纓術

Last-modified: 2022-03-30 (水) 12:37:17

纓術(えいじゅつ)は、中国の伝承上に登場する邪術で、さまざまな呪術的効果をもたらすという。「陰陽五行説」では陰に属するが、「金烏玉兎集」には陽の要素があるとされる。

概要

中国の伝承によれば、殷の時代から周の時代にかけて栄えた卜占の術である。占いに用いる道具や方法に様々な種類がある。また、その方法は秘伝とされ、門外不出であったともいう。
中国における呪術・呪法の起源は紀元前二千年前後にまで遡ると考えられている。しかし、実際にどのような技術があったのかはよく分かっておらず、殷墟から出土した文書によってその存在が確認されたのみである。
殷王朝が滅びた後も、各地に散った人々は呪術を用いて社会を治めていた。しかし、次第に道教の影響が強まり、神仙思想が浸透すると、神秘的な力に頼るよりも、合理的な思考と実践を重視する傾向が強くなっていった。その結果として、民間に伝わる様々な呪術は廃れていった。
その後、漢代になると、儒教の影響もあって再び民間の呪術が盛んになった。特に、多くの民間伝承が残されていた纓術が体系化されていった。そして、前漢末の劉向によって編纂された『抱朴子』において体系的にまとめられ、更に後漢末に張機によって完成された『列仙伝』にも収録されるに至った。
その後は、宋の時代に道士たちが独自の発展を遂げて、様々な流派が生まれた。また、これらの流派から派生したものも数多い。ただし、それらのほとんどは民間信仰の延長線上にあるものであって、呪術そのものの技術を伝えるものではなかった。そのため、後世に残る資料も少なく、その内容も漠然としたものに留まっている。
なお、日本における陰陽道でも古くから纓術が研究されており、『日本書紀』や『日本霊異記』、『本草和名』などの文献にもその名が見られる。

