一人静かに忍び笑いを漏らした。キャロは、まだまだシンの事が苦手な様子だったが
、表情こそまだギコチナイが、少し前までの憎悪一歩手前の不安定さが消えている。
 全ての蟠りが消えた訳では無いだろうが、少し前の二人に比べれば格段の進歩だっ
た。
(今は凄く困ると良いよ、キャロ)
 フェイトは、わざとらしく口笛を吹く真似をし、キャロの目線に素知らぬ顔で受け
流す。
 彼女に足りないのは、他人との触れ合いだ。特定個人だけの付き合いを続けていて
は得る事が出来ない物が多い。魔法の訓練、六課の生活だけが彼女の全てでは無いの
だ。
「何だかアスカさんに言われると、誤魔化された感じがします。」
「お、おい…俺はそんなつもりで言ったわけじゃ無いぞ」
「分かってます。今のは冗談です」
「…勘弁してくれ」
 援軍が期待出来ないと分かったキャロは、僅かに頬を膨らませ、頭に載せられたシ
ンの手を取り、ジト目でシンを睨んでいる。
 シンは、キャロにまた何か勘に触る事を言ったのだろうかと狼狽し、慌てながら弁
解を続けていた。
 キャロが、どう思っているのか知らないが、フェイトから見て、二人はちょっと仲
の"悪い"兄妹だった。いつ死ぬか分からぬ死地に身を置いているのにも関わらず、フ
ェイトの顔に自然と笑みが浮かぶ。むしろ、こんな時だからこそ、二人のチグハグな
関係を見ていると心が和むのだ。
「キャロ…」
「…はい、何ですかフェイトさん?」
 微笑むフェイトに、キャロは小首を傾げながら怪訝そうな顔を向ける。顔には、何
か私しましたかと書いてある。口に出さなくても十分に読み取れた。
 その仕草がフェイトにとっては、可笑しく、そう可愛くて仕方ないのだ。
 人間は生死の窮地に立たされると、子孫を残す事を第一に考えると言うが、どうや
らフェイトの場合は違ったようだ。
 守るべき相手、庇護すべき対象を求め、その為に己の命をどう使おうと燃やそうと
思考する。自己犠牲や偽善では無く、フェイト自身がそう望んでいるのだ。

「ううん…何でも無い」
 フェイトは被りを振るい、努めて笑顔を浮かべるように努力する。フェイトとてむ
ざむざ自分から進んで命を捨てる事はしない。だが、フェイトは望まれてこの世に生
を受けたわけでは無い。望まれて生まれては来なかったが、人生を自分で決めて歩ん
できたと。生きた証を残そうとしている、漠然とだが、フェイトは日々を生きる毎日
の中でそう感じる事があるのだ。
 フェイトの思考を中断するように、施設内に爆音が鳴り響き、もう一度通信室を激
しい揺れが襲う。
「うわっ!」
「キャッ」
「これは!」
 フェイトは、キャロを胸に抱え込み、体制を崩したシンを自分の方に引き寄せる。
 さっきまでの揺れがお遊びに感じる程の大きな揺れだ。文字通り立っている事も困
難で、フェイトは、二人を連れ這うように端末の下に潜り込んだ。
「フェイトさん…これって」
「キャロ黙ってて…危ないよ」
「は、はい」
(ちょっと洒落にならないかな)
 重さ何百キロもある大型端末が、まるで、プリンか何かのように揺れ動いている。
あんな物に激突するば、大怪我ではすまないだろう。照明や小物が衝撃で割れ破片が
通信室中に飛び交っている。
 壁を見るとコンクリート亀裂がさっきよりも酷くなっているのが分かる。タイルの
床も所々に凹凸が出来き、揺れの酷さを物語っていた。
(崩れる…かも)

 通信室がどの程度の強度を持って設計されているか知らないが、こんな揺れが立て続
けに二度も三度も起きて五体満足な代物では決して無いだろう。
 外の攻撃の件もある。
 一番強度的に安全なのは、赤い球がった動力炉だろうが、いかんせんあそこは六課の
攻撃目標だ。
 恐らく、先ほどの揺れも動力炉を攻撃した際に発生した物だろう。通信室は、清潔で
安全だが、場所を移動した方が良いかも知れない。少なくとも動力室からは、距離を置
