「と、言うわけさ」
長い、長い話が終わって。
ノジコの話を全て理解したシンが抱いた感情は、ナミという少女に対する尊敬の念であった。
もしも、自分が彼女くらいの時に同じ境遇に置かれたらどうするのだろうか? とてもではないが、彼女のような賢い選択はできないだろう。ただ、年相応の子供らしく、泣き喚き、後先考えずにアーロンを殺そうとしたはずだ。
自分の故郷を買い取るために、自分の親を殺した男の部下になる。それが、どれ程つらい事だろうか。しかも、その金額は1億ベリーという高額だ。
何度、彼女は絶望しただろう。何度、彼女は逃げ出したいと思っていただろう。
10になったばかりの童が抱くような決意ではない。抱いていい種類の決意でもない。
村人達は、ナミの事情を既に知っているそうだ。運命の日に余りに可笑しいナミの様子に、周りの大人たちがノジコを問い詰め白状させたのだという。
しかし、彼女はそのことを……事実が知られている事を、知らないのだ。彼女は村人達が『母親を殺した人間に金で従う魔女』として、自分の事を忌み嫌っていると思い込んでいる。
どれ程つらい日々だっただろう。幼い子供にとって、それは生半可な日々ではなかったはずだ。
当然の幸せを、個人のエゴで奪われて、非常識な苦痛を強いられる。そのあり方は、まるで――
『シン……守ってくれる?』
あの、少女のようで。
『シン……好き』
自分を好きだといってくれた、守りきれなかった儚い少女のようで。
『シン……』
『シン……!』
「今あんたらが魚人たちに逆らったら、あの子の8年の戦いが無駄になる!」
思考に没頭していたシンが我に返ると、サンジがノジコに殴り飛ばされていた。大方、『ナミさんを泣かせる奴はゆるさねえ!』とかわめいたのだろうが。
「一人で戦わなきゃ行けないあの子にとって、仲間と呼んでくれる奴らの存在が一番辛いんだ」
「…………」
確かに。
ノジコの言うとおり、この場で騒いではナミは魚人たちから疑われ、全てが無駄になってしまうだろう。アーロンの元で耐え忍んできた八年間の蓄積が、一気に砕けてしまうわけだ。
訴えを続けるノジコを放置して、シンが何かを押し殺した声で言い放ったのは、ちょうどその時だった。
「そういうのは、船長のルフィが決めることだ。俺たちが決めることじゃない」
「なっ!」
みしりと。
腕組みをしていたシンの、腕の骨が軋んでなった。余りの突き放したいいように、何か言おうとしたノジコは、垣間見たシンの表情に息を呑む。
アスカ・シン……いや、シン・アスカの紅い瞳が、怒りを結晶化させたルビーに見えたのだ。余りにも美しく、そして、激しい感情の流れだった。
「おいおい、どうする気だよシン。あんな事言って」
シンの余りの言い様に、怒気を撒き散らしながら帰っていくノジコの背中を見送ってから、ウソップは口を開いた。サンジも、その通りだとばかりに、
「まったくだ。ナミさんのお姉さま相手にあの言いようはねえだろう」
「そうかな」
くしゃりと、シンは己の前髪を握りつぶした。怒りで我を失いそうになるのを必死で抑えながら、それでも言葉を選んで紡いでいく。
「魚人アーロンって奴が、俺の思っているような奴なら……ナミとの契約は多分、守られる事は無い」
「なんだと?」
「エゴの塊みたいな奴は、自分のために何処までも他人の心情を踏みにじれるもんだ」
『彼女』を作り上げた輩が、そうであったように。
「何処までも身勝手に、な」
「あ た り ま え だ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ っ ! ! ! !」
ルフィの咆哮が、大気を揺らして仲間達の耳朶を打つ。
それは、先刻シンが抱いたものと全く変わらない感情の流れ。激しい怒りの発露……!