歴史

春秋時代まで、中国の呪術はもっぱら口承によるものであった。例えば、紀元前六世紀の思想家である韓非子は、呪術について以下のように述べている。
「人が呪術を行うときは、まず火を用いることが多い。なぜならば、火は万物を構成する要素であり、また火は人にとって特別な意味を持つからである。例えば、ある者が『犬よ去れ!』と言ったとする。そのときに、もし本当に犬がいなくなれば、それはその者自身が何らかの方法で呪術を行ったことを意味する」
このように、呪術とは呪文を唱えたり、何か物品を用いたりするものではなく、あくまで自然現象を利用するものであるというのが当時の一般的な考え方だった。しかし、やがて秦代の始皇帝の治世になると、呪術は政治に利用されるようになった。
始皇帝の死後、劉邦とその一族たちは、漢王朝の再興を目指して各地で反乱を引き起こすことになる。この乱の中で、劉邦の一族の一人である呂尚(後の姜太公)は、王侯たちに対して纓術を用い、彼らの心を操ることによって自らに従うように仕向けたのである。これが、いわゆる「反魂香」の伝説の始まりであるとされる。
しかしながら、漢朝の復興を目指す人々の多くは、あくまでも伝統的な呪術を信じており、そうした者たちからは受け入れられなかった。そこで、彼らは新たに「方術」と呼ばれる新しい呪術を生み出すことになった。これは、既存の魔術理論を応用して、より科学的な手法で占いやまじないを行うことを意図したものである。
こうして生まれた方術は、後に様々な流派を生み出していくことになる。その中でも有名なものが、纓術を改良した「纓術方程式」である。これは数学的な観点から纓術を分析し直し、より実用的なものにしようとした試みである。この方法により、方術は多くの人に受け入れられるようになったという。また、後世になって、魏晋南北朝時代の詩人賈島によって編まれた『詠経題詩』には、纓術方程式に関する以下の文章が収録されている。
「今世において纓術方程式を学ぶ者は、ただ学べば良いのではなく、よく理解しなくてはならない。そして、理解するだけでなく、それを実地に活用しなければならないのだ。そうしなければ、何の成果も得られないだろう」
その後、唐代に入ると、道教の教義と結びついた形で、様々な種類の纓術方程式が作られた。例えば、「風水」は地理に基づいた占いであり、星の運行を解釈するものであるため4次関数を用いて計算する。こうした纓術方程式が体系的にまとめられたのが、「四書」の一つである『礼記』に収録されている『周易注』である。
『周易』は周時代における最高の占術書とされており、「周易」を学んだ占師は皆優れた占い師となったと伝えられている。そして、その流れを受けて、北宋の時代に『周易伝』が刊行された。これによって、それまで口伝に頼っていた占いの技術が体系化され、中国全土へと広がっていったのである。
なお、『周易』の他にも、南宋の朱熹によって編纂された『太玄経』や『大周易伝』といった書物が刊行され、これらは広く人々に読まれることになった。これらは全て、占いの方法を記したものであり、中には『周易』には無い独自の占術も数多く記されている。
日本の陰陽道においても、平安時代の安倍晴明は『金烏玉兎集』を読み解き、独自の纓術方程式『高次纓術牢壱』を開発している。『天文要略』では、陰陽五行説に基づきながら、九星の配列を算出する方法が記されている。
室町時代になると、西洋占星術が伝来したことで、更に大きな発展を見せるようになる。例えば、黒田官兵衛は、南蛮科学の知識を用いて天正暦法と纓術方程式を合体させた『泰山府君秘術』を著した。この『泰山府君秘術』は、キリシタン宣教師のルイス・フロイスによって日本に紹介された。
そして、安土桃山時代になると、イエズス会士のコジモ・デ・メディチは『坤輿万国全図』を作成し、そこに記された中国の天文学をもとに、独自の算術式を用いて中国占星術を完成させた。さらに、慶長八年に刊行された『日葡辞書』では、陰陽道の項目において、日本古来の神仏習合の思想に基づいて、独自に編み出された陰陽道の解説がなされている。これは後に纓術方程式の発展に多大に寄与することとなる。
江戸時代初期、朱子学の影響を受けて日本で成立した算額絵馬も、もともとは中国の古い思想から生まれたものだった。中国の古い思想である「六壬神課」は、六つの方位を天地人の三才に配当して運勢を測定することを主目的としていた。この考え方は、日本における陰陽道にも取り入れられるようになり、やがて民間の信仰として定着することになったのである。
しかし、民間に広く流布したとはいえ、実際にはその実態はほとんど知られていないと言っても良い状況だった。なぜならば、多くの人々が「六壬神課」そのものの存在を知らなかったからである。そのため、江戸時代の日本では、陰陽道のことを単に「六壬神課」と呼んでいた。
これを問題視した江戸幕府は寛永十二年から寛文元年にかけて全国の寺社に対し、「六壬神課」の研究を命じた。その結果、多くの神社で『日本書紀』、『続日本紀』、および『本草和名』、『類聚三代格』、『皇陽経理』『本草綱目』などの文献が発見され、また、各地の名産が「陰宅」と呼ばれる特殊な施設に集められた。
こうして収集された資料を基に、江戸時代を通じて「六壬神課」についての研究が進められていった。特に、明暦二年から寛文七年にかけて刊行された『和漢三才図会』は、日本初の本格的な呪術事典として高い評価を受けている。

フィクションにおける纓術

芥見下々の漫画『呪術廻戦』では、呪術の源は呪いではなく、あくまでも自然現象を人為的に利用したものであるという世界観が描かれている。しかし、この作品に登場する「呪力」は、あくまで物理法則を超えた超常的な効果を発揮するものである。
この背景には、「陰陽道」に代表される東洋的な発想と、キリスト教に由来するキリスト教の「奇跡」の考え方が影響されているものと思われる。また、この作品では、独自の纓術方程式が作成されており、実際に使用することもできる。

関連項目

纓術における噤力作用方程式の一覧