――ここまで来れば充分だろう。
深い森の中にある山道。鉛色の空の下で、彼は木の幹に肩を預けて倒れこんだ。
腕の中の小さな温もりを、残った力で抱きしめる。
だが先ほどの戦闘による負傷で、視界の焦点が合わない。
彼は、いよいよかと覚悟を決める。
「シン! どこにいるの!? シン!」
そのとき、鈴のような声が茂みの向こうから聞こえた。
朦朧とした意識の中で、彼は吐血する様に声を絞り出す。
「ここだ……ルナ……」
無意識に、腕の中にあるものをきつく抱いた。
「いた! シン!」
茂みの向こうから声が迫ってくる。
――届いた。
短く切った赤毛は古くからの友人のものだった。
ルナマリア・ホーク。聞いた話によると、まだザフトに所属しているらしい。
「数年ぶりだってのにいきなりプラントから古臭い手紙なんかで呼び出したと思ったら何なのよこれは!?
地球ではアンタはA級テロリストで、連合とザフト相手に喧嘩売っただとか聞いたわ!
しかもアンタがいる町についたと思ったら、【騎士団】の連中と住民が銃撃戦していたし!!
いったい何が起こっているかさっぱりだわ! 説明してよ!」
息を切らしながら、ルナマリアは開口するとまず機関銃のようにまくしたてた。
彼女の言うことはもっともだった。
だがもう彼にそんな時間はない。
「ゴメン……ルナ。説明してる時間はないんだ」
かすれた声でそう言うと、すっと腕の中にあるものをルナマリアに差し出す。
彼が大切そうに抱いていたもの、それは赤ん坊だった。
ふっくらとした頬は愛らしく、透き通るような赤い唇からは寝息が漏れている。
うっすらと生えたばかりの髪は黄金の色をしており、まだ首も座らないような赤ん坊だった。
後に言われたところによるとルナマリアは、そのとき女の子だなとすぐわかったらしい。
ルナマリアが赤子を受け取り、その顔をけげんそうにのぞきこむ。
その時、金の睫毛で飾られた瞼(まぶた)がぱちくりと開かれた。
その大きな瞳は、まるで磨き上げられたルビーのような深紅の色をしている。
「紅い目……まさか……この子が手紙の!?」
「ああ、俺の……最後の希望だ」
彼の紅い瞳には、その赤ん坊をいつくしむように映っている。
――やっと信頼できる人に任せられる。
そうして緊張がほどけたからか、一文字に固くひき結ばれていた口からは安堵のため息が漏れ、
ようやくゆるやかな弧を描いた。
彼はその愛しい顔を見ようと手をかざすと、赤ん坊はその小さく未発達な手で、彼の大きな人差し指をやんわりと包み込んだ。
――『行かないで』
友人の腕の中で、そう大きな瞳で訴えかけられている気がした。
だが彼はゆっくり、ゆっくりと赤ん坊の小さな指を一本一本やさしくほどいていく。
その柔らかい手を振り払うのは、彼にとっては大変な労力だった。
最後の力を体の芯から絞り出すように、彼はよろめきながら立ち上がる。
「娘を……頼む……。必要なことは全部その服の中の手紙に……」
「え!? ちょっ、ちょっとシン……!?」
ルナマリアは、絶句した。
そこで初めて、立ち上がった彼の脇腹に刃物のような金属製の破片が突き刺さっているのが見えたのだ。
ボロボロのTシャツは破片を中心に赤く染まっている。
「連合の避難船が……この道を真っすぐ行った向こうの麓にきている。
だからそいつを……守ってくれ」
「だからって! この子を一人にするつもりなの!?」
その返答は、けたたましい第三者の声により遮られた。
『敵はまだ近くにいるはずだ! これよりこの区域で警戒態勢に入る!』
『了解、敵を見つけ次第殲滅せよ。ラクス様のために!』
耳障りな砂利を蹴る足音が聞こえてきた。近い。
「俺が……騎士団を避難船から引き離すから。
行ってくれ……ルナ。……行けっ!!」
ルナマリアはためらうような仕草を一瞬見せたが、
シンが張り上げた怒声に気押され、何も言えなくなり俯く。
うつむいた彼女の顔からこぼれた水滴が、腕の中の赤ん坊の服にシミを作る。
「死ぬんじゃないわよ!? 死んだりなんかしたら、死んだりなんかしたら!!
許さ……ないんだから……」
くるりと背を向け、ルナマリアは駆け出した。
赤ん坊を突き出た枝から庇いながら茂みを突き破り、
疾走する姿を見届けると、彼はルナマリアとは逆の方向に走り出した。
激痛をこらえながら走りぬき、目的の場所に到着すると、彼は近くの巨大な岩に手をかざした。
「確かレバーはこの辺に……あった」
否、それは岩ではなかった。
木々の間を縫うようにかけられたカモフラージュ用のネットの下に、
コケやつたに覆われた巨人が片膝をついている。
慣れた手つきで錆びついた胸部ハッチをこじ開け、シートに腰掛ける。
ハッチが不協和音を立てながら閉じていき、装甲とかみ合う音を立てると、
目の前のヒビが入った画面に目をやる。
起動シーケンスは全て簡略化、最低限の各部の機動チェックだけ行った。
手入れもせずに動く様子から『ザフト驚異の科学力』に彼は心底感謝した。
それらが終わると最後に、まるで仲のいい友人とのやり取りのようにこつんとコックピットの壁ををノックする。
「お前とは長い付き合いだったな。けど多分、これで最後だ。」
動力炉に火が入り、ブチブチとネットを引き裂きながら四肢に力が漲っていくのがわかる。
OSの頭文字『G・U・N・D・A・M』がチカチカと点滅した。
――行こうぜ、『相棒』
と機体が自分にそう言っている。
内臓武器はすでに死んでいる。外装武装なんて数年前の戦場で捨てたまんまだ。
そもそも動くということ自体が奇跡だが、彼には『負ける』気は微塵も無い。
――アイツだけは守り抜く、そう決めたのだ。
「シン・アスカ! デスティニー! 行きます!」
『運命』は赤い翼を広げ、飛び立っていった。
揺れる避難船内、名も知らぬ女性の腕の中。
赤ん坊はその大きな瞳で、船内に備え付けられたモニターをとらえた。
画面の向こうではディオキアの町の上空で、蒼い死の天使と赤い翼の悪魔が飛び交っている。
――『おとうさん……』
たびたび船を襲う振動がその光景が現実であることを教えてくれた。
青い天使の放つ閃光が悪魔の体を貫いたとき、船内にどよめきが起こる。
シン・アスカは赤い悪魔に乗り、自分たちを逃がすため戦っていることを彼らは知っていたのだ。
地に堕ちた悪魔を、無数の蒼い天使たちが獲物をむさぼるように閃光を浴びせかける。
赤い悪魔が、爆ぜた。
「――っうわぁぁぁぁぁぁぁあん!!」
船内に赤ん坊の泣き声が反響する。
この小さな命を託されたルナマリア・ホークは強く抱きしめた。
「大丈夫……あなたは私が守るから」
赤ん坊の泣き声は、やまなかった。