食券券売機の乱

Last-modified: 2023-08-17 (木) 23:03:06

食券券売機の乱とは、かつて日本に存在した株式会社「日本食堂」の創業者である大久保彦左衛門が1930年代に発案した、食券を買わせることによるコスト削減システムのことである。

食券制は、それまで「客と店主との駆け引きによって値段が決まり、その時に店の雰囲気や味も決まる」という風潮があった飲食業界において革命的であった。このシステムは瞬く間に日本全国に広まり、やがて世界にも広がっていった。
また、大久保彦左衛門の提唱したシステムは画期的であったが、それ故に大きな社会問題にまで発展した。

歴史

大久保彦左衛門は嘉永2年(1849年)に尾張国愛知郡中村にて生まれた。

幼少より手先が器用で、鍛冶屋を営む傍ら大工仕事もしていた父の仕事を手伝っていた。そして父が彦左衛門の母と同じ病気で倒れると、彦左衛門少年は幼い弟妹たちを養うために家財道具を売り払い、まだ小学生だった彼は父の代理として鍛冶師として働いたり、大工仕事をしたりして家計を支えた。

しかし、父はまもなく他界してしまった。その後彦左衛門少年は母と共に親戚の家に引き取られた。だが、彦左衛門少年を引き取った親戚の家は貧しく、彦左衛門少年は学業を修めるどころか満足な食事さえ与えられなかった。

しかし、彦左衛門少年はそんな環境の中でも決して卑屈になること無く、勉学に励み続けた。そして彼が12歳の時、ついに彼は親戚から独立することを決意した。その時、彼はまず金を借りるために親戚のもとを訪れたが、親戚からは相手にされなかった。そこで彦左衛門少年は親戚の家を飛び出して行商人となり、様々な商売を始めた。そして、その過程で様々な人脈を築いて行った。

一方、その頃尾張では大飢饉が発生しており、多くの人が飢えに苦しみ、時には餓死する者もいた。そこで彦左衛門少年はある考えを思いつく。それは、自らが作った料理を売って、それで得た利益を人々に分配するということだった。こうして彦左衛門少年は飲食店を開くことを思いつき、そして尾張一の大富豪となった。

1890年、彦左衛門は日本食堂を開業した。当初はうどん屋だったが、すぐにラーメンも売り出すようになった。そして次第にレストラン業にも進出し、西洋料理店・中華料理店なども経営するようになった。

その際、注文の間違いによる手間や人手不足が問題となった、そこで彦左衛門は注文を受けたら自動的に調理を行う機械を作ることを考えた。これが食券券売機の原型となる装置であり、彦左衛門はこれを発明するとすぐさま特許を取った。これは世界初の発明とされ、これによって彦左衛門の名は世界に知れ渡ることとなった。更に改良を重ね、1956年には不要であった調理機能を廃止し、新たにお釣りを支払う機能を追加した現在の形に近い食券券売機が誕生した。

この発明により彦左衛門は日本の食文化に多大な貢献を果たしたとして、1901年に藍綬褒章を授与された。また、1903年には勲五等宝冠章を授与されている。その後も彦左衛門はおろし金、旅館プロデュース、国産ウェブブラウザ開発等様々な分野で活躍したが、2007年10月24日に死去。享年158歳。

問題点

導入当時は画期的なシステムであったものの、欠点も多かった。例えば、券売機の導入によって客と店員との値引き交渉等やり取りの機会が減ってしまい、その結果として日本人のコミュニケーション能力が低下するという弊害が生まれた。また、券売機を導入した結果、メニュー表のデザイン性が低下してしまったことも大きな問題点として挙げられる。そのため、券売機を導入していない店舗の中には手書きで書かれたメニュー表を使用しているところも多かった。

こうした状況に対して、彦左衛門の娘・久保ユリカは食券券売機に録音された音声ガイドを導入することを提案していた。この提案はすぐに取り入れられることとなり、2005年3月に日本食堂は日本初の自動案内式券売機が導入された。これにより、券売機を導入したことによって発生する問題が解消されると同時に、客と店員(食券券売機)との間で行われるやりとりの時間が大幅に増加された。また、食券には写真付きのものも多くあり、それによってメニューデザインの選択肢が増えた。さらに、券売機の画面をタッチパネル表示にすることでメニューの内容についても分かりやすいように工夫された。

関連項目

・日本食堂
・街でよく見かける日本の技術一覧
・偉い人が発明した者一覧
・券売機の反抗期