くべきだとフェイトは判断した。
 だが、フェイトが、キャロを抱え立ち上がろうとするよりも早く、シンは次の行動を
開始していた。
 だが、シンの意識とは別に体は戦闘態勢に入っているのか、肌を刺すような気をシン
から感じる。
「俺…行きます」
「ど、何処に?」
「居るんです…」
「アスカさん…一体何が…」
「敵が…居る」
 シンは、それだけ二人に言うと弾かれるようにその場から走り出した。何が居るのだ
と聞かれれば、明確な答えをシンは持っていない。
 電流が走るような鮮烈な感覚。誰かを身近に感じているが、肝心な相手が靄が掛かっ
たように判然としない。だが、身を焦がすような焦燥感と危機感が、シンの心を絶え間
なく圧迫して行く。
 間違いなく敵はシンに悪意を持ち、その悪意を惜しげもなくシンに注いでいる。
 それも生半可な悪意では無い。世界そのものを覆い尽くすような、この世全ての物を
憎んでも尚余るような純粋な悪意。
 怒りか悲しみでは括る事の出来ない、壮絶な感情の懊悩を感じる
「居る…間違いなく居る…俺の敵が…居る!」
 心に感じる憎しみに突き動かされるように、シンは、走り出していた。

「…酷いわね」
「うん…」
 山腹に駆けつけたティアナ達が見た光景は、実に壮絶な物だった。ケルベロス弐型
の機体自体は無事なようだが、衝撃で固定用アンカーは歪み、装甲は剥がれ、内部部
品が露出している。後ろに控えた指揮車両は引っくり返り、ケーブルの山で絡めとら
れ、無残な姿を晒し、背部に接着された供給ユニットは、地面に落ち衝撃で半ば半壊
していた。
 摂氏一万度にも迫るプラズマ砲が至近距離で通過したのだ。
この程度で済んで僥倖と言うべきかも知れない。
「はやてさん!」
 ティアナは、半壊したユニットに駆けつけ瓦礫の山をどけ始める。供給ユニットの
瓦礫を慌ててどけると、中から煤まみれのはやてがちょこんと顔出した。
「うぅ…これはあかんやろ、反則やろ」
 瓦礫の山に埋もれたはやては、悪態を付きながら、ティアナを見つめていた。悪態
を付けるなら、まぁ無事だろうとティアナは、ほっと一息付きはやてを供給ユニット
から引きずり出す。はやては、憔悴している以外特に目立った外傷は無く、肩を貸す
までも無く自分の足で立ち上がる事が出来た。
「大丈夫ですか?」
「まぁ何とかね。ありがとうティアナ」
「いえ、無事で本当に良かったです」
 笑顔とは裏腹に二人の声に力は無い。ここまで圧倒的な力の差を見せ付けれられた
のだ。笑顔で居ろと言われても、苦笑しか出来ないのが実情だた。
「心配せんでええ、ティア。私、後、二、三戦いけるで」
「心外です。私も全然いけますよ」
 これが空元気である事ははやても分かっている。だが、空元気でも出さなければ、
絶望に押しつぶされそうな気がして、はやては無理に明るく振舞っていた。
 それが理解出来るからこそ、ティアナも湧き上がってくる暗い感情を押さえ込み、
戦意を振り絞ろうとしているのだ。
「でも、これじゃあ…」
「…そうやな」
 増援が見込めない以上、頼りはケルベロス弐型しか無いが、機体自体壊れたわけ
ではないが損傷が酷いのは間違いない。
 幾ら機体自体の損傷が少ないとは言え、射角固定用のアンカーが半壊した今、安
定した射角が維持出来ず、おまけに制御ユニットが崩壊し、哨戒機とのデータリン
クも出来ない有様だ。目も足も失ったケルベロス弐型を撃っても弾は明後日の方向
に飛んでいくだけだ。
 それに、再狙撃しようものの、機体に残された予備エネルギーを総動員しても予
定出力の10%も出す事は出来ないだろう。
 広範囲魔法で、直接ディープホエールを攻撃しようとはやてだが、プラズマ砲の
激突の瞬間、はやては、術式も何も無く残された魔力の全てを使いケルベロス弐型
の前に防壁を展開していた。
 金色の魔力盾は、プラズマ砲を防ぐ事は出来なかったが、射角をずらし、膨大な