後ろでその声を聞きながら、シンは手にした布包みを握り締める。
状況は……正直に言えば、さっぱり分からなかった。
ルフィと合流するためにココヤシ村についてみれば、村人達が大挙してアーロンパークへ向かうのとすれ違い。行き着いてみれば、ナミが腕から血を流しながら泣いていた。
経緯や事情など、ルフィにとってはどうでもいい。問題なのは、ナミが泣いていたという事実のみ。
シン達に理解できるのは、ルフィが殴りこみをする決意を固めたのだという事実。
「行くぞ」
『応っ!』
静かに、激しい怒りを燃やす船長に応え。四人の仲間達は立ち上がった。
ココヤシ村を初めとしたアーロンの支配地域一体における、魚人に対する印象は、憎しみ一色で染まっている。同じように、魚人ドニールに対する認識は、『うざったい魚人』の一言で完結してしまう。
余りにフレンドリーすぎるのに加えて、アーロンパーク完成当時からの構成員ではないからだろう。加えて、魚人とトラブルを起こした時によく間に割って入ってくれるのもある。
魚人の癖に差別意識が無いという、変な奴だった。そういう事情からか、ドニールはよく、近隣の村を散歩したりして時間をつぶす。
パークのほうにいても、話し相手がハチぐらいのものなの上、やる事はブロームの世話ぐらいしかない。ぶっちゃけ、暇極まりないのである。
その彼が、珍しく今日はアーロンパークで詰めていた。
アーロンパークの中央、アーロンの指定席の前で、ただ黙々と手にした『たわし』の手入れをしている……ブロームの甲羅を磨くための、大事な小道具だ。甲羅の強度が強度なため、手入れを欠かすとすぐに壊れるのだ。
ブロームはアレでいて中々賢く、飼育係のドニールがすることといえば、三日に一度の甲羅磨きと餌やりくらいのものだ。それ以外の唯一の作業……鼻歌を歌いつつ、陽気にやるのが常なのだが、本当に珍しいことに、今のドニールは不機嫌であった。
場所も場所である。いつもなら隅っこのほうで細々とやるものをパークのど真ん中で見せ付けるようにやっている。
「おうドニール。随分と機嫌が悪そうじゃねえか」
怒っていても大して迫力が無いからか。そんなドニールに、背後から気安い声がかかる。
「今さっき、最悪になったところッスよ」
「ドニール! 貴様!」
背後からかかった声に、振り向きもせずに答えるドニール。それが気に入らなかったのか、声の主の横に着きしたがっていた魚人がいきり立つが、声の主が片手でそれを制した
「まぁ、落ち着けクロオビ」
水色の肌に、特徴的なノコギリ状の鼻。魚人海賊団の中でも、大柄な体格……この主は、名前をアーロンといった。
ココヤシ村一体を支配する、東の海最強の魚人……
「何か、含むところでもあるのかドニール? この俺の判断に」
「ありまくりです」
一味のものならば震え上がるであろう、威圧感を含んだアーロンの問い。しかし、ドニールはためらうことなく言い返す。その様子を見て、クロオビは忌々しげに舌打ちした。
別にこいつが凄いのではなく、弱すぎて声に潜む威圧感にすら気付けていないというのが、魚人一同の見解だ。それでもなお、アーロンと対等だといわんばかりのドニールの態度が、クロオビには腹立たしかった。
(化け物の寄生虫がっ!)
化け物呼ばわりされるとブロームが切れるという前情報がなければ、本気でそう口にしていただろう。
アーロン一味の中で、ドニールを最も忌み嫌っているのが、クロオビであった。ある意味では、人間に対するそれよりも、嫌悪感は深いかもしれない。己の体を鍛え、高める空手家であるクロオビにとって、自分以外の力に頼りきるドニールの生き方は到底許容できるものではない。
そんなクロオビの内心に気付かないのか、ドニールはなおも言い募る。
「途中からしか聞いてませんでしたけど、要するにナミの溜め込んだ金を、海軍使って横取りしたんスよね」
「ああそうだ! あいつには、アーロン帝国のためにもっと働いてもらわねえとなあ」
「やり方があざとすぎませんかね? こんな扱いじゃあ、ナミやココヤシ村の連中に喧嘩の特売してるようなもんでしょ」
「はっ! 下等な人間に何が出来る」
ドニールへの反感からクロオビが言い返すが、ドニールはそれを綺麗にシカトして、
「やるんだったら、別の条件にすりゃあよかったんですよ」
「別の条件?」
