又「伊予風土記」では「仁徳天皇のころ、最初攝津の国、御嶋の地に座した」とあり、
それは「続日本記」の「別記」によれば、「摂津の国嶋下郡三嶋鴨社なり」とある。
即ち往古よりの「嶋氏」始建に加担するかたちで百済系の渡来人がその頃創建したもので、
当社からの分社の「三島鴨神社由来」では「地所は、島上郡、島下郡の中間で
三島藍の陵(継体天皇御陵)より巽方四丁(約四百m)にあり往古は小社にあらず」とある。
然る後、当社「大山積命」を守護神とする右記百済系の「三島氏」が百済との海上交易を深める為、
当攝津の国から愛媛県の伊予大三島に「三島大社」を勧請し、後の三島水軍の守護神となった。
また、伊豆にも東上し、伊豆の「三島大社」をも起すなど、
当社は全国千数百の三島神社の発祥の大本の地でもある。
【高倉天皇(即位1168年)由緒】
平清盛の妹で、後白河天皇の中宮、建春門院が皇子誕生を当社に祈願したところ、
高倉天皇が生誕され、これを祝し京都に「三島神社」(五條坂)を造営された。
尚、高倉天皇の中宮は、平清盛の次女で後の建礼門院で、その子が安徳天皇である。
茨木市と高槻市の境目に位置します。なぜか周辺はエディオン・ヤマダ、ジョーシンと電器店が多いです。
神社の場所はかなり分かりづらく、国道171号からまっすぐ向かう道はなく、まわり道を通る必要があります。
神社の周りは新興住宅地に囲まれていますが、異なった雰囲気を醸し出していました。
南東に隣接するマンション建設に伴う発掘調査から、720年代の柱・柵の跡が発掘されました。
赤大路の領域はかなり広く、東は富田、北は宮田(鴨神社が支配する「宮」の「田」から)、
東太田は赤大路新田と云われていました。茶臼山藍野陵付近には鴨族とゆかりのある太田連がいました。
京都では上賀茂神社?と太田神社?が並び立っているので興味深いです。
高槻市三島江には三島鴨神社がありますが、元々「三島神社」と称していました。
その後、何らかの理由により赤大路の「三烏鴨神社」の名称が移されたと考えられます。
いずれも延喜式神名帳に記載の「摂津国嶋下郡の三島鴨神社」の式内社(論社)に比定されています。