熱風と破片から六課の皆を守る事には成功した。
 だが、代償も大きく、はやてに残された魔力は極僅かだ。これでは、初歩的な魔
法も起動出来るか怪しく、それに加え魔力の過剰摂取が原因か、リンカーコアの反
応が今一薄い。
 魔力素を取り込もうとすると、心臓が酷く痛み、魔力を練る事が出来なかった。
仕方無かった事とは言え、六課は生身でディープホエールに対する反撃手段を完全
に失っていた。
 万策尽きたとはこの事か。はやては、ディープホエールを見つめ、糸の切れた人
形のように、その場に座り込んでしまう。
「あの中にアスカが居るんですよね」
「そうや…アスカさんもフェイトちゃんもキャロ…"まだ"あの中におる。」
 はやての心が諦念で満たされて、体の芯が凍えそうなほど冷えていくのを感じる。
力が及ばず志半ばで倒れる事もそうだが、大事な人を救う事も出来ず、心が折れ膝
を突いてしまった自分の弱さが心底悔しかった。
「まだ…生きてます!」
「ティア?」
「まだ、やれる事はあるはずです!」
「やれる…事」
 ティアナは一心不乱に瓦礫の山を除けている。恐らくも一度ケルベロス弐型を撃
つつもりなのだろう。
 ティアナの瞳には、諦めは愚か絶望すら見えていない。いや、必死に押さえ込ん
でいるだけだろうが、絶望の片鱗すら見せていない。
 シン達は生きている。都合の良い希望的観測に縋っているわけでも、確たる証拠
があるわけでも無いのに、ティアナはシンの生存を強く信じていた。
 一体この強さは何処から来るのだろうか。
「そうか…まだ、やれるんや…私」
 そう、きっとまだやれる事はあるのだ。ただ、目の前に広がった分かり易い絶望
に、はやて自身が思考を狭めてしまっただけの事だ。

 ディープホエールの胸の傷は未だに空いたままだ。集中すれば、傷の奥からジュ
エルシードの波動を微弱ながら感じるが、何かに阻害されて術式を発動出来ない状
態にあるようだ。
 はやては、すぐさま端末を起動し、ケルベロス弐型をスキャンし始める。装甲や
アンカーの破損は酷いが、機体自体の損傷は驚くほど軽微だ。恐らく後一発撃つだ
けならば問題無く起動するはずだ。
 ジュエルシードに絡みつく障壁さえ取り除いてしまえば、術式を発動する事が出
来るはず。
 そう、傍から見れば、勝敗は決しているように見えるが、追い詰められているの
はディープホエールの方なのだ。
 もう一撃で決着は着く所まで来ている。後一手、後一手で勝利を此方に引き寄せ
る事が出来る。
「でも…魔力が足りん」
 ケルベロス弐型に残されたエネルギーは殆ど無い。今この場に居る隊員達の全て
の魔力を結集しても、焼け石に水だろう。
 特に彼女達は非戦闘員だ。リンカーコアを持たない彼女達に魔力供給は期待出来
るはずも無い。
(やっぱり、あかんの…)
 ふと、視線をずらせば、瓦礫を退け制御ユニットを掘り出そうとするティアナが
見える。
 一心不乱に瓦礫を退けるティアナを見て、はやては両頬を思いっきり抓り自分に
活を入れた。
(そうこれがあかんのや)
 責任者は責任を取る為に存在する。この作戦を立案し、シン達を救う事を決めた
のは他ならぬはやて自身だ。ちょっと不利な状況になったからと言って、投げ出す
事は出来ない。少なくとも気持ちで負ける訳にはいかないのだ。
「それなら大丈夫っすよ」
「ヴァイス君!」
「陸曹!」
「ピンチの後にはチャンス有りってね」
 二人が振り返ると、そこには、スバルに担がれ煤に塗れぐったりとしヴァイスが
微笑を浮かべていた。
「無事やったんか!」
「…さっきのは…流石に死ぬかと思いましたけど」
 瓦礫に埋もれたはやてと指揮車両が引っくり返っただけで済んだリインフォース
Ⅱ達は、まだ幸運な方だった。
 狙撃手として機体に近くに居たヴァイスは、プラズマ砲の巻き起こした熱と衝撃
で狙撃ユニットごと山腹を転がり落ちたのだ。