「ええ。ココヤシ村じゃあなくて、よその村も解放するって言う交換条件です」
「ほぅ……?」
ドニールの言葉に検討する価値を見つけたらしく、アーロンの双眸が細まり、瞳に興味の光が宿る。ドニールはそんなアーロンの反応に関係なく、言葉を続けていった。
「どーせ、ナミが溜めるより俺たちが島支配するほうが早いんですから……
ひとつの集落を一億とすれば何とかなるっしょ」
「確かにいい案ではあるが、使えねえな。ナミの奴が、よその村の為に命をかける理由がねえ」
「ナミはそこまで冷酷になれる女じゃありませんよ……まあ、どの道手遅れですがね」
事態がこうなったからには、ナミに今まで通り働いてもらうというわけにも行かないだろう。最悪、村人達と示し合わせて、ナミ一人だけでも逃げるかもしれない。
最悪の選択肢だろう。選べば、村人全員皆殺しという、ナミがそれを望むはずも無い選択肢だが、村人達から言い出す可能性は捨てきれないのだ。
おかげで村でいたたまれなくなり、気持ちのいい散歩を中断する羽目になった。
生意気な言いようだと、クロオビは更に不機嫌になった。分からないのは、この寄生虫をアーロンが必要以上に気に入っており、こういう無礼な言動を許容している事である。
一度など、ゴサの町の人間の助命嘆願をしてきて、なんとそれが通ってしまった。これによって、本当ならば生き残りを一人も出さない予定が、かなりの数の生き残りが発生してしまったのだ。
そこから派生した結果が、先程の海軍の救出騒動であり、さらにクロオビが踏みにじられる原因にもつながる……ここまでくると逆恨み臭いが。
先程の一件……賞金稼ぎらしい二人組みも、ドニールの口利きで生かして返したのだ。
「シャハハハハハハッ! 深く考えすぎだドニール! 手前とブロームがいりゃあアーロンパークはさらに磐石だよ!」
「へいへい。そいつぁどーも」
(寄生虫が!)
再び内心で吐き捨てて。
クロオビは、その場を動こうとしないドニールの襟首をつまみあげようとして……
ど ご ん っ !
扉の咆哮から響いた轟音に、動きを止めた。
『!?』
「なんだっ!?」
余りの轟音に、魚人海賊団一同思わず音源を注視する。
そこは、ある意味でナミ専用に作られたといっても過言ではない、アーロンパークの陸路側の入り口。魚人たちは常に海側から出入りしているので、この扉を開けるのは人間だけである。
とち狂った賞金稼ぎや、反乱を起こした人間達……ナミ以外でこの扉をくぐるものは、ほぼ例外なくアーロン一味の敵であった。先程も、殺す価値も無いような弱すぎる人間が殴りこんできた時に、この扉をくぐってきたものだ。
しかし。
今までの、どんな場合においても、こんな轟音が響き渡った事はなかった。石製の扉を、殴り割ろうとしているかのような音など……!
加えて……
(――違う!?)
小型魚の魚人は、魚人の中ではとりわけ非力である。
それゆえに、力以外の五感……特に、気配を感じる感覚発達しているのだ。敵意から身を守るため、逃げ回るための力。
ドニールは小型魚人から見てもずば抜けた感覚を誇っていた。クロオビなどは狡いだけだと嘲笑うこの感覚が今最大限に警鐘を鳴らしている。
今までその扉から踏み入ってきたものたちは、様々な虚勢を張った。二つ名を叫ぶものもいた、叫びながら突撃するものもした……彼らの気配に共通するのは、気配から滲み出る恐怖、畏怖、怯えの感情だ。それらが交じり合って、えもいえぬ哀れな気配を放っていたものだ。
東の海最悪の男、アーロンの居城を攻めるのだ、恐怖が無いはずが無い。
なのに、
(こ、この気配―― 恐 怖 が 無 い ! ? )
全くアーロンを恐れないという、闖入者達の内心の証明。
その正体が無謀なのか、勇気なのか、ドニールに理解できるはずもなく。
ど ご ぉ ん っ ! ! ! !
ドニールが違和感の正体に気付いた刹那、再度の轟音とともに、扉は粉々に砕け散った!
粉々にされ、ぶちまけられた門は、もはや門と呼べるものではない、ただの破片だった。
破片とその破壊による衝撃が巻き起こした土煙が立ち込めて、晴れた後には……ドニールが目をむく光景があった。
「アーロンってのは、どいつだ?」
怒りに燃える麦わらの男と、同じ規模の憤怒に身をやつす赤服の男。二人の男が、手に武器らしきものを持ったココヤシ村の住民達を引き連れて、佇んでいた。