神代の昔大穴牟遅・少毘古那の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、
二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時、
阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)
この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである。
時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に寵もり永劫に国土を鎮めん
と言明せられたのである以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と構して居る所以である。
鎮の石室は三方岩壁に囲まれた巨岩の殿営で池中に浮く東西に横たわりたる姿である。
その容積は三間半(約七㍍)四方で棟丈は二丈六尺(約六㍍)である。この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、
この屑石を人や動物に踏ませじと一里北に在る霊峰高御位山の山頂に整然と捨て置かれて居る。
池中の水は霊水にして如伺なる旱魃に於いても渇することなく海水の満干を表はし又万病に卓効有るものと云われて居る。
人皇十代崇神天皇の御代(西暦九七年)日木全土に悪疫が流行して人民死滅の境にある時、
ある夜二神が天皇の夢枕に現れ「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり依りて此所に
生石神社が創建せられたのである。以来忽ら悪疫も終息して天下泰平となる。
人皇十三代成務天皇十一年(約一九〇〇年前)に當生石神社の分霊として羽後国飽海郡平田村生石(現在山形県酒田市
大字生石)より勧請せられ現在古色豊かに生石神社として栄えて居り當社の分霊として親善の交流を続けて居るのである。
天正七年(西暦一五七九年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が三木城攻路の折神吉城も落さんとして當神社を陣所に貸与せよ
との申出に対し、兄の城を攻める(時の宮司は神吉城主の弟)陣所には貸さぬと拒否したるため、秀吉の怒に触れて焼き撃に逢い、
そのため神社伝来の凡てが一瞬にして灰燼に帰したのである。
その時焼け残った梵鐘は持去られ、後日関ヶ原の戦に西軍石田三成の勇将大谷刑部吉隆が陣鐘として使用したるも、
敗戦の結果徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄附し、敵将ながらも実に惜しむべき武将であると慨嘆し、
朝夕此の鐘を撞いて未来永劫に吉隆及び戦者霊を慰さめよとの事であったと云われて居る。
現に大垣市の指定文化財として保存せられ鐘の表面には當生石神社名が刻銘さる。
(日本三奇とは當社・石乃寶殿(石)、東北地方塩竃神社の塩竃(鐡)及び九州地方霧島神宮の天乃逆鉾(銅)を謂う。)
横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの鎮の石室(しずのいわや)は、誰が何の目的に造ったかは明らかでありません。
水面に浮かんでいるように見えるので、浮石とも言われます。岩の上部には多くの雑木が繁茂しています。
この池の水は旱魃でも枯れることはなかった、海面の潮位と連動しているなどの伝承があります。
この付近から採れる石材は竜山石(近年では宝殿石)という凝灰岩の岩石で、
古来から奈良県の古墳の石棺、姫路城の石垣などの建築資材、近年では国会議事堂、帝国ホテルなどに使用されました。
神社の近くには石切場が残ります。また、すぐ近くの山では現在進行形で採石が行われていました。
個人的には母の実家が近くにあり、何度も幼少の頃からお参りした思い出の神社です。
神社から観濤処までの岩肌が露出した道が切り立っていてスリル満点だったことを覚えています。