 全身打撲に加え、折れた肋骨のお陰で息を吸うだけで体中に激痛が走る。自力で
の脱出は困難に思えが、スバルに通信が繋がったのは、まさに天の助けとしか言い
ようがなかった。
「おがっ…スバル、もうちょっとゆっくり下ろしてくれ」
「す、すいません」
 傷が痛むのだろう。ヴァイスは、瓦礫に横たわりながら荒い息を付いている。
 しかし、その表情は絶望に支配された物では無く、むしろ、希望に満ちた物だ。
「ヴァイス君?」
 状況は絶望的だと言うのに、ヴァイスは微笑を崩さない。むしろ、作戦はこれか
らだといった具合なように見受けられる。
「さっきも言ったじゃ無いですか部隊長。ピンチの後にはチャンス有り。大ピンチ
の後は大逆転が待ってるもんなんですよ」
 ヴァイスは、微笑みながら月を指差す。月から兎がやって来るとでも言いたいの
だろうか。ケルベロス弐型に必要な魔力を持ってきてくれるのであれば、この際兎
でも構わないと思うはやてだったが、思いは現実の物になる事となる。
「なんやこの音…」
「ヘリ…それもかなりの大型の」
 聞き間違えでは無い。無数のローター音が夜空に響き、月を背後に輸送ヘリの編
隊が、山腹に迫っているのが見えた。
「ちょっと誰や!あかん引き返し!死んでまうで!」
 はやては、一体何処の馬鹿だと毒づき、慌てて通信を入れるが応答は無い。
 はやては、慌てて追い返そうと通信を続けるが、ヘリは聞こえているのかいない
のか、はやての忠告等どこ吹く風とばかりに、ヘリは打ち落とされる事無く山腹に
静かに着地した。
 ローター音が収まり、キャノピーを空けコクピットから出てきたのは、意外にも
機動六課の副指令グリフィス・ロウランだった。
 何処の馬鹿だと、怒り肩で突貫しかけたはやてだが、自分の副官の登場に毒気を
抜かれてしまう。

「お待たせしました部隊長」
「グリフィス君、何してんの一体!」
「はい、グリフィス・ロウラン、微力ですが部隊長の元にはせ参じました」
「いや、はせ参じたって…今がどんな状況か分かってるんか?」
「分かってるから、ここまで来たんですよ八神部隊長。作業開始して下さい!」
「うい~す」
 通信機から野太い声が流れ、輸送機の後部ハッチが開かれ、管理局災害救助隊の制
服に身を包んだ男達が現れる。
 グリフィスが指示を出す事も無く、ヘリから出て来た隊員達は、ケルベロス弐型や
指揮車両へと散っていく。
 黄色いヘルメットを被った年配の工作隊員が、若い隊員に檄を飛ばし、その間もヘ
リの搬入口から大型重機が次々と搬出され、クレーンでケルベロス弐型を吊り上げ射
角を修正して行く。
 隊員達の中には、六課の見慣れた顔も混じっているが、殆どがはやて達の知らない
顔だった。
「越権行為だと思いましたが、後詰の部隊を勝手に動かしました」
「え、いや、でも」
 作戦の状況は、安全中域に控えている後詰の部隊にも詳細に知らされているはずだ。
 撤退命令は、総部隊指揮と取っているはやてが、発令した正式なものであるし、撤
退せず残って戦う方が命令違反に罰せられる物だ。
 それ以前にはやては、工兵隊を後詰として待機させては居なかった。
 この大人数は一体何処から現れたのだろうか。はやてが呆然とする中も、工作隊員
達もの作業は続けられて行く。
 災害救助のプロである彼らにとって、この程度の瓦礫を撤去する事など朝飯前なの
だろう。重機を人間の手を使い、手際よく瓦礫を瞬く間に撤去していく。
「失礼しますね」
 救急キットを抱えた、看護師がはやて達の元に駆けつけ、答えを聞く前に応急処置
を施していく。
 看護師達が付けた部隊章は、近隣の警備隊の物で、よく見れば工兵隊も居れば、警
察の人間までも居る。隊員達の部署も管轄もバラバラでまるで一貫性が無い。
「痛く無いですか?」
「あっ…大丈夫です」
 ティアナも困惑しているのだろう。唖然とした視線を看護師に送っているが、看護
師は素知らぬ顔で手当てを続けている。
