【神武天皇のご偉業】
神日本磐余彦天皇は、ご幼名を狭野命と申し上げました。
天照大御神から五代目の御孫にあたります。
鸚鵡草葺不合尊(鵜戸神宮ご祭神)の第四皇子で、母は玉依姫命と申します。
天皇は、御年十五歳の時皇太子に即かれ、宮崎で政治をとられましたが、
当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく皇威が全国に輝くというわけではありませんでした。
そこで天皇は父祖のご意志を継ぎ天下万民が幸せに暮らせるようにとお考えになり、
御年四十五歳の時に都を日本の中央に遷すべく、美々津の港から船出され、ご東征の途につかれました。
皇軍は、海路速吸門(豊予海峡)を通過、菟狭(大分県?)、岡水門(福岡県)、埃宮(広島県)に
お寄りになり、翌年三月には更に高嶋宮(岡山県)に到り、三年を行宮に座して軍備を整えられました。
それから浪速の河内国草香邑(大阪府)に上陸されたのですが、賊酋長髄彦が降伏しなかったことから、
遂に道を改め、海路紀伊国へ熊野路(和歌山県)から攻め入られたのです。
此の間、皇兄五瀬命は戦傷で蔓去され、また熊野灘では皇兄三毛入野命と稲飯命を始め
幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難をなめさせられました。
熊野に上陸すると天皇は、高倉下や八咫鳥の忠勤によって大和に攻め入りご平定遊ばされました。
そして、畝傍の橿原に宮殿を建てられ「八紘を掩いて宇と為さむ」とおっしやって、
第一代の天皇(神武天皇)にご即位遊ばされました。
ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。
【宮崎神宮の創建】
社伝によれば、本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(熊本・阿蘇神社ご祭神)が
九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。
下って第十代崇神天皇、第十二代景行天皇の熊襲ご征討の際に社殿のご造営があり、
ついで第十五代応神天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭せられた旨が旧記に伝えられています。
現在の社殿は明治四十年に建て替えられたもので日向の名材狭野杉を用い白木で銅版葺きの神明造りです。
市街地中心部に広がる緑地に鎮座する神社の一社で、隣接して護国神社があります。
神武天皇が大和・橿原宮まで東征した偉業を称え、孫の健磐龍命が鎮祭したのが始まりです。
社殿は狭野神社の付近に生えている杉材「狭野杉」を用いており、神明造りの堂々とした本殿です。
ここは神武天皇の初めの皇居の内裏跡。
朝の清清しい参道が気持ちのよい空気でした。