「染みますよ」
「あっつ」
 消毒液をかけられ、腕に刺すような痛みが走る。痛みで唖然とし何処か見知らぬ国
を漂っていたはやての心は、漸く正常に戻り始めた。
「いや、そうじゃ無くてって。何で…ここに居るんですか?」
 はやては、看護師に半ば問い詰めるような形で泡を食って喋り出した。
 はやての、慌てっぷりが可笑しかったのだろう。看護師の一人が、忍び笑いを漏ら
しながら、包帯を丁寧に巻いていく。
「何故って私も管理局の一員ですから」
 それは分かっている。腕章と制服を見れば、彼女達が管理局の人間である事はすぐ
に理解出来る。はやてが聞きたいのは、そういう事では無い。
 何故好き好んで死地に赴いたかと言う事だ。
「仕事と言うのもありますけど…私にも守りたい人が居ますので」
 看護師は「それにあの怪物を放っておいたら大変な事になります…多くの人が死ぬ
かもしれません…そんな事私は絶対に嫌です」と続ける。
 彼女の薬指は鮮やかに光る真新しい指輪は嵌められている。
 それを見た瞬間、はやては、頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。
 誰かを守りたい。
 そんな単純な事を自分は言葉以上に理解出来ていなかったのでないか。そんな気に
させられたのだ。
 真新しい指輪。石やデザインからしても結婚指輪だろう。
 確かにディープホエールが、爆発すれば多くの人が死ぬかも知れない。酷い災害に
なるだろうが、非難勧告に従えば、彼女達の幸せが消えてしまう可能性はとても低い。
 なのに、彼女達は、はやて達を助けにここに来たのだ。
「極秘物質の輸送に関わった方々も、負傷した隊員達の救助に向かってくれました…
痛み止めです。チクっと来ますよ」
「法と倫理も大事です…でも、私達が管理局に入局したのは、身近な誰かを助ける為
ですから」
 腕に感じる鈍い痛みと、看護師達の微笑みは、はやてに大事な事を思い出させてく
れる。
「グリフィス君、何かプランはあるん?」
「あります。再度ケルベロス弐型で狙撃を敢行します」
「でも、残された魔力は殆ど無いで」
「ご心配なく…盗って来ましたから」
 グリフィスは、微笑みを絶やす事無くシレっと言ってのける。今何かグリフィスか
ら不穏な単語が出なかっただろうか。はやての背中から汗が流れるのがとまらない。

「な、何を?」
「ですから、魔力をです」
 重機が大型の機材をケルベロス弐型の傍へ運び、工員達が直径一メートルはあろう
かと言うパイプをケルベロス弐型へ接続していく。
「こういう台詞…実は好きじゃ無いんですが…こんな事もあろうかと思い!私が独断
で用意させて貰いました」
 気が乗っていない割には、グリフィスはノリノリで告げる。
「いや、盗ってって一体"何処"から"何を!や」
「第三技研からです。あそこは確か、艦隊用大型魔力コンデンサを研究してましたの
で、可能な限り徴発しておきました」
「おきましたって…部署も管轄も違うのに、一体どうやったんよ!機密費ももうすっ
からかんのはずやで」
六課に関わらず、管理局の課と付く部署には、他部署との交渉用に帳簿には決して
載らない裏帳簿が存在する。
 部署や縄張り争いを"平和的"に収める為に使うお金だ。大声で言えないが、はやて
は、作戦実行の為に今までプールしていた機密費を全てばら撒いて事を治めていた。
「それは…その…」
 グリフィスは、バツが悪そうに眼鏡をかきあげ、頭をかく。彼の名前はグリフィス
・ロウラン。忘れそうになるが、管理局へのコネクションだけ見ればはやてに匹敵す
る太い束を持っているのだ。
 それだけは無い。グリフィスの独断は、最初からはやての作戦が失敗する事を念頭
に置かねば、こうも迅速に物事を運ぶ事は出来ないはずだ。
「一応副指令なので」
「ほんま…私のとこは問題児ばっかりや」
 またも、しれっと告げるグリフィスを見ながら、はやては、実は六課で一番で腹黒
いのは彼では無いだろうかと盛大に溜息をついた。

『ティアナ、お前狙撃の経験は?』
「ありません」
『まっそりゃそうだわ』
 通信機から、ヴァイスの明朗な声が聞こえてくる。
 ティアナの戦闘スタイルは中遠距離射撃型。
 字面だけ見れば、狙撃も問題なさそうに感じるが、射撃と狙撃ではノウハウがまる
で違う。本来ならば、続けてヴァイスは狙撃主をすれば問題無かったのだが、利き腕
を負傷していては正確な射撃は期待出来ない。
 ティアナにお鉢が回ってくる事はティアナ自身何となく予想していたが、いざ自分
の身に降りかかってくると、部隊を指揮するとは、また違った重圧が肩にずしりと伸
し掛かってくるのだ。
『気楽にやれとは言えない。肩の力を抜けとも言わない。でもな、皆の命はお前に任
せた』
「はい」
 ヴァイスの言葉を聞くと、いつもは羽のように軽いクロスミラージュが鉛のように
重たく感じた。
 受け取った狙撃デバイスをクロスミラージュに装着し、外部アタッチメント用のコ
ネクタから伸びたケーブルが、ケルベロス弐型へと繋がれている。
 その隣では、リインフォースⅡとシャリオが、指揮車両から外した端末を半壊した
制御ユニットへと繋いでいる。
 ケルベロス弐型には、艦隊用の巨大コンデンサが接続され、折れたアンカーを重機
で無理やり支えている為、元々野戦仕様で無かった機体が、廃棄物のようにより一層
仰々しい形を見せている。
 半壊した制御ユニットの中で、ティアナとはやては、二人羽折の格好でクロスミラ
ージュを構えていた。狙撃はティアナが、機体の制御は引き続きはやてが受け持つ事
は決定していた。狙撃ユニットは崖下で大破している為、制御ユニットの一部を流用
したのだ。
『分かってると思うけど…一発勝負だぞ』
「はい」
 通信機から流れてくるヴァイスの声がやけに遠く聞こえる。
 元々急作りな狙撃用デバイスのジャンクパーツから作った、クロスミラージュ用即
席狙撃デバイスである。
 専用FCSは未実装な上に、上空を飛ぶ哨戒機とのデータリンクも機能もついてい
ない。観測データを反映する事は可能だが、命中精度は事実上狙撃主の目視に頼らざ
るを得ないのが実情だ。
 本音を言ってしまえばAIによる補正が出来ない今、命中確立は砂漠の中の針を撃
ち抜くようなものだ。距離約二千メートルの先の目標の胸に空いた、直径約二メート
ルの穴に命中させなければならないのだ。
 文字通り万に一つよりも低い。
(おさまれ私の心臓)
 ティアナの心臓は、早鐘のように高鳴り留まる所を知らない。
 息を吸い吐く。
 呼吸をするだけの行為が、酷く緩慢で苦しい。肺を直接握り締められているように
息苦しいのだ。
 周囲の慌しい声がいつの間にか消え、音は愚か匂いすら跡形も無く消え足元が酷く
頼りなく感じる。無音の世界に一人取り残されたような気がして、ティアナは目の前
が暗く染まっていくのを感じる。

「なぁティア」
「な、なんですか」
 耳元で聞こえたはやての声で、遠くなっていた意識が戻り音がビデオテープの逆回
しのように急速に戻り始める。
「ティアは強いな…」
「えっ」
 ぽつりとはやてから小鳥の囀りよりも小さく弱々しい声が聞こえる。
 はやては、ティアナの背に伸し掛かる体勢の為表情を窺い知る事は出来ない。
「だから…その強さ私にも分けてな」
 背中から聞こえる声は相変わらず弱々しい。しかし、はやての声には、弱さと見つ
め克服しようとする決意を感じる取る事が出来た。
 背中に感じるはやての体温は熱い。
 そして、それと同じ位自分自身の体温も熱い。
 いつの間にか心臓の鼓動は治まり震えていた手は止まっていた。
「…はい」
 はやての問いにティアナは精一杯力と決意を込めて答える。
 はやての、背中越しに感じる体温は相変わらず熱く、ティアナの心に安らぎを与え
てくれた。